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幕間三
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大学受験と免許の取得を同時並行で行なっていた私は体調を崩し、国公立大学の試験を受けることができなかった。結果、学費を自分で全額負担することを条件に、私立大学に通うことになった。そこに免許取得のための費用、車の修理費用、維持費用、さらに母に無理やり契約させられたスマートフォンの契約料がのしかかる。免許を取ることはできたが、節約のために毎日一時間の道のりを徒歩で通い続けた。
私立大学の学費は国公立大学と比較すると二倍近くかかる。学費を節約するためには奨学金を得ることが必須だった。母子家庭であること、経済状況から貸与型の奨学金の対象となった。給付型の奨学金を得るために学業に励んだ。これまでの義務的な学習とは違い、学問を修めることは楽しくもあった。家と大学が遠いこともあり、大学図書館に籠もってレポートを書く日々は充実していた。教授は「本さえ読んでいれば、講義なんて受けなくても十分大学生らしい」と言う変わった人間ばかりで、その分小山内の分厚いレポートは好評だった。人間性ではなく成果物で評価される日々は、小山内にとって充足感をもたらした。
平穏な日々が打ち崩されたのは、大学に入って初めての夏休みが訪れる頃だった。兄が仕事を辞めて実家に戻ってきたのだ。仕事で上手くいかないことがあり孤立し、暴力を振るい解雇になったらしい。母は兄が帰ってきたことに歓喜し、お兄ちゃんにはもっといい仕事があるわよ、と励まし続けたが、兄は引きこもりと化した。今まで頑張りすぎたのよ、少しくらい休むのもいいかもね、と母は兄を甘やかした。
兄が家に引きこもるようになると、ますます金がかかるようになった。前年に母が兄に新しく買った車のローンと維持費が家計にのしかかった。兄はそのプライドゆえに、頑なに憧れの外車を売ることを拒んだ。大学生になり時給が上がり、母のパートでの収入を上回るようになっていた。母も金を入れるならと、深夜まで家に戻らないことを黙認した。お陰で兄から暴力を受ける機会も減った。アルバイトをしている間は、何も考えずに済んだ。家のことも、学業のことも、これからのことも、全て。
*
魚住と出会ったのは、二回生の教養科目の講義だった。
取れるだけ講義を取らなければ学費が勿体ない。毎学期上限まで講義を取った。上限にプラスして取れる、教職、司書、学芸員資格取得に必要な講義も受講した。単位数だけなら卒業に必要な分は二年で取り終える目算だった。しかし卒業には教養科目と呼ばれる科目を受講する必要がある。
教養科目は苦手だった。場合によっては受講者が千人を越える大教室。教授の目が行き渡らず、何のために大学に来ているのかも理解できないような、動物園じみた空間。もっとも小山内も講義自体を睡眠時間としか見做していないため、教授からすればどっちもどっちなのだろうが。
小山内は早々に教室に入り、睡眠の体勢に入った。日付が変わる頃に帰宅して、一時間かけて徒歩で通学する。肉体には疲労が蓄積していた。うつらうつらとしていると、唐突な呼び声に、身体が反応した。
「めぐみ」
小山内の本名は小山内愛と言う。
……もっとも、その名前は一度も呼ばれたことはないのだが。これまでにも名前が同じ人間は何人も出会ってきたが、呼び声に反応してしまうことはなかった。
改めて呼ばれた人物がどんな人間なのか、観察する。常に周りに人を侍らせた、目立つ女。それが魚住の第一印象だった。彼女の周りには常に人が絶えなかった。見ていると、羽振りの良さをあてにしている媚びた人間が多いようだった。
聞きたくなくても声が大きいと聞こえてしまうもので、魚住が中高一貫の女子校からの内部進学であること、親が資産家であることを知った。またサバサバしていると勘違いした、暴言じみた発言も耳に入った。
母に似た箱入りの傲慢な女。思い上がりも甚だしく、他者を人とも思っていないような女。全てが自分の思い通りになると信じて疑わない女。そんな環境が用意された、恵まれた女。恵まれていることにすら、自覚を抱いていない女。
次第に、魚住という女に怒りを覚え始める。小山内は自身の内に怒りと言う感情が残っていることに戸惑いを覚えた。家で母に逆らえないのは、愛して欲しいと心のどこかで願っているから。この女に怒りを覚えるのは、愛して欲しいと微塵も思っていないから。つまりは、見返りが欲しかっただけなのだ。
他者に助けを求めなかったのも、耐えがたい仕打ちに耐え続けたのも、母の言いなりに大学に入学したのも、金を家に入れ続けるのも、ほんの少しでも愛してくれる可能性を捨て切れないから。
自身の健気さに、渇いた笑いが込み上げてきた。母が自分に暴力を振るわないのは何故か? もう体力で敵わないからだ。母が成長を拒み、栄養失調ギリギリまで食事を与えないのも、反撃されるのが怖いから。
愛情を必要としさえしなければ、本当はいつだって反撃できたのだ。母にとってもっとも大切なものはなにか。聞くまでもない、兄だ。
母を、兄を破滅に追いやるには、世間体を粉々に打ち砕いてやればいい。
そのために目障りな女を利用してやろう。
私立大学の学費は国公立大学と比較すると二倍近くかかる。学費を節約するためには奨学金を得ることが必須だった。母子家庭であること、経済状況から貸与型の奨学金の対象となった。給付型の奨学金を得るために学業に励んだ。これまでの義務的な学習とは違い、学問を修めることは楽しくもあった。家と大学が遠いこともあり、大学図書館に籠もってレポートを書く日々は充実していた。教授は「本さえ読んでいれば、講義なんて受けなくても十分大学生らしい」と言う変わった人間ばかりで、その分小山内の分厚いレポートは好評だった。人間性ではなく成果物で評価される日々は、小山内にとって充足感をもたらした。
平穏な日々が打ち崩されたのは、大学に入って初めての夏休みが訪れる頃だった。兄が仕事を辞めて実家に戻ってきたのだ。仕事で上手くいかないことがあり孤立し、暴力を振るい解雇になったらしい。母は兄が帰ってきたことに歓喜し、お兄ちゃんにはもっといい仕事があるわよ、と励まし続けたが、兄は引きこもりと化した。今まで頑張りすぎたのよ、少しくらい休むのもいいかもね、と母は兄を甘やかした。
兄が家に引きこもるようになると、ますます金がかかるようになった。前年に母が兄に新しく買った車のローンと維持費が家計にのしかかった。兄はそのプライドゆえに、頑なに憧れの外車を売ることを拒んだ。大学生になり時給が上がり、母のパートでの収入を上回るようになっていた。母も金を入れるならと、深夜まで家に戻らないことを黙認した。お陰で兄から暴力を受ける機会も減った。アルバイトをしている間は、何も考えずに済んだ。家のことも、学業のことも、これからのことも、全て。
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魚住と出会ったのは、二回生の教養科目の講義だった。
取れるだけ講義を取らなければ学費が勿体ない。毎学期上限まで講義を取った。上限にプラスして取れる、教職、司書、学芸員資格取得に必要な講義も受講した。単位数だけなら卒業に必要な分は二年で取り終える目算だった。しかし卒業には教養科目と呼ばれる科目を受講する必要がある。
教養科目は苦手だった。場合によっては受講者が千人を越える大教室。教授の目が行き渡らず、何のために大学に来ているのかも理解できないような、動物園じみた空間。もっとも小山内も講義自体を睡眠時間としか見做していないため、教授からすればどっちもどっちなのだろうが。
小山内は早々に教室に入り、睡眠の体勢に入った。日付が変わる頃に帰宅して、一時間かけて徒歩で通学する。肉体には疲労が蓄積していた。うつらうつらとしていると、唐突な呼び声に、身体が反応した。
「めぐみ」
小山内の本名は小山内愛と言う。
……もっとも、その名前は一度も呼ばれたことはないのだが。これまでにも名前が同じ人間は何人も出会ってきたが、呼び声に反応してしまうことはなかった。
改めて呼ばれた人物がどんな人間なのか、観察する。常に周りに人を侍らせた、目立つ女。それが魚住の第一印象だった。彼女の周りには常に人が絶えなかった。見ていると、羽振りの良さをあてにしている媚びた人間が多いようだった。
聞きたくなくても声が大きいと聞こえてしまうもので、魚住が中高一貫の女子校からの内部進学であること、親が資産家であることを知った。またサバサバしていると勘違いした、暴言じみた発言も耳に入った。
母に似た箱入りの傲慢な女。思い上がりも甚だしく、他者を人とも思っていないような女。全てが自分の思い通りになると信じて疑わない女。そんな環境が用意された、恵まれた女。恵まれていることにすら、自覚を抱いていない女。
次第に、魚住という女に怒りを覚え始める。小山内は自身の内に怒りと言う感情が残っていることに戸惑いを覚えた。家で母に逆らえないのは、愛して欲しいと心のどこかで願っているから。この女に怒りを覚えるのは、愛して欲しいと微塵も思っていないから。つまりは、見返りが欲しかっただけなのだ。
他者に助けを求めなかったのも、耐えがたい仕打ちに耐え続けたのも、母の言いなりに大学に入学したのも、金を家に入れ続けるのも、ほんの少しでも愛してくれる可能性を捨て切れないから。
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愛情を必要としさえしなければ、本当はいつだって反撃できたのだ。母にとってもっとも大切なものはなにか。聞くまでもない、兄だ。
母を、兄を破滅に追いやるには、世間体を粉々に打ち砕いてやればいい。
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