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秋の魔物【新塩】
●
張り詰めていた夏の気配が緩んできた。日が落ちるのも早い。新川修治は帰り道を歩きながら溜息を吐いていた。
(夏の疲れが出たかなぁ)
熱中症に怯える反面、冷房が作る人工的な冷たい空気で体調不良になることを危惧する。身体の疲れもそうだが、心の方にもやっと気の緩みを許せる余裕が出てきた。温度管理というタスクから、そろそろ解放されそうな雰囲気である。外回りが多い社員などは大変そうであった。新川はデスクワークが多いのでそうでもないが、それでも行き帰りの暑さには辟易している。
何より、看護師をしている年下の恋人から熱中症に注意するようにと、耳にたこができるほど言われている。数日前、足が攣った際には、ものすごい顔をしてスポーツドリンクを放り投げられた。今すぐ飲めと。熱中症の可能性があるらしい。大袈裟だなぁと思いつつも、口を付けた途端、ぐびぐびと飲めてしまったので、やはり脱水気味だったのだろうか。それ以来、水分摂取には気を付けているし、部下にも励行している。
そんな、慣れない注意も含めた今年の夏は、新川に例年よりも多くの負担を掛けていた。だから、なのだろうか。なんとなく疲労感があるのは。
(今日は帰ったらご飯少しにして……)
すぐに寝よう。季節の変わり目は風邪を引きやすい。看護師をしている恋人にうつす訳にもいかない。そんな恋人は今日遅番であるから、帰りは遅いだろう。
休みの日に作って冷凍庫に小分けしてあった食事を解凍する。やはりあまり食欲はなく、少なめに盛って正解であった。食事を終えると、短い入浴を済ませてベッドに入った。
(何だろう……)
広いダブルベッドに一人で入っていると、どことなく寂寥感が忍び寄ってくる。涙がにじんだ。
(寂しいな……)
●
看護師の塩原渚が、先に寝ているであろう恋人を起こさない様に帰宅すると、いつものことではあるが部屋の中は真っ暗だった。空腹感はあるが、疲れちゃったから寝よう、と思って入浴する。烏の行水的に済ませて風呂場から出ると、トイレから疲れた顔の恋人が出てきて驚いた。
「あ、お帰り……」
「ただいま。起こしちゃった?」
「ううん。ちょっとトイレに起きただけさ。お仕事お疲れ様」
新川は手を洗うと、改めて風呂上がりで湿った塩原の頬に触れてから、キスした。その触れ方も何だか弱々しい。
「大丈夫?」
「うん、大丈夫だよ。ごめん、先に寝るね」
「うん。おやすみなさい」
「おやすみ」
なんとなく釈然としない気持ちで、丸くなった寝間着の背中を見送る。何かあったのだろうか。夏の疲れ?
(それだけなら良いんだけど)
水分補給を済ませると、髪の毛を乾かして自分もベッドに潜り込む。新川は深い寝息を立てて寝入っていた。その顔にはやはり隠しきれない疲れの色が見て取れる。心配のあまりそう見えるだけだろうか?
(今年も暑かったからなぁ)
その頬に触れようとして、やめた。起こしてしまうかもしれない。
(次の休み、何かしてあげよ)
何が良いかな。そんなことを考えている間に、塩原も眠りに落ちた。
翌朝、新川の目覚ましがいつまでも鳴っている事に気が付いて、塩原の目も覚めた。時計を見ると、新川が起きるはずの時間から十分程度経っている。これは不味いと気付いて、塩原は隣で眠る恋人を大慌てで揺さぶった。
「修治さん、遅刻、遅刻するよ」
遅刻。その言葉にハッと新川の目が見開かれた。時計を見るや、ベッドから飛び出す。
「ごめん、起こしたね」
塩原に詫びてそそくさと準備を始めた。こんなに彼が狼狽しているのは珍しい。そもそも、狼狽するようなことを起こさない人だ。やはり、調子が悪いのだろうか。
「大丈夫? 具合悪い?」
心配になって尋ねる。新川は自分の状態を見誤って無茶をすることはない。だから、どこか具合が悪いのであれば、何らかの手を打っていると塩原は信じている。新川は溜息を吐いた。
「どうやら夏の疲れが出たようで……」
しょんぼりとした様子でそんなことを溢した。
「……うん」
他にどうも説明しようがなかったのか、言葉を濁すように話を終える。
「あんまり無理しないでね?」
「うん。もちろん。今日も早く寝るよ……待っててあげられないけど」
「そんなこと良いから、ちゃんと寝て。健康でいてくれる方が嬉しい」
塩原は恋人と看護師、二つの立場からの一致した意見を述べる。新川は微笑むと、支度を済ませて出て行った。
「……大丈夫かなぁ」
不安に思いながらも、寝直そうと再び横になった。
●
それからも、どことなく新川の疲れた調子は続いた。本人も「夏の疲れ」と言って早く寝るようにはしているようだ。普段なら彼が起きている時間に帰宅したところ、既にベッドに入って深い寝息を立てていた日があったのである。
「明日休みだよ。お疲れ様」
二人の休みが重なる前日、定時上がりで帰って来られた塩原が、残業して帰ってきた新川の食事を準備しながら声を掛ける。恋人はこっくりと肯いた。
「やっと休みだ……いや、やっていることはさほど変わらないんだけどね……何か疲れたなあ」
「明日はゆっくりして」
「ありがとう。渚くんも疲れてない?」
「僕が疲れた時はよろしく」
しれっと返しながら、塩原は新川が食事を終えるまで傍にいて、皿が空になるや、相手を風呂に追いやった。後片付けを済ませ、戸締まりと火元を確認してからベッドで待つ。
「お待たせ……さて、寝るかい」
「うん。寝よ」
寝間着姿の新川が横になると、塩原は灯りを消した。手を伸ばして恋人に抱き付こうとすると、こちらを抱きしめようとする相手の手と行き会った。引き寄せ合って、腕に納まる。新川の胸は温かい。風呂上がりの人からする石鹸の香りが鼻を掠めた。愛おしむと言うよりも、縋るような腕。
「修治さん? 大丈夫?」
「うううん……ちょっと、人恋しくてね」
自分を抱き込む腕はどこか弱々しい。塩原はその顔を見る。目が潤んでいた。その瞼に、伸び上がって口付け。腕に背を回す。
「四十も過ぎて情けないが……」
「そんなこと言ったら僕がいらなくなっちゃうでしょ」
「それもそうか。すまない」
間髪入れずに苦言を呈すと、苦笑交じりの反省が。
「渚くんとこうしてると、やっぱり疲れて寂しかったんだなって」
欠落した穴を埋めるようなものなのだろうか、塩原に触れるのは。彼は指を絡めて、自分より大きな手を握った。新川は握り返すと、犬が大好きな飼い主にそうするように、頭をすり寄せた。
張り詰めていた夏の気配が緩んできた。日が落ちるのも早い。新川修治は帰り道を歩きながら溜息を吐いていた。
(夏の疲れが出たかなぁ)
熱中症に怯える反面、冷房が作る人工的な冷たい空気で体調不良になることを危惧する。身体の疲れもそうだが、心の方にもやっと気の緩みを許せる余裕が出てきた。温度管理というタスクから、そろそろ解放されそうな雰囲気である。外回りが多い社員などは大変そうであった。新川はデスクワークが多いのでそうでもないが、それでも行き帰りの暑さには辟易している。
何より、看護師をしている年下の恋人から熱中症に注意するようにと、耳にたこができるほど言われている。数日前、足が攣った際には、ものすごい顔をしてスポーツドリンクを放り投げられた。今すぐ飲めと。熱中症の可能性があるらしい。大袈裟だなぁと思いつつも、口を付けた途端、ぐびぐびと飲めてしまったので、やはり脱水気味だったのだろうか。それ以来、水分摂取には気を付けているし、部下にも励行している。
そんな、慣れない注意も含めた今年の夏は、新川に例年よりも多くの負担を掛けていた。だから、なのだろうか。なんとなく疲労感があるのは。
(今日は帰ったらご飯少しにして……)
すぐに寝よう。季節の変わり目は風邪を引きやすい。看護師をしている恋人にうつす訳にもいかない。そんな恋人は今日遅番であるから、帰りは遅いだろう。
休みの日に作って冷凍庫に小分けしてあった食事を解凍する。やはりあまり食欲はなく、少なめに盛って正解であった。食事を終えると、短い入浴を済ませてベッドに入った。
(何だろう……)
広いダブルベッドに一人で入っていると、どことなく寂寥感が忍び寄ってくる。涙がにじんだ。
(寂しいな……)
●
看護師の塩原渚が、先に寝ているであろう恋人を起こさない様に帰宅すると、いつものことではあるが部屋の中は真っ暗だった。空腹感はあるが、疲れちゃったから寝よう、と思って入浴する。烏の行水的に済ませて風呂場から出ると、トイレから疲れた顔の恋人が出てきて驚いた。
「あ、お帰り……」
「ただいま。起こしちゃった?」
「ううん。ちょっとトイレに起きただけさ。お仕事お疲れ様」
新川は手を洗うと、改めて風呂上がりで湿った塩原の頬に触れてから、キスした。その触れ方も何だか弱々しい。
「大丈夫?」
「うん、大丈夫だよ。ごめん、先に寝るね」
「うん。おやすみなさい」
「おやすみ」
なんとなく釈然としない気持ちで、丸くなった寝間着の背中を見送る。何かあったのだろうか。夏の疲れ?
(それだけなら良いんだけど)
水分補給を済ませると、髪の毛を乾かして自分もベッドに潜り込む。新川は深い寝息を立てて寝入っていた。その顔にはやはり隠しきれない疲れの色が見て取れる。心配のあまりそう見えるだけだろうか?
(今年も暑かったからなぁ)
その頬に触れようとして、やめた。起こしてしまうかもしれない。
(次の休み、何かしてあげよ)
何が良いかな。そんなことを考えている間に、塩原も眠りに落ちた。
翌朝、新川の目覚ましがいつまでも鳴っている事に気が付いて、塩原の目も覚めた。時計を見ると、新川が起きるはずの時間から十分程度経っている。これは不味いと気付いて、塩原は隣で眠る恋人を大慌てで揺さぶった。
「修治さん、遅刻、遅刻するよ」
遅刻。その言葉にハッと新川の目が見開かれた。時計を見るや、ベッドから飛び出す。
「ごめん、起こしたね」
塩原に詫びてそそくさと準備を始めた。こんなに彼が狼狽しているのは珍しい。そもそも、狼狽するようなことを起こさない人だ。やはり、調子が悪いのだろうか。
「大丈夫? 具合悪い?」
心配になって尋ねる。新川は自分の状態を見誤って無茶をすることはない。だから、どこか具合が悪いのであれば、何らかの手を打っていると塩原は信じている。新川は溜息を吐いた。
「どうやら夏の疲れが出たようで……」
しょんぼりとした様子でそんなことを溢した。
「……うん」
他にどうも説明しようがなかったのか、言葉を濁すように話を終える。
「あんまり無理しないでね?」
「うん。もちろん。今日も早く寝るよ……待っててあげられないけど」
「そんなこと良いから、ちゃんと寝て。健康でいてくれる方が嬉しい」
塩原は恋人と看護師、二つの立場からの一致した意見を述べる。新川は微笑むと、支度を済ませて出て行った。
「……大丈夫かなぁ」
不安に思いながらも、寝直そうと再び横になった。
●
それからも、どことなく新川の疲れた調子は続いた。本人も「夏の疲れ」と言って早く寝るようにはしているようだ。普段なら彼が起きている時間に帰宅したところ、既にベッドに入って深い寝息を立てていた日があったのである。
「明日休みだよ。お疲れ様」
二人の休みが重なる前日、定時上がりで帰って来られた塩原が、残業して帰ってきた新川の食事を準備しながら声を掛ける。恋人はこっくりと肯いた。
「やっと休みだ……いや、やっていることはさほど変わらないんだけどね……何か疲れたなあ」
「明日はゆっくりして」
「ありがとう。渚くんも疲れてない?」
「僕が疲れた時はよろしく」
しれっと返しながら、塩原は新川が食事を終えるまで傍にいて、皿が空になるや、相手を風呂に追いやった。後片付けを済ませ、戸締まりと火元を確認してからベッドで待つ。
「お待たせ……さて、寝るかい」
「うん。寝よ」
寝間着姿の新川が横になると、塩原は灯りを消した。手を伸ばして恋人に抱き付こうとすると、こちらを抱きしめようとする相手の手と行き会った。引き寄せ合って、腕に納まる。新川の胸は温かい。風呂上がりの人からする石鹸の香りが鼻を掠めた。愛おしむと言うよりも、縋るような腕。
「修治さん? 大丈夫?」
「うううん……ちょっと、人恋しくてね」
自分を抱き込む腕はどこか弱々しい。塩原はその顔を見る。目が潤んでいた。その瞼に、伸び上がって口付け。腕に背を回す。
「四十も過ぎて情けないが……」
「そんなこと言ったら僕がいらなくなっちゃうでしょ」
「それもそうか。すまない」
間髪入れずに苦言を呈すと、苦笑交じりの反省が。
「渚くんとこうしてると、やっぱり疲れて寂しかったんだなって」
欠落した穴を埋めるようなものなのだろうか、塩原に触れるのは。彼は指を絡めて、自分より大きな手を握った。新川は握り返すと、犬が大好きな飼い主にそうするように、頭をすり寄せた。
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