操り人形の外の世界

冠つらら

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55.最後の課題

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 休日の今日は、もう何をするかを決めていた。
 私は急いで身支度をして家を飛び出す。ワカモイさんが送ってくれると言ってくれたけど、折角だからと自分の足で街まで向かうことにした。

 街に着く頃には、少し歩き疲れてしまったけれど、その疲れさえも吹き飛ぶことをこれからするから、私はまったく気にしていなかった。
 何ブロックか歩き、目的地まで一直線に向かう。寄り道なんてしている心の余裕はない。本当なら駆け出したいくらいなのだから。

 祖母の手癖で書かれた文字が彫られた看板が目に入ると、私は足を止めて一文字一文字を心に刻む。
 看板の下に目を向けると、何人かの女性がちょうど店内に入っていくところが見えた。どうやらデパートで働く同僚仲間のようだ。聞こえてくる会話に耳を傾ける。
 ここは私の家から一番近いところにあるミヨンレ・プロストのブティックだ。祖母がこの場所から始めた、記念すべきお店。

 当然のことながら私の顔はスタッフの人たちに知られてしまっているので、気を遣って欲しくない私はこっそり中を覗き込む。不審者すれすれの行動に緊張感を持っていたはずなのに、見えてきた光景にそんな懸念は忘れてしまった。
 店内では、先ほど入店した女性たちが、各々気になるワンピースを手に取り、鏡の前で合わせている。三人はきゃいきゃいと盛り上がりながら感想を言い合い、あれもこれもと次々と鏡の前に立つ。

 そこから少し離れたところでは、スタッフの一人が真剣に服を選ぶ女性の傍らに立ち、悩みに歪んだ顔をしている彼女に似合いそうな鮮やかな黄色のスカートを差し出す。
 すると途方に暮れていた彼女の顔は一気に明るくなり、スカートを手にして何かをスタッフに伝えている。

 私が焦がれ続けた世界がこの中にはあった。
 店内の様子を見ているだけでも心が躍り出す。私はまだ何もできない、ミヨンレ・プロストの娘でしかない。
 けれどいつか、必ずこの看板に恥じないブランドを引き継いでみせる。
 待ち遠しくて息が荒くなってしまいそうだった。私は深呼吸をして店内から視線を離す。まだどきどきが止まらない。私はいつだって、この店に心をときめかせてしまうのだ。
 ふと通りの向こうを見ると、また違ったときめきが胸を走る。

「オルメア!」

 気分が高揚しているのだろう。私は彼を呼び、大きく手を振った。
 オルメアは私に気づき、道路をきょろきょろと見て車の往来がないかを確かめた後でこちらに小走りでやってきた。

「ロミィ、奇遇だね」
「ええ。オルメアは買い物?」
「うん。試験も終わったし、たまには街に出ようって。ロミィと散歩した時、楽しかったからさ」
「……そ、そう! ふふ、楽しそうね」
「ははっ。でも、ロミィには負けるかな」
「……えっ?」

 どういう意味か分からなくて、私はたらりと冷や汗を流す。

「ロミィ、すごくいい笑顔してる。何かいいことあった?」
「え、えっと……。ふふ、そうね、うん、そうなの」

 そんなに顔に出ていただろうか。私は表情筋の使い方を忘れてしまい、ふやけた顔のまま肯定する。
 オルメアは看板を見上げ、ここが何の店なのかを認識したようだ。朗らかな瞳を緩ませた。

「お店の偵察?」
「そんなところ……かな? ふふふ、不思議よね、この中を見ていると、私まで笑顔になってしまうの。皆の笑顔が嬉しくて……。どうかその笑顔を守らせてって、思ってしまうのよね」
「……うん、確かに、皆いい顔してる」

 オルメアもちらりとガラス窓の向こうを見て呟く。

「今ね、自分を鼓舞しに来ていたの。だから、ふふ……みっともない顔見られちゃったかな?」
「とんでもないよ、ロミィ」

 オルメアははにかむ私に対して小さく首を横に振る。

「君の出来ることを、ロミィはちゃんと見つけたんだ。ロミィ、本当に素敵な笑顔だよ。前にロミィが言っていただろう? 見方を変えれば、違う扉が開かれるって」
「うん。覚えてくれていたの?」
「ああ、もちろんだ。その言葉に僕は救われた」
「えっ……」

 ヒーローを見るような眼差しに、私はどぎまぎしてしまう。

「僕の家の会社は確かに、軍事事業に手を貸している。けれど、それだけじゃない。これまでの技術を使って、人を守れるものだって作れるはずだ。社会に平穏を与えられるようなね。ロミィ、僕も皆の笑顔を守りたいんだ。まだ僕には難しいことばかりだ。だけど、世の中にそういうものを提供していきたい」

 彼の瞳には、これまで見たことがない光が見えた。
 前に見え隠れしていた暗く沈んだものはもう見る影もない。

「ロミィ、君のおかげだ。ようやく僕は、飛行機が好きだって、胸を張って言えるようになれたよ」
「……オルメア」

 彼の逞しい顔つきに思わず魅入ってしまう。それに彼の決意。胸を震わすその大志に、私は愛しさが止まらなくなる。
 私の気持ちが、ほんの僅かでも彼に届いた。投げた糸が希望を繋いでくれた。そう、思ってしまっても間違いじゃないのだろうか。そこで私は、オルメアにハンカチを返していないことに気づく。

「オルメアなら、きっと大丈夫。私だって……ううん。皆、皆これからなんだもの」

 いつか返そうと、ずっと持ち歩いていたハンカチの入った封筒をそっと鞄から取り出した。

「ああ、ロミィ。これからだ」
「うん。……あ、あのね、オルメア」

 私が封筒を差し出すと、オルメアはその正体にピンときたようで、微笑んで受け取る。
 これでもう、ハンカチの繋がりは消えてしまった。
 ハンカチだけの繋がりなんて物足りない。でも、その盾を失った今、何をすればいいのかはもう分かっている。
 私は慎重に深呼吸をした。気を抜くと心臓が口から飛び出てきそうだ。

「プロムに、一緒に行かない……?」

 オルメアの顔を見るのが怖いけれど、縋るものがないと緊張で立っていられない。私はこれまで幾度となく求め続けてきた彼を見上げることで、どうにか背骨が折れないことを保つ。
 オルメアは私の誘いを聞き、受け取った封筒から目を離し、不意に頬を緩ませる。

「もちろんだよ、ロミィ」

 短い返事だった。
 でもそのシンプルな回答に、私の栓は頭の先から抜けてしまった。
 つま先から頭の頂上まで熱が登っていき、無意識のうちに瞳が潤む。

「あ、ありがとう……オルメア」
「こちらこそ。誘ってもらえて光栄だよ」

 残した課題を終えた私は、斜め上にある彼の微笑みに見つめられ、羽が生えたように身体が浮かんでいってしまいそうだった。




 年間評価を受け取った私は、封も開けずにロッカーまで向かう。
 荷物を整え、気持ちの整理もついたところでようやく糊付けされていない封を開ける。
 評価は、紙を引き出したすぐ上に記載があるものだから、否応なしに結果が飛び込んできた。

「……SS」

 何度か瞬きをして、目をこすった。
 幻じゃない。

「……嘘……! うそ……」

 ロッカーを力なく閉じると、そこにもたれるようにして寄りかかる。
 もう一度通知に目を通してみても、書かれた文字は変わらない。
 ロミィ・ハロル 年間評価:SS

「……やった……」

 声にならない歓喜が空気となって零れる。
 SSなんて、これまで取ったことがなかった。
 Sまでならどうにか取ることはできた。でもその先に伸びることがなかなかできなかったのだ。
 廊下を行き交う生徒をぼうっと見つめながら、通知の紙を胸に押し当てる。
 ついにやったのだ。
 夏休みにオルメアに宣言した時。あの時はまだ、半分冗談のつもりだった。奇跡の体験に浮かれていて、本当に取れるなんて自信はなかった。
 ただオルメアと会話出来たことが嬉しくて出てきた強がりだ。

「ロミィ、どうだった?」

 封筒を手にしたベラとエレノアが私を見つけて笑顔で近づいてくる。
 私は口をパクパクとさせた後で、まだ少し遠くにいた二人に駆け寄り思い切り抱きつく。

「はははっ。ロミィの結果は上々みたいだねぇ」

 ベラが勢い余って飛びついてきた私を受け止めながら背中を叩いて上機嫌に言う。

「そうみたいね。ふふ、何よりだわ」

 エレノアも優しく背中を撫でてくれた。

「二人はどうだった……?」

 顔を上げて離れた私は、友人の顔を交互に見る。

「私はSだったよ。初めて取っちゃった!」

 ベラが満面の笑みで通知書を開く。誇らしげに掲げたSの文字に、私も自分のことのように嬉しくなった。

「私はいつも通りだけれど、ふふ……上出来だったわ」

 エレノアも私と同じくSSだった。彼女のことは今年度からよく知るようになった。でもやっぱり根っからの努力家で優秀なようだ。それはベラも同じだけれど。

「これであとはプロムを楽しむだけだね。ふふ、やったぁ」
「まぁベラ、まだ来年があるのに」

 ほくそ笑むベラを窘めるようにエレノアが小突く。

「そうだけど、今は今だけだから。来年のことはまた夏休みに考えまーす」

 敬礼をするベラはぴしっと背筋を伸ばす。

「ふふふ。まぁ、そうね。プロムは楽しみだもの」
「ルージー、一体どんなティアラを選ぶのかしら?」

 考え込むような仕草をして見せると、エレノアは恥ずかしそうにはにかんだ。
 ベラのティアラは、私からプレゼントをする予定になっている。一人で参加すると言っていたベラだけど、相手がいようがいまいが、私たちの大事な仲間だから。どうしても贈りたい私が彼女に提案した。
 ベラは喜んで受け入れてくれて、エレノアと二人でベラに似合うティアラを選んだのだ。

「当日が楽しみね、二人とも」

 ニヤニヤと笑うベラは、通知書を封筒にしまってふふんと鼻を鳴らす。

「もう、ベラったら……」

 彼女の視線がこそばゆくて、私はエレノアとベラを挟み込んで照れを隠すようにもの言いたげな目で責めた。

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