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2 出会い

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 桜吹雪の中、風になびく美しい黒髪、通った鼻筋と長いまつげが印象的な横顔。その横顔がふいにこちらに向いて、圧倒的な美の光を放ちつつ、無邪気な微笑みを浮かべた小さな顔を見せる。
 ただ、それは自分にだけ向けられたものではなく、時には友人に、時には花や小さな生き物たちに、そして、多くの場合、良からぬ下心を持って近づく男たちにも、皆等しく向けられた。
 形容するなら(陳腐そのものだが)〝清らかな天使〟だ。彼、鹿島優士郎が二十七年間生きてきた中で、未だに脳裏に浮かんでくる初恋の女の子だった。


〝おい、鹿島┅┅おいっ、なにぼけっとしてる〟
 鹿島優士郎は、はっと我に返ってツールバングルに目を向けた。
「これは隊長┅┅いや、その、ランチの後の優雅なお茶を楽しんでいたところです。何か、ありましたか?」
〝用が無いなら、お前なんぞに連絡するか、ばか者っ〟
「ひゃあ、そいつはどうもです┅┅で、何事ですか?」
〝紫龍だ〟

 その名を聞いて、優士郎の表情は一変した。
「どこです?」
〝横浜、ハーバーホテルだ〟
 聞くが早いか、優士郎は喫茶店を出て車に飛び乗っていた。

〝おい、あせって、台無しにするなよ〟
「わかってますよ。今日こそ逃がさない、あのクソ野郎┅┅」
〝飯田と酒井が見張っている〟
「了解、一旦切ります」
 どんなに特殊な電波を使っても、傍聴されると考えてよい。面倒さえいとわなければ、全ての使用可能電波帯をレーダーとパソコンを使って拾い上げていけば、必ず見つかるのだ。

 鹿島優士郎は、警視庁組織犯罪対策課特別捜査隊、いわゆる特捜隊に所属する警察官だ。特捜隊もいろいろな班に分かれているが、彼は特殊捜査班で特殊処理係という仕事に就いていた。これは八年前、外事第二課からの要請を受けて臨時に設置された係で、正式には庶務の補佐係として届けられている。優士郎で二代目だった。

 どんな係か、簡単に言うと、普通に解決するのが難しい犯罪、例えば人質を取って立てこもるとか、外国籍で治外法権地に逃げ込む可能性がある犯人とかを処理するというものだ。もっと簡単に言うと、普通のやり方では処罰できない犯罪者を内密に始末する殺し屋、スナイパーである。
 
 SWATのようなスナイパー集団はもちろん他の部署にもいる。しかし、彼らはあくまで犯人を逮捕・捕縛するというのが目的で、殺すのはやむを得ない最終手段だ。しかし、鹿島の場合は、最初から殺すことが目的だった。だから、彼が現場へ出て行くのは、どうにもならない時だけだ。もちろん、どの部署も自分たちの仕事は自分たちの手で何とか解決したいと必死に頑張っている。だから、鹿島に仕事を依頼するということは耐えがたいほどの恥を忍んだ結果なのだ。それゆえ、依頼の対象がこの世から消えるまでの経緯は表には出ない。適当に創作されたシナリオと結果だけが公表される。だから、鹿島の存在は世の中には全く知らされていない。

 鹿島優士郎は、警視庁の奧の深い闇の中にいる。だが、普段の彼は、勤務時間中もほとんど外を歩き回り、署内の女の子たちからはしょっちゅう絡まれて逃げ回っている。彼の正体を知る者は、ごく一部の者たちだけだ。彼らは、鹿島のことを密かに鬼鹿島(オニカシマ)と呼んで恐れ、尊敬していた。それがいつしか裏社会の連中に伝わって、オニガシマに変わったのだろう。鬼ヶ島の鬼は、まだ二十七になったばかりの若者だった。
 
 黒の特注ハイラックスエースが、夕暮れの道を走ってゆく。暗く重い冬の空が行く手に垂れ込めている。やがて、雨に混じって湿った雪がフロントガラスに落ち始めた。
 海岸通りに入ったところで、渋滞に捕まった。焦っても仕方がないと分かってはいるが、思わずハンドルを何度も叩いてしまう。三年前のあの時と同じだ。あの時も雪が時折舞い落ちる寒い夜だった┅┅。
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