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帰還と侵入
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「リリアナ、今日は休んでいてもいいんだぞ。ヴィーネと一緒に家のことはやるから」
「いいえ、私もやるわ。そもそも、あなたがいない間は私ひとりでやってきたんだから。仕事が増えたってことなのよね」
嫌味っぽく聞こえたらしい。グラントは気まずそうに目を伏せる。ヴィーネが少し慌てたように両手を振った。
「すみません、私が勝手に台所を使って……。でも何かしないと落ち着かなくて……」
その姿を見て、罪悪感が込み上げる。彼女は決して私の大切な場所を奪おうとしているわけじゃないのだろう。むしろ彼女なりに役に立ちたいと思ったのかもしれない。ただ、この家は私とグラントだけの空間だった。その関係性に彼女が入り込むことへの戸惑いが大きすぎた。
「ううん、気にしないで。ヴィーネさんが作ってくれたスープ、おいしいわ」
そう言って微笑もうとしても、ぎこちない笑顔にしかならなかった。三人で食卓を囲んでいるのに、会話が弾まない。まるで誰もが爆弾を抱えているように、手探りで言葉を交わしては途切れていく。
◇◇◇
食事が終わり私は洗い物を始めた。グラントは庭に出て、久しぶりの家の様子を見たいと言っている。ヴィーネも手伝いたいというが、気が落ち着かなかった私は「ここは任せて」と言った。ひとりで静かに考えたかったのだ。
皿を洗いながら、胸の奥にあるモヤモヤした気持ちを整理しようとする。グラントが戦地で経験してきたことをすぐに理解できないかもしれない。それは時間が必要だろう。だが、抱きしめないと眠れないというのはどういう状態なんだろう? まるで子供がぬいぐるみにすがるような、本能的な安心感を求めるような……そういうことなのか。
そしてもう一つ、心に引っかかることがある。それはヴィーネの眼差しだ。あの大きく澄んだ瞳には何かを訴えるような悲壮感がある。グラントをただ慕っているだけには見えない。憎しみとも悲しみともとれない、不思議な影がちらついている気がするのだ。
とはいえ彼女ではなく、私たちの夫婦の間に生じた溝こそが問題の核心に思える。怒りや不信だけでなく、夫を心配する思いも強い。どうすればいいのか……。洗い物を終えたころ、唐突に背後から声をかけられた。
「リリアナさん、私……何か手伝えることはありますか?」
振り返ると、ヴィーネが居間のほうから遠慮がちに覗いていた。私は少し沈黙した後、思いつくままに「じゃあ、洗濯物を一緒に干しましょうか」と提案する。幸い、今日の天気は悪くない。二人で庭先に洗濯物を持って行き、ロープに掛けながら会話を交わしてみることにした。
庭に出ると、やわらかい日差しが私たちを包む。ここしばらくの間、心が曇り続けていた私にとって、ひとときの穏やかさを取り戻せる場所でもある。ヴィーネは私が洗濯籠から取り出すシャツやシーツを受け取り、小さな手で丁寧にしわを伸ばしてロープに干していく。
「戦争は相当大変だったんでしょう? 私はこの村でただ祈ることしかできなかったけれど……」
当たり障りのない言葉だと自分でもわかっている。それでも、何も聞かずにはいられなかった。ヴィーネは一瞬手を止め、視線を落として表情を強張らせる。
「……とても、酷かったです。毎日のように何かが燃えていて、爆弾の音や人々の叫び声が絶えなくて……。ただ必死に生き延びるしかなくて……両親も……失った」
細い声の中には瞼の裏に焼きついたかのような地獄絵図が浮かぶ。相手の境遇を知れば知るほど、簡単に突き放すことなんてできない。
「ごめんなさい。辛いことを思い出させてしまったわね」
「いえ……いいんです。グラントさんには私の命を救ってもらった。だからこそ、こうしてここにいるから恩返しがしたいと思ってるんです」
「恩返し……」
ヴィーネの言葉に複雑な気持ちになる。彼女は本当に感謝の気持ちからグラントに従っているようだが、私にはまだ理解できない。一方で、彼女はまるで“ここにいること”が自分の務めだと思い込んでいるようにも見えた。
そのとき、家の裏庭のほうからグラントの姿が見えた。私たちの姿を見つけると、少し遠慮がちにこちらへ近づいてくる。私は目を細めながら彼に声をかける。
「裏庭はどうだった?」
「うん、相変わらず雑草が少し伸びてたよ。後で刈っておく」
会話はとりとめのないものだ。戦地に行く前のグラントなら、もっと気さくに笑って「随分伸びててびっくりしたよ」なんて言いそうなのに。今の彼はどこかぎこちなく心ここにあらず、といった感じがする。
「リリアナ、少し休めよ。俺が続きやるから」
「いいのよ。あと少しだから」
そう言いながら、私は内心でため息をつく。妻なのにどこか空回りしている気がする。グラントもヴィーネも、何か秘密を共有している。それは戦争という過酷な体験だけではないように思えてならない。
「いいえ、私もやるわ。そもそも、あなたがいない間は私ひとりでやってきたんだから。仕事が増えたってことなのよね」
嫌味っぽく聞こえたらしい。グラントは気まずそうに目を伏せる。ヴィーネが少し慌てたように両手を振った。
「すみません、私が勝手に台所を使って……。でも何かしないと落ち着かなくて……」
その姿を見て、罪悪感が込み上げる。彼女は決して私の大切な場所を奪おうとしているわけじゃないのだろう。むしろ彼女なりに役に立ちたいと思ったのかもしれない。ただ、この家は私とグラントだけの空間だった。その関係性に彼女が入り込むことへの戸惑いが大きすぎた。
「ううん、気にしないで。ヴィーネさんが作ってくれたスープ、おいしいわ」
そう言って微笑もうとしても、ぎこちない笑顔にしかならなかった。三人で食卓を囲んでいるのに、会話が弾まない。まるで誰もが爆弾を抱えているように、手探りで言葉を交わしては途切れていく。
◇◇◇
食事が終わり私は洗い物を始めた。グラントは庭に出て、久しぶりの家の様子を見たいと言っている。ヴィーネも手伝いたいというが、気が落ち着かなかった私は「ここは任せて」と言った。ひとりで静かに考えたかったのだ。
皿を洗いながら、胸の奥にあるモヤモヤした気持ちを整理しようとする。グラントが戦地で経験してきたことをすぐに理解できないかもしれない。それは時間が必要だろう。だが、抱きしめないと眠れないというのはどういう状態なんだろう? まるで子供がぬいぐるみにすがるような、本能的な安心感を求めるような……そういうことなのか。
そしてもう一つ、心に引っかかることがある。それはヴィーネの眼差しだ。あの大きく澄んだ瞳には何かを訴えるような悲壮感がある。グラントをただ慕っているだけには見えない。憎しみとも悲しみともとれない、不思議な影がちらついている気がするのだ。
とはいえ彼女ではなく、私たちの夫婦の間に生じた溝こそが問題の核心に思える。怒りや不信だけでなく、夫を心配する思いも強い。どうすればいいのか……。洗い物を終えたころ、唐突に背後から声をかけられた。
「リリアナさん、私……何か手伝えることはありますか?」
振り返ると、ヴィーネが居間のほうから遠慮がちに覗いていた。私は少し沈黙した後、思いつくままに「じゃあ、洗濯物を一緒に干しましょうか」と提案する。幸い、今日の天気は悪くない。二人で庭先に洗濯物を持って行き、ロープに掛けながら会話を交わしてみることにした。
庭に出ると、やわらかい日差しが私たちを包む。ここしばらくの間、心が曇り続けていた私にとって、ひとときの穏やかさを取り戻せる場所でもある。ヴィーネは私が洗濯籠から取り出すシャツやシーツを受け取り、小さな手で丁寧にしわを伸ばしてロープに干していく。
「戦争は相当大変だったんでしょう? 私はこの村でただ祈ることしかできなかったけれど……」
当たり障りのない言葉だと自分でもわかっている。それでも、何も聞かずにはいられなかった。ヴィーネは一瞬手を止め、視線を落として表情を強張らせる。
「……とても、酷かったです。毎日のように何かが燃えていて、爆弾の音や人々の叫び声が絶えなくて……。ただ必死に生き延びるしかなくて……両親も……失った」
細い声の中には瞼の裏に焼きついたかのような地獄絵図が浮かぶ。相手の境遇を知れば知るほど、簡単に突き放すことなんてできない。
「ごめんなさい。辛いことを思い出させてしまったわね」
「いえ……いいんです。グラントさんには私の命を救ってもらった。だからこそ、こうしてここにいるから恩返しがしたいと思ってるんです」
「恩返し……」
ヴィーネの言葉に複雑な気持ちになる。彼女は本当に感謝の気持ちからグラントに従っているようだが、私にはまだ理解できない。一方で、彼女はまるで“ここにいること”が自分の務めだと思い込んでいるようにも見えた。
そのとき、家の裏庭のほうからグラントの姿が見えた。私たちの姿を見つけると、少し遠慮がちにこちらへ近づいてくる。私は目を細めながら彼に声をかける。
「裏庭はどうだった?」
「うん、相変わらず雑草が少し伸びてたよ。後で刈っておく」
会話はとりとめのないものだ。戦地に行く前のグラントなら、もっと気さくに笑って「随分伸びててびっくりしたよ」なんて言いそうなのに。今の彼はどこかぎこちなく心ここにあらず、といった感じがする。
「リリアナ、少し休めよ。俺が続きやるから」
「いいのよ。あと少しだから」
そう言いながら、私は内心でため息をつく。妻なのにどこか空回りしている気がする。グラントもヴィーネも、何か秘密を共有している。それは戦争という過酷な体験だけではないように思えてならない。
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