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56.私の声
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ジュニアプロムの当日、私はすでにお気に入りとなったドレスに身を包み、念入りに化粧を施した顔を鏡で確認する。キラキラと輝く瞼は控えめに、それでいてドレスに合うように大人しくなりすぎないくらいの具合だった。くるんとカールした睫がなだらかに上を向き、それを追うことで背筋が伸びる。
最後に母から譲り受けた香水を首と手首に一度プッシュし、空気にくぐらせて部屋を出た。
「ロミィ、綺麗……!」
玄関で待ち受けていたゾイアは瞳をうるうるとさせて手を握ってくる。手袋の上から感じる妹の体温が私に自信を与えてくれた。
父と母も私を見送るために玄関に出てきて、気の早い父は目頭を押さえる。
「もう、まだジュニアプロムでしょう」
母にそう言われても、父は小さく頷いただけだった。
「ロミィお嬢様」
そこにケリーがやってくる。
「お迎えですよ」
ケリーは私と目が合うと、優しく口元を緩ませた。
そのまま玄関を開けたケリーに導かれ、プロム向けの仰々しすぎない正装をしたオルメアが姿を現す。
「こんばんは、皆さん」
「こんばんは!」
ゾイアが元気よく答える。父と母に会釈をしたオルメアは、夜の空気を纏って洗練されたオルメアの品格が漂う佇まいに早くものぼせそうになり、さっと一歩後ろに下がった私を見つけた。
「ロミィ、お待たせ」
「……ううん。時間ちょうどよ」
彼の顔が真っ直ぐに見れなくて、視界に入ってきた時計を見ながら思ったままのことを言う。
「はは、それは何よりだ。行こうか、ロミィ」
「……うん」
オルメアに手を引かれて、私の強張っていた足が動き出す。出る前に父と母にキスをして、ゾイアと抱き合った。
「がんばれ、ロミィ」
耳元でそう囁いたゾイアは、いたずらな笑みで私を見送った。
家の外に出ると、オルメアが運転してきた車が停まっていて、ワカモイさんが丁寧にお辞儀をする。
「行ってきます」
ワカモイさんにも挨拶をして、私は星空を一度見やる。その間にオルメアは助手席の扉を開けてくれて、呼ばれた私は緊張しながら車に乗り込む。
前にイディナさんの家に行った時とは違う車だったけれど、中の雅やかな香りは変わらなかった。
「ロミィ、そのドレス、ロミィにぴったりだ。すごく綺麗だよ」
「……! あ、ありがとう……オルメア……」
最も私がドレス姿を見せたかった人。
運転席に座ったオルメアは、一語の違いもなく求めていた言葉を贈ってくれた。
「出発するね」
「うん」
ハンドルに手をかけるオルメアに向かって頷くと、一度私を見て微笑んだオルメアはゆっくりと車を走らせた。
車内は二人しかいないから、どちらも黙っていたら当然静かなままだ。
それを気まずいとは思わなかったけれど、オルメアはどう思っているんだろう。私は、胸の音が鎮まらないまま不安になる。
「そういえば」
しばらくして、オルメアが口を開く。
「年間評価、SS取ったんだって?」
「ええ。そうなの。……誰から聞いたの?」
まだオルメアには言っていなかったのに。私は不思議に思い首を傾げる。
「ニアだよ。この前、ちょっと話した時に」
「……ニアったら、お喋りね」
そう言いながらも笑みが零れる。ニアらしいと言えばそうなのかもしれない。
「宣言通りだね、ロミィ。おめでとう」
「ありがとうオルメア」
当然オルメアもSSを取ったことは知っている。そういえば私もこれはエレノアから聞いたものだった。まったく、皆お喋りだ。でもそんな皆が大好きだ。
車で学院に向かっていると、慣れた道だからかとても近く感じた。もうあと少しで着いてしまう。まだそんなの会話もできていないのに。
緊張にすべてを遮られている感覚に陥り、私は気を取り直そうとベールを取り出した。ベールと言ってもバンダナのように小さいもので、これもジュニアプロムのしきたりに則っている。
ティアラを被るペアの一人は、ティアラを贈られる前までは頭に別の飾りを付けることになっているのだ。カチューシャでもいいし、花飾りでも、バンダナでもなんでもいい。
だから私はドレスに合わせて、少し透け感のあるバンダナをベールのように頭に巻くことにした。学院に着く前に支度をしていないと。私はオルメアが運転している隣で頭に布を被る。
視界が遮られてオルメアのことが見えなくなった。そのおかげか、冷静さを少し取り戻した。
「車を停めているから、ロミィは先に会場の前に行っていてね」
「うん」
外で待たせるのは悪いと思っているのだろう。私は彼の思い遣りに頷く。
あっという間についてしまった学院。今日はいつもよりロマンチックに見えるのは気のせいだろうか。いや、でも、正装をした生徒たちが次々に会場に向かっているところを見ると、私の気のせいでもないだろう。
車を降りた私は、オルメアに手を振ってゆっくりと会場まで歩いていく。
彼の残り香を纏っているような気がして、ベールをそっと掴む。すると心が華やいでいくのが分かる。
無理だと思っていたSSを取れた。勇気を出してオルメアをプロムに誘った。ルージーの思いがけない葛藤を知った。友人であるニアの気持ちに揺さぶられた。ベラの明るさに救われた。エレノアと無二の友人になれた。そして……。
ベールの下から空を覗く。あの夜のように星は静かに瞬いている。見ず知らずの場所で目覚めた私は男性になっていて、世界の秘密を知った。
身を切るような思いに色のない血を流し続け、吸い込んでいる空気に吐き気を催した。
そんな毎日から逃れたくて。
シナリオというマリオネットの糸を切ったあの日、私たちは自由という意味を知った。
まだ、夢を見ている感覚だ。
でもこれは悪夢なんかじゃなくて、私たちが自分で作っていく夢の中。
もしあの奇跡がなかったら、私はオルメアと二度と口を利くこともできず、ニアも想いを伝えられず、ルージーとエレノアも苦悩を閉じ込めたまま。ベラだって笑顔を失っていた。
瞼を閉じて、吸いなれたはずの空気を身体中に巡らせる。
胸が広がると、私がそこに生きていることが分かって心地よかった。
瞼を開け振り返ると、こちらに歩いてくるオルメアの姿を捉える。
どうしてあんなに苦しかったのか。それはよく分かっているはずだ。
あの日募らせた想いがつい昨日のことのようにこみ上げてくる。でもそれもそのはずだ。私がずっと望んでいたこと。それは彼に正面から恋をすることだった。
目の前まで来たオルメアをそっと見上げる。
会場に向かう人の流れは気づけば少なくなっていて、残されたのは私とオルメアだけだ。
オルメアはまだ中に入っていなかった私を見て不意に微笑む。
心臓が飛び跳ねた。
嬉しい。
私は、嬉しいんだ。
自分の気持ちに素直に生きていられるって、なんて幸せで恵まれているのだろう。
「オルメア」
彼は私の言葉を待っているように思えた。柔らかな眼差しが私の緊張を溶かしていく。
「……私、ずっと、ずっ……と」
駄目だ。言えない。
ここまで来て臆病な私は、ぽろぽろと涙を流す。大好きな人が霞行き見えなくなってしまう。
「ロミィ」
オルメアの声は、無理をしなくていいと言ってくれているように聞こえた。私の手を握って、そっと身体を引き寄せる。私はオルメアの両手を握ったまま彼の身体にそっと触れる。
求めていた温もりにまた涙がこぼれてくる。彼の胸元は想像していたよりもずっと大きくて、すべてを委ねてしまいたくなった。
でも、ここで止まってしまったらだめなんだ。私ならできる。ちゃんと、ちゃんと言うから。
震える指先で、ぎゅっとオルメアの手を握り返す。額が上質なシャツを擦る。顔を上げた私はオルメアの身体から離れ、しかと彼の瞳を捉えた。
「あなたと、友だちで、私、本当に……幸運だった。あなたの、あなたと一緒に……一緒に、課題……勉強とか、頑張って取り組んだり……くだらないことで、笑ったり……」
息を整えながらゆっくり言葉を紡ぐ。握った手から伝わる彼の存在に、私は背筋を伸ばした。
「私、オルメアが、何か悩んでいるって知って……力になりたかった。わ、私に、何かできたのかは分からない。で、も……どうしても、あなたの手を取りたかったの……」
瞬きをすると、また涙が頬を伝う。
「あなたの、隣で……そばにいたくて……」
もう一度息を吸い込む。
「私、オルメアが好き。何度だって、きっとあなたに恋をする。……苦しいほどに、大好きなの」
ようやく口を出て行った想いに、私は知らぬ間にゆるやかに微笑んでいた。
もう逃げない。
やっとつかんだ、私の恋だ。
「ロミィ」
息を含んだ声でオルメアが私の名前を呼ぶ。繋いだ手はそのままに、オルメアはベールで隠れた頭にその端正な顔を近づける。
「やっぱり君が羨ましいよ」
「……え?」
息遣いが聞こえるほどに近づいたオルメアの顔を瞳だけで見上げた。
「僕にはそんな美しい言葉は紡げないから」
オルメアの瞳に見惚れる暇もなく、ゆっくりと手を離したオルメアはその手を私の背中に回して抱きしめた。
「……オルメアっ」
急なことに心の準備が出来ていなかった私は、水を取り上げられた魚のように心臓が止まりそうになって空いた手をどうしたらいいのか分からなくなる。
まずい。鼓動が直にオルメアに伝わってしまう。
もうのぼせすぎて眩暈がしてきた私はぐるぐると思考が鈍い方へと回る。
「ロミィ」
けれど彼の声が私を取り戻してくれた。少し心を落ち着けた私は、行方を失っていた手でオルメアの腕を掴んだ。
オルメアは私の顔が見れるように少しだけ腕の力を緩めてこちらを見つめる。
「君が好きだ」
たった一言が、私の時を止めてしまった。
幻聴ではないだろうか。
やけに冷静なまま彼の瞳を見上げる。するとそこに見えた彼の気持ちに気づき、冷静だった心も途端に熱が上がっていく。
「う、うそ……うそだ……本当……?」
「はははっ。どうしてそんな嘘をつく必要がある? ロミィ」
「で、でも……でも、そんな……」
彼が嘘をつくなんて思っていない。当然、真実なのだろう。でも、あまりにも嬉しくて、現実味が持てない。
「君をプロムに誘おうと、何度か言おうとした。でも、今はもう、すっかり忘れてしまったけど、前に見た夢が邪魔をして、言えなかった。かっこ悪くて、ごめん」
「……ううん!」
「でもあの雨の日に君に話したことで、迷いはなくなったんだ」
揺るぎのない彼の瞳に私が映る。そこで私はようやく実感する。これは現実なのだと。
「ロミィ。こんな弱虫な僕だけど……君の隣にいてもいいかな……?」
珍しく緊張した表情をするオルメアは、自信がなさそうに強張っているように見えた。
「……当たり前でしょう。オルメア、私があなたに恋するために、どれだけ夢を見ていたか、知っている?」
それはもう、次元の壁を越えて。
オルメアの緊張を解きたくて、彼の笑顔が見たくなった私は彼の頬を両手で挟み込んで笑いかける。
「あなただから、オルメアが好きなの」
もうすっかり、私の怯えは消えていった。
オルメアは私の名前を愛おしそうに呼ぶと、また力強く抱きしめる。逞しい彼に包まれて、私は思いのままに彼のことを抱きしめ返した。
会場の方から音楽が聞こえてくる。もうプロムは始まっているようだ。
音がする方向を見た私に、オルメアは思い出したようにポケットに入っていたティアラを取り出した。
「……すごい……綺麗」
暗闇でも分かるその輝きに私は目を奪われる。枝木に花があしらわれたようなフラワーモチーフの精巧なティアラは、シンプルな宝石が煌めいていて、星の光すら取り込んでしまいそうだった。
オルメアはベールのように纏った布に手をかけ、破いてしまわないように優しく頭から外す。
肩に落ちてきた布を見下ろしていると、視界をキラリとティアラが横切る。
ティアラを頭に載せてしっかりと固定させたオルメアは、私のことを見て嬉しそうに頬を綻ばせた。
「良かった。ロミィに似合うと思ったんだ。もっとも、君に似合わないものなんてないけどね」
「……まぁオルメア、相変わらず褒めるのが上手」
頭に乗った僅かな重みに触れ、思わず私の頬も綻んでいく。
オルメアは役目を終えたベールの布を折り畳み、胸のポケットに飾った。
ティアラと髪飾りを交換するのもお約束となっているからだ。
オルメアが私のためにティアラを探してくれたのだと思うと、もう歓喜でどうにかなってしまいそうだった。幸福感で胸がつまって苦しくなるなんて知らなかったことだ。
「そろそろ会場に行こうか」
「……ええ」
差し出された手を取って、私は一歩前に出た。けれど、すぐに立ち止まる。オルメアはそんな私を振り返り、小首を傾げた。
「オルメア、私……」
そういえば、さっき泣き腫らした瞳は赤くなっていないだろうか。それが不安になってしまったのだ。
会場はこことは違って明るい。泣いたことがすぐに分かってしまうはずだ。
「ロミィ、大丈夫」
オルメアは顔を寄せ、長い指で涙が流れた頬にそっと触れる。
「ロミィ、誰よりも愛らしくて勇敢な君のことを皆の前でエスコートできるなんて、こんなに誇らしいことはないよ」
またそうやって褒めて……。
そう言おうとしたところで、私の唇は柔らかなものに触れて塞がってしまう。
放心状態で目を閉じられずにいると、顔を離すオルメアが泰然とした様子でにこりと笑った。
「恥ずかしかったら、僕のそばにいればいい」
「……うん」
さっきのはなんだろう。
理解が追いつかないままに頷いた私は、彼とともに会場に向かう。音楽が大きくなるにつれて、さっきのオルメアのキスの余韻がじわじわとこみ上げてきた。
「……っ!」
声にならない声を出してオルメアの腕に頭を自ら打ち付けて会場に入る前に平静を装う。
オルメアは私の行動を温かい笑みで見守りながら煌々とした光に満ちる会場の入り口まで手を引いた。
「ロミィ、準備はいい?」
「ええ、オルメア。もちろん……ばっちりよ」
きりっと眉を上げた私を見て、オルメアはその光の中へと私を誘っていく。
会場の中には、それぞれの個性が見える装いでおめかしした生徒たちが、流れる音楽にのせて笑顔を咲かせていた。
見回してみると、エレノアとルージーが隅っこで楽しそうに話しているのが見える。一人で来ていたはずのベラは、次々に友人たちとダンスを繰り広げ、ニアとリーザはそんな様子を見て陽気に笑っている。
隣を見れば、愛する人が皆の様子を見て笑い声を零すのが見える。
これは皆のありのままの姿だ。
作為などに囚われない、自分のことを取り戻した人たち。
同時に私の大事な友人。そして、恋焦がれた大好きな人。
そう、シナリオなんていらない。私は、あの奇跡の日にすべての感謝をささげた。
もう怯える必要なんてない。
私たちは、これから先の道を、自分たちで歩んでいける。
最後に母から譲り受けた香水を首と手首に一度プッシュし、空気にくぐらせて部屋を出た。
「ロミィ、綺麗……!」
玄関で待ち受けていたゾイアは瞳をうるうるとさせて手を握ってくる。手袋の上から感じる妹の体温が私に自信を与えてくれた。
父と母も私を見送るために玄関に出てきて、気の早い父は目頭を押さえる。
「もう、まだジュニアプロムでしょう」
母にそう言われても、父は小さく頷いただけだった。
「ロミィお嬢様」
そこにケリーがやってくる。
「お迎えですよ」
ケリーは私と目が合うと、優しく口元を緩ませた。
そのまま玄関を開けたケリーに導かれ、プロム向けの仰々しすぎない正装をしたオルメアが姿を現す。
「こんばんは、皆さん」
「こんばんは!」
ゾイアが元気よく答える。父と母に会釈をしたオルメアは、夜の空気を纏って洗練されたオルメアの品格が漂う佇まいに早くものぼせそうになり、さっと一歩後ろに下がった私を見つけた。
「ロミィ、お待たせ」
「……ううん。時間ちょうどよ」
彼の顔が真っ直ぐに見れなくて、視界に入ってきた時計を見ながら思ったままのことを言う。
「はは、それは何よりだ。行こうか、ロミィ」
「……うん」
オルメアに手を引かれて、私の強張っていた足が動き出す。出る前に父と母にキスをして、ゾイアと抱き合った。
「がんばれ、ロミィ」
耳元でそう囁いたゾイアは、いたずらな笑みで私を見送った。
家の外に出ると、オルメアが運転してきた車が停まっていて、ワカモイさんが丁寧にお辞儀をする。
「行ってきます」
ワカモイさんにも挨拶をして、私は星空を一度見やる。その間にオルメアは助手席の扉を開けてくれて、呼ばれた私は緊張しながら車に乗り込む。
前にイディナさんの家に行った時とは違う車だったけれど、中の雅やかな香りは変わらなかった。
「ロミィ、そのドレス、ロミィにぴったりだ。すごく綺麗だよ」
「……! あ、ありがとう……オルメア……」
最も私がドレス姿を見せたかった人。
運転席に座ったオルメアは、一語の違いもなく求めていた言葉を贈ってくれた。
「出発するね」
「うん」
ハンドルに手をかけるオルメアに向かって頷くと、一度私を見て微笑んだオルメアはゆっくりと車を走らせた。
車内は二人しかいないから、どちらも黙っていたら当然静かなままだ。
それを気まずいとは思わなかったけれど、オルメアはどう思っているんだろう。私は、胸の音が鎮まらないまま不安になる。
「そういえば」
しばらくして、オルメアが口を開く。
「年間評価、SS取ったんだって?」
「ええ。そうなの。……誰から聞いたの?」
まだオルメアには言っていなかったのに。私は不思議に思い首を傾げる。
「ニアだよ。この前、ちょっと話した時に」
「……ニアったら、お喋りね」
そう言いながらも笑みが零れる。ニアらしいと言えばそうなのかもしれない。
「宣言通りだね、ロミィ。おめでとう」
「ありがとうオルメア」
当然オルメアもSSを取ったことは知っている。そういえば私もこれはエレノアから聞いたものだった。まったく、皆お喋りだ。でもそんな皆が大好きだ。
車で学院に向かっていると、慣れた道だからかとても近く感じた。もうあと少しで着いてしまう。まだそんなの会話もできていないのに。
緊張にすべてを遮られている感覚に陥り、私は気を取り直そうとベールを取り出した。ベールと言ってもバンダナのように小さいもので、これもジュニアプロムのしきたりに則っている。
ティアラを被るペアの一人は、ティアラを贈られる前までは頭に別の飾りを付けることになっているのだ。カチューシャでもいいし、花飾りでも、バンダナでもなんでもいい。
だから私はドレスに合わせて、少し透け感のあるバンダナをベールのように頭に巻くことにした。学院に着く前に支度をしていないと。私はオルメアが運転している隣で頭に布を被る。
視界が遮られてオルメアのことが見えなくなった。そのおかげか、冷静さを少し取り戻した。
「車を停めているから、ロミィは先に会場の前に行っていてね」
「うん」
外で待たせるのは悪いと思っているのだろう。私は彼の思い遣りに頷く。
あっという間についてしまった学院。今日はいつもよりロマンチックに見えるのは気のせいだろうか。いや、でも、正装をした生徒たちが次々に会場に向かっているところを見ると、私の気のせいでもないだろう。
車を降りた私は、オルメアに手を振ってゆっくりと会場まで歩いていく。
彼の残り香を纏っているような気がして、ベールをそっと掴む。すると心が華やいでいくのが分かる。
無理だと思っていたSSを取れた。勇気を出してオルメアをプロムに誘った。ルージーの思いがけない葛藤を知った。友人であるニアの気持ちに揺さぶられた。ベラの明るさに救われた。エレノアと無二の友人になれた。そして……。
ベールの下から空を覗く。あの夜のように星は静かに瞬いている。見ず知らずの場所で目覚めた私は男性になっていて、世界の秘密を知った。
身を切るような思いに色のない血を流し続け、吸い込んでいる空気に吐き気を催した。
そんな毎日から逃れたくて。
シナリオというマリオネットの糸を切ったあの日、私たちは自由という意味を知った。
まだ、夢を見ている感覚だ。
でもこれは悪夢なんかじゃなくて、私たちが自分で作っていく夢の中。
もしあの奇跡がなかったら、私はオルメアと二度と口を利くこともできず、ニアも想いを伝えられず、ルージーとエレノアも苦悩を閉じ込めたまま。ベラだって笑顔を失っていた。
瞼を閉じて、吸いなれたはずの空気を身体中に巡らせる。
胸が広がると、私がそこに生きていることが分かって心地よかった。
瞼を開け振り返ると、こちらに歩いてくるオルメアの姿を捉える。
どうしてあんなに苦しかったのか。それはよく分かっているはずだ。
あの日募らせた想いがつい昨日のことのようにこみ上げてくる。でもそれもそのはずだ。私がずっと望んでいたこと。それは彼に正面から恋をすることだった。
目の前まで来たオルメアをそっと見上げる。
会場に向かう人の流れは気づけば少なくなっていて、残されたのは私とオルメアだけだ。
オルメアはまだ中に入っていなかった私を見て不意に微笑む。
心臓が飛び跳ねた。
嬉しい。
私は、嬉しいんだ。
自分の気持ちに素直に生きていられるって、なんて幸せで恵まれているのだろう。
「オルメア」
彼は私の言葉を待っているように思えた。柔らかな眼差しが私の緊張を溶かしていく。
「……私、ずっと、ずっ……と」
駄目だ。言えない。
ここまで来て臆病な私は、ぽろぽろと涙を流す。大好きな人が霞行き見えなくなってしまう。
「ロミィ」
オルメアの声は、無理をしなくていいと言ってくれているように聞こえた。私の手を握って、そっと身体を引き寄せる。私はオルメアの両手を握ったまま彼の身体にそっと触れる。
求めていた温もりにまた涙がこぼれてくる。彼の胸元は想像していたよりもずっと大きくて、すべてを委ねてしまいたくなった。
でも、ここで止まってしまったらだめなんだ。私ならできる。ちゃんと、ちゃんと言うから。
震える指先で、ぎゅっとオルメアの手を握り返す。額が上質なシャツを擦る。顔を上げた私はオルメアの身体から離れ、しかと彼の瞳を捉えた。
「あなたと、友だちで、私、本当に……幸運だった。あなたの、あなたと一緒に……一緒に、課題……勉強とか、頑張って取り組んだり……くだらないことで、笑ったり……」
息を整えながらゆっくり言葉を紡ぐ。握った手から伝わる彼の存在に、私は背筋を伸ばした。
「私、オルメアが、何か悩んでいるって知って……力になりたかった。わ、私に、何かできたのかは分からない。で、も……どうしても、あなたの手を取りたかったの……」
瞬きをすると、また涙が頬を伝う。
「あなたの、隣で……そばにいたくて……」
もう一度息を吸い込む。
「私、オルメアが好き。何度だって、きっとあなたに恋をする。……苦しいほどに、大好きなの」
ようやく口を出て行った想いに、私は知らぬ間にゆるやかに微笑んでいた。
もう逃げない。
やっとつかんだ、私の恋だ。
「ロミィ」
息を含んだ声でオルメアが私の名前を呼ぶ。繋いだ手はそのままに、オルメアはベールで隠れた頭にその端正な顔を近づける。
「やっぱり君が羨ましいよ」
「……え?」
息遣いが聞こえるほどに近づいたオルメアの顔を瞳だけで見上げた。
「僕にはそんな美しい言葉は紡げないから」
オルメアの瞳に見惚れる暇もなく、ゆっくりと手を離したオルメアはその手を私の背中に回して抱きしめた。
「……オルメアっ」
急なことに心の準備が出来ていなかった私は、水を取り上げられた魚のように心臓が止まりそうになって空いた手をどうしたらいいのか分からなくなる。
まずい。鼓動が直にオルメアに伝わってしまう。
もうのぼせすぎて眩暈がしてきた私はぐるぐると思考が鈍い方へと回る。
「ロミィ」
けれど彼の声が私を取り戻してくれた。少し心を落ち着けた私は、行方を失っていた手でオルメアの腕を掴んだ。
オルメアは私の顔が見れるように少しだけ腕の力を緩めてこちらを見つめる。
「君が好きだ」
たった一言が、私の時を止めてしまった。
幻聴ではないだろうか。
やけに冷静なまま彼の瞳を見上げる。するとそこに見えた彼の気持ちに気づき、冷静だった心も途端に熱が上がっていく。
「う、うそ……うそだ……本当……?」
「はははっ。どうしてそんな嘘をつく必要がある? ロミィ」
「で、でも……でも、そんな……」
彼が嘘をつくなんて思っていない。当然、真実なのだろう。でも、あまりにも嬉しくて、現実味が持てない。
「君をプロムに誘おうと、何度か言おうとした。でも、今はもう、すっかり忘れてしまったけど、前に見た夢が邪魔をして、言えなかった。かっこ悪くて、ごめん」
「……ううん!」
「でもあの雨の日に君に話したことで、迷いはなくなったんだ」
揺るぎのない彼の瞳に私が映る。そこで私はようやく実感する。これは現実なのだと。
「ロミィ。こんな弱虫な僕だけど……君の隣にいてもいいかな……?」
珍しく緊張した表情をするオルメアは、自信がなさそうに強張っているように見えた。
「……当たり前でしょう。オルメア、私があなたに恋するために、どれだけ夢を見ていたか、知っている?」
それはもう、次元の壁を越えて。
オルメアの緊張を解きたくて、彼の笑顔が見たくなった私は彼の頬を両手で挟み込んで笑いかける。
「あなただから、オルメアが好きなの」
もうすっかり、私の怯えは消えていった。
オルメアは私の名前を愛おしそうに呼ぶと、また力強く抱きしめる。逞しい彼に包まれて、私は思いのままに彼のことを抱きしめ返した。
会場の方から音楽が聞こえてくる。もうプロムは始まっているようだ。
音がする方向を見た私に、オルメアは思い出したようにポケットに入っていたティアラを取り出した。
「……すごい……綺麗」
暗闇でも分かるその輝きに私は目を奪われる。枝木に花があしらわれたようなフラワーモチーフの精巧なティアラは、シンプルな宝石が煌めいていて、星の光すら取り込んでしまいそうだった。
オルメアはベールのように纏った布に手をかけ、破いてしまわないように優しく頭から外す。
肩に落ちてきた布を見下ろしていると、視界をキラリとティアラが横切る。
ティアラを頭に載せてしっかりと固定させたオルメアは、私のことを見て嬉しそうに頬を綻ばせた。
「良かった。ロミィに似合うと思ったんだ。もっとも、君に似合わないものなんてないけどね」
「……まぁオルメア、相変わらず褒めるのが上手」
頭に乗った僅かな重みに触れ、思わず私の頬も綻んでいく。
オルメアは役目を終えたベールの布を折り畳み、胸のポケットに飾った。
ティアラと髪飾りを交換するのもお約束となっているからだ。
オルメアが私のためにティアラを探してくれたのだと思うと、もう歓喜でどうにかなってしまいそうだった。幸福感で胸がつまって苦しくなるなんて知らなかったことだ。
「そろそろ会場に行こうか」
「……ええ」
差し出された手を取って、私は一歩前に出た。けれど、すぐに立ち止まる。オルメアはそんな私を振り返り、小首を傾げた。
「オルメア、私……」
そういえば、さっき泣き腫らした瞳は赤くなっていないだろうか。それが不安になってしまったのだ。
会場はこことは違って明るい。泣いたことがすぐに分かってしまうはずだ。
「ロミィ、大丈夫」
オルメアは顔を寄せ、長い指で涙が流れた頬にそっと触れる。
「ロミィ、誰よりも愛らしくて勇敢な君のことを皆の前でエスコートできるなんて、こんなに誇らしいことはないよ」
またそうやって褒めて……。
そう言おうとしたところで、私の唇は柔らかなものに触れて塞がってしまう。
放心状態で目を閉じられずにいると、顔を離すオルメアが泰然とした様子でにこりと笑った。
「恥ずかしかったら、僕のそばにいればいい」
「……うん」
さっきのはなんだろう。
理解が追いつかないままに頷いた私は、彼とともに会場に向かう。音楽が大きくなるにつれて、さっきのオルメアのキスの余韻がじわじわとこみ上げてきた。
「……っ!」
声にならない声を出してオルメアの腕に頭を自ら打ち付けて会場に入る前に平静を装う。
オルメアは私の行動を温かい笑みで見守りながら煌々とした光に満ちる会場の入り口まで手を引いた。
「ロミィ、準備はいい?」
「ええ、オルメア。もちろん……ばっちりよ」
きりっと眉を上げた私を見て、オルメアはその光の中へと私を誘っていく。
会場の中には、それぞれの個性が見える装いでおめかしした生徒たちが、流れる音楽にのせて笑顔を咲かせていた。
見回してみると、エレノアとルージーが隅っこで楽しそうに話しているのが見える。一人で来ていたはずのベラは、次々に友人たちとダンスを繰り広げ、ニアとリーザはそんな様子を見て陽気に笑っている。
隣を見れば、愛する人が皆の様子を見て笑い声を零すのが見える。
これは皆のありのままの姿だ。
作為などに囚われない、自分のことを取り戻した人たち。
同時に私の大事な友人。そして、恋焦がれた大好きな人。
そう、シナリオなんていらない。私は、あの奇跡の日にすべての感謝をささげた。
もう怯える必要なんてない。
私たちは、これから先の道を、自分たちで歩んでいける。
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じれったかったり、ハラハラしたり、
ドキドキしながら、
更新楽しみにして読ませて頂きました。
すごく爽やかな気持ちで読み終えました。
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