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幕間二
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「車の免許を取りなさい。申し込みはもうしてあるわ」
十八歳の誕生日、突然母が車の免許を取るようにと言ってきた。満足に服すら買ってもらえず、ましてや誕生日を祝われたことがない。アルバイトをして稼いだお金を全額家に入れており、大金がかかる免許の取得など、考えたこともなかった。どんな心境の変化があったと言うのか。
「お兄ちゃんがねぇ、車を買ってあげたんだけど事故をしちゃって。廃車の買取に出してもいいんだけど、修理すれば使えるのにもったいないじゃない? だからあなたが車運転できるようになればいいわ、と思って。就職するにも免許があるに越したことはないしね? ちょうどいいと思って」
……兄に車を買っていたと言うのも初耳だったが。兄は大学を卒業し、既に名の通った大企業に就職したはずなのだが。就職を機に実家を出て一人暮らしを始めていた。実家に帰ってくることもほとんどないことを、母はいつも嘆いている。
あの日以来、母ははばからず暴言を吐くようになり、時には暴力を振るうようになった。その様子を見た兄はサンドバッグにしても良い存在だと認識し始めたようで、その後家を出るまでの数年、暴力を振るい続けた。暴力を助長させるものは何か? 反応である、と当時の私は考えた。体格差がある以上、やり返すのは得策ではない。余計に痛めつけられるだけだ。痛覚がないかのように、息を潜めて嵐が過ぎ去るのを待つ。それがつまらなかったのか、兄は覚えたての煙草を押し付けた。思わず悲鳴を上げると、母はそれをうるさい、と一蹴しただけで、特に兄に何かを言うことはなかった。兄はそれに味をしめ、より一層暴力に励んだ。私はそれまで以上に声を圧し殺すようになった。
「明日から教習所に通うのよ。免許を取るためのお金と修理費用は後で払ってね。修理して保管するのにもお金がかかるの。最短でとってね。入試と被るけど、あなたなら大丈夫よね?」
大学は母が指定した国公立大学。浪人だけはしてくれるなと、滑り止めにそれなりに名の通った私立大学を受験することが許された。ただし国公立大学の場合は学費を負担するが、私立になった場合は学費を自分で稼ぐことが条件だった。予備校へ行かせてもらえない分、兄のお下がりのほぼ新品のような参考書をボロボロになるまで使っていた。
その頃、アルバイトも継続してお金を入れるようになっていた。受験勉強を理由にアルバイトを辞めることは許されなかった。必然的に睡眠時間を削ることになる。免許を取る時間をどこから捻出すれば良いのだろうか。
「いい? 良い大学に入って、良い企業に就職して、早くお母さんを楽にしてちょうだい。そうでなければ意味がないんだから。あなたのせいで苦しい生活を送っているんだから、一生かけて償ってくれなきゃ、ね?」
……両親の離婚の原因が自分だと知ったのは、兄が家を出てからだった。兄が実家に帰らないことを嘆いた母が酒に溺れて漏らした。
母はかつて良家のお嬢様、と言っても過言ではない大きな屋敷に住んでいたらしい。すでに見目麗しく、家柄も申し分ない許嫁もいる身ではあったが、母は短大で父と出会い、恋に落ちた。許嫁がいることは周知の事実であり、当然父も知ってはいたが、母の一途さに心打たれ、お互いに恋に落ちたという。結果、兄を身篭り、母は勘当された。二人は駆け落ちし、実家から遠く離れたこの地に引っ越してきた。小さいアパートに三人暮らすことになったが、愛する人と愛する子供と暮らせて幸せだったのだと言う。
幸せに暮らしていたある日、かつての許婚が現れた。許婚はプライドが高く、自身の所有物を他人に盗られたことを許さず、母を連れ去り辱めた。その時にできた子供が自分であった。
母はその事実をひた隠しにした。ようやく自分の意思で手に入れた幸せな家庭を壊したくなかった。体調が悪いのも、そのトラウマによるものだと思っていた。妊娠していると気付いた頃には、もう既に堕胎することができない週数を経過していた。
その時になって初めて、母は父にその事実を伝えた。父はそれすらも受け入れようとした、らしい。しかし産まれてきた赤子の顔が自身にも妻にも似ておらず、育つにつれて憎い男の顔の面影に似てくることに耐えかね、家に寄り付かなくなった。私が物心つく前に、両親の正式な離婚が決まった。愛する人に苦しみを抱き続けてほしくなかったから、愛していたけれど離婚したのだと、母は啜り泣いた。
翌朝、母は青ざめた顔で私を見た。自分が何を言ってしまったのか、朧げながら記憶に残っていたのだろう。当の私がケロっとしているように見えたのが腹立たしかったのか、それ以来、私の前では出自を隠さなくなり、その分恨み言が増えた。
……これまでの仕打ちには全て理由があった。母が自分を毛嫌いし見て見ぬ振りをするのも、自分の出自の歪みを知っているから。それを知って幾分楽になった。理由を知らずにいたぶられることに比べれば、これまでの仕打ちの全てにも耐えられる気がした。これから起こること全ても、全て自分が産まれてきたせい。
もっとも兄は母に乗っかっているだけで、出自を知らない。母は兄に事実を知らせることを拒んだ。思い出したくもないから、存在すらなかったことにしたがった。兄が私に暴力を振るうのは、単に人間性の問題だとわかって少しほっとした。兄が知っていれば、確実に学校でも言いふらされ、その行為を正当化されていただろうから。
女の子が産まれたら付けたかった名前。せめて女の子でありますように、そう願って付けられた名前。そうではなかったが故に、一度も呼ばれることのなかった名前。
産まれる前から掛けられていた呪いは、どうやって解けばいい?
十八歳の誕生日、突然母が車の免許を取るようにと言ってきた。満足に服すら買ってもらえず、ましてや誕生日を祝われたことがない。アルバイトをして稼いだお金を全額家に入れており、大金がかかる免許の取得など、考えたこともなかった。どんな心境の変化があったと言うのか。
「お兄ちゃんがねぇ、車を買ってあげたんだけど事故をしちゃって。廃車の買取に出してもいいんだけど、修理すれば使えるのにもったいないじゃない? だからあなたが車運転できるようになればいいわ、と思って。就職するにも免許があるに越したことはないしね? ちょうどいいと思って」
……兄に車を買っていたと言うのも初耳だったが。兄は大学を卒業し、既に名の通った大企業に就職したはずなのだが。就職を機に実家を出て一人暮らしを始めていた。実家に帰ってくることもほとんどないことを、母はいつも嘆いている。
あの日以来、母ははばからず暴言を吐くようになり、時には暴力を振るうようになった。その様子を見た兄はサンドバッグにしても良い存在だと認識し始めたようで、その後家を出るまでの数年、暴力を振るい続けた。暴力を助長させるものは何か? 反応である、と当時の私は考えた。体格差がある以上、やり返すのは得策ではない。余計に痛めつけられるだけだ。痛覚がないかのように、息を潜めて嵐が過ぎ去るのを待つ。それがつまらなかったのか、兄は覚えたての煙草を押し付けた。思わず悲鳴を上げると、母はそれをうるさい、と一蹴しただけで、特に兄に何かを言うことはなかった。兄はそれに味をしめ、より一層暴力に励んだ。私はそれまで以上に声を圧し殺すようになった。
「明日から教習所に通うのよ。免許を取るためのお金と修理費用は後で払ってね。修理して保管するのにもお金がかかるの。最短でとってね。入試と被るけど、あなたなら大丈夫よね?」
大学は母が指定した国公立大学。浪人だけはしてくれるなと、滑り止めにそれなりに名の通った私立大学を受験することが許された。ただし国公立大学の場合は学費を負担するが、私立になった場合は学費を自分で稼ぐことが条件だった。予備校へ行かせてもらえない分、兄のお下がりのほぼ新品のような参考書をボロボロになるまで使っていた。
その頃、アルバイトも継続してお金を入れるようになっていた。受験勉強を理由にアルバイトを辞めることは許されなかった。必然的に睡眠時間を削ることになる。免許を取る時間をどこから捻出すれば良いのだろうか。
「いい? 良い大学に入って、良い企業に就職して、早くお母さんを楽にしてちょうだい。そうでなければ意味がないんだから。あなたのせいで苦しい生活を送っているんだから、一生かけて償ってくれなきゃ、ね?」
……両親の離婚の原因が自分だと知ったのは、兄が家を出てからだった。兄が実家に帰らないことを嘆いた母が酒に溺れて漏らした。
母はかつて良家のお嬢様、と言っても過言ではない大きな屋敷に住んでいたらしい。すでに見目麗しく、家柄も申し分ない許嫁もいる身ではあったが、母は短大で父と出会い、恋に落ちた。許嫁がいることは周知の事実であり、当然父も知ってはいたが、母の一途さに心打たれ、お互いに恋に落ちたという。結果、兄を身篭り、母は勘当された。二人は駆け落ちし、実家から遠く離れたこの地に引っ越してきた。小さいアパートに三人暮らすことになったが、愛する人と愛する子供と暮らせて幸せだったのだと言う。
幸せに暮らしていたある日、かつての許婚が現れた。許婚はプライドが高く、自身の所有物を他人に盗られたことを許さず、母を連れ去り辱めた。その時にできた子供が自分であった。
母はその事実をひた隠しにした。ようやく自分の意思で手に入れた幸せな家庭を壊したくなかった。体調が悪いのも、そのトラウマによるものだと思っていた。妊娠していると気付いた頃には、もう既に堕胎することができない週数を経過していた。
その時になって初めて、母は父にその事実を伝えた。父はそれすらも受け入れようとした、らしい。しかし産まれてきた赤子の顔が自身にも妻にも似ておらず、育つにつれて憎い男の顔の面影に似てくることに耐えかね、家に寄り付かなくなった。私が物心つく前に、両親の正式な離婚が決まった。愛する人に苦しみを抱き続けてほしくなかったから、愛していたけれど離婚したのだと、母は啜り泣いた。
翌朝、母は青ざめた顔で私を見た。自分が何を言ってしまったのか、朧げながら記憶に残っていたのだろう。当の私がケロっとしているように見えたのが腹立たしかったのか、それ以来、私の前では出自を隠さなくなり、その分恨み言が増えた。
……これまでの仕打ちには全て理由があった。母が自分を毛嫌いし見て見ぬ振りをするのも、自分の出自の歪みを知っているから。それを知って幾分楽になった。理由を知らずにいたぶられることに比べれば、これまでの仕打ちの全てにも耐えられる気がした。これから起こること全ても、全て自分が産まれてきたせい。
もっとも兄は母に乗っかっているだけで、出自を知らない。母は兄に事実を知らせることを拒んだ。思い出したくもないから、存在すらなかったことにしたがった。兄が私に暴力を振るうのは、単に人間性の問題だとわかって少しほっとした。兄が知っていれば、確実に学校でも言いふらされ、その行為を正当化されていただろうから。
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