操り人形の外の世界

冠つらら

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35.見知らぬ街並み

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 明日からホリデー期間に入る今日この日、送迎場に来た私は、深緑色の丸い顔をした車の前で深呼吸をした。
 白い手袋をした、ワカモイさんよりも若い運転手が後部座席の扉を開けると、颯爽と歩いてきたオルメアがポンッと私の肩を通り過ぎざまに叩く。

「ロミィ、行こうか」
「う……うん」

 手に持った鞄に力が入る。運転手にエスコートされ、オルメアを待たせないためにも車に乗り込んで手のひらを見てみれば、すっかり赤くなってしまっている。
 パタン、と優しくドアが閉まる。

「ごめんね、誘ったのに待たせてしまって」
「ううん。先生に呼ばれていたのでしょう?」
「ああ。父によろしくってさ」

 片手に上げた小さな箱の中からリンリンと鈴の音が聞こえてくると、オルメアは砕けたように笑う。彼が持っている小さなプレゼントは先生からのものだろうか。オルメアのお父様が協賛しているエアレースの鑑賞券を求めて、レースの大ファンの先生が贈り物をしてきたらしい。
 丁寧に帽子を被り、準備を整えた運転手にオルメアが合図を送ると、滑らかにタイヤが動き出す。

 慣れない車の中で、すぐ隣にオルメアが座っている。
 運転手は当然、運転に集中しているから余計な音は一切出さない。
 ワカモイさんと違って音楽やラジオをかけることもないから、三人だけの車内はそれぞれの息遣いが聞こえるほどに静かだった。窓の外を並走する他の車のエンジン音だけが耳に情報を与えてくれる。

 座り心地は少し硬いシートの上で、ぎこちない私はいつの間にか肩をすくめていた。居心地が悪いわけではない。けれど、社内に漂う優雅な香りに心が満たされると同時に張り詰めていく。
 オルメアの家の車に乗ったのは初めてだ。
 それを体感している今、その事実だけで胸が高鳴る。オルメアはプレゼントをそっとシートに置き、窓の外を見て整った唇でほのかに曲線を描く。

 何を見ているのだろう。
 慣れた空間にいるからなのか、先ほどまで学院にいたオルメアとは違って肩の力が抜けているように見えた。
 彼の視線を追いかけようと、控えめに反対側の窓の外の景色を窺う。
 まだ明るいのでライトアップはされていないけれど、街中を彩る祝福の飾りが陽の光を反射して繊細な光彩を放っていた。

 車は、見慣れた街を走り続ける。お馴染みの景色を通り過ぎていく時間はあっという間だった。車が大通りで左に曲がると、見た記憶の薄い街並みへと入っていく。
 これから、オルメアから前に相談を受けたイディナ・ローレンさんの家へ訪ねるのだ。
 イディナさんの家はオルメアの家のすぐ近くで、私は彼の住む区域へはあまり行ったことがない。彼の家はこの街でも有数の高級住宅地だ。私の家は街から少し離れた場所にあるから、ほぼ反対側のこちらへは用事がなかったのだ。

 知らない景色をもっと見ようとフロントガラス越しの世界に首を伸ばして興味を示した私にオルメアが気づき、その様子に何を思ったのか申し訳なさそうな顔をする。

「休暇の前なのに、ごめんね急で。忙しかったよね?」

 眉間に皺でも寄っていたのだろうか。そんなつもりは全くなかったけれど、知らない街への興味が無意識に難しい顔をさせていたかもしれない。

「いいの。私が会いたい、って言ったことなんだから」

 慌てて首を横に振ると、ほんの少し目が回った。

「今日はイディナさんの家の装飾の続きをしようと思ってね」
「クリスマスの?」
「そう。新しい年を迎える準備だよ。前に、急用が入って中途半端なままだったから……」
「そうだったの。オルメアは優しいのね」

 恥ずかしそうに笑う彼の小さな笑い声が私の胸を叩く。さっき、勘違いをさせてしまったかもしれないから、彼の反応にほっとした。

「優しくなんてないよ。イディナさんにとっては迷惑なのかもしれないし。僕の自己満足かも」

 遠い目をするオルメアは眉を下げる。私はその表情に胸がきゅっと締め付けられた。

「自己満足だとしても、本心はきっと彼女に届いているはずよ」
「そうだといいけど……」

 自信がないなぁ、と、彼は普段は見せない弱音を零した。垣間見えた彼の素顔をもっと見たいと求めてしまう私は、はやる気持ちを押さえつける。

「イディナさんって、どんな方?」
「そうだなぁ……。両親が今以上に忙しかった頃、僕はまだ小さくて、周りに同年代の子どもも少なかったからよく一人で遊んでいたんだ。そしたら近所のイディナさんがそれを見かねて遊び相手になってくれたんだ。僕にとってはもう一人の祖母みたいな存在だよ。だから、勝手に心配してしまうんだ」
「……イディナさんは、お一人なの?」
「ああ。旦那さんを亡くしてからはずっと一人だ。子どもはいなかったと聞いている」
「そうなのね。そうしたら、イディナさんにとってもオルメアは孫みたいな存在かしら?」
「……そう思ってくれていたのなら、嬉しいけどね」

 はにかむオルメアは、それを隠すように重ねて微笑む。そうすると、また彼の素顔が見えなくなってしまう。隠さなくていいのに。もっと、私に心を開いて欲しい。
 勝手な望みをしているのは私の方だ。
 オルメアのイディナさんへの愛情は、ただただ純粋で、私のこれとは大きく違う。
 自分が情けなくなり、また景色に目を移すオルメアの隣で膝に置いた鞄を握りしめた。
 きっとまた、手は真っ赤になる。



 それから十五分ほど経ったところで、私たちを乗せた車は音もなく止まった。
 顔を上げると、窓の外には薄いオレンジと黄色に塗られた家が見えた。私の家よりも少し小さいけれど、普通の住宅街で見る家と同じくらいの大きさだ。

 車を降りると、庭は枯れ葉が残り、その下に雑草が少し生えていて、そこまで完璧に手入れをされている様子ではないようだった。オルメアが雑草を見下ろして反省するように顔をしかめたので、きっと彼がここの手入れも手伝っているのだろう。
 閑静な住宅地で、隣の家との感覚も均整に保たれていて、通る空気が一層澄んでいるように思えた。

 オルメアの後ろに続き、呼び鈴を鳴らして私は扉が開くのを待った。庭には何も置いていなくて、広さも相まって余計に殺風景に見える。ここでオルメアも小さなころ遊んでいたのかな。そう思うと、私が永遠に見ることのできない彼の幼少期の残像がそこにあるようでドキドキした。

「……オルメア?」

 ゆっくりと開かれた扉の向こうから、しゃがれた声が聞こえてくる。
「こんにちは、イディナさん。今日は友だちも来ているんです」
「……まぁ、そうなの。……いらっしゃい」

 背中が丸くなった小さなおばあ様は、化粧はしていないものの美しく艶めくシルバーの髪の毛はきっちりとお団子にセットされていた。
 その艶めきから、彼女が髪の手入れをしっかりしていることが見てとれる。
 皺のある顔は笑うことはなかったけれど、窪んだ瞳は私のことを歓迎してくれる温度を感じた。

「お邪魔します」

 部屋の中はアンティークな家具でまとめられていて、踏んだ絨毯は長年使った証拠にその模様の本領を大きく発揮していた。イディナさんは物を大事にする人なのだろう。使うほどに磨かれる調度品が、その性格をはっきりと映していた。
 イディナさんは入ってすぐのリビングの椅子に腰を掛け、飲みかけの紅茶のカップを手に取る。
 オルメアは私にソファに座るように促すと、慣れた様子でキッチンの方まで進んで行った。
 しばしの間二人きりになった私は、視線をカップに向けたままのイディナさんの表情を観察するように窺った。

「あの……ロミィといいます。はじめまして」
「……はじめまして、ロミィ」

 年季を感じる彼女の堂々とした佇まいに、掠れた声すら威厳を感じる。
 けれどその後は頑なに口を閉じたままで、私の方を見ようともしなかった。すっかり心を閉ざしてしまったのは本当みたい。

 きょろきょろとリビングの中を見回してみると、飾られた写真はどれも古いものばかりだけれど、決まって二人で写っている。きっと彼が旦那さんだ。快活そうな笑顔の紳士の傍らに無邪気に笑う若きイディナさんが寄り添っている。この写真を見ただけで、二人がどんなに良い関係だったのかが伝わってきた。
 多分、二人は好奇心に満ち溢れていて、どんなことも楽しんで乗り越えてきてしまったのだと思う。
 写真の中で彼と彼女は、互いを信頼した素顔のまま、その記憶を閉じ込めていた。

「ロミィ、どうぞ」

 そうしている間に、オルメアが可愛らしいドット模様のカップに紅茶を淹れて目の前の机に置いてくれた。オルメアの手には波模様のマグカップ。湯気の立っているその中身を一口飲み、にっこりと笑っている。
 オルメアが淹れてくれた紅茶を口に含むと、甘い誘惑が口の中に広がった。向かいの椅子に座るオルメアはイディナさんと会話を始めたけれど、私はその紅茶の海の中でぽかぽかとする頬が緩んでいくのを俯いて隠す。

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