遥香のはるかな海の歌

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 それから二〇分ほどたったころ、急に家のチャイムが鳴った。さっきのお父さんの態度を思い出しながらカレーを煮込んでいた遥香はふっとわれにかえり、お鍋の火を止めて玄関に向かう。
「どなたですかあ?」
「叶さん…遅い時間にごめんね」
 ドアの向こうから聞こえてきたのは梨華の声だ。思わぬ来客に遥香は驚き、歩く速度をあげた。
 玄関の引き戸をガララッとあけた瞬間、目の前に現れた梨華を見てぎょっとする。
 梨華といえば、ついさっき軽やかな足取りで帰っていくのを見送ったばかりのはず。だけど今、彼女の目は涙で真っ赤になっていた。
「どっ、どうしたの?」
「ごめんなさい…キィちゃん、海に捨てられちゃった」
「ええっ?捨てられちゃったって…誰に?」
「ママに」
 遥香には意味が分からなかった。梨華はお母さんにあんなにはっきりと自分の気持ちを伝えて、ちゃんとキィちゃんの面倒を家でみることを認めさせたはずだ。
「叶さん、一緒に海に行ってくれない?今すぐに!」
 まだ分からないことだらけだったけれど、遥香は迷わずうなずいた。今は外がどんどん暗くなっている時間帯だ。急がないと海の中がまったく見えなくなってしまう。
 ただ…海の中が見えたからといっても、広い月浦湾で手のひらよりも小さなキイロハギを見つけだすのはほとんど不可能といっていいほど難しい。梨華もそれを覚悟していることは、彼女の絶望的と言っていいほど悲しそうな顔を見れば分かる。それでも二人は探さないわけにはいかなかった。
 出発する前に、遥香は部屋にいるお父さんに出かけることを伝えた。事情を聞いたお父さんはびっくりしながらも「僕もあとから行くよ!」と言って送り出してくれた。キィちゃんを入れるバケツと懐中電灯も用意して、二人は海に続く坂道を走り出す。
 月浦湾に着いた時には、外はもっと暗くなっていた。明るいころには底が見えるくらいキレイに澄んでいる海も、今では墨をこぼしたように黒い色に染まりはじめている。防波堤の先にたたずむだけで、二人はすっかりとほうにくれてしまった。
 こうなったらもう、いきなり最後の手段に出るしかないな…決意した遥香は梨華に「二手に分かれて探そう」と提案して、一人きりになった。
「誰かぁー、お願いがあるんだけどぉー」
 遥香が海に向かって呼びかけると、何匹かの魚が岸壁の近くにわらわらと集まってくれた。遥香はその魚たちに話しかける。
「ねえ君たち、白点病のキイロハギを見なかった?」
(えー?分からないなあ。キイロハギならサンゴ礁のあたりにいっぱいいるしねえ)
「お店で生まれて、ついさっきまで水槽の中で暮らしていた子なの。動きがぎこちないとか、あまり海に慣れていない泳ぎ方とかで見分けはつくと思うんだけど…」
(そんなヤツだったら、とっくに食べられているんじゃないの?最近このへんの海には変わったお客さんが多いしねえ)
(まったくだよ。今だって、変なでっかい生き物が『おなかすいたよお!』って騒ぎながら泳ぎ回っているし)
 それを聞いて、遥香はますます心配になってきた。
「じゃあ、せめてその生き物だけにでも『キイロハギを食べないで』ってお願いしておこうかな。悪いんだけど、それってどんな生き物だった?」
「えっとねえ…」
 魚たちからその生き物の特徴を聞いた遥香は思わず「ええっ?」と驚いた声を出して、眉をひそめた。

 分かれてからおよそ一五分後。二人はさっきの防波堤で合流した。
「叶さん、どうだった?」
 遥香が首を横にふるのを見て、梨華はがっくりと肩を落とした。
 だけどそんな梨華に、遥香はすぐに次の作戦を提案する。
「ねえ梨華ちゃん、沖の方に出てみない?野生のキイロハギが身を隠すサンゴ礁まで行ってみたら、もしかしたら見つけられるかもしれないよ」
「本当?でも、今から沖に出ることなんてできるの?」
「大丈夫!ここから近い浜辺にね、ずっと前から置きっぱなしになっているボートがあるの。サンゴ礁に近づくには、それしか方法がないと思う」
「分かった。それじゃあ叶さん、私をそこに連れてって!」 
 二人はさっそくボートがある浜辺へ向かうことにした。だけどその途中で、梨華は急に駆け足になった。
「どうしたの?」
「あれを見て!」
 後ろにふり返った梨華の視線の先を遥香も追う。ここから少し離れた道路に、見覚えのある真っ黒な外国車が見えた。前に梨華のお母さんが乗っていた車だ。
「私がこっそり家を抜け出したのが分かって、ここまで追いかけてきたんだ。急ごう!早くしないと見つかっちゃう!」
 全速力で走り出した梨華のあとを、遥香があわてて追いかける。
 遥香が案内した浜辺の波打ちぎわには、確かに四人くらいは乗れそうな木製の手こぎボートが置いてあった。
「これがそのボートだよね。けっこう古いみたいだけど、大丈夫?」
「うん。この町の子供はね、陸づたいだと時間のかかる岩場に行く時とか湾の真ん中で釣りをする時にはこのボートを使うの。見た目はボロだけど、意外と丈夫なんだよ」
 遥香が説明していると、遠くから「梨華さん!」と叫ぶ女の人の声が聞こえてきた。
「お手伝いさんの声だ!遥香ちゃん、急ごう!」
 二人は急いでボートを海へ押し出し、軽く浮かんだところで飛び乗った。それから一足遅れて、梨華のお母さんとお手伝いさんが浜辺へ駆け込んできた。
「梨華!どこへ行くの?すぐに戻っていらっしゃい!」 
 とりみだした声で梨華を呼ぶお母さん。その姿を見た遥香はオールをこぐ手をゆるめそうになったけど、梨華からすかさず「急いで!」という声が飛んできた。
 最初は順調だったけれど、ボートが沖に出ると遥香の手が大きく震えだす。見かねた梨華が「かわろうか?」と言ってくれたので、その言葉に甘えてオールをあずけた。スピードをあげたボートはどんどん岸から遠ざかり、浜辺でこっちを見ている梨華のお母さんたちの姿も小さくなっていく。
「ママなんて、いなくなっちゃえばいいのに」
 浜辺を強くにらみつけながら、急に梨華がぽつりと言った。衝撃的な言葉に、遥香はぎょっとして梨華を見る。
「ごめんね叶さん。急にこんなこと言って。でも私、ママのことがどうしても許せない。だって私をだましたんだもの」
「だます?それって今の、キィちゃんを海に放しちゃった事件のこと?」
 梨華はこくりとうなずいて、ここに来るまでに起こったことを語り始めた。
 キィちゃんをつれてマリンパークに帰った時、梨華のお母さんはニコニコと笑って梨華を迎えた。その表情は外で見せる人形みたいな笑顔だったので(なんか気持ち悪いな…)と思ったけれど、それよりも家でキィちゃんの面倒を見れるのが嬉しくて、あまり深く考えたりはしなかった。今思うと、それが失敗だったと梨華は言う。
 準備した水槽の中にキィちゃんを入れて一安心した梨華は、宿題をすぐ終わらせるようにお母さんに言われて、自分の部屋とは別の勉強部屋に入った。だけど一時間くらいで宿題を終わらせた梨華が再び水槽を見に行った時にはもう、そこにキィちゃんの姿はなかったそうだ。
「まさかと思って、すぐにママに聞いてみたの。そしたらママはさっきとは別人みたいな冷たい顔をして『海に捨てに行ってもらったのよ』ってはっきり言ったのよ」
 その時の気持ちがよみがえったのか、梨華は悔しそうにくちびるをぎゅっとむすんだ。 
「つまりね、お母さんはさっきの電話で私が少しも引き下がろうとしなかったから、私をだます作戦に切りかえたみたい。油断させてこっそり海に捨てちゃえば、私もあきらめるしかないって考えたんでしょうね。だけどそんなの、いくらなんでもひきょうすぎる」
 遥香もその通りだと思い、大きくうなずいた。
「でもさ、そこまでするなんて逆にすごいよね。どうしてそんなに必死なんだろう」
「ママはとにかく『梨華のためなのよ』って言葉をくり返してた。病気のお魚の面倒を見ることが、私にとっては無駄で汚いことでしかないって思っているみたい。ママには生き物を可愛がったり、病気を治してあげたいって思う気持ちが少しも分からないのよ」
 それから梨華はひと呼吸おいて、もう一度つぶやいた。
「そんなママなんて、いなくなっちゃっていいと思う。ねえ、叶さんもそう思わない?」
 梨華にたずねられて、遥香はすぐに返事をすることができなかった。
 いなくなっちゃっていい…か。遥香は梨華のことがかわいそうだと思いながらも、ちょっとだけうらやましいと思ってしまう。だって遥香は梨華みたいにお母さんとケンカすることもなかったし、そんなふうに強い感情を持ったことだって一度もなかったのだから。
 そんな自分が、梨華ちゃんになんてこたえたら良いのだろう…遥香はしばらく考えたすえに、口を開いた。
「さっき手が震えちゃったので分かったかもしれないけど…私、このボートに乗るのがけっこう苦手なんだ。小さいし、波が立つとかなりゆれるし、私泳げないし」
「え?」
 遥香が予想と違う話を始めたので、梨華はぴくりと眉をひそめた。
「でもね、裕一がこぐボートに乗っている時だけは大丈夫だったんだ」
「裕一君って…さっきマリンパークにいた、同じクラスの進藤君のことだよね?」
「そう。裕一の家は代々漁師さんだったの。だから裕一も『俺もじいちゃんや父さんみたいに、どんなしけにも負けないたくましい漁師になるんだ!』っていつも言ってて、やけに自信たっぷりにこいでいたから安心できたんだ。だけど裕一は、今はもうボートに乗らなくなっちゃったの。お母さんに海に出るのを止められて」 
「なんで?だって彼の家、漁師さんなんでしょう?」
「ちょっと前まではね。漁師だった裕一のお父さんは、海で亡くなってしまったの」
 それを聞いた梨華は目をはっと開くと、みるみる重い表情になっていく。
「裕一のおじいちゃんも、ずい分前に同じような海の事故で亡くなっているの。海に生きる男の宿命だって町の人は言うけど…それでも裕一のお母さんは、裕一にはもう海に出てほしくないと思っているの。裕一もその気持ちが分かっているから、今はこのボートに乗ることさえしないんだって。本当は海に出たくて仕方なくて、毎日防波堤で船が出入りするのをながめているくらいなのに」
「そうなんだ…」
 さっきマリンパークで裕一に言われたことを思い出しているのだろうか。梨華は遠い目でしばらく考えこんでいた。そんな梨華に向かって、遥香は再び語りかける。
「それにね、私にはお母さんがいないんだ」
「えっ、叶さんのお母さんも?」
 遥香の告白を聞いて、梨華はますます衝撃を受けたらしかった。オールをこぐのを忘れるほど絶句したあと、おそるおそるといった感じの小さな声で聞いてくる。
「言いたくなかったらごめんね。それも海の事故?」
 遥香は首を横にふる。
「私のお母さんは、ミノリイシの大産卵の時に命を落としたんだって」
「え?ミノリイシの大産卵って確か…マリンパークの展示のパネルに書いてあった、ミノリイシがいつもよりたくさんの卵を産むっていう現象のことだよね?」
「そう。お母さんは若いころからマリンパークのお手伝いをしながら、個人的にミノリイシの研究をしていたの。お父さんの話だと、前の大産卵があった五年前の七月の満月の夜にミノリイシの産卵を見ようと思って防波堤に行ったんだけど、海の中をのぞきこんだ時にバランスをくずして落ちてしまったんだって」
「そうだったんだ。叶さんのお母さんまで…それじゃあ、ひょっとして私がママの話をするたびに、自分のお母さんのこと思い出したりとか、さみしくなったりしていたの?」
「ううん、大丈夫」
 心配そうに聞いた梨華に、遥香は明るく笑いかけた。
「だって私もいつか竜宮に行ったら、お母さんにまた会えると思うから」
「竜宮?それって、あの浦島太郎の竜宮城のこと?」
「ちがうの。確かに竜宮って言えばそっちのお話のほうが有名なんだけど、月浦にはそれとは別の竜宮城のお話が昔から伝わっているんだ」
 梨華が興味深そうなまなざしで、遥香の顔をじっとのぞきこんでいる。遥香はいつの間にか空にのぼっていた月を見上げながら、その内容を語りはじめた。

 …昔々の、ある満月の夜。沖に出ていた漁師さんの船が、いつもとは違う潮の流れに巻きこまれて遠くに流されてしまったの。 船はかじがきかないまま何日も海を流れ続けたすえに、とうとう高波におそわれて壊れてしまったんだって。
 だけど海に投げ出されて気を失った漁師さんが目をさますと、そこはなぜか、この世の中とは思えないようなお城の中。それは竜宮という海の中にある国で、彼はこの国をおさめている乙姫様に助けられたの。
 竜宮には死んでしまったはずの親戚や友人が暮らしていて、彼はみんなと再会して昔を懐かしんだり、乙姫様のおもてなしを受けて楽しい時間を過ごしたらしいよ。
 最後にお土産として輝くサンゴのかけらをもらって月浦に帰してもらった漁師さんは、乙姫様の言いつけを守って海の中にそのサンゴを沈めたの。やがてその場所にはミノリイシのンゴ礁がつくられて、月浦の海はますます豊かになっていったんだって。

 やっぱり梨華にとってははじめての話のようだった。彼女は「へぇ…」と驚きで言葉もないといった感じでつぶやくと、あらたまって月浦湾を見まわした。
「それじゃあ、遥香ちゃんのお母さんは今ではそこにいるかもしれないんだね。それに進藤君のお父さんやおじいちゃんも」
 梨華の言葉に、遥香は大きくうなずいた。
「なんで急にこんなお話をしたかっていうとね、実は梨華ちゃんの話を聞いて、ちょっとだけうらやましかったからなんだ。だって梨華ちゃんのお母さんは梨華ちゃんのことが大切すぎてこんなことをしてるみたいだし。きっと梨華ちゃんの気持ちが本当に伝わった時は、二人はすごく仲良しになれるような気がするから」
 遥香の言葉がきいたのかどうかは分からないけれど、それを聞いた梨華は浜辺のほうにふと目を向けて黙りこんだ。かなり小さくなってしまったけど、お手伝いさんと並んで立ちつくしているお母さんの姿がまだ見える。
「あ、このあたりだよ。野生のキイロハギが暮らしているサンゴ礁があるのは」
 遥香は話をやめてまわりの景色を確認すると、梨華に伝えた。
 梨華は身を乗り出して海の中をのぞきこんだけど、水の中はもうかなり見えにくくなっている。魚の姿だって、懐中電灯をあてても浅い所を泳いでいる魚影がやっと見えるくらいだ。
 梨華は何も言わず、ただ水面をじっと見つめ続けている。遥香にはその様子が、キィちゃんを見つける難しさを実感して頭の中が真っ白になっているようにしか見えなかった。
 だからこそ、そのあとの梨華の一言はすごく意外だった。
「あっ、見えた」
「へ?」
 すると梨華はすっと立ち上がり、ボートの床を勢いよくけって飛び上がる。そしてきれいな動作で頭から海の中に飛びこんでしまった。
 少しも迷いのなかった梨華の行動は遥香が言葉をかけるすきもないほどで、あっという間だった。遥香の顔が、さあっと青ざめていく。
「ええええっ?うそっ、梨華ちゃん?」
 遥香はあわてて梨華が飛びこんだ場所に光を照らす。だけどぼんやり見える彼女の姿はもう手も届かないほど深い場所にあり、すぐに暗い水の中に溶けて消えていった。
 もしも遥香が普通の月浦の子供並みに泳ぎが上手だったら、すぐに飛び込んで梨華を水面に連れ戻そうとしただろう。だけどカナヅチの遥香にはその勇気はなかったし、何よりそんな無茶をしたらますます大きな事故になりかねない。今の遥香にはもう、どうすることもできなかった。
 こんな時にアイツはなにしてるんだろ…なんて考えているうちに、梨華が暗い水の中からすうっと浮かび上がってきた。あっという間に水面に顔を出し、深く息を吸いこんだ。
「大丈夫?」
「うん!遥香ちゃんお願い、早くバケツを用意して!」
 無事だったことが嬉しくてすっかり見落としていたけれど、戻ってきた梨華は何かを包みこむように両手でお椀の形をつくっている。急いでバケツに海水を入れて梨華に近づけると、梨華はその中に両手を入れ、そっと開いた。
 姿を見せたのは、一匹のキイロハギだった。
「ねえ、その子ってキィちゃんかな?遥香ちゃん、確かめられる?」
「ちょっと待ってて!」
 遥香はボートの上にバケツを置くと、顔を近づけて小さな声で(ねえ、きみってマリンパークにいた子?)とたずねる。すぐに(そうだよ)という返事がかえってきた。
「大丈夫!間違いないよ!」
 梨華はようやくほっとした顔になり、遥華の手をかりてボートに上がった。高そうな服は海水でびしょぬれ。ウエーブのかかったキレイな髪も、服にべったりとはりついて海草みたいになっている。だけど遥香はそれよりも、こんな泳ぎにくい格好で海に飛び込んだ梨華の勇気にびっくりしていた。
 キィちゃんの体にはケガもなく、ヒレの状態もちゃんとしている。もともと持っている白点病をのぞけば無事そのものだ。それを聞いた梨華は「良かったあ~!」と大きな声を出してボートの上に倒れこむ。
「すごいね梨華ちゃん。こんなに簡単にこの子を見つけて、しかもゴーグルもなしでつかまえてきちゃうなんて」
 感心した遥香の言葉に梨華はふっとほほえんだけれど、すぐに首を横にふった。
「ちがう。これは私の力じゃないよ。私は水の中にキイロハギみたいな黄色い魚がちらっと見えたから、夢中になって飛びこんだだけなの。私にこんなことができたのは、素敵な協力者が現れてくれたおかげなんだ」 
「ああ。素敵な…協力者ね」
 遥香が苦笑いを浮かべながら海のほうを向くと、水面から白くて丸っぽい物がぷか~っと顔をのぞかせた。
 つぶらな黒い瞳に、イルカにくらべて短い口先、笑っているような表情でこっちをじいっと見つめている。
「あの子って、この間マリンパークにいたメリーっていうイルカ…じゃなくてスナメリだよね?メリーが私に近づいてきて、キイロハギの目の前まで案内してくれたんだ。体が白くて大きかったから暗くてもしっかり目印になったし、キィちゃんだって、私が両手を伸ばしたら逃げるどころか自分でつかまろうとするみたいに近づいてきてくれたんだ」
 梨華はメリーを見ながら、水の中で起こった出来事を嬉しそうに話す。だけど遥香はそれを聞きながら確信していた。「やった!作戦は大成功だった!」と。

 遥香がその作戦というのを思いついたのは、お魚たちから「月浦湾にいる変なでっかい生き物」について話を聞いている時だった。
(えっとねえ…イルカみたいなんだけど、それにしちゃあ白くてずんぐりとしてて、やけにニヤついた変な顔をしていたよ) 
「ええっ?それって、まさか…」
 そんな特徴を聞いた時から、遥香はぴんときていた。その生き物は絶対スナメリだと。
 そして月浦に出るスナメリといえば、まっ先に浮かぶのがメリーだった。メリーは三日前に怒って大水槽から出て行ってしまってから遥香の前に姿を見せていない。どこでどうしているんだろうと気になってはいたけど、月浦湾にいたとは思っていなかった。
「メリーっ!」
 遥香が海に向かって大きな声で呼ぶと、すぐにあの白い頭が水面からぬっと現れた。遥香はメリーに事情を説明して、キィちゃんの捜索をお願いする。
 するとメリーはあっという間に、湾の向こう岸に近いサンゴ礁にいることを突き止めてくれた。キイロハギが放された防波堤はそこからだいぶ離れているはずだけど、湾をゆるりとまわっている潮の流れに乗ってたどり着いていたようだ。
「ありがとう!それじゃあメリー、今度はキィちゃんに梨華ちゃんが探しているって伝えてもらえる?私は梨華ちゃんにうまく話して一緒にそのサンゴ礁の上まで向かうから。そしてボートが着いたら、キィちゃんと一緒に水面のほうまで上がってきてね」
(あいよー!)
 元気よくメリーが海へもぐっていくのを見送ると、遥香も防波堤に走りだした。そしてすぐにサンゴ礁の上へ行くために、梨華を呼び出したのだった。 

 作戦ではキィちゃんにもっと水面まで泳いで来てもらうはずだったんだけど、梨華がその姿を見つけたとたんに海に飛びこんでしまったのは予想外だった。だけどメリーが気をきかせて、水中にいる梨華をキイロハギの前まで案内してくれたようだ。
 このメリーの活躍には遥香も思わず感心した。とはいえ感謝の気持ちが少しでもわいてきたかというと、そんなことは全然なかった。
 なぜならあんなに梨華を嫌っていたメリーがマジメに協力してくれたのは、それなりの理由があったからだ。
 浜に向かってこぎだしたボートの横を、メリーが並んで泳いでいる。梨華は水面からメリーが顔を出すたびに、幸せそうに目を細めた。
「ふふ…ずっとこっちについてくる。ねえ、叶さんは聞いたことある?外国の海でね、おぼれていた子供をイルカが助けたっていう実話があるんだって。さっきのメリーを見てそのお話を思い出しちゃった。やっぱりイルカの仲間って、人の心が分かるのかな」 
「そ、そうだね…確かにかしこいと思うよ。この子は特に」
 嫌われていると思っていたメリーに助けてもらったのがよほど嬉しかったのか、梨華はすごく感激しているようだった。だけどメリーの声が聞こえている遥香は、そんな梨華を見ているだけでせつない気持ちになってくる。
(ねえ、私の約束覚えてるよね?今度イセエビ食べさせてくれるのよね?楽しみにしてるからね?) 
 顔を出したメリーは必ず、遥香にそんなことを話しかけていたのだった。あまりにもしつこいのでどなりつけたかったけれど、梨華が近くにいるからガマンするしかない。
 そう。このかしこい…正しくは「ずるがしこい」スナメリのメリーが、遥香からの頼みごとという絶好のチャンスを利用しないはずがなかった。メリーはこのお願いがすばやく泳げる自分しかできないのを良いことに、成功のごほうびとしてイセエビを要求してきたのだ。
 こういう時のメリーの頭の回転の速さには遥香もただ驚き、あきれるしかなかった。だけど今はとにかく時間がないので「キィちゃんを見つけて、無事に梨華ちゃんのところに返したら」という条件で仕方なくメリーの言うとおりにした。
 するとメリーはいつもはありえないようながんばりを見せて、難しいと思っていたキイロハギの捜索をあんなにあっさりと成功させたのだった。もしかしたら海の中で、なにかしらの特別な能力を使ったのかもしれない。 
「メリーの言葉が分かる」なんて言っても信じてもらえないだろうし、梨華に真実を説明する自信は遥香にはない。だけどもし言えたとしても、そんな夢を壊すようなことはしないと強く思う遥香であった。
 二人が戻ってきた時には、浜辺の雰囲気はずい分と変わっていた。
 さっきまでは梨華のお母さんとお手伝いさんしかいなかったのに、今では二人を心配して家を出てきた遥香のお父さん、さらに近所の人もかなり集まっていた。見なれない外車がずっと港に停めてあったので、何があったのかと思ってやって来たのだろう。中には近所の交番の駐在さんもいて、ちょっとした事件みたいな雰囲気になっていた。
 そんな人だかりの先頭に立つ梨華のお母さんの印象は、前に会った時とはずい分ちがって見えた。「お人形」みたいだった不自然な笑顔も、今はそのかけらもない。浜に上がったボートをにらみつける姿には、遥香も身をすくめるほどの迫力があった。
「うわあ…梨華ちゃんのお母さん、メチャクチャ怒ってるよお。大丈夫?」
 遥香はその迫力におびえて、梨華を心配する。だけどその時の梨華の顔は、遥香の予想とはちがっていた。目を丸くして自分の母親を見つめる梨華の表情は驚いているようでもあり、そしてなぜか、口元は少し笑っているようでもあった。
「すごい…外でママが怒った顔してる。こんなにたくさんの人が見てるのに」
 それから梨華はきりっとした顔つきになり、覚悟を決めたように立ち上がった。キィちゃんの入ったバケツを抱えてボートをおりると、足に波がかかるのも気にしないでまっすぐお母さんに近づいていく。
 お母さんと近い距離で向かい合った梨華は、きっぱりと言った。
「私、絶対にこのキイロハギの面倒を見るから。自分の力で」
 お母さんの眉がぴくりと動いた…次の瞬間。
 バチン!と高い音が浜に響いた。
 お母さんが梨華のほっぺをたたいたのだ。突然の出来事に、そこにいた全員がはっと息をのむ。梨華はほっぺを真っ赤にしながらも、バケツをしっかり抱えたままお母さんから視線をはずさなかった。
 それを見たお母さんは、あきれたように「ふう」と息をついた。
「帰りましょう。今度こんな無茶をしたら、絶対に許さないからね」 
 それだけ言ってくるりと背中を向けると、お手伝いさんをつれて車をとめてある港のほうへ歩き出した。その場にまだ立ちつくしている梨華のそばに、遥香が急いで駆けよる。
「梨華ちゃん、大丈夫?」
 心配そうに話しかける遥香。だけどふり返った梨華は、満面の笑みを浮かべていた。
「やっぱり、さっきまでと違う!今までのママは絶対に、人前でこんなことをしたりしなかったもの。それにもう、キィちゃんを『捨てなさい』なんて言わなかったし」
「あっ、本当だ!」
 そのことに気が付くと、遥香の顔にも笑みがこぼれた。
 それから梨華は遠ざかっていくお母さんの後姿を見つめながら、力強い声で言った。
「私、家に帰ってもう一度ママに自分の気持ちを伝えてみる!これでママにも私が本気だってことは分かってくれたと思うし。遥香ちゃん、今日は本当にありがとう」
 最後にそう言って、梨華も港へ歩き出した。梨華が遥香をはじめて「遥香ちゃん」と名前で呼んだことに気がついた時には、彼女の後ろ姿はずい分小さくなっていた。
 黒い外車は梨華が乗りこむとゆっくりと動き出し、港をはなれていった。
 それを見届けた近所の人たちも、散り散りになってそれぞれの家へ帰っていく。「いやあ、おっかなかったねえ」「人は見かけによらないもんだねえ」なんて、さっきの出来事を口にしながら。
(梨華ちゃん、がんばって) 
 遥香が車の去っていったほうを向いて心の中で祈っていると、ぽんと肩をたたかれた。
 顔を上げると、お父さんが優しい笑顔で遥香を見ている。
「遥香、僕たちも帰ろうか?」
「うん!」
 遥香はにっこりと笑ってうなずくと、肩の上のお父さんの手をしっかりにぎった。

 それから数日が過ぎたある日。
 体育の時間。遥香たち五年生のクラスでは、今日もプール授業が行われている。しかもこの日は授業の後半に、クラスを二つに分けての対抗リレーをすることになった。
 二人一組でジャンケンをして、勝ったほうと負けたほうでチームを二つに分ける。ジャンケンに勝った遥香が「勝ちチーム」が集まっている場所に行くと、先にいた仲間はみんな暗い表情になった。
「遥香が仲間かあ。終わったな」
「ジャンケンには勝ったけど、リレーには負けた…」
 そんな声があちこちから聞こえてくる。
 つまり「遥香のいるチームが負ける」というのが、遥香たちのクラスの決して破られないお約束だったのだ。なんて失礼な話だろうと腹をたてる遥香だったけど、事実だから何も言い返せないのがますます情けなかった。
 遥香の順番はすぐ一番に決まる。その順番も、必ずと言ってもいいほどいつも同じだった。みんな遥香に最初に泳がせて、思いきりできた遅れを少しでも取り戻していく作戦をとりたがるからだ。だからリレーの見所はいつも勝ち負けではなくて、ゴールした時の相手との差がどれだけ短くなるかにしぼられている。
 それは今日も変わらないようだった。崎田先生の笛の音を聞いてプールに飛びこんだ(まわりの人には落ちているようにしか見えなかったけど)遥香はじたばたと手を動かすだけの変な泳ぎ方で少しずつ前に進み、途中で何度も足が付き、先生に泣きついては逆に叱られ、必死の思いでゴールの壁にタッチする。
 だけどその時にはもう、相手は次の次の泳者まで進んでいた。この状態で逆転できるとはクラスのほとんどが思っていない。もちろん、遥香自身もそうだった。 
 リレーのあとでプールサイドに上がるとすごく情けない気持ちになる。遥香は自分の順番を待っている仲間のクラスメートから離れた場所に座り、一人で落ちこんでいた。
「遥香ちゃん」
 だけど急に名前を呼ばれて、遥香は顔をあげる。いつの間にか遥香の隣では、梨華がこっちをのぞきこむようにして立っていた。
 今の梨華は転入初日のプール授業の時とはちがって水着を着ている。前は「お肌にシミができるから」なんて理由でプール授業に出るのを止められていたけれど、今では普通に授業に参加するようになっていた。そしてこのリレーでは、遥香と同じチームだった。
「ごめんね梨華ちゃん。せっかく学校のプールで泳げるようになったのに、私が差を付けられちゃったせいで恥ずかしい思いをさせることになっちゃって」
 しおらしく謝る遥香に、梨華はきっぱり「大丈夫!」とこたえた。
「もうすぐ私が泳ぐ番なの。遥香ちゃんにも見ててほしくて声をかけたんだ」
 そう言うと梨華はスイミングキャップをかぶり、表面がミラーになっているゴーグルをすっと付ける。きらりと光る目と、笑顔がやけにたのもしい。  
「それじゃ、行ってくるね」 
 梨華の順番はそれからすぐにやって来た。今では遥香のあとの泳者ががんばって相手との差を縮めてくれていたけれど、逆転がきわめて難しいのは変わらない。
 前の子が壁にタッチした次の瞬間、飛びこみ台の上の梨華がしなやかに跳ねた。しぶきもほとんどないほど静かに着水し、すーっと水の中を滑っていく。
 それは遥香やほとんどのクラスメートたちにとって、今まで実際に見てきた中で一番きれいな飛びこみだった。その瞬間から、プールを包む空気は一変した。
 月浦の子供は基本的に泳ぎがうまい。なのに東京から来たばかりの梨華は隣のコースを泳ぐ子に負けていないどころか、ものすごい勢いで距離を縮めていった。
 梨華がプール授業に出たのは初めてじゃなかったけれど、こうして本気で泳ぐチャンスは今日までなかった。思いもよらない展開に、みんな応援の言葉をかけるのも忘れて梨華に注目する。
 二五メートルでは短すぎて、逆転とまではいかなかった。それでも梨華がかなり距離を縮めたおかげで、絶対に負けると思われていた勝負には別の可能性が見えてきた。
 遥香は早歩きでプールサイドを進み、プールから上がった梨華に話しかけた。
「すごい!梨華ちゃんって、泳ぎ上手だったんだね!」
「ありがとう。東京では小さいころからスイミングスクールに通ってて、選手育成コースっていう上の方のクラスで練習していたの。だから、実は泳ぎには自信があったんだ」
 ほめられた梨華は照れくさそうにほっぺを赤くして説明する。それを聞いて遥香はなるほどと思い、前のボートの上での出来事を思い出した。海の中にキィちゃんを見つけた梨華が迷うことなく飛びこんだのも、上手に泳げるからなんだ…と。 
「梨華ちゃんって、本当にすごいんだね。可愛くて、性格も優しくて、お魚やサンゴのことにもくわしくて、しかも泳ぎがうまくて…なんでもできるんだね」
 梨華をほめるつもりだったのに、しゃべっているうちに遥香の声はだんだん暗くなっていく。それに比べて自分はとりえが少ないような気がして、なんだか悲しくなってきたからだった。
「ありがとう。遥香ちゃんのおかげだよ」
「えっ、私のおかげ…?」
 そんな遥香にとって、梨華からかけられた言葉は思いもよらないものだった。目を丸くして聞き返す遥香に、梨華は満面の笑みを浮かべてうなずいた。
「だって私がここで泳げるようになったのも、もとはといえばキィちゃんの出来事があったからだもん。私、あれからママにちゃんと自分の気持ちが伝えられるようになったの。それにママだって、そんな私の話をちゃんと受け止めてくれるようになったんだ」
 遥香がボートで言ったように、梨華のお母さんが自分の考えを無理矢理にでも押し付けるようになっていたのは、それが何よりも梨華のためになると信じていたからだった。だけど梨華がキィちゃんのために必死になっている姿を見て、その考え方は必ずしも正しいわけじゃないと気が付いてくれたらしい。 
「遥香ちゃん、あの時に言ってたよね?もしも私のママが私のことを大切に思いすぎてこんなことをしているんだったら、私とママはすごく仲良しになれるかもしれない、って。私、近いうちに本当にそうなれるんじゃないかっていう気がしているんだ」
 今の梨華の話を聞いて、遥香の気持ちはすごく軽くなった。それが梨華がここまで変われたことにつながっているのなら、私も少しはほこらしく思っても良いのかな…なんて、ちょっと調子に乗ってしまう。元気を取り戻した様子の遥香を見て、梨華も嬉しそうだ。
 そんな時。まわりの応援の声が急に大きくなって、二人はびっくりしてプールを見た。 
 二人が話しているうちに、リレーはいつの間にかアンカーの番まで進んでいた。
 しかもその時にはもう、遥香たちのチームのアンカーである裕一がリードしていた。今の大きな歓声は、裕一が相手の泳者を抜いた時に起こったようだ。裕一は五年生の中でも一番クロールが速いので、あとはどんどん差をつけていく一方だった。
「すごい!私たちのチームが勝ってる!」
「本当だ!絶対に梨華ちゃんのおかげだよ!」
 裕一はリードを守ったままゴール。遥香たちのチームがまさかの勝利をおさめることができた。遥香も梨華も嬉しくなって、お互いの手を取りあって喜んだ。
 それから見事なゴールを見せた裕一にも祝福の言葉をかけようと、二人はプールから上がった裕一のそばに近づいた。
 だけど…
「裕一、お疲れさまーっ!」
 遥香がそう言って近づくと、裕一はちらっとこっちを見た。だけど声をかけたのが遥香だと分かると、すぐにぷいと顔をそむけてしまう。そして遥香たちとは反対の方向に、すたすたと歩いていってしまった。
 二人はその場に立ちつくし、きょとんとした顔を見合わせる。
「あれ?り、梨華ちゃん…今の私の声って、裕一に聞こえてなかったのかな?」
「いや、聞こえてはずだよ。それに進藤君、絶対にこっちを見てたし」
「そうだよね。それじゃあ裕一は、私たちを無視したってこと?」
 そんなことは、小さいころから裕一と仲が良かった遥香にも初めてのことだった。
 一体どうして…?遠くで同じチームだった男子とハイタッチをしている裕一を見ていると、遥香は不思議に思わずにはいられなかった。
 見上げた空にはいつの間にか、梅雨の始まりを予感させる黒い雨雲がたちこめている。
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