【完結】婚約破棄したのに「愛してる」なんて囁かないで

遠野エン

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壊れた約束と愛の囁き

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誰にも聞こえないくらいの、ごく小さな声が耳元を掠めた。低く、深く、絞り出すような響き。思わず心臓が跳ね、足を止める。振り返ろうとしたその瞬間――今の声はわたしの心が作り出した幻?それとも悪い冗談?全ての思考がぴたりと止まった。

はっと我に返り後ろを見ても、そこにはもうアランの姿はない。彼はルネアとともに夜会の人混みへ消えていた。

「……いったい、何なの……」

呆然とした呟きが唇からこぼれ落ちる。


---


控室の扉が閉まると、夜会の喧騒が一段遠のいて、しんと張り詰めた静寂が広がる。先ほど受けた衝撃の余波がまだ胸の奥で嵐のように荒れている。わたしは軽く頭を振って、ソファに倒れこむ。

「婚約破棄……こんな形で告げられるなんて」

熱い雫がぽろりと頬を伝う。抑えようと思っても止められない。アランへの怒り、失望、そしてあまりにも唐突な別離がもたらす途方もない虚無感。それでもどうしても、あの最後の囁きが引っかかる。

「愛してる」――?

彼はあんなに冷たい顔で背を向けておきながら、どうしてそんな言葉を最後に残していったの?


記憶の扉が開く。そこには優しいアランがいる。幼い頃、公園の噴水の前で派手に転んだわたしに手を差し伸べ、「大丈夫だよ」と言ってくれた彼。初めての夜会で緊張していたわたしをジョークを交えてダンスに誘い出してくれた彼。

ふたりで並んで歩くとき、さりげなく歩幅を合わせてくれたり、ドレスの裾が床に引きずられないようにエスコートしてくれたり……あんなにもわたしを思ってくれた人がこんな仕打ちを?


考えれば考えるほど、混乱と悲しみの波が押し寄せ、深みにはまる。でもここで潰れてしまっては、伯爵令嬢として失格だ。

自分を取り戻すように、立ち上がり鏡の前へ進む。そして、自分の顔を確かめた。頬は少し強張っていて、目元も潤んでいるけれど、なんとか笑おうと思えば笑えそうだ。涙の跡は……もう少し冷ましてから、パウダーをはたいて隠すしかない。

「そうよ、わたしはリリーナ・スフレ。スフレ伯爵家の令嬢。こんな場で取り乱すわけにはいかない」

唇をきゅっと結んで、なんとか意識を奮い立たせる。あの婚約破棄は瞬く間に社交界で大きな話題になるだろう。好奇の目に晒され、憐憫の言葉を投げかけられるかもしれない。それでもこの場所から逃げるわけにはいかない。皆がどう思おうとドレスをまとい、社交界に出席しきちんと振る舞わなければ。


控室を出たとき、誰もわたしに過度に構おうとはしなかった。代わりに「大丈夫かしら」「お気の毒に」といった、ひそひそ声が耳に入ってくる。どうやらアランがわたしと婚約破棄をしたという噂はもう瞬く間に広がったらしい。

勇気を振り絞って、あらためて広間へと足を踏み入れる。周囲の視線は痛いほどに感じる。わたしは何食わぬ顔をして友人たちに挨拶を交わそうとする。


「リリーナ、話はほんと? アランと破局したって……?」

声をかけてきたのは、同年代の伯爵令嬢のビアンカだ。その瞳には純粋な気遣いの色が浮かんでいる。努めて平静を装い「ええ、そうなの」と短く答える。彼女は信じられないというように目を見開き、肩に優しく手を触れた。

「どうして? あんなにお似合いのふたりだったのに」

その声には驚きと共にわたしの身を案じる温かさが滲んでいた。

「……ごめん、細かいことはわたしにもよくわからないの。ただ……彼がそう望んだことだから」

無理に微笑んでみせる。わたし自身がまだ飲み込めていない。ビアンカは表情から察したのだろう、それ以上は何も聞かず、ただ痛ましそうに眉を寄せた。

「そう……今はつらいよね。ごめん、無理に聞いちゃって。一人で抱え込まないでね。わたしにできることがあったら言って。いつでも力になるから」

その言葉に張り詰めていた気持ちが少しだけ和らぐのを感じた。噂話に興味があるのではなく、純粋に友人として心配してくれているのが伝わってくる。彼女なりの配慮なのだろう。


――そのときだった。

「あら、リリーナ・スフレ様。あなたがお一人でお酒を飲まれている光景ってなかなか物寂しいですわね」

さっきの黒髪の女、ルネアがわざわざわたしのそばに来て、涼しい顔で話しかけてきた。
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