【完結】死ぬ運命を変えた盲目の音楽家は、秘密の庭園で氷の貴公子に恋をする

かおり

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番外編 第1話「ひとつ屋根の下、まだ触れない夜 ※

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 この屋敷には、柔らかな時間が流れている。

 

 王宮と違って、喧騒はなく、誰かの視線に追い立てられることもない。
 扉の開閉音も、足音も、すべてが控えめで静かで――
 それが、僕にはとても心地よかった。

 

 ……それでも、気になる。

 

 ユリシス様の気配だけは、どうしても気づいてしまう。

 



 

 革命が終わって、ほんの数日。

 僕は今、ユリシス様の屋敷の離れで暮らしている。
 専用の部屋も用意され、必要なものはすべて整っている。
 食事も、衣服も、休息も――何ひとつ不自由はない。

 

 でも、夜になると、何かが胸の奥でざわめく。

 

 きっかけは小さなことだった。

 風呂上がり、廊下ですれ違ったとき。
 軽く触れただけの肩と肩。
 ユリシス様の肌は、ほんのり温かくて、濡れた髪から微かに湯と香油の匂いがして――

 

 それだけで、僕の心臓は跳ね上がった。

 

 目が見えないから、香りや温度には敏感になる。
 でも、それ以上に――あの人の気配だけが、僕の輪郭を曖昧にしてくる。

 

 背筋が熱を帯び、手のひらがじっとりする。
 そんなの、おかしいって分かってる。

 

 けど、どうしてこんなに、息苦しいんだろう。

 



 

 ベッドに横になって、耳を澄ませる。

 足音。戸が閉まる音。
 そして……かすかな気配。

 

 わかる。ユリシス様が近くにいる。

 でも、触れてこない。

 

 ――触れてこないのが、優しさだと分かっているのに。

 

 「……ユリシス様、そこにいますか」

 

 僕の声は、枕に沈んで、すぐに吸い込まれた。

 

 「……いるよ」

 ほんの少し間を置いて、低い声が返る。

 「君が寝付くまで、ここにいる。何もしない。ただ、見守るだけだ」

 

 “見守る”という言葉に、なぜか胸がぞくりと震える。

 

 目が見えない分、想像が膨らんでしまう。
 どんな顔で、どんな距離で、どこに立っているのか――わからない。

 でも、それが怖くて、嬉しい。

 

 だから僕は、背を向けたまま、そっと呟いた。

 

 「……眠れないのは、あなたの気配のせいです」
 「……でも、気配が消えるのは、もっと……いやです」

 

 言葉のあと、沈黙が続く。
 そして、布越しに空気が揺れた気がした。
 ユリシス様の気配が、そっと――ほんの数歩、近づいてきた。

 

 「レオ」

 

 名前を呼ばれると、全身が熱を帯びた。
 声だけで、こんなに震えるなんて。

 

 僕が息を呑んだのを感じ取ったのだろう。
 ユリシス様は、ためらいがちに言った。

 

 「……少しだけ、触れてもいいか?」

 

 僕は、何も言えなかった。
 でも、頷いた。ほんのわずかに。

 

 布団越しに伝わる、熱い手のひら。
 そっと、僕の髪に触れて――

 

 そして、額に、ふわりと何かが落ちた。

 

 キスだと、すぐにわかった。

 

 押しつけるのではない。欲をぶつけるのでもない。
 ただ、そこに「いてくれてありがとう」と伝えるような、あたたかなキスだった。

 

 触れた唇が離れたあとも、余韻だけが頬を包んでいた。

 

 「……おやすみ、レオ」

 

 彼の声が、耳元でそっと囁かれる。
 眠れなかったはずの僕の心が、ようやく静かに沈んでいく。

 

 今夜は――この感触を、胸に灯して眠れる。
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