いまは亡き公国の謳

紫藤市

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第一章 公子の死

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「公妃様はフランスの方でしょう? 公妃様がいらっしゃれば、フランスは攻め込んでこないんじゃないかしら」
「そんなの関係ないわ。それどころか、フランス軍は公妃様の身を守るためとか都合の良い理由を作って進軍してくるかもしれないじゃないの」
 ステファーヌがもっともらしいことを言ったときだった。
「ステファーヌ様、ジェルメーヌ様。お客様がいらしています」
 部屋から出て行ったはずのミネットが戻ってきて、ふたりに告げた。
「どなた?」
 ミネットに視線を向けたステファーヌが、慎重な口調で尋ねる。
 ロレーヌ公の庶子を訪ねてくる者など、数えるほどしかいない。そのほとんどをステファーヌは毛嫌いしていた。理由はいたって単純で、自分たちを利用しようとする欲の皮の厚い貴族たちばかりだからだ。
 彼らに話し掛けるたび、ふたりは世間知らずな公女を装い、作り笑いを浮かべながら的外れな返事をして話をはぐらかしていた。
「トロッケン男爵です」
 名前を聞いた瞬間、ふたりは顔を見合わせた。
 これまで、まったく話をしたことがない相手だ。
(どうする?)
(会ってみる?)
 視線だけで会話を交わす。
(ひとまず、会ってみましょうか)
 どういう用件かはわからないが、話をまったく聞かずに追い返すのは失礼だろう。
「――お通しして」
 ステファーヌが命じると同時に、ミネットの背後からトロッケン男爵ヴィリバルト・カーフェンが現れた。
 ロレーヌの宮廷では貴族の多くがフランス風に名乗る中で、彼はドイツ名にこだわりを持っており、嫌フランス派として宮廷でも知られていた。
「ステファーヌ様、ジェルメーヌ様。はいえつをお許しいただき、恐悦至極に存じます」
 くすんだ狐色の略装を身にまとい、消し炭色の髪をうなじでひとつに結んだ姿のトロッケン男爵は、いんぎんな態度で頭を下げた。40代半ばの中肉中背で、すべてが野暮ったい男だ。
 すぐさまジェルメーヌとステファーヌは椅子から立ち上がり、ステファーヌが先に口を開いた。
「ごきげんよう、トロッケン男爵。堅苦しい挨拶は無用です。それに、わたしたちにそのような礼も不要です。それよりも、手短に御用の向きをおっしゃっていただけますか」
 丁寧な物言いではあったものの、ステファーヌは単刀直入に尋ねた。
 回りくどい会話がなによりも嫌いなのだ。
「では、申し上げます。実は、おふたりに会わせたい方がいるのです。いまから私と一緒に、その方に会いにいらしていただけませんでしょうか」
「今から? それは無理です。外出には父の許可が必要です。どなたか存じ上げませんが、わたしたちとの面会を希望するならば、こちらに出向いてきてくださるよう伝えてください」
 ステファーヌは暗に面会を拒絶した。
 ふたりが自由にリュネヴィル城館から出られないことは確かだが、幽閉されているわけではないので、お忍びで出掛けることは可能だ。
 一方、城館への出入りは貴族であろうと誰にでも許されているわけではない。
 トロッケン男爵がふたりに会わせようとしている人物が何者であるにせよ、城に出入りできるような者でなければ会わないと、ステファーヌは匂わせたのだ。
「残念ながら、その方はこの城に参ることはできません。出入りが禁止されているわけではありませんが、おふたりの立場を危険にさらさないためにも、面会は城下をご希望なのです」
「それは、どなたかしら」
 探るような眼差しをトロッケン男爵に向けながら、ステファーヌは尋ねる。
 どことなく、すでに答えを知っているような表情を浮かべているようにジェルメーヌの目には映った。
「ガブリエーレ・バッベル様、です」
 低い声でトロッケン男爵が答える。
「――――――!」
 ふたりは同時に息を飲んだ。
(どうする?)
 無言のまま、視線だけで協議する。
 会うことを拒否することは可能だ。
 だが、これまで一度として会ったことがない相手を、会いもせず撥ね付ける理由もない。
「――会いましょう。連れて行ってください」
 しばらくためった後、代表してステファーヌが男爵に告げる。
 黙って同意を示すように頷いたジェルメーヌは、わけもわからず鼓動が早まるのを感じた。

        *

 ガブリエル・バルベルはジェルメーヌとステファーヌの母だ。
 トロッケン男爵はドイツ語名でガブリエーレ・バッベルと呼んだが、リュネヴィル城館で公妃の侍女を務めていた時代はガブリエル・バルベルと名乗っていた。フランス語とドイツ語の両方を話すことができ、ロレーヌ公夫妻に大層気に入られていた。
 ジェルメーヌとステファーヌを産んだ後は侍女を辞めて城下にある実家へ帰ったが、ふたりは乳母からことあるごとに「あなたがたのお母様はとても美しく、賢い方ですよ」と話してくれた。
 母をしのぶ物はふたりの手元には一切残されておらず、乳母が語る姿だけがすべてだった。その乳母も城から去ると、ふたりは母とは永久に別離したものだと考えるようになった。リュネヴィル城館で暮らす限り、公妃を『マダム』と呼び敬うのが賢明な選択だったからだ。
 この16年間、手紙のひとつもくれなかった母が、いまになってふたりに会いたいと言ってトロッケン男爵に手引きを頼んだというのは、多少疑問を感じないでもなかった。
 これまでもトロッケン男爵とは幾度か顔を合わせたことはあったものの話をしたことはなく、また、ふたりの母と親しい間柄だという話はまったく聞いたことがない。
 それでもジェルメーヌとステファーヌは、男爵が用意した質素な馬車に乗り込んだ。
 ミネットには反対されたが、ステファーヌが母に会うことを強く希望したため、ジェルメーヌも従ったのだ。
 空には白く薄い雲が流れており、午後の青い空は眩しい陽射しで澄み渡っている。
 白い月は西の空に傾き始めている。
 石畳の上を車輪の音を響かせながら走る馬車は、左右に大きく揺れてばかりいた。
 質素な外出着に着替え、念のためミネットには口止めをしてから、ふたりはリュネヴィル城館を出てきた。トロッケン男爵の口車に乗せられて城を出たことが父にばれれば、叱られることは間違いない。
「この馬車はどこへ向かっているのですか」
 窓の外に広がる景色を眺めながら、ジェルメーヌは男爵に尋ねた。
 唇を噛み締めながら姿勢を正して座席に腰を下ろしているステファーヌは、緊張しているのか、表情が強張っている。こういうときのステファーヌは、いくらジェルメーヌが話し掛けても反応がないことはわかりきっていた。
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