【完結】死ぬ運命を変えた盲目の音楽家は、秘密の庭園で氷の貴公子に恋をする

かおり

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第8話:名前のない感情に触れた夜

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冷たい風が、馬の鬣を乱す。

 夜の湖へと続く道を、僕は迷いなく駆けた。
 脳裏には、あの子の顔――泣きも怒りもせず、ただ静かに笑う、白い頬。

 レオがいない。

 その報せを受けた瞬間から、思考はひとつに絞られていた。

 誰かが彼を攫った。

 彼の音が、人の心を揺らしたせいで。
 彼が、希望にも脅威にもなり得る存在になってしまったせいで。

 ――ふざけるな。
 彼が望んだわけじゃない。

 誰が、そんなことを望むものか。

 



 

 湖畔に着いたとき、風が水面を震わせていた。
 水の匂い。足音。草を踏む音。布ずれ。

 視界の先に、小さな影が見える。

 袋を被せられ、手足を縛られた、レオ。
 その傍らに、二人の男。

 もう躊躇う理由はなかった。

 

 馬を降りて、剣を抜いた。

 「てめぇ、誰――」

 男の叫びが終わる前に、喉元に鋼の閃きが走った。

 一人は倒れ、一人は逃げ出した。
 僕はレオに駆け寄り、袋を剥ぎ取った。

 

「レオ! 大丈夫か……っ」

 返事はない。唇が震え、息が浅い。
 目は見えていないのに、恐怖が表情を塗りつぶしていた。

「もういい、もう……大丈夫だから」

 僕はコートを脱ぎ、濡れた彼の身体を包み込んだ。
 手が、震えていた。僕の、手が。

 

「君に何かあったら、俺は……」

 喉元まで出かかった言葉を、噛み殺した。
 いまはまだ、言えない。言ってはいけない。

 僕が震えてどうする。
 彼を、安心させなくては。

 



 

 屋敷に戻る馬車の中、レオはコートに包まれたまま小さく丸まっていた。
 その肩に触れるたび、身がこわばる。

 けれど、馬車が揺れるたび、彼は僕の腕に額を預けてくる。
 体温が、確かにそこにあった。

 

 ぼそりと、掠れた声が落ちた。

「……ユリス、に……似てる」

 思わず息を呑んだ。

 名前は、出していないはずだ。

 それでも――彼の中で、何かが重なりかけているのかもしれない。

 

 僕は何も答えず、ただ彼の頭に手を置いた。

 



 

 

 目を閉じても、風の音が消えない。

 誰かに触れられている気がする。
 でもその手は、優しくて、怖くない。

 

 濡れた服を脱がされて、温かい布に包まれた。
 額に何かが当たるたび、心臓が落ち着いていく。

 薬の味。
 水の音。

 すべてが、あの時とは違う。

 

 夢の中で、誰かの手が、僕を支えてくれる。
 庭園で風に触れたあの時と、同じぬくもり。

 

「……ユリス……」

 違う。
 でも、似ている。

 この人は――ユリシス様。

 

 僕は、手を伸ばした。
 誰かの腕を掴んで、そっと言った。

 

「……傍にいて、ください」

 

 しばらくして、頬に優しい感触が落ちた。
 指先。あるいは――風のような、静かな口づけ。

 そのぬくもりを感じながら、
 僕はようやく、眠りに落ちた。
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