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6章
神様の青の秘密
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ランプの光をたよりに森の中を三〇分ほど歩く。するとまっ暗な景色の先にかすかな青い光がさして、小さな家々の屋根をうっすら照らしだしていた。ユギ村についたのだ。
村に入ると、リオンはめずらしそうにいろんな方向に目をこらした。
「なんだ?ここはアダラの森やバルム山のふもとにある村とは感じがちがうな」
「ユギに住んでいる人はみんな魔法使いか、その血をひいている人たちなんだ。だから家の前に精霊のしるしをかかげたり、儀式に使う聖なる火をたやさずにともしているの」
道をさらに奥へ進んだアイは、壁がオリーブ色をした一軒の家の前で立ち止まる。その家の窓からは、炎とはちがう明るい光がこぼれていた。
「あれ?あかりがついてる。いつもはもう寝ている時間なのに」
アイは首をかしげながら、ゆっくりとドアを開く。
中からやわらかな光とあたたかい空気が流れてきて、アイの体をふわりと包みこんだ。ひさしぶりのにおいに、なつかしい気持ちがこみあげる。
「お帰りなさい」
すぐに奥から声がして、長い髪の女の人が姿を見せた。この女の人がアイの母親である、シェイラ・メーシェルだ。
「遠い所から大変だったでしょう。さあ、あがりなさい」
いつもと変わらない優しい笑顔と声に、アイの体からふっと力が抜けていった。
でも、不思議だった。いきなりアイとリオンがたずねてきたというのに、シェイラは少しも驚いていないようだ。それどころか、二人が来るのを待っていたようにも見える。
「荷物を置いたら食事にしましょう。アイの好きなシマ豆のスープを作っておいたから」
「うん、ありがとう」
「リオン君は竜だから食事はしないんだよね?なんのおもてなしもできなくて悪いけど、せめてゆっくり休んでちょうだい」
リオンはあわてて首をたてにふる。その言葉を聞いて、アイの疑問は確信に変わった。
「お母さん…どうして今夜、私たちが来るってわかったの?」
アイは奥に戻ろうとするシェイラを呼び止め、すぐにたずねた。ふり返ったシェイラの顔は笑っていたけれど、さっきまでとはなんだか感じがちがう。
「とりあえず、荷物を置いてきなさい。理由はそのあとで説明するわ」
アイはかすかな不安をおぼえながらも、小さな声でうなずいた。
荷物を置いてお茶の間に行くと、シェイラはかまどの前でお鍋をあたためていた。
そばにあるテーブルには、一枚の紙が置いてある。その紙を見て、アイはぞっとした。なぜならそこに書かれている文字は、まぎれもなくミューイのものだったからだ。
紙にはアイたちが学舎を抜けてコルドワに向かったこと、そして飛行馬に乗ったから今夜のうちに到着するだろう、ということが書かれてあった。最後は「もしご自宅に戻られましたら、決してコルドワへ行かせないようにしてください」としっかり念をおしている。
「お母さん…この手紙、ミューイ先生が書いたものだよね?どうやって届いたの?」
「ちがうわ。その手紙は私が書いたの。交信魔法を使ったのよ」
「こ、コウシンマホウ?何それ。ねえ…リオンは知ってるの?」
笑ったままのシェイラに聞くのをあきらめて、アイはリオンにたずねた。リオンはこくりとうなずき、口をひらく。
「魔法にひいでたもの同士でしか使えない、特別な技だ。発信するものが魔法を送り、相手がそれを受け取ると、受けたものは発信したものがのりうつったように勝手に言葉を発したり動くことができる。そうすることで遠くからでも意思を伝えることができるんだ」
「さすがは竜の大使ね。さっきミューイ先生からこの魔法を受信して、手を動かして書いたのがその手紙なの」
「そうなんだ。だから文字もミューイ先生そっくりだったんだね」
疑問がとけて、アイはほっと息をついた。
「ねえお母さん、ひどいと思わない?せっかく大変な思いをして試験に合格したのに、聖堂に行かせてもくれないんだよ!」
ひさしぶりのわが家でリラックスしたアイは、ミューイへの不満をはっきり口にする。だけどスープをおわんにそそいでいたシェイラはふっと暗い表情になり、言った。
「悪いけど、私もあなたたちが聖堂へ行くのは反対だわ」
「えっ、どうして?」
「ミューイ先生だって、何の理由もなくあなたたちを引きはなそうとしているわけではないのよ。残念だとは思うけど、今年は聖堂に行くのはあきらめなさい」
シェイラにまでそんなことを言われるとは思っていなかったアイは、ショックで頭の中がまっ白になる。シェイラはそれ以上は何も言わず、静かにスープをアイの前に置いた。
「その理由ってやつは、アイの父親が竜牙の筆を持っていた理由と関係があるのか?」
静まりかけた部屋に、リオンの声がひびいた。
はっと隣を見ると、リオンは剣のようにするどい目つきでシェイラをにらんでいる。だけどシェイラはやわらかなまなざしでそれを受け止め、口をひらいた。
「関係がない、と言ったら嘘になるかな」
否定してくれると思ったのに、シェイラの返事はあいまいだった。それを聞いたアイはますます不安になってしまう。
リオンもそれ以上は何も言わず、今度こそ重たい沈黙が部屋にみちた。外の風の音やフクロウの鳴き声が、やけに大きく聞こえる。そのまま長い時間がすぎた。
「行く」
ふいにその沈黙をやぶったのは、アイの声だった。彼女の真剣な視線は、まっすぐシェイラに向けられていた。
「お母さんとミューイ先生が何を隠しているのかは分からない。だけどここまで来て、何も知らないままじゃいられないよ。どんなに止められても、私たちは聖堂に行く」
アイはきっぱりと言って、隣のリオンを見る。リオンも同じようにうなずいた。気持ちの強さが伝わったのか、シェイラは二人を順番に見てから深いため息をついた。
「怖い顔…柱にしばりつけても、どんな魔法を使っても抵抗するって感じね。それなら、一つだけ約束してちょうだい。あなたたちが聖堂で何を知っても、決して心をみだしたりしないこと。その現実をまっすぐに受け止め、そして受け入れること。いいわね?」
あまりにも真剣な表情で聞かれたので、アイは返事をためらってしまう。
それでも、やっぱりここで引きかえすなんてできない。アイは覚悟を決めてうなずいた。
「しかたないわね。それじゃあ、ミューイ先生には私が伝えておくわ」
アイは「ありがとう」とシェイラにお礼を言って、やっとスープに口をつけた。おわんにうつして時間がたっていたけど、時間をかけて煮こんでくれたスープはちょうど良い温かさだった。なつかしい味が口の中に広がるたび、緊張と不安がやわらいでいく。
「あら。アイの服、ししゅうがほつれちゃってるじゃない」
シェイラに言われて、アイは自分の上着を見た。たしかにこの村を出る時にぬってもらった刺繍のピンクの糸が、ところどころちぎれてしまっている。
「ちょうどいいわ。明日はあいているんだし、お母さんがぬい直してあげる」
「本当?ありがとう!」
アイがお礼を言うと、シェイラもにっこりと笑う。その顔はアイがよく知っている、優しいお母さんに戻っていた。
アイたちは次の一日をユギ村でゆっくり休んですごした。そしてまたその次の日、朝の早い時間に村を出た。
森を抜け、草原や農園の間の道をひたすら進む。ユギ村はコルドワからもっとも近い魔法使いの里だが、歩けば三時間以上もかかるほどはなれていた。
「シェイラさんは絵を見に行かないんだな」
「うん。というかね、お母さんは今まで一度も聖堂の絵を見に行ったことがないの」
「今まで、一度も?」
「そう。お母さんは家の火を守らないといけないから、めったに村を出られないんだ」
それを聞いたリオンは納得したようにうなずいたが、すぐに「でも」と口をひらいた。
「さみしいな。大切な相手がのこしたものを見ることができないなんて」
「えっ?…うん、そうだね」
とっさに返事をしたけど、アイは驚いていた。リオンの口から「さみしい」という言葉が出てくるなんて。しかもそれが誰かを思っての言葉であることが、ますます意外だった。
よく考えたら、この何ヶ月かでリオンの性格はだいぶ変わったとアイは思う。前のリオンだったら、こうして気楽に会話をすることだって無理だっただろう。
だけどそれもつかの間かもしれないという不安が、アイの心に影をおとしていた。
こうやってアイとリオンが仲良くしていられるのも、アイがジア・フラード山脈で危険を覚悟で自分の気持ちを伝え、ラステンへのうたがいをといてもらったからだ。でもそのうたがいが本当だったなら、リオンは前のようにアイを復讐の相手と思うかもしれない。
「ねえ…お母さんたちが止めようとした理由って、やっぱり私たちのお父さんと関係あるのかな?私のお父さんが竜牙の筆を持っていたのって、やっぱり…」
心配になったアイはつい、リオンに聞いてしまう。リオンは少し考え、ぽつりと言った。
「そんなことはないさ。きっと」
「本当に?どうしてそう思うの?」
「それは…今は俺も、そうであってほしいと思うからだ」
リオンがまた、優しい言葉を口にした。しかも今度はアイのために。
それはアイにとって、すごく嬉しいことのはず。なのにそれを聞いたアイは胸がぎゅうっとしめつけられて、苦しいほどだった。
じゃあ、もしも本当だったらリオンはどうするの?その質問は心の中でつぶやくのがせいいっぱいで、声にすることさえできなかった。
緑にいろどられた景色がその色あいを変えていくたび、アイは都会が近づくのを感じた。 やがて海の潮目が変わるように緑がとぎれた先に、明るい茶色のレンガやクリーム色の壁でいろどられた、大都市コルドワの街並みが見えてくる。
その奥のほうには、針のようにとがったまっ白な屋根や円形の建物が見える。ひときわ高くそびえているその建物が、二人が目指している聖堂だった。
統合記念日ということもあってか、コルドワの街はにぎやかな空気に包まれていた。多くの人が行きかう大通りには露店や聖歌を歌うもの、それにあっと驚くようなパフォーマンスを見せる大道芸人たちの列がどこまでも続いており、はなやかな音色がつきることはない。今は聖堂を中心に広がっている大通りのすべてが、同じ感じになっているという。
だけど聖堂に集まっている人だかりは、それ以上だった。一つしかない入口が長い行列で見えないほどだ。アイたちは急いでその行列に向かい、一番後ろに並んだ。
「すごい数の人間だな。ここにいるのがみんな、お前の父親の絵を見たがっているのか」
「そうだよ。なにせ今日は、一年でたった一日だけの公開日だもん」
驚きを隠さず聞いたリオンに、アイは声をはずませてこたえた。こうして話をしている間にも、行列はアイたちの後ろにさらに伸びている。
「この数は多すぎるだろう。それならいっそ、ずっと公開していればいいんじゃないか?」
「だったら私も嬉しいけど、聖堂は美術館じゃないからそういうわけにはいかないんだよ。それに公開を一日だけにしているのは、『記念日のたびにこの絵を見て、戦争をやめようって思った時の気持ちをみんなで分かちあおう』って意味もあるんだって」
「そうなのか。しかし八年前の戦争は、実際に起こったわけではないんだろう?」
「たしかにそうなんだけど…でも、かなり危ない状況だったらしいよ。なにせお父さんが絵を描いた次の日には、同じ場所で出兵の式典が行われるはずだったらしいから。もし東の国に兵隊が送られて戦争が始まってたら、今も戦いが続いていたかもしれないんだって」
「そうなのか。確かにそれは…すごいことだな」
「そうだよ!本当にすごいんだから!」
とても長い行列だったが、聖堂の外では音楽を聞き、中では壁画やさまざまな装飾をながめることができたおかげで、あまり退屈ではなかった。天井がアーチになった長い廊下を進むうち、大広間の入口である観音開きの扉が近づく。何人かの人たちと一緒にその近くに立ち、さらに五分くらい待つと、白い法衣を着た人物が扉に手をかけた。
かすかなきしみをあげて広がる扉のすき間から、それまでとはちがう光がさしてくる。それにつれて、アイとリオンの目も大きく開いていった。
大広間はその名前のとおりとても広く、大きな式典の時には五〇〇人も入るという。だけどアイはこの瞬間、目の前にもっと大きな空間が広がったように感じた。まったく別の世界があらわれた、とさえ言ってもいい。
そこには、空があった。
どんな言葉でも表しつくせないほど美しい青空の中に、気流の舞踏会とでも言いたくなるほどさまざまな形をした雲が浮かんでいる。ある雲は天に向かっていきおいよく立ちのぼり、またある雲はかなたに向かってまっすぐ伸びている。ラステンの筆づかいによって表現された雲はまるで、それぞれに命をやどしているかのようだった。
この絵が描かれている祭壇の奥の壁は白く、雲は空白とうすめた青による影で表現されている。つまりこの壁画は、一つの絵の具だけでで描かれていた。
それでもこの絵は世界のすべてがつまっているかと思うほどあざやかな光にあふれ、心にひびく。だからこそアイはこの空の色を「神様の青」と呼んでいた。
そんな青で描かれたこの空はアイにとって、届かないと思いながらも見あげずにはいられない…そんなあまりにも遠くて美しい空だった。
この神秘的な青で描かれた絵は、おそらくほかに存在しない。原料の一部にはルルノア鉱石が使われているというけれど、そのほかのくわしい成分は明らかになっていなかった。
もちろんそれは絵の具の力も大きいにちがいない。だけど描いたのがラステンじゃなかったら、ここまで美しい空は生まれなかっただろう。まさしくそれは魔法であり、神様が特別なものだけに許した奇跡だと思わずにはいられなかった。
この絵には風がある。見るものの心の中に吹き、悪い気持ちを洗い去ってくれる清々しい風が。だから誰もがこの絵を前にすると気持ちをあらため、今より少しでも良くあらねばと思うようになるのだろう。それは描くものの心のまっすぐさと、筆にこめる願いの強さがなければ不可能なはずだ。
だからあらためてこの絵を見た瞬間に、今までアイの中にあった不安はすぐに消えてしまった。ラステンに少しでもよこしまな気持ちがあったなら、こんな絵を描けるはずがない。竜牙の筆を持っていたのも、きっと何か理由があるんだろう。
リオンもきっと、同じことを考えているはずだ。そう思い、すっかり安心して隣を見る。
だけどアイはその瞬間に、表情をこおりつかせた。
絵をながめているリオンの様子がおかしい。彼は全身をわなわなとふるわせながら、けわしいまなざしを向けていた。琥珀色の瞳の奥で、赤い光がせわしなくまたたいている。
「アイ…確認するが、この絵は人間たちの争いを止めさせた、偉大な絵なんだよな?」
「え?そ、そうだけど」
「そうか。よく分かった」
リオンは言い、にやりと笑う。でもその笑みはゆがんでいて、アイの不安をかきたてた。
「やはり竜と絵描きが分かりあうことはできないようだな。同族の平和のためとはいえ、竜王をはずかしめてまで絵を描くとは…その業の深さには、今にも血が煮えたぎりそうだ」
「待ってよ。リオンのお父さんをはずかしめたって、どういうこと?」
リオンの言葉に驚いて、アイはあわててたずねた。するとリオンはゆがんだ笑顔をアイに向けて、ふたたび口をひらく。唇の奥で、竜の牙がにぶい光をはなっていた。
「アイ、お前はおろかだ。そして悲しい。この絵を見ても何も分からず、あろうことかあこがれすら抱き続けていたなんて」
冷たい感触が全身をかけめぐり、アイは大きく身震いした。
「教えてやろう。この絵に使われているのは父上の筆だけではない」
話している間にも、リオンの瞳がみるみる赤色をおびていく。竜の姿に戻ろうとしているんだと気がついて、アイはぞっとした。
「お前が『神様の青』などと呼んでいるその青の正体は…父上の血だ!」
リオンの目がカッと燃えた。叫んだ口が左右にさけて、するどい牙が現れる。その姿に気がついた周囲の人間たちが、はげしい悲鳴をあげた。
「リオン駄目っ!こんなところで竜になったら!」
大きくふくらんだ背中から、巨大な翼が飛び出した。後ろにいた人が吹き飛ばされてうめき声をたてたが、その声はたくさんの悲鳴に押し流された。
「竜だ!破壊の化身だ!」
「みんな逃げろ!殺されるぞ!」
五〇〇に近い人間が出口に殺到し、泣き叫ぶ声が広間をみたしていく。リオンはその姿を見下すように首をひとふりすると、翼を開いた。アイは走り、リオンに手を伸ばす。
だけど指先が彼のたてがみにふれた瞬間に、するどい痛みが体をつらぬいた。思わず手を引いてのぞきこむと、指先からひとすじの血が流れている。
リオンがはばたき、宙に浮かぶ。すさまじい風が広間に吹き荒れ、あちこちで装飾品がくだけちった。人々はとっさに頭をおおい、ある人は近くの子供を守ろうと抱きかかえた。
説得をあきらめたアイは彼に向かって両手をかざし、力いっぱいさけぶ。
「ルィラ・ザラード!」
青白い稲光がリオンに向かって飛んでいった。が、翼のひとふりでかき消される。いつも怖がっている電撃も気にならないほど、今のリオンは怒りでわれを忘れているらしい。
もはやアイはどうしたらいいのか分からず、リオンを見つめることしかできなかった。
「グオオオオッ!」リオンは激しいうなり声をあげると、その目をひときわ赤く光らせる。すると彼のまわりで無数の白い光があがり、矢のように細長い線になって飛び出していった。光はラステンの絵が描かれた壁に突き刺さると、はじけて消えた。
それから数秒後。細かい亀裂が、音もなく壁に広がっていく。亀裂の中から小さなかけらが一つ落ちると、それをきっかけにして壁全体ががらがらと音をたててくずれさった。
声をあげる時間もなかった。大切だった絵のあっけない最後をまのあたりにして、アイの心にむなしさと絶望感が広がっていく。
崩れた壁の間から、聖堂の外がのぞいている。
外の様子は、聖堂に入る前とは大きく変わっていた。歌声や笑い声はなく、人々の悲鳴や逃げる足音がそれにかわっている。竜の恐怖はもうコルドワ全体へ広がっていた。
「リオン!もうやめて!」
このままでは、リオンはもっと大きなあやまちをおかしてしまう。そう感じたアイは必死にさけんだ。
「まだ気がすまないの?神様の青を…お父さんの絵を…メチャクチャにしたのに…」
急に涙がこみあげて、アイは言葉をつまらせた。アイにとって人生の目標でさえあった絵が粉々になったという現実が、声にするたびに胸にせまってくる。
リオンはそんなアイの気持ちを気にすることもなく、くだけたラステンの壁画をふみつけて外へ向かう。壊れた壁の中からリオンが首を出すと、外の悲鳴が激しさをました。さしこむ光がリオンの翼を、そして全身を、じょじょに照らしだしていく。
その直後のことだった。
「グルゥアッ!」
リオンは奇妙な声をあげて、右に大きくよろめいた。
「リオン?どうしたの?」
思いがけない出来事に驚いたアイは涙をふいて、じっとリオンのほうを見る。
リオンの右の翼に、銀色の矢のようなものが打ちこまれている。しかもアイが気がついた次の瞬間には、さらに多くの矢がリオンの体に次々と打ちこまれていった。リオンの叫びはしだいに痛ましさをおびて、もがくように首や翼を必死に動かしている。
矢には細い銀色のワイヤーがくくりつけられている。ワイヤーの先を目で追うと、そこには空中に浮かんでいる飛行馬の姿があった。
「グゥオアアアアアアアアッ!」
リオンがとつぜん、今まで聞いたこともないような悲鳴をあげた。
体に打ち込まれた一〇本以上の矢から、白い光がバチバチと音をたててはじけている。その光を見たアイは自分の魔法を思い出し、電気が流されていると気がついた。
リオンは頭上の飛行馬たちをきつくにらみつけ、瞳に赤い光を燃えあがらせる。
魔法で反撃に出ようとしたのだろう。しかしその直前で力つき、瞳から光が引いていった。首がだらりとさがると、リオンの体は崩れるようにして地面にたおれた。
アイはあわてて走りだすが、がれきに邪魔されてうまく前に進めない。そうしているうちに飛行馬が動き出し、ワイヤーでつながれたリオンの体を引きずっていった。
矢の刺さった傷口からは透明な液体が流れ出している。引きずられるたびにそれが地面に落ちて、道に広がっていった。「竜の血だ!」近くで見ていた誰かが叫ぶ。
「気をつけろ!竜の血は猛毒だぞ!」
その声を合図にどっと悲鳴がわき、残っていた人たちもあわてて逃げ出した。
リオンの体は大通りの入口に近い、ひらけた場所で止められた。この飛行馬たちは一体、リオンをどうするつもりなんだろう?不安をかかえながら、アイはやっと外に出る。
聖堂の上のほうが、なぜかうっすらと赤い。不思議に思って顔をあげたアイは、驚いて立ちつくしてしまう。なぜならその光の正体は、彼女がよく知っているものだったからだ。
「…フルムド・エムザ?」
口に出してつぶやいても、まだ信じられなかった。どうして自分たちをコルドワまでつれてきてくれたフルムド・エムザが、こんな所にあるんだろうか。
まさかと思ったアイはおそるおそる、リオンをかこむ飛行馬に目を向けた。銀色のボディには一本角のついた竜のシンボルが描かれている。トトラス商会のマークだ。
フルムド・エムザは聖堂の屋根のそばまで降下すると、真下のハッチを開いた。それを待っていたかのように、飛行馬がゆっくり上昇をはじめる。リオンは透明の血を流しながら空につるされ、その中にあっけなく飲みこまれていった。
ハッチが閉じられると、銀色のボディをおおう赤い光がぎらりと輝く。
「市民の皆様、そして記念日を楽しもうとおとずれた方々、どうぞご安心ください」
フルムド・エムザから声が聞こえてくる。その主はまぎれもなく、トトラス本人だった。
「皆様に恐怖と混乱を与え、あろうことかクーザの平和の象徴である壁画を破壊したこの恐ろしい竜は、我々トトラス商会の手によって処分します」
「え…リオンを、処分?」
アイは空に浮かぶフルムド・エムザを見あげながら、今の言葉をくり返した。
「我々にはその責任があるのです。というのもトトラス商会では以前より、遣竜使を育成する学舎に資金の援助を続けてきました。それは竜という未知の存在との交流をはかることが、クーザの繁栄につながると考えたためです。しかし、それは完全なまちがいでした。なぜなら今の竜は学舎において人間に協力するはずの、竜の大使だったのですから!」
ざわめきがわっと起こって、街の空気をかきみだしていった。
「皆様の記憶にも、はっきりと焼きついていることでしょう。我々の偉大なる遺産を一瞬で破壊した竜の奇怪なる力を!その凶暴な本性を!一報を聞いて鎮圧に向かう途中で、私はさとりました。竜は理解しあえる存在などではない。むしろ武器を持って立ち向かい、やがてはふみこえていかねばならない試練であるということを」
この人は一体、何を言おうとしているのだろう…想像しようとするだけで、アイの全身にぞくりと寒気が広がった。
「私は今、皆様に宣言いたします。我々はこのフルムド・エムザによってジア・フラード山脈の先へとおもむき、あの恐ろしき竜たちの住まう国に奇襲をかけることを!」
トトラスの言葉を聞いて、アイは胸をつかれたような激しい衝撃を受けた。
「先ほどの捕り物はご覧いただけましたでしょうか。お見せしたとおり、我がトトラス商会は竜にも通用する武器をいくつも開発しております。さきほどのように竜を捕らえることなど朝飯前。さらにこのフルムド・エムザの能力をもってすれば、竜の大群にも十分に対抗できるでしょう。それでは皆様、どうか我々の帰還を楽しみにお待ちください」
その言葉を最後にトトラスの声はやみ、フルムド・エムザは空高くへのぼっていった。
だけどアイはその後もずっと、空を見あげて立ちつくしていた。次々に起こった出来事を、現実だと認めることができなくて。
村に入ると、リオンはめずらしそうにいろんな方向に目をこらした。
「なんだ?ここはアダラの森やバルム山のふもとにある村とは感じがちがうな」
「ユギに住んでいる人はみんな魔法使いか、その血をひいている人たちなんだ。だから家の前に精霊のしるしをかかげたり、儀式に使う聖なる火をたやさずにともしているの」
道をさらに奥へ進んだアイは、壁がオリーブ色をした一軒の家の前で立ち止まる。その家の窓からは、炎とはちがう明るい光がこぼれていた。
「あれ?あかりがついてる。いつもはもう寝ている時間なのに」
アイは首をかしげながら、ゆっくりとドアを開く。
中からやわらかな光とあたたかい空気が流れてきて、アイの体をふわりと包みこんだ。ひさしぶりのにおいに、なつかしい気持ちがこみあげる。
「お帰りなさい」
すぐに奥から声がして、長い髪の女の人が姿を見せた。この女の人がアイの母親である、シェイラ・メーシェルだ。
「遠い所から大変だったでしょう。さあ、あがりなさい」
いつもと変わらない優しい笑顔と声に、アイの体からふっと力が抜けていった。
でも、不思議だった。いきなりアイとリオンがたずねてきたというのに、シェイラは少しも驚いていないようだ。それどころか、二人が来るのを待っていたようにも見える。
「荷物を置いたら食事にしましょう。アイの好きなシマ豆のスープを作っておいたから」
「うん、ありがとう」
「リオン君は竜だから食事はしないんだよね?なんのおもてなしもできなくて悪いけど、せめてゆっくり休んでちょうだい」
リオンはあわてて首をたてにふる。その言葉を聞いて、アイの疑問は確信に変わった。
「お母さん…どうして今夜、私たちが来るってわかったの?」
アイは奥に戻ろうとするシェイラを呼び止め、すぐにたずねた。ふり返ったシェイラの顔は笑っていたけれど、さっきまでとはなんだか感じがちがう。
「とりあえず、荷物を置いてきなさい。理由はそのあとで説明するわ」
アイはかすかな不安をおぼえながらも、小さな声でうなずいた。
荷物を置いてお茶の間に行くと、シェイラはかまどの前でお鍋をあたためていた。
そばにあるテーブルには、一枚の紙が置いてある。その紙を見て、アイはぞっとした。なぜならそこに書かれている文字は、まぎれもなくミューイのものだったからだ。
紙にはアイたちが学舎を抜けてコルドワに向かったこと、そして飛行馬に乗ったから今夜のうちに到着するだろう、ということが書かれてあった。最後は「もしご自宅に戻られましたら、決してコルドワへ行かせないようにしてください」としっかり念をおしている。
「お母さん…この手紙、ミューイ先生が書いたものだよね?どうやって届いたの?」
「ちがうわ。その手紙は私が書いたの。交信魔法を使ったのよ」
「こ、コウシンマホウ?何それ。ねえ…リオンは知ってるの?」
笑ったままのシェイラに聞くのをあきらめて、アイはリオンにたずねた。リオンはこくりとうなずき、口をひらく。
「魔法にひいでたもの同士でしか使えない、特別な技だ。発信するものが魔法を送り、相手がそれを受け取ると、受けたものは発信したものがのりうつったように勝手に言葉を発したり動くことができる。そうすることで遠くからでも意思を伝えることができるんだ」
「さすがは竜の大使ね。さっきミューイ先生からこの魔法を受信して、手を動かして書いたのがその手紙なの」
「そうなんだ。だから文字もミューイ先生そっくりだったんだね」
疑問がとけて、アイはほっと息をついた。
「ねえお母さん、ひどいと思わない?せっかく大変な思いをして試験に合格したのに、聖堂に行かせてもくれないんだよ!」
ひさしぶりのわが家でリラックスしたアイは、ミューイへの不満をはっきり口にする。だけどスープをおわんにそそいでいたシェイラはふっと暗い表情になり、言った。
「悪いけど、私もあなたたちが聖堂へ行くのは反対だわ」
「えっ、どうして?」
「ミューイ先生だって、何の理由もなくあなたたちを引きはなそうとしているわけではないのよ。残念だとは思うけど、今年は聖堂に行くのはあきらめなさい」
シェイラにまでそんなことを言われるとは思っていなかったアイは、ショックで頭の中がまっ白になる。シェイラはそれ以上は何も言わず、静かにスープをアイの前に置いた。
「その理由ってやつは、アイの父親が竜牙の筆を持っていた理由と関係があるのか?」
静まりかけた部屋に、リオンの声がひびいた。
はっと隣を見ると、リオンは剣のようにするどい目つきでシェイラをにらんでいる。だけどシェイラはやわらかなまなざしでそれを受け止め、口をひらいた。
「関係がない、と言ったら嘘になるかな」
否定してくれると思ったのに、シェイラの返事はあいまいだった。それを聞いたアイはますます不安になってしまう。
リオンもそれ以上は何も言わず、今度こそ重たい沈黙が部屋にみちた。外の風の音やフクロウの鳴き声が、やけに大きく聞こえる。そのまま長い時間がすぎた。
「行く」
ふいにその沈黙をやぶったのは、アイの声だった。彼女の真剣な視線は、まっすぐシェイラに向けられていた。
「お母さんとミューイ先生が何を隠しているのかは分からない。だけどここまで来て、何も知らないままじゃいられないよ。どんなに止められても、私たちは聖堂に行く」
アイはきっぱりと言って、隣のリオンを見る。リオンも同じようにうなずいた。気持ちの強さが伝わったのか、シェイラは二人を順番に見てから深いため息をついた。
「怖い顔…柱にしばりつけても、どんな魔法を使っても抵抗するって感じね。それなら、一つだけ約束してちょうだい。あなたたちが聖堂で何を知っても、決して心をみだしたりしないこと。その現実をまっすぐに受け止め、そして受け入れること。いいわね?」
あまりにも真剣な表情で聞かれたので、アイは返事をためらってしまう。
それでも、やっぱりここで引きかえすなんてできない。アイは覚悟を決めてうなずいた。
「しかたないわね。それじゃあ、ミューイ先生には私が伝えておくわ」
アイは「ありがとう」とシェイラにお礼を言って、やっとスープに口をつけた。おわんにうつして時間がたっていたけど、時間をかけて煮こんでくれたスープはちょうど良い温かさだった。なつかしい味が口の中に広がるたび、緊張と不安がやわらいでいく。
「あら。アイの服、ししゅうがほつれちゃってるじゃない」
シェイラに言われて、アイは自分の上着を見た。たしかにこの村を出る時にぬってもらった刺繍のピンクの糸が、ところどころちぎれてしまっている。
「ちょうどいいわ。明日はあいているんだし、お母さんがぬい直してあげる」
「本当?ありがとう!」
アイがお礼を言うと、シェイラもにっこりと笑う。その顔はアイがよく知っている、優しいお母さんに戻っていた。
アイたちは次の一日をユギ村でゆっくり休んですごした。そしてまたその次の日、朝の早い時間に村を出た。
森を抜け、草原や農園の間の道をひたすら進む。ユギ村はコルドワからもっとも近い魔法使いの里だが、歩けば三時間以上もかかるほどはなれていた。
「シェイラさんは絵を見に行かないんだな」
「うん。というかね、お母さんは今まで一度も聖堂の絵を見に行ったことがないの」
「今まで、一度も?」
「そう。お母さんは家の火を守らないといけないから、めったに村を出られないんだ」
それを聞いたリオンは納得したようにうなずいたが、すぐに「でも」と口をひらいた。
「さみしいな。大切な相手がのこしたものを見ることができないなんて」
「えっ?…うん、そうだね」
とっさに返事をしたけど、アイは驚いていた。リオンの口から「さみしい」という言葉が出てくるなんて。しかもそれが誰かを思っての言葉であることが、ますます意外だった。
よく考えたら、この何ヶ月かでリオンの性格はだいぶ変わったとアイは思う。前のリオンだったら、こうして気楽に会話をすることだって無理だっただろう。
だけどそれもつかの間かもしれないという不安が、アイの心に影をおとしていた。
こうやってアイとリオンが仲良くしていられるのも、アイがジア・フラード山脈で危険を覚悟で自分の気持ちを伝え、ラステンへのうたがいをといてもらったからだ。でもそのうたがいが本当だったなら、リオンは前のようにアイを復讐の相手と思うかもしれない。
「ねえ…お母さんたちが止めようとした理由って、やっぱり私たちのお父さんと関係あるのかな?私のお父さんが竜牙の筆を持っていたのって、やっぱり…」
心配になったアイはつい、リオンに聞いてしまう。リオンは少し考え、ぽつりと言った。
「そんなことはないさ。きっと」
「本当に?どうしてそう思うの?」
「それは…今は俺も、そうであってほしいと思うからだ」
リオンがまた、優しい言葉を口にした。しかも今度はアイのために。
それはアイにとって、すごく嬉しいことのはず。なのにそれを聞いたアイは胸がぎゅうっとしめつけられて、苦しいほどだった。
じゃあ、もしも本当だったらリオンはどうするの?その質問は心の中でつぶやくのがせいいっぱいで、声にすることさえできなかった。
緑にいろどられた景色がその色あいを変えていくたび、アイは都会が近づくのを感じた。 やがて海の潮目が変わるように緑がとぎれた先に、明るい茶色のレンガやクリーム色の壁でいろどられた、大都市コルドワの街並みが見えてくる。
その奥のほうには、針のようにとがったまっ白な屋根や円形の建物が見える。ひときわ高くそびえているその建物が、二人が目指している聖堂だった。
統合記念日ということもあってか、コルドワの街はにぎやかな空気に包まれていた。多くの人が行きかう大通りには露店や聖歌を歌うもの、それにあっと驚くようなパフォーマンスを見せる大道芸人たちの列がどこまでも続いており、はなやかな音色がつきることはない。今は聖堂を中心に広がっている大通りのすべてが、同じ感じになっているという。
だけど聖堂に集まっている人だかりは、それ以上だった。一つしかない入口が長い行列で見えないほどだ。アイたちは急いでその行列に向かい、一番後ろに並んだ。
「すごい数の人間だな。ここにいるのがみんな、お前の父親の絵を見たがっているのか」
「そうだよ。なにせ今日は、一年でたった一日だけの公開日だもん」
驚きを隠さず聞いたリオンに、アイは声をはずませてこたえた。こうして話をしている間にも、行列はアイたちの後ろにさらに伸びている。
「この数は多すぎるだろう。それならいっそ、ずっと公開していればいいんじゃないか?」
「だったら私も嬉しいけど、聖堂は美術館じゃないからそういうわけにはいかないんだよ。それに公開を一日だけにしているのは、『記念日のたびにこの絵を見て、戦争をやめようって思った時の気持ちをみんなで分かちあおう』って意味もあるんだって」
「そうなのか。しかし八年前の戦争は、実際に起こったわけではないんだろう?」
「たしかにそうなんだけど…でも、かなり危ない状況だったらしいよ。なにせお父さんが絵を描いた次の日には、同じ場所で出兵の式典が行われるはずだったらしいから。もし東の国に兵隊が送られて戦争が始まってたら、今も戦いが続いていたかもしれないんだって」
「そうなのか。確かにそれは…すごいことだな」
「そうだよ!本当にすごいんだから!」
とても長い行列だったが、聖堂の外では音楽を聞き、中では壁画やさまざまな装飾をながめることができたおかげで、あまり退屈ではなかった。天井がアーチになった長い廊下を進むうち、大広間の入口である観音開きの扉が近づく。何人かの人たちと一緒にその近くに立ち、さらに五分くらい待つと、白い法衣を着た人物が扉に手をかけた。
かすかなきしみをあげて広がる扉のすき間から、それまでとはちがう光がさしてくる。それにつれて、アイとリオンの目も大きく開いていった。
大広間はその名前のとおりとても広く、大きな式典の時には五〇〇人も入るという。だけどアイはこの瞬間、目の前にもっと大きな空間が広がったように感じた。まったく別の世界があらわれた、とさえ言ってもいい。
そこには、空があった。
どんな言葉でも表しつくせないほど美しい青空の中に、気流の舞踏会とでも言いたくなるほどさまざまな形をした雲が浮かんでいる。ある雲は天に向かっていきおいよく立ちのぼり、またある雲はかなたに向かってまっすぐ伸びている。ラステンの筆づかいによって表現された雲はまるで、それぞれに命をやどしているかのようだった。
この絵が描かれている祭壇の奥の壁は白く、雲は空白とうすめた青による影で表現されている。つまりこの壁画は、一つの絵の具だけでで描かれていた。
それでもこの絵は世界のすべてがつまっているかと思うほどあざやかな光にあふれ、心にひびく。だからこそアイはこの空の色を「神様の青」と呼んでいた。
そんな青で描かれたこの空はアイにとって、届かないと思いながらも見あげずにはいられない…そんなあまりにも遠くて美しい空だった。
この神秘的な青で描かれた絵は、おそらくほかに存在しない。原料の一部にはルルノア鉱石が使われているというけれど、そのほかのくわしい成分は明らかになっていなかった。
もちろんそれは絵の具の力も大きいにちがいない。だけど描いたのがラステンじゃなかったら、ここまで美しい空は生まれなかっただろう。まさしくそれは魔法であり、神様が特別なものだけに許した奇跡だと思わずにはいられなかった。
この絵には風がある。見るものの心の中に吹き、悪い気持ちを洗い去ってくれる清々しい風が。だから誰もがこの絵を前にすると気持ちをあらため、今より少しでも良くあらねばと思うようになるのだろう。それは描くものの心のまっすぐさと、筆にこめる願いの強さがなければ不可能なはずだ。
だからあらためてこの絵を見た瞬間に、今までアイの中にあった不安はすぐに消えてしまった。ラステンに少しでもよこしまな気持ちがあったなら、こんな絵を描けるはずがない。竜牙の筆を持っていたのも、きっと何か理由があるんだろう。
リオンもきっと、同じことを考えているはずだ。そう思い、すっかり安心して隣を見る。
だけどアイはその瞬間に、表情をこおりつかせた。
絵をながめているリオンの様子がおかしい。彼は全身をわなわなとふるわせながら、けわしいまなざしを向けていた。琥珀色の瞳の奥で、赤い光がせわしなくまたたいている。
「アイ…確認するが、この絵は人間たちの争いを止めさせた、偉大な絵なんだよな?」
「え?そ、そうだけど」
「そうか。よく分かった」
リオンは言い、にやりと笑う。でもその笑みはゆがんでいて、アイの不安をかきたてた。
「やはり竜と絵描きが分かりあうことはできないようだな。同族の平和のためとはいえ、竜王をはずかしめてまで絵を描くとは…その業の深さには、今にも血が煮えたぎりそうだ」
「待ってよ。リオンのお父さんをはずかしめたって、どういうこと?」
リオンの言葉に驚いて、アイはあわててたずねた。するとリオンはゆがんだ笑顔をアイに向けて、ふたたび口をひらく。唇の奥で、竜の牙がにぶい光をはなっていた。
「アイ、お前はおろかだ。そして悲しい。この絵を見ても何も分からず、あろうことかあこがれすら抱き続けていたなんて」
冷たい感触が全身をかけめぐり、アイは大きく身震いした。
「教えてやろう。この絵に使われているのは父上の筆だけではない」
話している間にも、リオンの瞳がみるみる赤色をおびていく。竜の姿に戻ろうとしているんだと気がついて、アイはぞっとした。
「お前が『神様の青』などと呼んでいるその青の正体は…父上の血だ!」
リオンの目がカッと燃えた。叫んだ口が左右にさけて、するどい牙が現れる。その姿に気がついた周囲の人間たちが、はげしい悲鳴をあげた。
「リオン駄目っ!こんなところで竜になったら!」
大きくふくらんだ背中から、巨大な翼が飛び出した。後ろにいた人が吹き飛ばされてうめき声をたてたが、その声はたくさんの悲鳴に押し流された。
「竜だ!破壊の化身だ!」
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説得をあきらめたアイは彼に向かって両手をかざし、力いっぱいさけぶ。
「ルィラ・ザラード!」
青白い稲光がリオンに向かって飛んでいった。が、翼のひとふりでかき消される。いつも怖がっている電撃も気にならないほど、今のリオンは怒りでわれを忘れているらしい。
もはやアイはどうしたらいいのか分からず、リオンを見つめることしかできなかった。
「グオオオオッ!」リオンは激しいうなり声をあげると、その目をひときわ赤く光らせる。すると彼のまわりで無数の白い光があがり、矢のように細長い線になって飛び出していった。光はラステンの絵が描かれた壁に突き刺さると、はじけて消えた。
それから数秒後。細かい亀裂が、音もなく壁に広がっていく。亀裂の中から小さなかけらが一つ落ちると、それをきっかけにして壁全体ががらがらと音をたててくずれさった。
声をあげる時間もなかった。大切だった絵のあっけない最後をまのあたりにして、アイの心にむなしさと絶望感が広がっていく。
崩れた壁の間から、聖堂の外がのぞいている。
外の様子は、聖堂に入る前とは大きく変わっていた。歌声や笑い声はなく、人々の悲鳴や逃げる足音がそれにかわっている。竜の恐怖はもうコルドワ全体へ広がっていた。
「リオン!もうやめて!」
このままでは、リオンはもっと大きなあやまちをおかしてしまう。そう感じたアイは必死にさけんだ。
「まだ気がすまないの?神様の青を…お父さんの絵を…メチャクチャにしたのに…」
急に涙がこみあげて、アイは言葉をつまらせた。アイにとって人生の目標でさえあった絵が粉々になったという現実が、声にするたびに胸にせまってくる。
リオンはそんなアイの気持ちを気にすることもなく、くだけたラステンの壁画をふみつけて外へ向かう。壊れた壁の中からリオンが首を出すと、外の悲鳴が激しさをました。さしこむ光がリオンの翼を、そして全身を、じょじょに照らしだしていく。
その直後のことだった。
「グルゥアッ!」
リオンは奇妙な声をあげて、右に大きくよろめいた。
「リオン?どうしたの?」
思いがけない出来事に驚いたアイは涙をふいて、じっとリオンのほうを見る。
リオンの右の翼に、銀色の矢のようなものが打ちこまれている。しかもアイが気がついた次の瞬間には、さらに多くの矢がリオンの体に次々と打ちこまれていった。リオンの叫びはしだいに痛ましさをおびて、もがくように首や翼を必死に動かしている。
矢には細い銀色のワイヤーがくくりつけられている。ワイヤーの先を目で追うと、そこには空中に浮かんでいる飛行馬の姿があった。
「グゥオアアアアアアアアッ!」
リオンがとつぜん、今まで聞いたこともないような悲鳴をあげた。
体に打ち込まれた一〇本以上の矢から、白い光がバチバチと音をたててはじけている。その光を見たアイは自分の魔法を思い出し、電気が流されていると気がついた。
リオンは頭上の飛行馬たちをきつくにらみつけ、瞳に赤い光を燃えあがらせる。
魔法で反撃に出ようとしたのだろう。しかしその直前で力つき、瞳から光が引いていった。首がだらりとさがると、リオンの体は崩れるようにして地面にたおれた。
アイはあわてて走りだすが、がれきに邪魔されてうまく前に進めない。そうしているうちに飛行馬が動き出し、ワイヤーでつながれたリオンの体を引きずっていった。
矢の刺さった傷口からは透明な液体が流れ出している。引きずられるたびにそれが地面に落ちて、道に広がっていった。「竜の血だ!」近くで見ていた誰かが叫ぶ。
「気をつけろ!竜の血は猛毒だぞ!」
その声を合図にどっと悲鳴がわき、残っていた人たちもあわてて逃げ出した。
リオンの体は大通りの入口に近い、ひらけた場所で止められた。この飛行馬たちは一体、リオンをどうするつもりなんだろう?不安をかかえながら、アイはやっと外に出る。
聖堂の上のほうが、なぜかうっすらと赤い。不思議に思って顔をあげたアイは、驚いて立ちつくしてしまう。なぜならその光の正体は、彼女がよく知っているものだったからだ。
「…フルムド・エムザ?」
口に出してつぶやいても、まだ信じられなかった。どうして自分たちをコルドワまでつれてきてくれたフルムド・エムザが、こんな所にあるんだろうか。
まさかと思ったアイはおそるおそる、リオンをかこむ飛行馬に目を向けた。銀色のボディには一本角のついた竜のシンボルが描かれている。トトラス商会のマークだ。
フルムド・エムザは聖堂の屋根のそばまで降下すると、真下のハッチを開いた。それを待っていたかのように、飛行馬がゆっくり上昇をはじめる。リオンは透明の血を流しながら空につるされ、その中にあっけなく飲みこまれていった。
ハッチが閉じられると、銀色のボディをおおう赤い光がぎらりと輝く。
「市民の皆様、そして記念日を楽しもうとおとずれた方々、どうぞご安心ください」
フルムド・エムザから声が聞こえてくる。その主はまぎれもなく、トトラス本人だった。
「皆様に恐怖と混乱を与え、あろうことかクーザの平和の象徴である壁画を破壊したこの恐ろしい竜は、我々トトラス商会の手によって処分します」
「え…リオンを、処分?」
アイは空に浮かぶフルムド・エムザを見あげながら、今の言葉をくり返した。
「我々にはその責任があるのです。というのもトトラス商会では以前より、遣竜使を育成する学舎に資金の援助を続けてきました。それは竜という未知の存在との交流をはかることが、クーザの繁栄につながると考えたためです。しかし、それは完全なまちがいでした。なぜなら今の竜は学舎において人間に協力するはずの、竜の大使だったのですから!」
ざわめきがわっと起こって、街の空気をかきみだしていった。
「皆様の記憶にも、はっきりと焼きついていることでしょう。我々の偉大なる遺産を一瞬で破壊した竜の奇怪なる力を!その凶暴な本性を!一報を聞いて鎮圧に向かう途中で、私はさとりました。竜は理解しあえる存在などではない。むしろ武器を持って立ち向かい、やがてはふみこえていかねばならない試練であるということを」
この人は一体、何を言おうとしているのだろう…想像しようとするだけで、アイの全身にぞくりと寒気が広がった。
「私は今、皆様に宣言いたします。我々はこのフルムド・エムザによってジア・フラード山脈の先へとおもむき、あの恐ろしき竜たちの住まう国に奇襲をかけることを!」
トトラスの言葉を聞いて、アイは胸をつかれたような激しい衝撃を受けた。
「先ほどの捕り物はご覧いただけましたでしょうか。お見せしたとおり、我がトトラス商会は竜にも通用する武器をいくつも開発しております。さきほどのように竜を捕らえることなど朝飯前。さらにこのフルムド・エムザの能力をもってすれば、竜の大群にも十分に対抗できるでしょう。それでは皆様、どうか我々の帰還を楽しみにお待ちください」
その言葉を最後にトトラスの声はやみ、フルムド・エムザは空高くへのぼっていった。
だけどアイはその後もずっと、空を見あげて立ちつくしていた。次々に起こった出来事を、現実だと認めることができなくて。
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