公主のひめごと

濱田みかん

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第一章

作戦会議と鬼軍曹

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 九瑶はその日も朝早くから出仕していた。
 昨日一昨日と仕事の後に西市をまわり、情報収集に励んだので文章に纏める時間が欲しかった。
 自分は文才がある部類ではない。仕上げるにはそれなりの推敲が必要だ。

 昼過ぎ。
 内府で届いたばかりの訴状を広げて読んでいた九瑶の元に、遅番出勤の楊駈がやって来た。

「待たせな」
「待ってましたよ、先輩」

 顔を合わせるのは二日ぶり。ふたりは部屋を出ると、周囲を確認してから人少ない庁舎へ移動し、空き部屋に入った。向かい合って円座に腰を下ろすと、楊駈が口火を切った。

「まずは我からね」

 楊駈は懐から筒状に巻いた反故紙を取り出し、床に広げた。

「色々あったけど、ここ二日の結論から。盗品を専門に横流してる人間がいる。その入手元ってのが今回の喧嘩を煽った元凶だろう」
「組織的犯罪、っていうやつね…」

 九瑤も聞き込みで耳にしていたので、大方予想通りではある。
 いつの世にも、非合法《アングラ》な世界に染まる人種はいる。他人から搾取する事を厭わない奴。真に腹立たしいが、それもきっと人の一面なんだろう。

「もともと雇われの用心棒をやってた奴等らしい。最近それが、商売を始めたって。店を出す場所も、商品もこれと言って決まってなくて、その日によって違うんだ。汚れや欠けがある物、いわゆる二流品を専門にひさいでいる」
「足がつかないように、ですね…」

 簡単に捕まる相手ではなさそうだ。
 他の証拠を挙げるしかない。

「入手元の目星は?」
「これはあくまで耳にした範囲なんだけど、そこに入荷された商品ってその二か月前くらいに盗まれたものと同じっぽいんだよね。これは調書を読み漁って我が見つけた手柄」

 鼻高々にぐっと握りこぶしを出した楊駈に、九瑤は苦笑いする。
 でも、筋書きは悪くない。

「その線、いいですね。何が合致したんです?」
「すごいぜ…。林檎に蜀繍、夏布。窃盗事件に載った品名が、店頭に並ぶんだ。盗品を寄せ集めておいて、ほとぼりが冷める頃合いを見計らって、売り捌くんだろう」
「あとは盗品だという証拠ですね…」

 状況証拠としては少し弱い。確証がない限り、参考程度の扱いだ。疑いだけの身柄拘束となると将軍の事前決裁が必要になる。根回しの手間を考えると、時間が足りない。

 この二、三日でどうにかしないと有罪確定してしまう。
 どうしたものか…。

 うーん、と腕を組んでうなる九瑤を見て、楊駈は少し様子を見ていたが待てなかったらしい。話題を替えた。

「まぁ、時間はかかるわな。ところで、九瑶はどうだった?」
「はい。私の方はですね、まず、丸薬の話から」

 九瑶は懐から徐郭の走り書きを取り出して、彼に手渡した。
 説明によると、材料はいたって単純。麦やぬかが多く使われていたが、一部に強毒の夾竹桃の葉が混入していた。牛などの大型家畜であっても葉一枚を口にすると中毒症状が出て、嘔吐や眩暈を引き起こすこの植物は、乾燥に強く濃い桃色の花を咲かせる為、どこにでも植えられている樹木だ。

「手に入りやすい材料なので、誰でも作れるそうです」
「犯人に繋がる点にはならない、か…。きついなぁ」
「次に、班長達への聞き込みですが」

 ここ数か月で目立った傾向はなく、子供による窃盗が挙げられた程度。それも西市など人の多い所では巡回の衛士を増員した為、最近は減っているそうだ。

「孤児が増えたのかな…。それはそれで問題だけどな」
「今は流しましょう。それで、夏布問屋の身辺ですが」

 周辺の話によると、元々、彼の親が亜麻仁の栽培が盛んな地方出身で、先の戦火の中この国に流れ着き、目利きが出来る夏布を商売に選んだそう。質の良い夏布を扱い、評判が良い店だと言っていた。
 また被害者側も真面目な商売をしており、特に怪しげな点は見つからなかった。

「なんだろうね」
「唯一、気になった事があります」

 最近、男の実家に見慣れない西域の風貌の人間がしばしば訪ねていたという。近所の話だと、以前の取引先だったが質が悪く商売をしていなので今は関係ないと、その父が言っていたそうだ。

「それじゃない?」
「何か、揉めたのかもですね」
「口を割るかな?我が引き出してこようかな」
「どうでしょう…。あとは、もうひとつ」

 西市で近頃、ある破落戸ならず者の一団が活発に動いてる模様。資金源は不明。道観(道教の寺)を隠れ蓑にしていて、どうやらその後ろには有力な後援者がいるらしい。

「ここが、仕事を選ばない集団らしいです。道観見てきたけど、普通の道観で」
「行ったの?」
「はい。折角なので見てみようと」
「…そう。で?」
「ぱっと見、寂れた感じの外観なんですけど、人の気配が多いんですよね、やたら」
「混んでるの?」
「ううん。参拝している人は他にいなくて我だけなのに、なんか人の気配はあるんですよ。符も置きっぱなしで。あれ貰ってくればよかったな」
「それさ、ひとりで行っていい所なの?やばいんじゃない?」
「門開いてたので。一応、逃げられるかは確認して入ってます。足速いんで、私」

 飄々と言ってのけた九瑶に、楊駈はあからさまにひいた顔をした。

「ちょっとお前の図太さが怖い…。まぁ、いいや、それで?」
「周囲に聞いたところですね、堅気じゃない、いかにも、な風貌の人間が出入りしてるんですって。で、そこに通う人間の周りで事件が起こったりするので、何かあるってもっぱらの噂だと」
「でもさ、どうやって仕事頼むんだろう…?」
「そこなんですよねぇ。わかったらおとり使って捜査出来るのに」

 ふたりして、う~んと腕を組んで考える。
 点を繋げるには、まだまだ足りないものが多い。
 優先順位をつけて、出来ることから始めるしかない。

「直ぐに確認出来るもの、やりましょう」
「我、今日時間あるから、今から夏布のオヤジに聞き取りしてくる。なんかありそう」
「そうですね。我は刑部に書類の状況確認するのと、道観の周辺調査出来ないかも聞いておきます」
「動きあったら、明日朝一番で九瑤が進めて」
「承知です、では」

 これで戦略会議は終了。二人はそれぞれの任務に向かった。


 ◇

「間に合うか?」
「ぎりぎりですね…」

 衛府の片隅の庁舎の一室で、膝をつきあわせた九瑶と楊駈がまじまじと書面を覗き込んでいた。
 楊駈が取って来た夏布の男の父親の証言は、どうにか検討の机上にのる内容だと、ふたりの意見は一致した。

「道観の方は?」
中郎将副将軍にお伺い立てました。翊府よくふの衛士を出してくれるそうです」

 翊府は将来の幹部候補生である名家の子供が任官前に入る、非正規の軍隊だ。ここでの成果は配属先の決定に大きく関わる。少しでも点数を稼ぎたい人間にしたら、手柄を立てるにはお誂え向きの案件だろう。

「階級を飛び越えたな」
「陸家の名前を使いました。使えるものは使おうと」

 九瑶はにかっと歯を見せて悪餓鬼の顔をした。
 陸家は武官の名家。連なる者も多く、特に兵事には顔が利く。
 何か目標があると行動が一気に大胆になるこの娘に、楊駈は陸家の一面を垣間見た気がした。

「そうだな。それがいい。それでこその陸家だ―。あと、勾留期限だな」
「そこはもう、荀司郎中に頼んでみようと…」
「え、まじ?」

 鬼教官・荀判事こと荀友は今は刑部法務省の判官だ。
 九瑶は真面目な顔をしてコクコクと首を縦に振る。

「これだけ状況証拠があるなら、決裁保留にしてくれるかなって」
「すんごい詰められるの、想像できるんだけど…」

 ふたりとも、彼に関しては苦い思い出しかない。
 理詰めで論破された事以外、記憶にない。

「出来ますね。でも…」

 九瑶は眉をひそめて視線を落とすと、小さく息を吐く。

「他に手が、ないんです」
「…そうだな」

 いずれにしても、確証を得るには時間がかかる。
 夏布の男の減刑の為には、今あるものでどうにか説得するしかない。

「久々に、打ちのめされてきますよ」
「うん…。我は同行する勇気無いから、成功を祈って待ってる」
「そうしてください―。じゃ、これは貰ってきますね」
「頑張れ。泣くなよ」
「はぁい。では、いってきます」

 流石に職場で泣くようなことはしない。ぬるい返事をして、九瑶は席を立った。

 ◇

 右金吾衛府は皇城官公庁街の南西、順義門を出てすぐ目の前にある。
 九瑶は順義門から皇城に入り、南東に走る横街《大通り》を真っ直ぐ東に進む。十字に交差する、皇城南北を結ぶ承天門街門道を横切ると、左手に尚書省の一群の瓦屋根が並んでいる。

 尚書省は行政執行機関。六つの部門から成り、そのひとつの刑部は司法を担う。
 九瑶は尚書省の門を入り、左奥の庁舎へ進む。
 一番大きな庁舎の入り口で係に声をかける。

「すみません、約束ではないですが。右金吾衛府の録事、陸九瑶です。荀司郎中にお目通り願いたく、おことづけお願いできますか」
「では、あちらでお待ちください」

 手で先を示した官吏に軽く会釈し、庭の見える角の小部屋に進む。
 刑部は文官が九割以上を占める、文系の部門。武官ばかりの衛府と違って、小綺麗で優雅で、ちょっとだけ気取った雰囲気の人間が多い。
 石畳の上を忙しなく行きかう人々を眺めながら、九瑶は頭の中の整理し、誰かが来るのを待った。

「陸録事、こちらへ」
「はい」

 数分の後、九瑶と同じ碧色の官服を着た男に呼ばれ、奥へと案内される。面会可能という事だろう。大人しくその後に続いた。

「今日はご多忙です。気をつけて下さい」

 前を見たまま淡々と言う男の言葉に、九瑶は思わず笑ってしまった。
 鬼教官はここでも健在らしい。

「ご忠告ありがとうございます。では、通常運転ですね。安心しました」

 暢気な声の九瑶に男は振り返ると、真顔で聞いてきた。

「…右金吾衛でも恐れられていたとか」
「はい。親しみを込めて、『鬼教官』とお呼びしてました」
「そんな、荀司郎中のお耳に入ったら…」
「本人に面と向かって言ってましたから、大丈夫ですよ」
「なんと…」

 男は目を丸くした。それが本当に驚いたという顔で、おカタい文官もこんな反応するんだなぁと九瑶は心の中で微笑んだ。

「寛容な方なんですね…。意外です。いつも厳しいお顔なので」
「ははは。私も仕事では、理詰めで論破された記憶しかございません。戦々恐々と訴状を運んだのも、今ではいい思い出です」
「たくましい…。見習います」
「そんな。無知蒙昧の凡人なので、食らいつくしかなかっただけです」
「男でも音を上げるのに、貴女のようなうら若い乙女が…」
「でも、そのおかげで生きていけるので、感謝してます。今は」
「そうですか…」

 呟いた彼が、廊下の曲がり角の手前で立ち止まった。

「今度、対策をご教示ください」
「私で良ければ」

 被害者の会、発足の瞬間。
 愛想よく頷く九瑶に、彼は少し疲れた顔に笑顔を作ると「先へ」と、言って更に奥に案内した。

「こちらです」
「ありがとうございます」

 戸を開けた彼に促され、九瑶はひとり部屋に入った。
 静かな空気に乗ってほのかに漂う、懐かしい香の香り。
 思わず背筋が伸びる。この緊張感、久しぶりだ。

「失礼仕ります」

 ひと声かけ、部屋の真ん中まで進み出る。
 正面の文机に向かい筆を走らながらこちらに冷めた視線を送る男に、膝をついて礼をする。

「ご機嫌麗しく、荀司郎中―」
「わざわざ我を訪ねるとは、何を強請ねだりに来たんだ?九瑶」

 顔を見るや否や即座に直球をぶん投げてきた彼に、今日も鋭利だなぁと内心苦笑いしつつ、同時にちょっぴり安堵もした。
 机の両脇には山積みになった書状。相変わらず人の倍量の仕事をしているんだろう。そんな中でも、彼は声をかければいつでも時間を割いてくれる。
 厳しいけど、実は他の誰よりも面倒見のいい人。
 それは彼が仕事に誠実だからなんだと、九瑶は後になって気づいた。だから、誰よりも頼りになるんだとも。

「お忙しいところ恐縮です。お願いがありまして」

 挨拶もそこそこに、本題に入る。

「今、そちらにある訴状の審判を1件、保留にしていただけないかと」
「理由は」
「半年ほど前から西街で不穏な動きがあります。調査中ですが、他国から流れてきた一団が盗品を流して資金源としています。また破落戸が道観を根城に非合法な取引をしていると」
「根拠は」
「調査はこれからで、まだ確証はありません。ただ、南西方面の人間が反乱分子を集めているらしく」
「ぬるいな」
「承知の上です。ただ、戦時中に他国の軍で名を挙げた民間人の周辺で、破落戸が動いているのは確認できました」

 それこそ夏布の男の親から楊駈が聞き出してきた、最新のネタだ。
 父親は昔はそこその札付きのワルだったらしい。それが軍属となり足を洗ったが、当時の仲間が最近になって周囲に出没し、迷惑していると。

「その息子が、喧嘩で訴訟になっていて。裏から手が回っていると見ていて、どうにか減刑したくて、材料を集めてる最中です」

 早口でまくし立てた九瑤に、荀友は大きくため息をついた。まだ壮年も半ばに至らないはずなのに、これでもかと眉間のシワを深くした彼は立ち上がると、九瑤の前に来てどかっと腰を下ろした。

「九瑤…」

 続く展開を覚悟し、受けて立つとばかりに九瑤は顔を上げた。じっと見つめる二人の間に、ぴりっとした空気が流れる。それでも荀友の視線から九瑶は逃げない。
しばらくの無言が続いた後、ひとつため息を落とした荀友が重々しい声で話し始めた。

「お前は我の下で一年半、一体、何を聞いていたんだ?想像で仕事を進めるなと何度言った?」
「でも、時間があれば、必ず」
「違うだろう」
「盗品の流通も確認できています。強制捜査で証拠を押さえれば、きっと」
「九瑶、考えろ。優先順位もなっていない。捜査した結果がどんな着地になるか、考えてるか?」
「あ、えっと…」

 盲点だった。言葉に詰まった弟子に、鬼教官の指導が容赦なく降り注ぐ。

「危険の眼はいち早く摘む。その為の巡回警備だろう。都城の平安を揺るがすものは、何人たりも見逃してはならない。安寧秩序の死守、それが金吾衛の存在意義レゾンデートルのはず」
「…」
「半年も経ってるのに、どうして未だ尻尾さえ捕んでいない?ぬるいんだ、職務怠慢か」

 反論できない。自分たちの仕事に何が足りなかったのか、説明できるほどのことをしていない。現状も把握できていないし、理解してもいない。

「お前の目は節穴か?どうして半年も気づかないんだ。今まで何を聴取していた?案件すべてに目を光らせていたら、三か月前には動けていたはず。水際対策はお前たち内府の役だろう」
「はい…」
「自分に都合のいい案件を選んで担当してたんだろう。偏ると本質が見えなくなるから仕事は選ぶなと、何度言った」

 図星過ぎて辛い。
 仕事に慣れてきて、頼まれることも増えた。それに満足して、関わりの少ない班の案件に手を出すのを怠っていた。
 色々と見ていたら、違ったはず。経験の浅い九瑶でも、何か見つけていたかもしれない。
 自分の浅はかさを目の前に叩きつけられ、悔しさと恥ずかしさに顔がゆがむ。

「悔しかったら他人に任せるな。自分の手と脚で積み上げろ。自分の目で見極めろ」
「はい…」
まなこを開け。違和感を見逃すな」
「はい…」

 九瑶はただうなだれて、頷くしかなかった。完敗だ。

「もう帰れ」
「…はい。お時間、ありがとうございました」

 立ち上がり礼をして、その場を辞する。

「九瑶」
「はい」

 戸に手をかけたところで背中に声をかけられ、九瑶は振り返った。

「いつでも来い」
「…ありがとうございます」

 目線は既に書状に向かう彼に深々と頭を下げて、九瑶は静かに戸を閉めた。


 ◇

 昨日肩を落として尚書省を後にした九瑶は、今日も朝早くから出仕していた。

 やるべき事はひとつ。
 目の前の仕事に手を抜かず、時間の限り、多くの案件に立ち会う事。
 その為にはもっと量をこなさなして、結果を出さないと駄目だ―。
 沢山読んで、沢山書いて、きちんと聞いて、考えて…。
 今しかない。
 ここでもう一度、踏ん張らないときっと後はない。
 九瑶は焦りを行動にして、粛々と文机に向かい筆を走らせた。

 黙々と書簡に向き合う九瑶に声がかかったのは、それから半刻一時間ほど経った頃。
 柱から部屋を覗いたのは、顔なじみの府士だ。

「九瑶、外府に面会希望者だって」
「私に?」
「あぁ」
「はい、行きます」

 筆を置き、立ち上がって衣の裾を直してから部屋を出た。
 内府を出ると石畳に添って進み、外門の脇にある外府に入る。入口で入館管理をしていた府士は九瑶を見ると、付き合うと言って庭先に案内した。

 始業開始からまだほんの数分。巡回の用意をする衛士や、書簡を運ぶ他省の役人が行き来する庭先は人が多い。
 九瑶はきょろきょろと辺りを見回しながら、庭を進む。

「あちらです」

 府士が指さした先には、意外な人物が立っていた。
 九瑶に気づくと「ここです」と、大きく手を振った。

「先日は、ありがとうございました」
「あ、あなたは…」

 驚きの表情を隠せない九瑶に、夏布屋の男は晴れやかな笑顔を見せた。

「おかげさまで、無罪放免となりました。お礼を言いに伺った次第です」
「無罪って、どういう…」

 状況が理解できず、思わず聞き返した九瑶に彼は満面の笑みで答える。

「訴状が取り下げになって」
「あ」

 ようやく合点した。訴え自体が無くなれば、彼は無罪となる。

「そうなんですね…。いえ、本当に良かったですね」
「はい。貴女様が調べてくださったおかげです」
「そんな。我は、何も…」
「牢の中で絶望の淵にいた時の貴女の言葉が、一縷の望みでした」

 九瑶が何も言えずにいると、男が深々と頭を下げた。

「ありがとうございました―」

 ◇

 九瑶は男を門まで見送ると、その足で皇城を目指した。

 刑部の門をくぐり、辺りを見回す。
 始業から四半刻が過ぎたこの時間帯、高官はまだ席についていないはず。
 庭二回り彼のいた執務室の様子を覗くと、戸は開け放たれたまま。

 やはりまだ戻ってきていない。
 九瑶は庭を出て、庁舎の入り口横、門が見えるところに立って待つことにした。

 しばらくすると朝堂から戻って来た高官たちが、ぞろぞろ列を作って門を入って来た。
 紅衣の一団の中に彼の姿を見つけ、九瑶は駆け寄った。

「荀判事―」

 声に気づいた彼が列から外れ、九瑶に歩を寄せた。

「判事、あのっ!」
「騒ぐな、子供」

 パシッと、手にした尺で額をはたかれる。音の割に痛くない。

「あのっ、彼のっ、うぐっ」

 言いかけた唇に尺を押し付けられる。
 彼の顔がぐっと近づき、同じ高さに視線が並ぶと小声で言う。

「大声を出すなと言っている。余計な詮索は無用だ」
「…」
「取り下げになった。それだけだ」
「…」

 絶対にそれだけじゃない。こんなに早く手続きが進むなんて、彼が何か動いたにほかならない。
 尺の下でもごもご言う言葉は、ぐいっと押し込められて声にならない。
 きっと、彼は言われたくないんだ。
 仏頂面で人の口をふさぐ彼を見て、九瑶はそれが彼の、ひとつの矜持なんだと悟った。
 九瑶は諦めて口を結ぶと、ようやく尺が取り払われた。

「戻れ。こんなところで油を売ってる暇はないだろう」
「はい。判事…、ありがとうございました」

 深々と頭を下げた九瑶に、彼は珍しく目じりを緩めた。
 九瑶も嬉しくて、思わずニコッと笑ってしまう。

「一つだけ忠告がある」
「はい」
「お前はまだ嫁入り前の娘。身に危険が及ぶ真似は、絶対に避けろ」
「大丈夫ですよ。これでも陸家で育った人間ですから」

 深窓のお育ちとはかけ離れた、自由な暮らしをさせてもらった陸家での十五年間。ご多分に漏れず、武術も一通り身に着けた。

「動くときは信用できる人間と。陸家でもいい、絶対に一人で行動するな」
「わかりました」

 父親ほど年の離れた師匠だ。心配してくれる気持ちは、有難くいただこう。

「では、失礼いたします」

 再び頭を下げて、九瑶はくるっと背を向けた。
 その顔は今朝の空と同じように、清々しく晴れ渡っていた。
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