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しおりを挟む「華蘭、今日は起こしてくれなかったんだな。」
リビングに降りていくと、華蘭がテーブルの上に朝食を並べているところだった。華蘭は、男の方を振り返って柔和な笑みを浮かべた。
「あら、くー坊が起こしてくれるかと思って。起こしてくれませんでしたか?」
華蘭はなんでもないことのように答える。男はむすっとした顔で椅子に座った。
「起こしてくれたが……。あれは華蘭が設定したのか?」
「いいえ。私はなにもしておりませんわ。」
男が華蘭がアラームをセットしたのではないかと確認したが、華蘭は笑みを浮かべながら違うと答えた。華蘭の笑みはまるで作り物のように一部の狂いもない笑みだったが、男はこれっぽっちも気になどしていなかった。それは、華蘭が男と結婚したときから同じ笑みだったからだ。
湯気の立ち上るコーヒーが男の前に置かれる。男はコーヒーの匂いを嗅いだ。
「今日のコーヒーは随分といい香りだな。わざわざ豆から挽いたのか?」
「ええ。くー坊があなたのことを起こしてくれたから時間が出来たんです。」
「そうか。……うまいな。」
「お口にあってよかったわ。これもあなたの好みをくー坊に伝えたらくー坊が教えてくれたんです。この辺りのスーパーになかったから取り寄せました。」
「……また、くー坊か。華蘭はくー坊を使いこなしているんだな。で、このコーヒーはキリマンジャロか?」
砂糖は入れていないのに、甘く感じるコーヒー。一口飲めば鼻から抜ける香りに男は上機嫌になる。男は不思議に思ってコーヒーの種類を華蘭に確認した。
「いいえ。コピ・ルアックです。」
「……コピ・ルアック?聞いたことのない豆の名前だな。」
男は記憶の中を探るが、コピ・ルアックなんて名前のコーヒーは聞いたことがなかった。
「そうですね。くー坊が教えてくれました。」
華蘭は男の方を振り返ることもなく、答える。その顔には笑みは浮かんでは居なかった。華蘭は男を見る時以外はこの家の中では笑みを形作らない。
慣れた手順で、味噌汁を男の前に置く。湯気の立ち上る味噌汁からは味噌の良い匂いが立ち上る。そして、また不思議なことに、食卓には男の分の食事しか置かれていなかった。
「……華蘭の分の食事はどうした?」
「私は味見がてら先にいただきました。」
なんでもないことのように華蘭は言った。男は「そうか。」と一言だけ言うと味噌汁に口をつけた。男は味噌汁を口に含むと一瞬だけ眉を顰めた。けれど、何をいうわけでもなく黙々と華蘭が作った食事を平らげていく。
男は鯵の干物を一口口に入れ、何も言わずに醤油差しをとり、鯵の干物に醤油をかけた。今日は味の干物の味が薄いと感じたのだ。
「……この鯵の干物、いつもと違うやつか?」
「いいえ。いつもと同じお店で購入したものです。」
「……そうか。」
華蘭はいつもと同じだというが、男にはいつもと違うように思えた。いつもと違うようには思えたが、醤油をかければいつもの味と近くなるので特に文句は言わずに食べすすめる。
残さず全てを平らげれば、家をでなければならない時間になった。
「行ってくる。」
「あ、そうでした。今日は、くー坊に教えてもらいながら、お弁当を作ってみました。」
華蘭はそう言うと、玄関で弁当袋を男に渡す。
結婚してから今まで、華蘭は男にお弁当を作ったことなどなかった。それだというのに、この変わりよう。これもくー坊の影響だろうかと男は感心した。
「社食があるから不要だが……。」
「そうは言わないでください。せっかくくー坊が作ってくれたんですもの。社食より美味しいし、安全ですよ?」
「まあ、オレは味覚音痴だからな。別に社食だって構わないんだが。」
男はしぶしぶながら、華蘭が作ったというお弁当を受け取り、鞄の中につっこんだ。
華蘭が玄関を開けると、今日も雨が降っていた。
華蘭は傘立てから黒い布製の傘を取り出し、バッと広げる。玄関の外にでた華蘭は、そうして男が玄関を出るタイミングで傘を手渡した。
「いってらっしゃい。」
「ああ。」
男が視界から姿を消すまで華蘭は男を見送り、男が見えなくなると口角を上げた。
☆☆☆☆☆
「課長代理、珍しいですね。今日はお弁当だなんて。」
昼の時間になると、男の部下である久保が男の食べている弁当を不思議そうに覗き込んだ。
久保というのは最近入社した男の部下であり、目下男の悩みの種である。
「ああ、うちの完璧な妻が作ってくれたんだ。」
「へぇー。今までお弁当なんて持ってこなかったのに?やっと作ってくれたんですか。よかったですね。」
久保は満面の笑みを浮かべながら男を茶化すように言った。
男はこの久保の上司を上司とも思わないような態度が気に入らなかった。まるでずかずかとプライベートに踏み込んでくるようなこの女がどうしても男は気にくわなかったのだ。
それに、久保は男より一回りも年下の女だというのに正直なところ上司である男よりも仕事ができる。男はそれが気にくわなかった。いつか久保が男を抜いて昇進していってしまうのではないかと不安に思ったのだ。
「今まではオレが弁当は不要だと言っていたからな。」
「へぇー。なんでです?」
「弁当を作るのは大変だろう。社食もあるし、弁当がなくても問題ないと判断しただけだ。」
「そうなんですか。でも、奥さんの愛妻弁当って男のロマンだったりしないんですか?」
「しないね。わざわざ社食で安い飯が食えるというのに弁当を作るなんて時間の無駄だ。」
男は久保の言葉をそう切り捨てた。久保はこれ以上男が自分と会話をする意思がないと理解したのか、男の側から離れて食堂に向かった。
残された男は一人寂しく自分の机で華蘭が作ったという弁当をつっつくのだった。
そんな男の姿を久保は満面の笑みで見つめていた。
『血圧が10上昇します。』
スマートフォンの画面に突如文字が映し出されたが、男は気にも留めずパソコンでネットニュースを眺めていた。
男はそのニュース記事の中の一つに大きな声衝撃を受けた。
それは小説の新人賞のニュースだった。そのニュースの写真の中心に写っているのは、男がいけすかないと思っている久保だったのだ。
「あいつっ!!」
思わず男は声をだしていた。顔は真っ赤になり、拳を爪が食い込むほど握りしめていた。
男は小説家になるのが昔から夢だったのだ。その夢を部下が先に叶えた。男にはそれが許せなかった。
男は怒りのまま『くー坊』を起動した。
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