眩暈

いなぐ

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3話

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 それからしばらくは、兄を傷つけられた苦しみ、兄を助けられなかった後悔、そして自覚したくなかった兄への烈しい情欲に心中しんちゅうを支配され、気が狂いそうな毎日だった。俺は、兄の部屋の向かいにあたる自分の部屋で、一方的に犯される兄の姿を思い出して、自慰行為を繰り返した。そういえば、兄が涙を流しているところを見るのも初めてだった、兄は相手に対して強く出ることをしないが、決して弱々しいわけではなかった。辛いことがあっても、笑顔で傷ついた自分を覆い隠してしまうような人で、俺はそんな兄が心配で守りたかったはずなのに。兄は今、自室で一人泣いているかもしれず、それなのに俺は、乱暴に肉体を扱われる兄の姿に、何度も同じ性的興奮を覚えている。自己嫌悪に苛まれながら、どうしても激しい恐怖と苦痛に戦慄わななく兄が頭から離れず、兄に触れる人物が永澤さんではなく自分だったら、という恐ろしい想像にまで至った。
 そうして俺は、罪の意識でまともに兄を見ることができなくなっていた。同じ家で生活しているのだから、どうしても顔を合わせるタイミングがあるし、今どこの部屋にいるのかが何となく分かってしまう。たった今トイレに入ったなとか、今はシャワーを浴びているんだなとか、兄の日常生活における行動をいちいち考えると気がおかしくなりそうで、それでも意識せずにはいられなかった。前は邪念などなく仲良く話せていたのだが今はぎこちなく、兄も気まずそうにしているので、もう元の兄弟には戻れないのだろうかとたまらなく不安になった。そんなある日、リビングで家族での食事を済ませ、いつも通り自分の使ったぶんの食器を洗ってから部屋に戻ろうとしたら、兄に引きとめられた。後ろから腕をつかまれ、兄が体にれているという事実に俺は呼吸が苦しくなってきたが、「どうしたの?」と平気な顔で聞いた。兄は自分の手で俺を引きとめたのに困ったような表情で視線を下に逸らして、「話が、あるんだけど……」と切り出した。
「後で部屋に来てくれないか。」
「わかった。」
 食欲がないと言って最近は食事量を減らしているにも関わらず、食べるのが遅い兄はまだ食器を洗っていないようだった。父と母は息子たちに対して無関心に、バラエティ番組を映すテレビを眺めて会話をしていた。俺は真っ直ぐに自分の部屋に向かって、ドアを閉めた後に大きく息を吐いた。心臓の音がうるさくて、顔が熱い。少し話しただけでこんな状態に陥る自分が、兄の部屋に入って兄と二人きりになるなんて想像しただけでひどく恐ろしかった。やっぱり以前のように、何も後ろ暗いことなどない仲の良い兄弟に戻りたい。そうでなければ。俺はそこまで考えてぎくりとした。俺はいったい兄に何を求めているんだろうか。


「ごめん、遅くなって。」
 少し前までは何の意識もなく出入りしてた兄の部屋に入る勇気が起きず、ドアの前で待っていたら、やっと兄が来た。「別に。」と顔も見ずに答えて、ドアを開けた兄に続いて部屋の中に入った。俺の部屋と同様にそう広くないが、ものが少なく整頓されているため、清潔な印象を受ける。そのなかで大きめの本棚に並べられたたくさんの本は際立った存在感があり、昔から本を読むことが好きな兄の人生の蓄積を表しているようだった。小さい頃は寝る前に俺に絵本を読み聞かせてくれたこともある、俺は本が好きというよりは本を読んでいる兄のことが好きで、それで兄から本を借りて読むこともあった。
 低いテーブルに向かい合って座ると、視界の端に兄が普段寝ているであろうベッドがあって、落ち着かない。部屋中が兄の存在で満たされているような気がして、頭がおかしくなりそうだ。
「話って、」
「永澤が転校するってはなししただろ?」
 永澤、という名前が兄の口から出た瞬間、目の前が真っ赤になった。自分の意志に反して体が勝手に動き出しそうになるのを、握った手の内側に爪を強く食い込ませて、なんとか我慢した。
「それで、今週の土曜にここを出るんだけど、そ、その前に家に来てほしいって言われて、」
 躊躇ためらいがちに話す兄の声は震えて、しまいには泣き出してしまうんじゃないかと心配になる。最近痩せたせいで元々大きくなかった体は余計に小さく見え、俺は今すぐに兄を優しく抱きしめてあげたかった。でも俺は永澤さんのように兄を傷つけてしまう凶暴性を持っていて、そのことがどうしようもなくつらかった。
「明後日の午後に永澤の家に行く予定なんだけど、しゅうについてきてほしくて、」
 秋、というのは俺の名で、しゅん、というのが兄の名前だった。俺たち兄弟の両方を知る人たちからはややこしいと不評だが、俺は兄を下の名前で呼んだことなどないので関係ないし、名前が対になっていてお互いが唯一の存在みたいに感じられて、響きも似ているので気に入っていた。兄と永澤さんのことを知っているのは弟である自分しかおらず、お互いそのことは決して口にしなかったものの、兄が俺を頼っているのは明白だった。
「もちろん行くよ。」
 もちろん、というところを強調して、兄を安心させるために笑顔を浮かべて見せた。今、永澤さんを前にした自分が正気でいられると思えないが、とにかく何をしてでも兄に指一本触れさせないようにしようと心の中で誓った。兄は安心した様子で、「ありがとう。」と礼を口にして、俺は犯される兄を思い浮かべて日々性的な興奮と満足を得ている自分自身を呪った。
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