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第二話 琥珀の午睡
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帝都の午後、喫茶「白昼夢」に差し込む陽光は、濾過された蜂蜜のように濃密で、それでいてどこか死の気配をはらんだ静けさを湛えていた。
この店を訪れる客たちは皆、外界の喧騒を外套と共に脱ぎ捨て、沈黙という名の儀式に身を浸す。蓄音機が刻む名前も知らぬ異国の挽歌でさえ、厚い絨毯に吸い込まれ、小夜にとっては微かな床の震え――心臓の鼓動よりも頼りない「波」としてしか存在しなかった。
久世彰人は、いつもの特等席で、古びた辞書と格闘していた。彼の万年筆が紙の上を走るたび、小夜にはそれが、凍てついた湖面に刻まれる鋭利なスケートの跡のように見えた。彼は言葉を紡いでいるのではない。自分の命を、少しずつインクという名の毒液に変えて、白い紙に塗り込んでいるのだ。小夜はカウンター越しに、その横顔を盗み見る。眼鏡の縁に反射する光が、彼の視線の鋭さと、その奥に潜む底知れぬ倦怠を浮き彫りにしていた。
小夜は、彼のために一杯の珈琲を淹れる準備を始めた。 彼女にとって、珈琲を淹れるという行為は、彼への「返信」だった。耳の聞こえない彼女が、彼の綴る難解な詩文に対し、香りという形なき言語で応える唯一の手段。
豆を挽く。ゴリゴリという手応えが腕の骨を伝い、香ばしくも苦い「音」が彼女の全身を駆け巡る。湯を注げば、立ち昇る湯気が彰人の背中を優しく包み込む。小夜は、その湯気の揺らぎの中に、彼の輪郭をそっと閉じ込めた。
「……彰人さん」
声には出さず、唇だけで彼の名を呼ぶ。その瞬間、彰人がふっと顔を上げた。彼には聞こえるはずのない、心の囁き。だが、彼は吸い寄せられるように小夜の瞳を捉えた。小夜は慌てて視線を落とし、銀の盆に載せたカップを彼の卓へと運んだ。
卓の上には、開かれたままの詩集があった。そこには、遠い異国の、薔薇の枯れゆく庭園についての詩が綴られている。彰人は、小夜が置いた珈琲の香りを深く吸い込んだ。
「……今日の珈琲は、少しばかり、湿った土の匂いがしますね」
彼の唇が紡ぐ言葉を、小夜は瞬きもせずに読み取る。湿った土。小夜は小さく頷いた。彼女は今日、庭に咲き始めたばかりの朽ちかけの山梔子の、重く甘い死の香りをイメージして豆を選んでいた。
「朽ちてゆく美しさを、貴女も感じている。……そうですね、小夜さん」
彰人は万年筆を置き、細く白い指先でカップの縁をなぞった。二人の間に流れる時間は、まさに琥珀の中に閉じ込められた静止した一瞬だった。外の世界では、帝国は未曾有の繁栄を謳歌し、鉄と煙の時代が幕を開けようとしている。けれど、この喫茶店だけは、滅びゆく美しい季節の「最期」を愛おしむ墓標のようだった。
彰人が不意に、卓の上の詩集を小夜の方へ向けた。
「この詩に出てくる『黄昏の静寂』という言葉……。僕には、それをどう訳すべきか、いつも迷いがある。音がない、というだけでは足りない。そこには、何かが永遠に失われていくような、取り返しのつかない寂寞がなければならない」
小夜は、彰人の指が指し示す言葉を見つめた。文字の並びは単なる記号に過ぎない。けれど、彼の指先がその紙面に触れた瞬間、文字に血が通い、熱を帯びるのを彼女は感じた。小夜はゆっくりと、自分の右手を、彼の手の隣に置いた。触れることはない。ただ、彼の手が放つ微かな熱が、小夜の皮膚を焼くように伝わってくる。
小夜は卓の上に落ちた埃の粒子を見つめ、指先でそれを払うふりをして、一つの「答え」を彼に示した。彼女は、窓から差し込む斜陽の中に、自分の指をかざした。指の隙間から漏れる光が、卓の上に長い影を作る。その影が、彰人の原稿用紙に重なり、彼が書いた文字を一時的に塗り潰した。
(消えてしまうから、美しいのです)
小夜の瞳が、そう語っていた。音がない世界。それは、何かが「欠けている」のではなく、すべての瞬間が「消えてゆく定めに耐えている」世界なのだ。
彰人は、その影をじっと見つめていた。やがて、彼は満足そうに、けれどひどく寂しげな笑みを浮かべて、再び万年筆を握った。
「そうか……。沈黙とは、音が失われた状態ではない。音が生まれる前の、あるいは音が死んだ後の、聖域なのだ」
彼は猛然と書き始めた。小夜は、その筆致の激しさに、彼の命が削り取られていくような幻視を覚えた。大正という、狂おしいほどに華やかで、同時に滅びの予感に満ちた時代。彰人のような高貴な生まれの男にとって、この場所は隠れ家であり、同時に、自分の運命から逃げ出すための緩やかな自殺の場所でもあったのだろう。
西日が、店内の古びた壁時計を真っ赤に染め上げる。小夜は、冷えていく珈琲の香りが、少しずつ「記憶」へと変わっていくのを肌で感じていた。 彰人の背中は、刻一刻と伸びる影に呑み込まれようとしている。彼はいつか、この琥珀の中から飛び出し、自分とは違う、音の洪水が渦巻く世界へと帰っていかなければならない。そのことが、言葉にならない痛みを伴って、小夜の胸を締め付けた。
彼女にできるのは、ただ、彼が書き終えるまで、この静かな午睡のような時間を守り続けることだけだった。たとえ、その先に待ち受けているのが、凍てつくような孤独であっても。
窓の外では、一羽の烏が、燃えるような夕空を横切っていった。その羽ばたきも、小夜には聞こえない。ただ、彰人がページを捲るたびに生じる、微かな空気の震えだけが、彼女にとっての「世界のすべて」だった。
この店を訪れる客たちは皆、外界の喧騒を外套と共に脱ぎ捨て、沈黙という名の儀式に身を浸す。蓄音機が刻む名前も知らぬ異国の挽歌でさえ、厚い絨毯に吸い込まれ、小夜にとっては微かな床の震え――心臓の鼓動よりも頼りない「波」としてしか存在しなかった。
久世彰人は、いつもの特等席で、古びた辞書と格闘していた。彼の万年筆が紙の上を走るたび、小夜にはそれが、凍てついた湖面に刻まれる鋭利なスケートの跡のように見えた。彼は言葉を紡いでいるのではない。自分の命を、少しずつインクという名の毒液に変えて、白い紙に塗り込んでいるのだ。小夜はカウンター越しに、その横顔を盗み見る。眼鏡の縁に反射する光が、彼の視線の鋭さと、その奥に潜む底知れぬ倦怠を浮き彫りにしていた。
小夜は、彼のために一杯の珈琲を淹れる準備を始めた。 彼女にとって、珈琲を淹れるという行為は、彼への「返信」だった。耳の聞こえない彼女が、彼の綴る難解な詩文に対し、香りという形なき言語で応える唯一の手段。
豆を挽く。ゴリゴリという手応えが腕の骨を伝い、香ばしくも苦い「音」が彼女の全身を駆け巡る。湯を注げば、立ち昇る湯気が彰人の背中を優しく包み込む。小夜は、その湯気の揺らぎの中に、彼の輪郭をそっと閉じ込めた。
「……彰人さん」
声には出さず、唇だけで彼の名を呼ぶ。その瞬間、彰人がふっと顔を上げた。彼には聞こえるはずのない、心の囁き。だが、彼は吸い寄せられるように小夜の瞳を捉えた。小夜は慌てて視線を落とし、銀の盆に載せたカップを彼の卓へと運んだ。
卓の上には、開かれたままの詩集があった。そこには、遠い異国の、薔薇の枯れゆく庭園についての詩が綴られている。彰人は、小夜が置いた珈琲の香りを深く吸い込んだ。
「……今日の珈琲は、少しばかり、湿った土の匂いがしますね」
彼の唇が紡ぐ言葉を、小夜は瞬きもせずに読み取る。湿った土。小夜は小さく頷いた。彼女は今日、庭に咲き始めたばかりの朽ちかけの山梔子の、重く甘い死の香りをイメージして豆を選んでいた。
「朽ちてゆく美しさを、貴女も感じている。……そうですね、小夜さん」
彰人は万年筆を置き、細く白い指先でカップの縁をなぞった。二人の間に流れる時間は、まさに琥珀の中に閉じ込められた静止した一瞬だった。外の世界では、帝国は未曾有の繁栄を謳歌し、鉄と煙の時代が幕を開けようとしている。けれど、この喫茶店だけは、滅びゆく美しい季節の「最期」を愛おしむ墓標のようだった。
彰人が不意に、卓の上の詩集を小夜の方へ向けた。
「この詩に出てくる『黄昏の静寂』という言葉……。僕には、それをどう訳すべきか、いつも迷いがある。音がない、というだけでは足りない。そこには、何かが永遠に失われていくような、取り返しのつかない寂寞がなければならない」
小夜は、彰人の指が指し示す言葉を見つめた。文字の並びは単なる記号に過ぎない。けれど、彼の指先がその紙面に触れた瞬間、文字に血が通い、熱を帯びるのを彼女は感じた。小夜はゆっくりと、自分の右手を、彼の手の隣に置いた。触れることはない。ただ、彼の手が放つ微かな熱が、小夜の皮膚を焼くように伝わってくる。
小夜は卓の上に落ちた埃の粒子を見つめ、指先でそれを払うふりをして、一つの「答え」を彼に示した。彼女は、窓から差し込む斜陽の中に、自分の指をかざした。指の隙間から漏れる光が、卓の上に長い影を作る。その影が、彰人の原稿用紙に重なり、彼が書いた文字を一時的に塗り潰した。
(消えてしまうから、美しいのです)
小夜の瞳が、そう語っていた。音がない世界。それは、何かが「欠けている」のではなく、すべての瞬間が「消えてゆく定めに耐えている」世界なのだ。
彰人は、その影をじっと見つめていた。やがて、彼は満足そうに、けれどひどく寂しげな笑みを浮かべて、再び万年筆を握った。
「そうか……。沈黙とは、音が失われた状態ではない。音が生まれる前の、あるいは音が死んだ後の、聖域なのだ」
彼は猛然と書き始めた。小夜は、その筆致の激しさに、彼の命が削り取られていくような幻視を覚えた。大正という、狂おしいほどに華やかで、同時に滅びの予感に満ちた時代。彰人のような高貴な生まれの男にとって、この場所は隠れ家であり、同時に、自分の運命から逃げ出すための緩やかな自殺の場所でもあったのだろう。
西日が、店内の古びた壁時計を真っ赤に染め上げる。小夜は、冷えていく珈琲の香りが、少しずつ「記憶」へと変わっていくのを肌で感じていた。 彰人の背中は、刻一刻と伸びる影に呑み込まれようとしている。彼はいつか、この琥珀の中から飛び出し、自分とは違う、音の洪水が渦巻く世界へと帰っていかなければならない。そのことが、言葉にならない痛みを伴って、小夜の胸を締め付けた。
彼女にできるのは、ただ、彼が書き終えるまで、この静かな午睡のような時間を守り続けることだけだった。たとえ、その先に待ち受けているのが、凍てつくような孤独であっても。
窓の外では、一羽の烏が、燃えるような夕空を横切っていった。その羽ばたきも、小夜には聞こえない。ただ、彰人がページを捲るたびに生じる、微かな空気の震えだけが、彼女にとっての「世界のすべて」だった。
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