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8.日差しの下で
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じりじりと焼けつくような日差しが気になる。
私は帽子の鍔を曲げ、自分を照らす光を遮った。
片手に持ったドリンクのカップが汗をかき、水滴が指の隙間に入り込んでくる。
「今日は暑いわね……」
思わずそんな言葉が出てくる。一つに結んだ髪の毛をかわして、気まぐれな風が首の後ろを撫でた。
正直に言えばあまり歩きたくはない日。家の中で本でも読んでいたい。そして、この高い空をたまに見上げて、感傷に浸りたいものだ。
だけど今日だけはそうはいかない。
だって今日は、ミス・クタルストンが決まる日。つまりは、ゾイアのことを応援しなければ。コンテストには出ないけれど、それくらいは姉として努めないと。
ストローに口をつけ、もう一度柑橘の甘い香りで口の中を満たす。すると、ほんの少しだけ汗が引いてくれた気がする。あまりだらだらと汗をかきたくはない。服が傷んでしまいそうだから。
ハンカチで汗をぬぐい、私はコンテスト会場へと向かう。コンテスト会場は湖の畔。小さな舞台だけれど、ささやかに行うのにはちょうどいい場所だ。
会場に着くと、参加者の家族や見物に来た人たちが談笑していた。穏やかな眼差しに囲まれ、ゾイアたちが参加するコンテストがゆるやかにスタートする。
審査といっても、これもお遊びみたいなものだから、そこまで大層なことはしない。挨拶という名のフリーテーマのスピーチをして、ポーズをとって、微笑むだけ。ようはそんなものだ。
見どころと言えば、彼女たちの装いだろう。各々がとっておきの水着を着てくる。それがこのコンテストの盛り上がりどころなのだろう。
私は、可愛らしい参加者たちのスピーチを聞きながら、舞台にだけ視線を向ける。ゾイアは今日もいつもの調子で挨拶をする。愛嬌一杯のその姿は、眩しい太陽によく似合う。
帽子に隠れて狭くなった視界の中で、私は妹のことを誇らしげに見ていた。だから、傍に誰かが来ていたことなんて気がつかなかった。
「ロミィは出ないんだね」
そう言われ、ようやく顔を横に向ける。ニアだ。私はニアを見て、肩をすくめて笑う。
「私はコンテストとか、あまり好きではないみたい」
その言葉は、これまで言うことのできなかった私の本心。言えなかった言葉を口に出せるというだけで、私はなんだか嬉しくなる。
「そうなの? ロミィ、それは知らなかったな」
「そうでしょうね」
ふふふ、と、笑みが零れる。知らなくて当然。だって人に話したのは初めてだ。
「ニアは見物に来たの?」
「うん。ちょうど通りがかって、君を見かけたから」
「そう。ニアは誰が優勝すると思う?」
「うーん。皆素敵だから、俺には決められないな」
「贅沢ね、ニア」
ニアは少し恥ずかしそうに笑い、舞台に目を向ける。
「でもゾイアは堂々としていて、かっこいいと思うよ」
「ゾイアが喜ぶ。ニアは目の付け所がいいわね」
私も舞台に視線を戻す。出番を終えたゾイアは、後ろに一列に並んで、今の主役のことを穏やかな笑みで見ている。彼女が最後の参加者。これが終われば優勝者の発表だ。
「ロミィ、この後時間ある?」
「時間ならいくらでもあるわ。ここにいる限り」
私はニアの方を見て、得意げに言ってみせた。クタルストンでの休暇の間は、時間に縛られることはない。ニアはそれに気がついたようでハッと息を吸った。
「そっか、そうだね。そしたら、あとでボートに乗ろう。今日はきっと湖の上は涼しいよ」
「いい提案!」
身体を弾ませた拍子に、カップの中の氷がカランと音を立てた。
「じゃあ、これが終わったら行こうか」
「うん。楽しみができてうれしいわ」
私が笑うと、ニアもそっと頬を緩ませる。その表情には、まだ幼さが残っていた。
「さぁ、今年のミス・クタルストンは—……!」
舞台の上では、いつの間にか進行役がカードを片手に観衆の期待を集めている。結果発表だ。私も、彼の口元をじっと見つめる。
「ゾイア・ハロル! おお! 二年連続の連覇です!」
進行役の声に、ゾイアが後ろで嬉しそうに跳ねた。ぴょんっと進行役の隣まで出て行き、観衆の拍手を一斉に浴びる。
「ゾイア! やった!」
私も思わず大きな声が出た。拍手をして、冠と賞状を受け取るゾイアを見守る。
「ありがとう! みんな!」
冠を被って、ゾイアは大きく手を振る。本当に嬉しそうだ。私まで嬉しくなってしまう。ゾイアの愛嬌たっぷりの笑顔に、観衆たちは惜しみない歓声を送ってくれた。
「おめでとう、ゾイア!」
コンテストが終わり、私はゾイアに駆け寄った。舞台を降りたゾイアは、お気に入りの水着に身を包んで私に抱き着く。
「勝てるはずと思っていたけど、やっぱりドキドキしちゃう! 名前を呼ばれるまで、自信を失いそうになったわ!」
ゾイアが私から離れると、ニアがそっと近づいてきた。
「おめでとうゾイア。スピーチ、とても良かったよ」
「ありがとうダッディさん! 動物保護の問題は、私の一番の関心事項なの!」
ゾイアはスピーチについて褒められたことに喜んだ。少し前のめりになってニアを見上げる。
「ゾイアの想いが伝わってきたよ」
「まぁ! ダッディさんってとっても見る目があるわ!」
「はははは、お姉さんと同じことを言う」
「そうなの? ロミィ?」
ゾイアは傾いた冠を直しながらこちらを見る。私は、小さく舌を出して肩をすくめた。
「そうだ、ゾイア、その水着もよく似合っているよ。君の瞳にぴったりだ」
「え? ありがとう……! そう言ってもらえて嬉しい!」
ゾイアはくるっと一回転する。その水着は、ニアと初対面の時にゾイアが着ていたものだ。あの時は、まぁ、少し気まずい感じになっちゃったけど。
私が思い出し笑いをすると、ニアとゾイアが首を傾げた。
「じゃあ、私は写真を撮ってくるから!」
ゾイアはカメラマンに呼ばれ、タッタッと駆けて行ってしまった。私とニアは、そのままボートに乗りに行く。
持っていたドリンクを乗り場でスタッフの人に返して、ニアに手を引かれてボートに乗り込む。
ボートに足を踏み入れると、湖面に浮くボートは少し揺らぐ。私はニアの手をぎゅっと掴んだ。
細いボートの中で向かい合うようにして座ると、ニアはオールを手に漕ぎ出した。水面にゆるやかな波が描かれ、ボートは桟橋を離れていった。
「やっぱり、涼しいね」
私は帽子を取り、頭皮に風を通す。汗で髪の毛が乱れているかもしれないから、またすぐに帽子を被った。
「うん。湖の音がちょうどいい感じ」
ボートを漕ぐニアは、少し周りを見回した。どんどん人のいる岸が遠くなっていく。この湖は広いから、一周するだけでも時間はそれなりにかかる。ずっとニアに漕いでもらうのも、なんだか気が引ける。
「ニア、私も漕いでみてもいい?」
ニヤッと笑い、ニアを見る。
「うん。いいよ」
ニアはオールを私に手渡してくれた。結構重くて、私は少しバランスを崩す。すかさずニアが支えてくれるけれど。気を取り直して、私も腕に力を入れて思い切り漕いでみる。
「思っていたよりも難しいのね! 変な方向へ進んでしまいそう」
「大丈夫だよ、そうしたら、また戻せばいい」
「簡単に言うのね、ニアは」
「何も気にしないで、思うままに漕げばいいよ」
ニアの寛容な言葉に甘えて、私は半分波に流されながら進む。湖とはいえ、海や川ほどじゃなくても、そこに自然の意思を感じた。
「ここにいると、本当に日常から切り離されたみたいだ」
「それは良いこと? 悪いこと?」
「さぁ、どうかな」
ニアは頬杖をついてニヤリと笑う。私は小さく頬を膨らませて、「教えてくれてもいいじゃない」と、文句を言うように呟く。
「でも、ロミィが気に入る理由もわかるな」
「でしょう? 分かってくれる?」
「ああ。毎日、目が覚めるのが楽しいから」
「ふふふ。気に入ってくれたようで何よりだわ」
クタルストンは別に私のものじゃないけれど。でも、やっぱり嬉しいから。
「それに、クタルストンでは父にある秘密を教えてもらえたしね。ずっと前に来た時にだけど。だから、なんだか幼少期に戻れる気がするんだ」
「秘密? なんだか魅力的な言葉ね」
「気になる?」
「分かってて言ってるんでしょう?」
ニアの見透かしたような瞳に、私は挑発的な視線を返す。
「ごめんごめん」
ニアは、参ったように笑い、頬杖をやめた。
「そうしたら、お詫びに、その秘密を教えてくれる?」
「秘密なのに?」
「存在を口にした時点で、もう秘密じゃないわよ」
「それは言えてる。……いいよ、ロミィ。君には教えてあげる」
「本当?」
ちょっと強引だっただろうか。
私が反省していると、ニアはオールを求めて手を伸ばしてくる。要求通りにすると、私はほっと息を吐き、休憩をする。やっぱり漕ぎ慣れていないと疲れてしまう。その体力のなさに、少しだけ恥ずかしくなる。
「じゃあ、秘密まで参りまーす」
「え? どこかへ行くの?」
ニアが漕ぎだすと、さっきまでとは違って大きく、しっかりとボートが動き出す。乗り物に乗っている感覚を久しぶりに思い出させてくれる。私の問いには、ニアは笑って誤魔化してくるけれど。
秘密だから、あまり人のいないところへ行くのかもしれない。誰が聞いているか分からないものね。
そう言い聞かせ、私は納得した気になった。
ニアはその間も迷わずボートを漕ぎ、ボートは垂れた枝葉に囲まれた湖の小道を進む。アーチのように迎え入れてくれるその低木に触れ、私は後ろを振り返る。まだ少し、この小道は続いているみたい。
まるで絵本で見る不思議の国の入り口みたいに、その先は太陽に照らされ、柔らかな陽が包んでいてよく見えなかった。目がその光になれてくると、ようやく私たちはそのアーチを抜ける。
「わぁ!」
思わず感嘆の声が漏れる。
アーチを抜けた先には、木々と花々に囲まれた幻想的な世界が広がっていた。本当に絵本の中に来てしまったかのよう。
小鳥の歌声が枝を揺らし、はらりと葉っぱが落ちてくる。
水面には花弁が浮かび、それがまた波に揺れて煌めいていく。
面積としては狭いけれど、そこは誰にも知られていない秘密基地のように私たちを出迎える。
「ニア、秘密ってこれのこと?」
手のひらに陽だまりを映し、私は少し興奮した声を出す。
「そう。父が教えてくれたんだ」
ニアは木々に囲まれたドームのような空を見上げ、顔を綻ばせる。
「ここは特別な場所だけど、知る人は少ないとね」
「ええ、そう思うわ! 私も知らなかったもの。まだ知らない場所があるって、なんて面白いの」
きっと、目を輝かせていたと思う。私を見て、ニアは優しく目を細める。
「楽しんでもらえたみたいで良かった」
「楽しいなんてものじゃない! 新たな発見って、とても心が躍るのね。今すぐにでも冒険に出たくなっちゃう!」
「はははは! 冒険、いいなぁ。俺もしてみたいよ」
きょろきょろと辺りを見る私に、ニアは軽快な笑い声を出す。なんだか、軽やかな気持ち。ここは私の知らない場所。そのせいなのか、私は気分が高揚する。こんな素敵な場所、今までもずっとここにあったのだろうか。そう思うと、これまで見落としてきたことがなんだか勿体ない気もしてくる。
「ニア、ありがとう。とても素敵な秘密を教えてくれて」
「どういたしまして」
「この秘密は、大事に守るからね」
人差し指を口に当て、私はそう約束をする。
知らない世界。まさにそれは、今生きる世界そのまま。
だけど、まったく知らないわけじゃない。知らないのは、その先の展開だけ。そこに心が生きている限り、先の展開なんて読めない。それが普通のこと。ようやくそれを思い出して、慣れてきたと思ったけれど……。
「本当に、とっても美しいところね」
景色すらも、まだまだ瞳に映しきれていなかったとは。
この世界を切り離して、本当に良かった。
私は目を閉じて、愛おしさに満ちた空気を吸い込む。
こんな素晴らしい世界を、私は失いたくはなかったのだから。
私は帽子の鍔を曲げ、自分を照らす光を遮った。
片手に持ったドリンクのカップが汗をかき、水滴が指の隙間に入り込んでくる。
「今日は暑いわね……」
思わずそんな言葉が出てくる。一つに結んだ髪の毛をかわして、気まぐれな風が首の後ろを撫でた。
正直に言えばあまり歩きたくはない日。家の中で本でも読んでいたい。そして、この高い空をたまに見上げて、感傷に浸りたいものだ。
だけど今日だけはそうはいかない。
だって今日は、ミス・クタルストンが決まる日。つまりは、ゾイアのことを応援しなければ。コンテストには出ないけれど、それくらいは姉として努めないと。
ストローに口をつけ、もう一度柑橘の甘い香りで口の中を満たす。すると、ほんの少しだけ汗が引いてくれた気がする。あまりだらだらと汗をかきたくはない。服が傷んでしまいそうだから。
ハンカチで汗をぬぐい、私はコンテスト会場へと向かう。コンテスト会場は湖の畔。小さな舞台だけれど、ささやかに行うのにはちょうどいい場所だ。
会場に着くと、参加者の家族や見物に来た人たちが談笑していた。穏やかな眼差しに囲まれ、ゾイアたちが参加するコンテストがゆるやかにスタートする。
審査といっても、これもお遊びみたいなものだから、そこまで大層なことはしない。挨拶という名のフリーテーマのスピーチをして、ポーズをとって、微笑むだけ。ようはそんなものだ。
見どころと言えば、彼女たちの装いだろう。各々がとっておきの水着を着てくる。それがこのコンテストの盛り上がりどころなのだろう。
私は、可愛らしい参加者たちのスピーチを聞きながら、舞台にだけ視線を向ける。ゾイアは今日もいつもの調子で挨拶をする。愛嬌一杯のその姿は、眩しい太陽によく似合う。
帽子に隠れて狭くなった視界の中で、私は妹のことを誇らしげに見ていた。だから、傍に誰かが来ていたことなんて気がつかなかった。
「ロミィは出ないんだね」
そう言われ、ようやく顔を横に向ける。ニアだ。私はニアを見て、肩をすくめて笑う。
「私はコンテストとか、あまり好きではないみたい」
その言葉は、これまで言うことのできなかった私の本心。言えなかった言葉を口に出せるというだけで、私はなんだか嬉しくなる。
「そうなの? ロミィ、それは知らなかったな」
「そうでしょうね」
ふふふ、と、笑みが零れる。知らなくて当然。だって人に話したのは初めてだ。
「ニアは見物に来たの?」
「うん。ちょうど通りがかって、君を見かけたから」
「そう。ニアは誰が優勝すると思う?」
「うーん。皆素敵だから、俺には決められないな」
「贅沢ね、ニア」
ニアは少し恥ずかしそうに笑い、舞台に目を向ける。
「でもゾイアは堂々としていて、かっこいいと思うよ」
「ゾイアが喜ぶ。ニアは目の付け所がいいわね」
私も舞台に視線を戻す。出番を終えたゾイアは、後ろに一列に並んで、今の主役のことを穏やかな笑みで見ている。彼女が最後の参加者。これが終われば優勝者の発表だ。
「ロミィ、この後時間ある?」
「時間ならいくらでもあるわ。ここにいる限り」
私はニアの方を見て、得意げに言ってみせた。クタルストンでの休暇の間は、時間に縛られることはない。ニアはそれに気がついたようでハッと息を吸った。
「そっか、そうだね。そしたら、あとでボートに乗ろう。今日はきっと湖の上は涼しいよ」
「いい提案!」
身体を弾ませた拍子に、カップの中の氷がカランと音を立てた。
「じゃあ、これが終わったら行こうか」
「うん。楽しみができてうれしいわ」
私が笑うと、ニアもそっと頬を緩ませる。その表情には、まだ幼さが残っていた。
「さぁ、今年のミス・クタルストンは—……!」
舞台の上では、いつの間にか進行役がカードを片手に観衆の期待を集めている。結果発表だ。私も、彼の口元をじっと見つめる。
「ゾイア・ハロル! おお! 二年連続の連覇です!」
進行役の声に、ゾイアが後ろで嬉しそうに跳ねた。ぴょんっと進行役の隣まで出て行き、観衆の拍手を一斉に浴びる。
「ゾイア! やった!」
私も思わず大きな声が出た。拍手をして、冠と賞状を受け取るゾイアを見守る。
「ありがとう! みんな!」
冠を被って、ゾイアは大きく手を振る。本当に嬉しそうだ。私まで嬉しくなってしまう。ゾイアの愛嬌たっぷりの笑顔に、観衆たちは惜しみない歓声を送ってくれた。
「おめでとう、ゾイア!」
コンテストが終わり、私はゾイアに駆け寄った。舞台を降りたゾイアは、お気に入りの水着に身を包んで私に抱き着く。
「勝てるはずと思っていたけど、やっぱりドキドキしちゃう! 名前を呼ばれるまで、自信を失いそうになったわ!」
ゾイアが私から離れると、ニアがそっと近づいてきた。
「おめでとうゾイア。スピーチ、とても良かったよ」
「ありがとうダッディさん! 動物保護の問題は、私の一番の関心事項なの!」
ゾイアはスピーチについて褒められたことに喜んだ。少し前のめりになってニアを見上げる。
「ゾイアの想いが伝わってきたよ」
「まぁ! ダッディさんってとっても見る目があるわ!」
「はははは、お姉さんと同じことを言う」
「そうなの? ロミィ?」
ゾイアは傾いた冠を直しながらこちらを見る。私は、小さく舌を出して肩をすくめた。
「そうだ、ゾイア、その水着もよく似合っているよ。君の瞳にぴったりだ」
「え? ありがとう……! そう言ってもらえて嬉しい!」
ゾイアはくるっと一回転する。その水着は、ニアと初対面の時にゾイアが着ていたものだ。あの時は、まぁ、少し気まずい感じになっちゃったけど。
私が思い出し笑いをすると、ニアとゾイアが首を傾げた。
「じゃあ、私は写真を撮ってくるから!」
ゾイアはカメラマンに呼ばれ、タッタッと駆けて行ってしまった。私とニアは、そのままボートに乗りに行く。
持っていたドリンクを乗り場でスタッフの人に返して、ニアに手を引かれてボートに乗り込む。
ボートに足を踏み入れると、湖面に浮くボートは少し揺らぐ。私はニアの手をぎゅっと掴んだ。
細いボートの中で向かい合うようにして座ると、ニアはオールを手に漕ぎ出した。水面にゆるやかな波が描かれ、ボートは桟橋を離れていった。
「やっぱり、涼しいね」
私は帽子を取り、頭皮に風を通す。汗で髪の毛が乱れているかもしれないから、またすぐに帽子を被った。
「うん。湖の音がちょうどいい感じ」
ボートを漕ぐニアは、少し周りを見回した。どんどん人のいる岸が遠くなっていく。この湖は広いから、一周するだけでも時間はそれなりにかかる。ずっとニアに漕いでもらうのも、なんだか気が引ける。
「ニア、私も漕いでみてもいい?」
ニヤッと笑い、ニアを見る。
「うん。いいよ」
ニアはオールを私に手渡してくれた。結構重くて、私は少しバランスを崩す。すかさずニアが支えてくれるけれど。気を取り直して、私も腕に力を入れて思い切り漕いでみる。
「思っていたよりも難しいのね! 変な方向へ進んでしまいそう」
「大丈夫だよ、そうしたら、また戻せばいい」
「簡単に言うのね、ニアは」
「何も気にしないで、思うままに漕げばいいよ」
ニアの寛容な言葉に甘えて、私は半分波に流されながら進む。湖とはいえ、海や川ほどじゃなくても、そこに自然の意思を感じた。
「ここにいると、本当に日常から切り離されたみたいだ」
「それは良いこと? 悪いこと?」
「さぁ、どうかな」
ニアは頬杖をついてニヤリと笑う。私は小さく頬を膨らませて、「教えてくれてもいいじゃない」と、文句を言うように呟く。
「でも、ロミィが気に入る理由もわかるな」
「でしょう? 分かってくれる?」
「ああ。毎日、目が覚めるのが楽しいから」
「ふふふ。気に入ってくれたようで何よりだわ」
クタルストンは別に私のものじゃないけれど。でも、やっぱり嬉しいから。
「それに、クタルストンでは父にある秘密を教えてもらえたしね。ずっと前に来た時にだけど。だから、なんだか幼少期に戻れる気がするんだ」
「秘密? なんだか魅力的な言葉ね」
「気になる?」
「分かってて言ってるんでしょう?」
ニアの見透かしたような瞳に、私は挑発的な視線を返す。
「ごめんごめん」
ニアは、参ったように笑い、頬杖をやめた。
「そうしたら、お詫びに、その秘密を教えてくれる?」
「秘密なのに?」
「存在を口にした時点で、もう秘密じゃないわよ」
「それは言えてる。……いいよ、ロミィ。君には教えてあげる」
「本当?」
ちょっと強引だっただろうか。
私が反省していると、ニアはオールを求めて手を伸ばしてくる。要求通りにすると、私はほっと息を吐き、休憩をする。やっぱり漕ぎ慣れていないと疲れてしまう。その体力のなさに、少しだけ恥ずかしくなる。
「じゃあ、秘密まで参りまーす」
「え? どこかへ行くの?」
ニアが漕ぎだすと、さっきまでとは違って大きく、しっかりとボートが動き出す。乗り物に乗っている感覚を久しぶりに思い出させてくれる。私の問いには、ニアは笑って誤魔化してくるけれど。
秘密だから、あまり人のいないところへ行くのかもしれない。誰が聞いているか分からないものね。
そう言い聞かせ、私は納得した気になった。
ニアはその間も迷わずボートを漕ぎ、ボートは垂れた枝葉に囲まれた湖の小道を進む。アーチのように迎え入れてくれるその低木に触れ、私は後ろを振り返る。まだ少し、この小道は続いているみたい。
まるで絵本で見る不思議の国の入り口みたいに、その先は太陽に照らされ、柔らかな陽が包んでいてよく見えなかった。目がその光になれてくると、ようやく私たちはそのアーチを抜ける。
「わぁ!」
思わず感嘆の声が漏れる。
アーチを抜けた先には、木々と花々に囲まれた幻想的な世界が広がっていた。本当に絵本の中に来てしまったかのよう。
小鳥の歌声が枝を揺らし、はらりと葉っぱが落ちてくる。
水面には花弁が浮かび、それがまた波に揺れて煌めいていく。
面積としては狭いけれど、そこは誰にも知られていない秘密基地のように私たちを出迎える。
「ニア、秘密ってこれのこと?」
手のひらに陽だまりを映し、私は少し興奮した声を出す。
「そう。父が教えてくれたんだ」
ニアは木々に囲まれたドームのような空を見上げ、顔を綻ばせる。
「ここは特別な場所だけど、知る人は少ないとね」
「ええ、そう思うわ! 私も知らなかったもの。まだ知らない場所があるって、なんて面白いの」
きっと、目を輝かせていたと思う。私を見て、ニアは優しく目を細める。
「楽しんでもらえたみたいで良かった」
「楽しいなんてものじゃない! 新たな発見って、とても心が躍るのね。今すぐにでも冒険に出たくなっちゃう!」
「はははは! 冒険、いいなぁ。俺もしてみたいよ」
きょろきょろと辺りを見る私に、ニアは軽快な笑い声を出す。なんだか、軽やかな気持ち。ここは私の知らない場所。そのせいなのか、私は気分が高揚する。こんな素敵な場所、今までもずっとここにあったのだろうか。そう思うと、これまで見落としてきたことがなんだか勿体ない気もしてくる。
「ニア、ありがとう。とても素敵な秘密を教えてくれて」
「どういたしまして」
「この秘密は、大事に守るからね」
人差し指を口に当て、私はそう約束をする。
知らない世界。まさにそれは、今生きる世界そのまま。
だけど、まったく知らないわけじゃない。知らないのは、その先の展開だけ。そこに心が生きている限り、先の展開なんて読めない。それが普通のこと。ようやくそれを思い出して、慣れてきたと思ったけれど……。
「本当に、とっても美しいところね」
景色すらも、まだまだ瞳に映しきれていなかったとは。
この世界を切り離して、本当に良かった。
私は目を閉じて、愛おしさに満ちた空気を吸い込む。
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