【完結】死ぬ運命を変えた盲目の音楽家は、秘密の庭園で氷の貴公子に恋をする

かおり

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第10話:触れたくて、怖くて

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部屋の窓辺からは、春の名残の風が入ってくる。
 ユリシス様が開けてくれた窓。きっと、僕が音に飢えていることに気づいて。

 鳥の声。遠くの鐘。揺れる木々の葉擦れ。

 音がある世界は、やっぱり、優しい。

 

 けれどその音たちよりも、僕の耳がいちばん覚えているのは――
 あの夜、僕を抱きしめてくれた人の、鼓動の音だった。

 

 この数日、ユリシス様は変わらず僕のそばにいる。
 食事の時間には優しく声をかけてくれて、
 寝る前には、そっと毛布の端を整えてくれる。

 手袋越しの手。落ち着いた声。端正な振る舞い。

 ……なのに。

 ほんの一瞬、あの人――“ユリス”とまったく同じ所作を見せることがある。

 髪をなでる手の角度。背に触れるときの、息のかけ方。

 

「……まさか」

 いつものように呟く。けれど、以前よりも“まさか”とは思えなくなっていた。

 



 

 昼下がり、僕はピアノの部屋へ行きたいと願い出た。

 体調が戻りきっていないことは、自分でも分かっていた。
 けれど――今、弾かなければ、なにか大事なものがこぼれてしまいそうだった。

 

 ユリシス様は黙って付き添ってくれた。
 歩幅を合わせ、手を取って、扉を開けてくれた。

 部屋の中に一歩足を踏み入れただけで、
 僕の胸がきゅうっと締めつけられた。

 

 懐かしい、けれど少し怖い。

 音が満ちる場所。

 

 ピアノの前に座り、深く息を吸う。

 ……お願い、どうか、裏切らないで。

 そんな祈りのような気持ちで、最初の音に指を落とす。

 

 旋律が流れる。

 その曲は、いつか庭園で――誰かに聴いてもらった気がする曲。

 

 胸が痛くなる。

 涙が、出そうになる。

 止まらなくなる前に、鍵盤から指を離した。

「……誰かが、昔……この曲を聴いてくれた気がするんです」

 それは、言い訳のような呟きだった。

 

 次の瞬間、背後から、誰かの腕が回される。

 僕の身体をそっと、でも強く包み込む。

 香り。温度。沈黙。

 

「ユリス……様……?」

 

 名前を呼んだとたん、彼の腕がぴくりと震えた。

 僕は怖くて、顔をあげられなかった。

 

 ほんの少し、頬と頬が触れそうな距離。
 手袋越しではない、素肌の手が、僕の指を包む。

 

 これがもし、ユリス様なら。
 なぜ、ずっと黙っていたの?

 でも、もし、違うのなら――
 どうして、ここまで似ているの?

 

 答えはこなかった。

 腕がふっと離れて、気配が消える。

 扉が開いて、閉まる音がした。

 

 取り残された室内で、僕は震える指先を、そっと鍵盤に戻した。

 

 触れたい。
 でも、確かめるのが、怖い。

 

 ただ、願ってしまう。

 

「……このままでいい。今だけは……そばにいてほしい」
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