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揺れる想いと静かな告白
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王太子ハインツの胸の奥で、説明のつかない感情がふつふつと広がりつつあった。
それは、熱でも、怒りでもない。ただ――何かを、気づかずに見過ごしていたような、そんな焦燥感。
(リディアンネ……)
彼女は「自分を差し出した」のだ。何の見返りもなく。マリアを側妃に迎えるための形式的な婚約者という役割を、あの夜、わずか数語で受け入れた。
「――わたくしで、よろしければ」
そのときの彼女の声は、悲しみすら超越していて、まるで“諦念のなかの祈り”のようだった。
その日、ハインツはリディアンネを庭園へと呼び出していた。冬の風が白薔薇のあいだを抜け、静かに揺らす午後。庭園の奥、湖を望むあずまやで、リディアンネは控えめに会釈をした。
「お呼びでしょうか、殿下」
「うん……。少し話がしたかった」
ハインツは、いつものような柔らかな笑みを浮かべながらも、その目にはどこか迷いの色があった。
「この間の舞踏会……。君は、あれほど注目を浴びていたのに、全くと言っていいほど自分を出さなかったね」
「……はい。わたくしは、そのような性分ではありませんので」
リディアンネは、いつもと変わらぬ、穏やかな声で答えた。けれど、ハインツの中にあったのは、それを“残念”だと思う気持ちではなかった。
(なのに……どうして、こんなに目が離せなかったんだろう)
「……不思議だね。君がいるだけで、場の空気が変わる」
「……恐れ多いお言葉です」
「……君は、どうして断らなかったんだ?」
その問いに、リディアンネは一瞬だけ沈黙した。
そして――
「それは、殿下が“わたくしにしか頼めなかった”からです」
まるでそれが当然だと言わんばかりの、落ち着いた声音だった。
「わたくしには、未来などありません。……でしたら、せめて、誰かのお役に立てるならと」
ハインツは、その言葉に言い返せなかった。
(彼女は、自分を“価値のないもの”だと思っているのか……)
その事実が、ハインツの胸を鈍く刺した。
会話を終え、去っていくリディアンネの背中を、ハインツはしばらくの間見つめていた。
その姿は――風に吹かれながらも、まっすぐに立ち続ける一本の花のようだった。
(……惹かれているのか、俺は)
マリアでは感じなかった感情が、リディアンネにはあった。それは“所有”や“誇示”ではない。静かで、穏やかで、けれど確かに心に根を張っていくような感情だった。
一方そのころ。
ファビウスは、書庫の奥で一人、重い帳簿と向き合っていた。けれどその手元は、いつになく落ち着かない。
(あの時、彼女は確かに“嬉しそう”だった)
昨日、ミレイユと手を取り合うリディアンネの姿が、なぜか胸に残っていた。
(誰かと心を通わせることが、あんなにも自然にできる人だったとは……)
そしてまた、王太子の視線がリディアンネに向き始めていることにも、ファビウスは薄々気づいていた。
(……殿下は“情”に流されやすい)
それが政としてどう作用するかを思えば、ファビウスとしては警戒せざるを得なかった。けれど――それ以上に、心の奥底で、得体の知れない“焦り”のようなものが沸き上がっていた。
(……おかしいな。なぜ、あんな気持ちになる?)
リディアンネに対して感じるこの思いが、ただの同情であると信じたかった。だが、それが「哀れみ」ではなく、「関心」であり、やがて「好意」へと変わっていくかもしれないことに、彼自身がまだ気づいていなかった。
その夜――
リディアンネのもとに、一通の手紙が届けられた。それは、白い封蝋にミレイユの家紋が刻まれた、可愛らしい便箋。
『またお話しできたら嬉しいです。次の茶会にいらっしゃいませんか?』
文字は柔らかく丸く、どこまでも優しさに満ちていた。
リディアンネはその手紙を読みながら、ふと、自分の胸の奥にほんの少しだけ“ぬくもり”が灯っているのを感じた。
それは、熱でも、怒りでもない。ただ――何かを、気づかずに見過ごしていたような、そんな焦燥感。
(リディアンネ……)
彼女は「自分を差し出した」のだ。何の見返りもなく。マリアを側妃に迎えるための形式的な婚約者という役割を、あの夜、わずか数語で受け入れた。
「――わたくしで、よろしければ」
そのときの彼女の声は、悲しみすら超越していて、まるで“諦念のなかの祈り”のようだった。
その日、ハインツはリディアンネを庭園へと呼び出していた。冬の風が白薔薇のあいだを抜け、静かに揺らす午後。庭園の奥、湖を望むあずまやで、リディアンネは控えめに会釈をした。
「お呼びでしょうか、殿下」
「うん……。少し話がしたかった」
ハインツは、いつものような柔らかな笑みを浮かべながらも、その目にはどこか迷いの色があった。
「この間の舞踏会……。君は、あれほど注目を浴びていたのに、全くと言っていいほど自分を出さなかったね」
「……はい。わたくしは、そのような性分ではありませんので」
リディアンネは、いつもと変わらぬ、穏やかな声で答えた。けれど、ハインツの中にあったのは、それを“残念”だと思う気持ちではなかった。
(なのに……どうして、こんなに目が離せなかったんだろう)
「……不思議だね。君がいるだけで、場の空気が変わる」
「……恐れ多いお言葉です」
「……君は、どうして断らなかったんだ?」
その問いに、リディアンネは一瞬だけ沈黙した。
そして――
「それは、殿下が“わたくしにしか頼めなかった”からです」
まるでそれが当然だと言わんばかりの、落ち着いた声音だった。
「わたくしには、未来などありません。……でしたら、せめて、誰かのお役に立てるならと」
ハインツは、その言葉に言い返せなかった。
(彼女は、自分を“価値のないもの”だと思っているのか……)
その事実が、ハインツの胸を鈍く刺した。
会話を終え、去っていくリディアンネの背中を、ハインツはしばらくの間見つめていた。
その姿は――風に吹かれながらも、まっすぐに立ち続ける一本の花のようだった。
(……惹かれているのか、俺は)
マリアでは感じなかった感情が、リディアンネにはあった。それは“所有”や“誇示”ではない。静かで、穏やかで、けれど確かに心に根を張っていくような感情だった。
一方そのころ。
ファビウスは、書庫の奥で一人、重い帳簿と向き合っていた。けれどその手元は、いつになく落ち着かない。
(あの時、彼女は確かに“嬉しそう”だった)
昨日、ミレイユと手を取り合うリディアンネの姿が、なぜか胸に残っていた。
(誰かと心を通わせることが、あんなにも自然にできる人だったとは……)
そしてまた、王太子の視線がリディアンネに向き始めていることにも、ファビウスは薄々気づいていた。
(……殿下は“情”に流されやすい)
それが政としてどう作用するかを思えば、ファビウスとしては警戒せざるを得なかった。けれど――それ以上に、心の奥底で、得体の知れない“焦り”のようなものが沸き上がっていた。
(……おかしいな。なぜ、あんな気持ちになる?)
リディアンネに対して感じるこの思いが、ただの同情であると信じたかった。だが、それが「哀れみ」ではなく、「関心」であり、やがて「好意」へと変わっていくかもしれないことに、彼自身がまだ気づいていなかった。
その夜――
リディアンネのもとに、一通の手紙が届けられた。それは、白い封蝋にミレイユの家紋が刻まれた、可愛らしい便箋。
『またお話しできたら嬉しいです。次の茶会にいらっしゃいませんか?』
文字は柔らかく丸く、どこまでも優しさに満ちていた。
リディアンネはその手紙を読みながら、ふと、自分の胸の奥にほんの少しだけ“ぬくもり”が灯っているのを感じた。
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