いまは亡き公国の謳

紫藤市

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第一章 公子の死

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「城下の端にある古い教会です。それほど遠くはありませんよ」
 男爵の言葉通り、大通りを抜けて古びた住宅が建ち並ぶ小径を走った馬車は、やがて小さな木造の教会前で止まった。
 黒ずんだ木の教会は古びており、朽ち果てているように見える。せんとうの上の十字架は、いまにも屋根から落ちそうなくらい不安定に傾いている。
 御者が馬車の扉を開けると、まず男爵が先に下りた。続いてジェルメーヌが男爵の手を借りながら下り、ステファーヌは最後に下りてきた。男爵はステファーヌにも手を貸そうとしたが、ステファーヌはそれを無視した。
 男爵が教会の正面の扉を押すと、鈍いきしむ音を響かせながら樫の木の扉は開いた。
 中は薄暗く、埃っぽかった。
 中央しんろうの両側には椅子が並べられているが、どれも古く、座れば壊れてしまうのではないかと思うほどの代物だ。
 祭壇は小さく、三つ叉の燭台が両側に並べられているが、どちらもしんちゅうせいのようだ。細長いろうそくに火が灯され、ほのぐらく周囲を照らしている。
 祭壇の後ろの明かり取りの窓から差し込むわずかな陽光は、埃をきらきらと輝かせていた。
「ガブリエーレ殿」
 祭壇の手前の椅子に腰を掛けていた婦人に、男爵は静かに声を掛けた。
「お連れしましたよ」
 その声に弾かれるように、婦人が椅子から立ち上がる。
 ジェルメーヌとステファーヌが視線を向けると、30代後半とおぼしき婦人が深々と頭を下げた。
「初めてお目に掛かります。ガブリエル・バルベルと申します」
 鼠色の服に身を包んだ婦人は、周囲が薄暗いせいか、まるで影のように見えた。
「おふたりにおかれましてはご息災のご様子、安堵いたしました」
「そんな他人行儀な挨拶はやめてください、お母様」
 悲鳴に似た声を上げてジェルメールが駆け寄ると、ガブリエルは頭を上げた。
 幾分痩せてはいるが、かつてロレーヌ公を魅了した美しさは失ってはいなかった。
「あなたは……ジェルメーヌ様?」
 ジェルメーヌの手を取ると、しばらく考えるように娘の顔を見つめた後、ガブリエルは尋ねた。
「はい、そうです」
「では、そちらにいらっしゃるのがステファーヌ様ですね」
「……はい」
 ジェルメールの背後に立ったステファーヌが、顔を強張らせたまま頷く。
「お母様、こうしてお目にかかることができて、わたしもステファーヌもとても嬉しいですわ」
 生き別れた母との再会に興奮するあまり、ジェルメーヌは勢いよく言い募った。
「わたくしも、とても嬉しいですわ」
 優しく微笑んだガブリエルは、ゆっくりとジェルメーヌの手を撫でた。
「――よく、わかりましたね。その子がジェルメーヌだと」
 感激のあまり涙ぐんでいるジェルメーヌとは対照的に、ステファーヌは冷ややかな口調で指摘した。
 ジェルメーヌが振り返ると、ステファーヌは険しい表情を浮かべ、ガブリエルを凝視している。
「わたくしは母親ですもの。16年ぶりでも、すぐにわかりますわ」
 目を細めてガブリエルは答えたが、ステファーヌは疑わしげな視線を向けるだけだ。
「手に触れて、その子が女だと判断したからこそ、ジェルメーヌと呼んだのでしょう」
「……ステファーヌ? どうしたの?」
 ステファーヌが母親との再会を喜んでいないことに、ジェルメーヌは戸惑った。
 むしろ、母が現れたことに憤りを感じているように見える。
「えぇ。娘にジェルメーヌ、息子にステファーヌと名付けたのはわたくしですもの。間違うはずがありませんわ」
 ステファーヌの刺のある口調にひるむ様子も見せず、ガブリエルは答えた。
「お母様!?」
 息を飲んだジェルメーヌは、慌てて男爵に目を遣った。
 ステファーヌが実は男であることは、ごくわずかな人しか知らない。ジェルメーヌとステファーヌを取り上げた産婆、乳母、かつての侍女、それに現在の侍女であるミネットだ。
 ふたりが生まれた当時、ロレーヌ公爵には二人の息子がいた。
 しかし、公妃が息子を産む前にガブリエルは一度男児を産んでおり、その赤子は生後3日で死亡したことから、公妃の周囲の者が自分の子供を殺したに違いないと彼女は疑いを抱いていた。そのため、生まれた双子はどちらも女児であるとロレーヌ公には報告させ、ガブリエルは乳母に、ステファーヌも女として育てて欲しいと頼んでいたのだ。
 16年間この秘密は堅く守られ、ステファーヌの裸を見たことがあるジェルメーヌでさえ、ステファーヌが男であるという事実は半分冗談のように考えていた。もっともジェルメーヌの場合、男女の身体に違いがあるという知識が根本的に抜けていたせいもある。
 一方のステファーヌは、男であることが知られれば公妃によって殺されてしまうかもしれない、と乳母から繰り返し教え込まれてきたこともあり、女らしく振る舞うことを強く意識し、『庶子であることが悔やまれるほどに美しい公女』と家臣たちがこぼすほどに成長していた。
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