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第二章
天女のお茶会と謀略
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「ほんと、優秀な人には敵わないんだよねぇ…。我、向いてないのかなぁ」
「とか言って、嬉しそうに見えますよ?」
言葉の割にはのんきな声の紫水に、梅梅がふふふっと悪戯っぽく微笑んだ。
内廷の奥、竹林を抜けた先に広がる芝生の一画に、ふたりはいた。
今日は日差し温かく、風も穏やか。
紫水は梅梅と数人の宮女を連れ、お気に入りのこの場所に来ていた。
宮中は何処にでも人の目と耳がある。「病弱で伏せっている」設定の紫水は、人目につかない場所でしか、のびのびと出来ない。
ふたりは砂漠を渡ってきた波《は》の国名産の豪奢な絨毯を広げ、横に並んで座った。紫水が選んだ今週のお土産、西市の新店で話題の棗菓子と花茶をお供に、のどかなお茶の時間。
「そうね、楽しいよ。目指す人がいるって」
少年のように足を投げ出して座る紫水は、棗の乳脂包みをひとつ指でつまむと、口に放り込んだ。
「見ててわかります」
梅梅は上品に手を添え、楊枝で半分に切った棗を口に運ぶ。どちらが公主かと見た人が問われたなら、間違いなく梅梅を指すだろう。
「美味しゅうございますね。やはり、西市の流行り物は乙女心を掴みます…。単なる留守番役にこの様なご褒美、勿体無いですが」
「我が外に出られるのも梅梅のおかげだから、これくらいはね」
隣りで屈託のない笑顔を見せる主に、梅梅は申し訳無さそうに眉を寄せつつも、残り半分の棗を口に運んだ。口に広がる甘さを噛みしめて、鼻からゆっくり息を吐く。
「陸家の者として当然のこと。身に余る光栄です」
公主より公主らしいこの娘は、実は陸家きっての剣の名手。紫水が宮廷に連れ戻された際に陸家から侍女として遣わされ、もう5年になる。
ずっと側に侍る彼女は、紫水の数少ない理解者の一人だ。
「二人の時は、堅苦しいの無しだって。誰も見てないんだから」
「そうでしたね」
ふふふ、と梅梅は口元に指先をよせて、またまた優雅に微笑んだ。
「宮中じゃ息も吸った気がしないもん―。外に出られなかったら、我はとっくの昔に発狂してるわ。だから梅梅にはほんと、感謝してる」
「…公主には、敵いませんね」
茶碗を太腿の上で両手で包むように持ち直し、梅梅はほうっと息を吐いた。
「ん?」
「そうやって、相手の心をくすぐる。人心掌握に長けているんです」
「なーにが。引きこもりの役立たずの公主ですよ」
「そうやって、照れるところも、ですよ。ズルいんだから、あなたという方は」
紫水を見る梅梅の眼差しは春の風と同じ色をしている。
本当の友人だったら良かったのにな―。
紫水は心からそう思う。
そうしたら、出会えなかったかも、知れないけれど。
6つほど年上の彼女は、紫水にとっては姉のような存在。
宮廷の生活は彼女に全て一任している。
いつでも何不自由なく行動出来るように、陸家との連携や段取りやら事務手続きまで、彼女は常に先を読んで手配してくれる。
何でも卒なくこなすその手腕は尊敬に値する。しかも本分は剣士だというのだから、陸家の教育には驚きしかない。
「外では無茶されないでくださいね。私がついていれば別ですが」
「そうだね。梅梅がいたら、もう少し捗ってたね。きっと…」
紫水は座り直し、立てた片膝に頬杖をついて呟く。
残念ながら、課題の進捗は、芳しくない。
「そう公主、お茶、ですが」
梅梅が団扇を口元に寄せ、膝を進めて紫水と肩を並べる。
「…ひとり証言が取れました。あの前の日に、纈草根の納品があったと」
「ん」
「睡眠に使われる薬草です。尚食《調理》の記録には残っていませんでした。宮中の人間が持ち込んだとしか」
「…やはり、内部犯か」
「当日、内廷に出入りした人物が持ち込んだ可能性も。受取りの記録がないのは、不自然です」
「手引した者がいる線は?」
「証拠を残さない徹底ぶりから、捨て駒だと」
「そうか、悔しいなぁ…」
紫水は横たわり、空を見上げた。
あれは絶対に、事故なんかじゃない―。
もう一年半になる。
風の強い、秋の始まりの日。
大極殿の北東の離宮のひとつ、華雲宮が火災で焼け落ち、三十人余りが犠牲になった。
火元は倒れた燭台と見られ、風が強かったので延焼が早く、消火活動も功を奏さなかった。焔は宵の空を橙色に染めながら、2つの殿舎を焼き尽くした。
「まだ真実には遠い…。でも、必ず」
広大な蓮池を走る風が竹林を吹き抜け、芝生を駆け上がり、寝転ぶ紫水の前髪を揺らした。
青い空が雲を風に流していく。形を変えては消えていく雲を見ていた紫水の視界に、梅梅が顔を覗かせた。
「吉報がひとつ。生存者が見つかりました。洛京で療養中だと」
「身をやつしているの?」
「はい。鬼籍に入った事になっています。これから家の者を送って調べます」
「わかった」
身体を起こし、腕を絨毯について上半身を支える体勢を取る。
「地道に集めるしかないね」
今は点でしかない証拠。
それをつないで、必ずあの男の元へたどり着いて見せる。
紫水はあの日見た、左腕を空に高々と上げた奴の影を瞼の裏に思い出す。
「喪が明ける前までには、絶対に突き止めて見せるから」
「公主、香が―」
声を低くした梅梅が、紫水に目配せした。
紫水は座り直し、茶器を手に取ると一口含んだ。
鼻に抜ける茉莉花の香り。目を閉じ、深呼吸して白い香りを胸に広げ、心を落ち着かせる。
「小妹、ここにいたのか―」
声に瞼を上げると竹林から若い男がふたり、姿を現した。
「秦王殿下、杜卿」
兄・仲璇とその腹心、杜尅。
ふたりの美男子は芝生を越え、紫水たちの座る絨毯の前にやって来た。
「我が天女よ、失礼するよ」
仲璇が絨毯に腰を下ろすと、梅梅が恭しく茶を差し出す。
彼はキラキラの笑顔で会釈すると、茶器を片手に取り、一気にあおった。
「良い薫りだね。女子の楽しみは優雅でいい」
深々と頭を下げた梅梅に茶器を返すと、仲璇は紫水に向き直り、これまた優雅な笑顔を作った。
「小妹、ちょっと頼みがある」
「はい」
拒否する権利は元からない。素直に聞く。
「五日後、正午前に秦王府に来てもらえないか」
「―」
マズイ。
その日は午後から右金吾衛府総出で行われる、年に一度の大競技会。
九瑤も三班のメンバーとして打毬戯《ポロ》に参加することになっている。
班の名誉をかけた、本気の戦い。今年は負けられないと、最強の布陣で臨む予定なのに。
仮病、発熱、先約…。
紫水の頭の中に言い訳がぐるぐると巡ったが、口から出たのは無難な回答だった。
「はい…。午後から予定がありますが、伺いますわ」
「すまんな。見てもらいたいものがあるんだ」
「何ですの?」
わざわざ兄が職場まで出向け、と言うからには、よほど大それたものだろう。それか宮廷に持ち込めない程の大きな工作物か、はたまた持ち出し厳禁の貴重な書か…?
「いらしてからの、お楽しみで」
後ろに立って控えていた杜尅が、口を挟んだ。
兄の片腕であるこの男は、秦王府の二大巨頭であり、公私共に兄を支える名参謀。
妓女もびっくりの天女のような容貌で、かつ頭脳明晰。上流階級出身者らしい品のある立ち姿で常に兄の後ろに侍る彼を、紫水はなんとなく好きになれない。
「あぁ、楽しみはとっておくといい。きっと紫水は喜ぶから」
「そうですか…」
自信満々に言う兄に、紫水は困った素振りをして見せる。楽しみなのは大会だ。こっちが最優先なのに。
「お時間は、かかりそうですか?」
「ご心配なさらず、すぐに終わりますので」
また杜尅が横から取って言う。
花もほころぶ華麗な笑顔を見せつける彼に、紫水は「そうですか…」と言って目をそらした。
正直、この仮面のような笑顔が好きじゃない。
「では、頼んだよ」
仲璇は軽やかに裾を払って立ち上がると「では」とひとつ微笑んで、杜尅を従えてもと来た道へ帰っていった。
「…なんだかね」
清々しい背中を見送った紫水は梅梅と目を合わせると、はぁ~と大きなため息をついた。
◇
秦王府は西市の北、豊泉坊の東にあった。
皇城から少し離れたこの場所に、敢えて拠点を構えた兄の思惑を、紫水は知る由もない。
出仕の時は官袍を着て出る。今日は午後から打毬戯の予定なので、着替えやすさも考慮して、紫水はあえて胡服を纏い男子のような装い。
陸家を出る時に家人に「珍しいですね」と声をかけられ、紫水は「優勝取ってきます」と親指を立てて笑いを誘った。
実は秦王府と陸家は隣の坊里。十分少々で、秦王府に到着し門をくぐる。
紫水は脇目も振らず、本殿へと向かう。
前にも一度来た事がある。あの男の居場所は、おおよそ見当がつく。
「ご機嫌よう」
本殿の西、庭に面した部屋の戸が開かれていたので、紫水は一声かけて入った。書棚の前に立っていた男が振り向き、驚いた顔をした。
「あら、軽装で―。雰囲気が違うので、一瞬わかりませんでした」
「用事があるので」
短く答えた紫水に「そうでしたね」と杜剋は愛想程度に口角を上げた。そして手にした巻物を書架に戻すと、紫水の前にやって来て跪いて言う。
「公主、ご足労頂き恐縮です。…申し訳ありませんが、秦王殿下から芙蓉別邸にお越し頂く様に、とお言伝を承っております」
「…」
聞いてないぞ。
そういうの面倒だから、先に言ってくれればいいのに。
頬がピクッと引きつりそうになるのを堪え、紫水は重い声で返す。
「…わかりました。では」
腹立たしいが、早く済ませて、試合前の準備に取り掛からないと。紫水はくるっと踵を返して、戸へ向かう。
「公主、お待ち下さい。臣がご同行いたします」
今日は暇じゃないんだ。
しかも苦手な人と出かけるなんて、冗談じゃない。
芙蓉別邸は何度も行っている。ひとりで行けばいい話。
駆け寄り行く手を遮った彼に、紫水は右手を上げて拒否の意を示す。
「一人で参りますので、お気遣いなく」
「いえ。馬車を用意しております、どうぞ」
彼はさっと紫水の横に周り、廊下へと誘導の手をのばした。
怪訝な顔をした紫水に対し、有無を言わせぬ笑顔の、圧の強いこと。しかもよく見ると、入口の左右に控え頭を下げる府士達が文官のはずなのに、妙にガタイがいい。
この男、端から逃がす気はないらしい。
「…えぇ。わかりました」
仕方ない。紫水は悟ると軽く頷いて、先導されるまま彼の背に従った。
乗り込んだ馬車は秦王府を出ると、真っ直ぐ東に向かっていた。別邸は朱雀門街から東のふたつ奥にある坊。
秦王の私的な宴席の場となることの多い屋敷は、広い蓮池や梨や牡丹と様々な花が美しく、珍しい酔芙蓉も咲くことから、芙蓉別邸と呼ばれている。
折にふれて紫水も呼ばれて出向くので、馴染みのある場所だ。
「こちらの奥でございます」
馬車を下りた紫水は、いつもと違う様子に周囲を見回した。
別邸には最低限の家人しかいないのに、今日は大門から出迎えの人数が多い。しかも初めて見る顔ばかり並んでいる。
後で宴席でもあるのか?
紫水は不思議に思ったが、杜剋に促されるまま、奥の母屋に向かった。
歩いているうちに、前に来た時と邸内の雰囲気が変わっている事に気づいた。
中庭に花が増えている。回廊に並ぶのは芍薬だろうか。
華美だった装飾も少し抑えられ、瀟洒なものに変わっていた。所々補修もされ、以前よりも綺麗になっている。
派手好きの兄の趣味が変わったのだろうか。こちらの方が紫水の好みだが。
「中々趣味の良い風情になりましたね」
「えぇ」
キョロキョロと屋敷内を見ながら進む紫水に、前を歩いていた杜剋が母屋に来たところでふと足を止めて振り返った。
「公主もお気に召しましたか?」
「そうですね」
「それはよい」
素直に相槌を打った紫水に、彼は満足そうに微笑むと階段を上がり、扉を開けた。
「どうぞ、お入りください」
コツコツと石段を上がり、部屋に入る。
居間の真ん中には大きな卓子があり、その上には金細工が施された豪華な香炉が置かれていた。涼し気な香りが部屋に満ち、客人をねぎらう。
ここの内装も、だいぶ変わった。
目新しい調度品に、目新しい窓飾り。
隅々に飾られた花木。淡色で揃えられた室内。整えられた空間はまるで他人の屋敷のようだ。
「失礼します」
中央まで足を進めた紫水はあたりを見回すが、広い室内には誰もいない。
「…」
おかしい―。
紫水は振り返り、戸の脇に静かに佇む男を見据えた。
仮面を張り付けた男は突き刺す視線に動じる様子もない。彼は紫水を横目に飄々と隣の部屋に歩を進めると、奥に向かって大きな声で呼びかけた。
「待たせてすみません、斉潁殿」
すると、さらっという衣擦れの音と共に、奥の部屋からひとりの男が姿を現した。
「いいえ、とんでもない事でございます―」
兄ではない男の登場に面食らう紫水の前に、その男は歩を進めた。
明るい部屋で見るその正体に、紫水は目を見張った。
「これは、どういう―」
言っているうちから全身から血の気がひいて、唇が震えた。
端正な顔に、すらりとした身のこなし。
涼し気な切れ長の瞳に、精悍な眼差し。
紅い官服を纏った男は、間違いない、あの夜の人物。
「お嫁ぎのお相手、斉潁殿です」
「―」
ようやく自分が計られたことに気づき、紫水は呆然とする。
突然降りかかった『降嫁』。
あの日、兄が明言を避けたのは、事実を知ったら紫水が何らかの行動を起こすことを予想していたからだ。
してやられた―。
いくつもの違和感が符号のようにぴったりと重なっていくのと同時に、全身の毛が逆立つ。
「彼の喪が明けるまでの半年間は許婚という形ですが、今日からここが公主の新しいお住まいとなります」
この計画を立てたのも、きっとこの男。
だからあの時、兄ではなく彼が答えたんだ。ボロを出さないように―。
「そなた、初めからそのつもりで―」
違和感に反応出来なかった自分のぬるさに、紫水は奥歯をぐっと噛みしめる。
「主上のご裁可も頂きました。祝言の日取りは易断にて、改めてのお沙汰となります」
稀代の策士は顔色一つ変えることなく、嫌味な程に恭しく頭を下げて、現実を突きつける。
「外堀は埋めた、と言うことか」
刺すような赤い目を向ける紫水に動じることもなく、仮面の男は粛々と告げると、またあの嫌な笑顔を作った。
「急なことで驚かれたでしょう。どうぞごゆるりとお休みくださいませ。臣はこれにて、失礼仕ります」
頭を下げ深々と礼をすると、さっと袖をひるがえして彼は部屋を出ていった。
残された紫水は立ち尽くし、靴音高く遠ざかっていく男の背をただ茫然と見送るしかなかった。
◇
どうにかして、この状況を打開しなければ。
陸家に手助けを頼んで、太公母の元に駆け込むか―。
必死に考えを巡らす紫水の後ろで、カツンと靴音が鳴った。
「驚かせてすみません」
振り返ると、いつか見た顔が穏やかに微笑んでいる。
謝罪の言葉なんかで、許されると思ってるのだろうか?
その悪意のない表情が、紫水を余計に苛立たせる。
「本当に。こんな卑怯な手を使うなんて、信じられません」
今すぐにでも襟元掴んで、ぶん投げてやりたい。
「人を何だと思ってるんです」
怒りをぶつける自分の声が、不貞腐れた子供みたいに聞こえる。
そんな紫水に彼は申し訳無さそうな顔をして、胸に右手を当てがい謝罪の意を表する。
「お伝えしたら、きっとお断りされてしまうと思いまして。すこし強硬な手段を取ってしまいました。申し訳ございません」
そう言って、彼は紫水の前に跪いた。
「…止めてください。そういうの」
ぷんっと横を向いた紫水に、彼は眉を下げて困ったという顔をする。
「お嫌いですか、傅かれるのは」
「大っ嫌いです」
「そうでしたか」
悠々とした声を響かせると彼は立ち上がり、紫水の手を取った。
「混乱されるのも当然です。まずは、こちらでお茶でも」
「なんて呑気な事を。馬鹿なんですか?貴方は」
この男、正気か?
紫水の頭に一気に血がのぼる。元来、短気な性分。これは父親の血だ。認めたくないけど。
「あなたと一緒に、茶など飲めるとでも?」
噛み付く紫水に彼はこれといって慌てる様子もなく、斉穎は手を握ったままにこやかに続ける。
「ご機嫌を損ねてしまったようですね」
「当然です」
「やっと貴女に逢えて、舞い上がっているのです。お許しください」
「許せとは、なんと図々しい事を」
「そんな顔も可愛いですよ」
揶揄われて、紫水の顔が真っ赤になる。
「あなたの目は節穴ですか」
「確かにそうです。盲目ですね、殊、貴女に関しては」
「もう少し賢い人であればよかったのに。残念でなりません」
軽薄な男は嫌い。
紫水は堂々と嫌味を言うが、相手に気にする様子も無い。
「貴女を前にして平常心などでおれません。あの夜から毎晩夢に見ていました。宵に下りた天女を、この手に抱いて眠る日を」
「…」
歯の浮くようなクサイ台詞を不思議なほど爽やかに語る彼を、紫水は怪訝な顔で見上げる。
春の日が射し込む部屋の中。
選ばれし者が纏う紅の官服に身を包み、佇む男は悔しいかな、誰が見ても絵になる。
あの時は気づかなかったが、落ち着いた声の割には肌つやがいい。話しぶりからある程度場数を踏んだ年齢なのかと思ったが、意外と兄と大して変わらないくらいなのかもしれない。
無言でじろじろ見ていた紫水に、彼は首を傾げる。
「どうしました?私の顔に何か?」
「…意外と若そうだな、と」
紫水の素朴な感想に、斉潁は目を丸くした。少しの間があった後、ははっと声を上げて笑った彼は少年のように無邪気な顔をみせた。
「兄君と同じくらいですよ」
「気障な事ばかり言うから、もっと年増かと」
紫水の率直な感想に、彼は「それは…」と呟くと、口元をくっと締め真顔になった。
「公主は年上はお嫌いですか?」
「そんなこと聞いて、どうするんですか?」
今更なんの意味がある。
紫水の趣味嗜好を考慮するには、遅すぎるだろう。
「好敵手は真っ先に、蹴落さないと。女性はすぐに心変わりしますから、ね」
今度は悪戯っぽく笑った。
その顔に不覚にも、どくんと紫水の心臓が鳴った。
駄目だ。顔がいい。
陽の光の下で微笑んだ彼はあまりに流麗で、紫水は思わず見惚れてしまう。
自分に向いた視線に気を良くしたのか、斉穎は饒舌になる。
「他の男に気が移るなんて、許せないでしょう。そんな素振り見たら、嫉妬で狂ってしまいます」
「…よく言うわ。婚姻なんて、男にとってはただの出世の手段でしかないのに。取り繕わなくて結構です」
「取り繕う?天女は全てお見通しでしょう?我の心に曇りなきことも」
平然とのたまう彼に、紫水は呆れるばかり。
「あなたは口が上手くて、ほんとに嫌になります」
「嘘だと思いますか。私は、ずっと―」
月の様な静けさを湛えた彼の瞳に、紫水の顔が揺れた。静寂の世界に鈴の音がひとつ落ちて、紫水は斉穎の腕に囚われた。
「こうしたかった―」
紅い衣に抱きしめられ、紫水は涼やかな香の立つ、たくましい胸に身体ごと沈む。
「ずっと、考えていました。愛しい人に触れる瞬間を」
きつく絡むかたい腕。どくどくと鼓動を刻む心臓の音。
頬から響く彼の鼓動に、紫水の身体が熱くなる。
「やっと、今日、叶った」
紫水の頭に、彼の顎がのせられる。
彼の手が紫水の肩から腕を往復した。
すっぽりと収まった華奢な身体に斉潁は目を細める。
「貴女を腕の中に眺めて」
背中に回った腕がゆるみ、二人の間に隙間が出来た。身体をそらして顔を上げた紫水に影が重なり、視界が塗りつぶされた。
「―」
重なる唇。柔らかな温度。
慈しむような動きに、焦れったいような感覚。
前とは異なる、初々しい恋人同士の様な甘い接吻に紫水の胸は大きく上下する。
触れる唇が小さく震え、紅い衣を握る紫水の手にギュッと力がこもる。
「公主…」
ようやく顔を離した斉穎の親指が紫水の唇をなぞった。
ぼんやりとした目で彼を見上げると、視線が重なった。
滔々と湧く森の奥の泉のように、奥深い眼差し。
強い引力に惹きつけられ、紫水の胸が大きく脈を打つ。
「委ねて、私に…」
彼の左手がゆっくりと背中をなぞる。這うような手のひらに、動物の本能が、紫水の背中を一気に駆け抜けた。
駄目だ。逃げなきゃ―。
甘く囁く声に流されそうになっている事にはたと気づき、紫水はぐっと丹田に力を込めた。
「冗談じゃない―」
紫水は彼の右脇に左手を伸ばし、油断している彼の腰剣を一気に引き抜くと、喉元に向け突き上げた。
「舐められたものよ。我が流されるとでも?」
低い声を響かせ、相手を睨みつける。
「この縁談、辞退して下さい―。我は降嫁なんて御免です」
きらめく剣先に彼を見据え、紫水は努めて冷静に言う。
「それに、簡単に転がされるほど、子供じゃありません」
「…そう、それは申し訳ない。大人の女性に、失礼でしたね―」
この緊迫の場面でも、斉穎は微動だにせず切れ長の眼差しを細め、口元に笑みを留めている。
得体の知れない不気味さに、紫水の背中にざわっと寒気が走った。
だがここで尻込みなんて出来ない。紫水は負けじと睨み返す。
「えぇ。もう大人なので」
未熟だろうと下級だろうと、一人の官吏とて奉職している身。軽んじられるのは不本意極まりない。
「子供扱いはご遠慮下さい」
「では、そのようにしましょう―」
そう言う口元が歪んだと思うと、彼はさっと身をずらし紫水の剣を持つ手に腕を伸ばした。だがそれを紫水は咄嗟に振り払った。
伊達に陸家で育ったわけじゃない。
この程度の動きくらい、見極められないはずがない。
「甘いな」
あざ笑うような呟きと共に紅い袖が目の前を舞うと、ガキンッと耳につく金属音が部屋に響いた。
「―え」
我が身に起きたことを、紫水はすぐには理解出来なかった。
背中から男の左腕に身体を拘束され、握っていたはずの剣は遠く視界の端に転がっていた。
「十五から羽林軍にいたので、それなりに『女性の扱い』は慣れている、と自負しております」
滔々と耳元で囁く彼の言葉は仄暗さを含んでいて、紫水は冷や水を浴びせられた心地がした。
「…はな、して」
掠れた声が少し震えた。彼が喉の奥で笑ったのが分かった。
「公主は過激なのが、お好きなようで」
「…っ」
悔しさと屈辱感に、全身が震えて燃えるように熱くなる。
「では、続きをしましょう―」
それは勝利を確信した上の、宣戦布告だった。
「とか言って、嬉しそうに見えますよ?」
言葉の割にはのんきな声の紫水に、梅梅がふふふっと悪戯っぽく微笑んだ。
内廷の奥、竹林を抜けた先に広がる芝生の一画に、ふたりはいた。
今日は日差し温かく、風も穏やか。
紫水は梅梅と数人の宮女を連れ、お気に入りのこの場所に来ていた。
宮中は何処にでも人の目と耳がある。「病弱で伏せっている」設定の紫水は、人目につかない場所でしか、のびのびと出来ない。
ふたりは砂漠を渡ってきた波《は》の国名産の豪奢な絨毯を広げ、横に並んで座った。紫水が選んだ今週のお土産、西市の新店で話題の棗菓子と花茶をお供に、のどかなお茶の時間。
「そうね、楽しいよ。目指す人がいるって」
少年のように足を投げ出して座る紫水は、棗の乳脂包みをひとつ指でつまむと、口に放り込んだ。
「見ててわかります」
梅梅は上品に手を添え、楊枝で半分に切った棗を口に運ぶ。どちらが公主かと見た人が問われたなら、間違いなく梅梅を指すだろう。
「美味しゅうございますね。やはり、西市の流行り物は乙女心を掴みます…。単なる留守番役にこの様なご褒美、勿体無いですが」
「我が外に出られるのも梅梅のおかげだから、これくらいはね」
隣りで屈託のない笑顔を見せる主に、梅梅は申し訳無さそうに眉を寄せつつも、残り半分の棗を口に運んだ。口に広がる甘さを噛みしめて、鼻からゆっくり息を吐く。
「陸家の者として当然のこと。身に余る光栄です」
公主より公主らしいこの娘は、実は陸家きっての剣の名手。紫水が宮廷に連れ戻された際に陸家から侍女として遣わされ、もう5年になる。
ずっと側に侍る彼女は、紫水の数少ない理解者の一人だ。
「二人の時は、堅苦しいの無しだって。誰も見てないんだから」
「そうでしたね」
ふふふ、と梅梅は口元に指先をよせて、またまた優雅に微笑んだ。
「宮中じゃ息も吸った気がしないもん―。外に出られなかったら、我はとっくの昔に発狂してるわ。だから梅梅にはほんと、感謝してる」
「…公主には、敵いませんね」
茶碗を太腿の上で両手で包むように持ち直し、梅梅はほうっと息を吐いた。
「ん?」
「そうやって、相手の心をくすぐる。人心掌握に長けているんです」
「なーにが。引きこもりの役立たずの公主ですよ」
「そうやって、照れるところも、ですよ。ズルいんだから、あなたという方は」
紫水を見る梅梅の眼差しは春の風と同じ色をしている。
本当の友人だったら良かったのにな―。
紫水は心からそう思う。
そうしたら、出会えなかったかも、知れないけれど。
6つほど年上の彼女は、紫水にとっては姉のような存在。
宮廷の生活は彼女に全て一任している。
いつでも何不自由なく行動出来るように、陸家との連携や段取りやら事務手続きまで、彼女は常に先を読んで手配してくれる。
何でも卒なくこなすその手腕は尊敬に値する。しかも本分は剣士だというのだから、陸家の教育には驚きしかない。
「外では無茶されないでくださいね。私がついていれば別ですが」
「そうだね。梅梅がいたら、もう少し捗ってたね。きっと…」
紫水は座り直し、立てた片膝に頬杖をついて呟く。
残念ながら、課題の進捗は、芳しくない。
「そう公主、お茶、ですが」
梅梅が団扇を口元に寄せ、膝を進めて紫水と肩を並べる。
「…ひとり証言が取れました。あの前の日に、纈草根の納品があったと」
「ん」
「睡眠に使われる薬草です。尚食《調理》の記録には残っていませんでした。宮中の人間が持ち込んだとしか」
「…やはり、内部犯か」
「当日、内廷に出入りした人物が持ち込んだ可能性も。受取りの記録がないのは、不自然です」
「手引した者がいる線は?」
「証拠を残さない徹底ぶりから、捨て駒だと」
「そうか、悔しいなぁ…」
紫水は横たわり、空を見上げた。
あれは絶対に、事故なんかじゃない―。
もう一年半になる。
風の強い、秋の始まりの日。
大極殿の北東の離宮のひとつ、華雲宮が火災で焼け落ち、三十人余りが犠牲になった。
火元は倒れた燭台と見られ、風が強かったので延焼が早く、消火活動も功を奏さなかった。焔は宵の空を橙色に染めながら、2つの殿舎を焼き尽くした。
「まだ真実には遠い…。でも、必ず」
広大な蓮池を走る風が竹林を吹き抜け、芝生を駆け上がり、寝転ぶ紫水の前髪を揺らした。
青い空が雲を風に流していく。形を変えては消えていく雲を見ていた紫水の視界に、梅梅が顔を覗かせた。
「吉報がひとつ。生存者が見つかりました。洛京で療養中だと」
「身をやつしているの?」
「はい。鬼籍に入った事になっています。これから家の者を送って調べます」
「わかった」
身体を起こし、腕を絨毯について上半身を支える体勢を取る。
「地道に集めるしかないね」
今は点でしかない証拠。
それをつないで、必ずあの男の元へたどり着いて見せる。
紫水はあの日見た、左腕を空に高々と上げた奴の影を瞼の裏に思い出す。
「喪が明ける前までには、絶対に突き止めて見せるから」
「公主、香が―」
声を低くした梅梅が、紫水に目配せした。
紫水は座り直し、茶器を手に取ると一口含んだ。
鼻に抜ける茉莉花の香り。目を閉じ、深呼吸して白い香りを胸に広げ、心を落ち着かせる。
「小妹、ここにいたのか―」
声に瞼を上げると竹林から若い男がふたり、姿を現した。
「秦王殿下、杜卿」
兄・仲璇とその腹心、杜尅。
ふたりの美男子は芝生を越え、紫水たちの座る絨毯の前にやって来た。
「我が天女よ、失礼するよ」
仲璇が絨毯に腰を下ろすと、梅梅が恭しく茶を差し出す。
彼はキラキラの笑顔で会釈すると、茶器を片手に取り、一気にあおった。
「良い薫りだね。女子の楽しみは優雅でいい」
深々と頭を下げた梅梅に茶器を返すと、仲璇は紫水に向き直り、これまた優雅な笑顔を作った。
「小妹、ちょっと頼みがある」
「はい」
拒否する権利は元からない。素直に聞く。
「五日後、正午前に秦王府に来てもらえないか」
「―」
マズイ。
その日は午後から右金吾衛府総出で行われる、年に一度の大競技会。
九瑤も三班のメンバーとして打毬戯《ポロ》に参加することになっている。
班の名誉をかけた、本気の戦い。今年は負けられないと、最強の布陣で臨む予定なのに。
仮病、発熱、先約…。
紫水の頭の中に言い訳がぐるぐると巡ったが、口から出たのは無難な回答だった。
「はい…。午後から予定がありますが、伺いますわ」
「すまんな。見てもらいたいものがあるんだ」
「何ですの?」
わざわざ兄が職場まで出向け、と言うからには、よほど大それたものだろう。それか宮廷に持ち込めない程の大きな工作物か、はたまた持ち出し厳禁の貴重な書か…?
「いらしてからの、お楽しみで」
後ろに立って控えていた杜尅が、口を挟んだ。
兄の片腕であるこの男は、秦王府の二大巨頭であり、公私共に兄を支える名参謀。
妓女もびっくりの天女のような容貌で、かつ頭脳明晰。上流階級出身者らしい品のある立ち姿で常に兄の後ろに侍る彼を、紫水はなんとなく好きになれない。
「あぁ、楽しみはとっておくといい。きっと紫水は喜ぶから」
「そうですか…」
自信満々に言う兄に、紫水は困った素振りをして見せる。楽しみなのは大会だ。こっちが最優先なのに。
「お時間は、かかりそうですか?」
「ご心配なさらず、すぐに終わりますので」
また杜尅が横から取って言う。
花もほころぶ華麗な笑顔を見せつける彼に、紫水は「そうですか…」と言って目をそらした。
正直、この仮面のような笑顔が好きじゃない。
「では、頼んだよ」
仲璇は軽やかに裾を払って立ち上がると「では」とひとつ微笑んで、杜尅を従えてもと来た道へ帰っていった。
「…なんだかね」
清々しい背中を見送った紫水は梅梅と目を合わせると、はぁ~と大きなため息をついた。
◇
秦王府は西市の北、豊泉坊の東にあった。
皇城から少し離れたこの場所に、敢えて拠点を構えた兄の思惑を、紫水は知る由もない。
出仕の時は官袍を着て出る。今日は午後から打毬戯の予定なので、着替えやすさも考慮して、紫水はあえて胡服を纏い男子のような装い。
陸家を出る時に家人に「珍しいですね」と声をかけられ、紫水は「優勝取ってきます」と親指を立てて笑いを誘った。
実は秦王府と陸家は隣の坊里。十分少々で、秦王府に到着し門をくぐる。
紫水は脇目も振らず、本殿へと向かう。
前にも一度来た事がある。あの男の居場所は、おおよそ見当がつく。
「ご機嫌よう」
本殿の西、庭に面した部屋の戸が開かれていたので、紫水は一声かけて入った。書棚の前に立っていた男が振り向き、驚いた顔をした。
「あら、軽装で―。雰囲気が違うので、一瞬わかりませんでした」
「用事があるので」
短く答えた紫水に「そうでしたね」と杜剋は愛想程度に口角を上げた。そして手にした巻物を書架に戻すと、紫水の前にやって来て跪いて言う。
「公主、ご足労頂き恐縮です。…申し訳ありませんが、秦王殿下から芙蓉別邸にお越し頂く様に、とお言伝を承っております」
「…」
聞いてないぞ。
そういうの面倒だから、先に言ってくれればいいのに。
頬がピクッと引きつりそうになるのを堪え、紫水は重い声で返す。
「…わかりました。では」
腹立たしいが、早く済ませて、試合前の準備に取り掛からないと。紫水はくるっと踵を返して、戸へ向かう。
「公主、お待ち下さい。臣がご同行いたします」
今日は暇じゃないんだ。
しかも苦手な人と出かけるなんて、冗談じゃない。
芙蓉別邸は何度も行っている。ひとりで行けばいい話。
駆け寄り行く手を遮った彼に、紫水は右手を上げて拒否の意を示す。
「一人で参りますので、お気遣いなく」
「いえ。馬車を用意しております、どうぞ」
彼はさっと紫水の横に周り、廊下へと誘導の手をのばした。
怪訝な顔をした紫水に対し、有無を言わせぬ笑顔の、圧の強いこと。しかもよく見ると、入口の左右に控え頭を下げる府士達が文官のはずなのに、妙にガタイがいい。
この男、端から逃がす気はないらしい。
「…えぇ。わかりました」
仕方ない。紫水は悟ると軽く頷いて、先導されるまま彼の背に従った。
乗り込んだ馬車は秦王府を出ると、真っ直ぐ東に向かっていた。別邸は朱雀門街から東のふたつ奥にある坊。
秦王の私的な宴席の場となることの多い屋敷は、広い蓮池や梨や牡丹と様々な花が美しく、珍しい酔芙蓉も咲くことから、芙蓉別邸と呼ばれている。
折にふれて紫水も呼ばれて出向くので、馴染みのある場所だ。
「こちらの奥でございます」
馬車を下りた紫水は、いつもと違う様子に周囲を見回した。
別邸には最低限の家人しかいないのに、今日は大門から出迎えの人数が多い。しかも初めて見る顔ばかり並んでいる。
後で宴席でもあるのか?
紫水は不思議に思ったが、杜剋に促されるまま、奥の母屋に向かった。
歩いているうちに、前に来た時と邸内の雰囲気が変わっている事に気づいた。
中庭に花が増えている。回廊に並ぶのは芍薬だろうか。
華美だった装飾も少し抑えられ、瀟洒なものに変わっていた。所々補修もされ、以前よりも綺麗になっている。
派手好きの兄の趣味が変わったのだろうか。こちらの方が紫水の好みだが。
「中々趣味の良い風情になりましたね」
「えぇ」
キョロキョロと屋敷内を見ながら進む紫水に、前を歩いていた杜剋が母屋に来たところでふと足を止めて振り返った。
「公主もお気に召しましたか?」
「そうですね」
「それはよい」
素直に相槌を打った紫水に、彼は満足そうに微笑むと階段を上がり、扉を開けた。
「どうぞ、お入りください」
コツコツと石段を上がり、部屋に入る。
居間の真ん中には大きな卓子があり、その上には金細工が施された豪華な香炉が置かれていた。涼し気な香りが部屋に満ち、客人をねぎらう。
ここの内装も、だいぶ変わった。
目新しい調度品に、目新しい窓飾り。
隅々に飾られた花木。淡色で揃えられた室内。整えられた空間はまるで他人の屋敷のようだ。
「失礼します」
中央まで足を進めた紫水はあたりを見回すが、広い室内には誰もいない。
「…」
おかしい―。
紫水は振り返り、戸の脇に静かに佇む男を見据えた。
仮面を張り付けた男は突き刺す視線に動じる様子もない。彼は紫水を横目に飄々と隣の部屋に歩を進めると、奥に向かって大きな声で呼びかけた。
「待たせてすみません、斉潁殿」
すると、さらっという衣擦れの音と共に、奥の部屋からひとりの男が姿を現した。
「いいえ、とんでもない事でございます―」
兄ではない男の登場に面食らう紫水の前に、その男は歩を進めた。
明るい部屋で見るその正体に、紫水は目を見張った。
「これは、どういう―」
言っているうちから全身から血の気がひいて、唇が震えた。
端正な顔に、すらりとした身のこなし。
涼し気な切れ長の瞳に、精悍な眼差し。
紅い官服を纏った男は、間違いない、あの夜の人物。
「お嫁ぎのお相手、斉潁殿です」
「―」
ようやく自分が計られたことに気づき、紫水は呆然とする。
突然降りかかった『降嫁』。
あの日、兄が明言を避けたのは、事実を知ったら紫水が何らかの行動を起こすことを予想していたからだ。
してやられた―。
いくつもの違和感が符号のようにぴったりと重なっていくのと同時に、全身の毛が逆立つ。
「彼の喪が明けるまでの半年間は許婚という形ですが、今日からここが公主の新しいお住まいとなります」
この計画を立てたのも、きっとこの男。
だからあの時、兄ではなく彼が答えたんだ。ボロを出さないように―。
「そなた、初めからそのつもりで―」
違和感に反応出来なかった自分のぬるさに、紫水は奥歯をぐっと噛みしめる。
「主上のご裁可も頂きました。祝言の日取りは易断にて、改めてのお沙汰となります」
稀代の策士は顔色一つ変えることなく、嫌味な程に恭しく頭を下げて、現実を突きつける。
「外堀は埋めた、と言うことか」
刺すような赤い目を向ける紫水に動じることもなく、仮面の男は粛々と告げると、またあの嫌な笑顔を作った。
「急なことで驚かれたでしょう。どうぞごゆるりとお休みくださいませ。臣はこれにて、失礼仕ります」
頭を下げ深々と礼をすると、さっと袖をひるがえして彼は部屋を出ていった。
残された紫水は立ち尽くし、靴音高く遠ざかっていく男の背をただ茫然と見送るしかなかった。
◇
どうにかして、この状況を打開しなければ。
陸家に手助けを頼んで、太公母の元に駆け込むか―。
必死に考えを巡らす紫水の後ろで、カツンと靴音が鳴った。
「驚かせてすみません」
振り返ると、いつか見た顔が穏やかに微笑んでいる。
謝罪の言葉なんかで、許されると思ってるのだろうか?
その悪意のない表情が、紫水を余計に苛立たせる。
「本当に。こんな卑怯な手を使うなんて、信じられません」
今すぐにでも襟元掴んで、ぶん投げてやりたい。
「人を何だと思ってるんです」
怒りをぶつける自分の声が、不貞腐れた子供みたいに聞こえる。
そんな紫水に彼は申し訳無さそうな顔をして、胸に右手を当てがい謝罪の意を表する。
「お伝えしたら、きっとお断りされてしまうと思いまして。すこし強硬な手段を取ってしまいました。申し訳ございません」
そう言って、彼は紫水の前に跪いた。
「…止めてください。そういうの」
ぷんっと横を向いた紫水に、彼は眉を下げて困ったという顔をする。
「お嫌いですか、傅かれるのは」
「大っ嫌いです」
「そうでしたか」
悠々とした声を響かせると彼は立ち上がり、紫水の手を取った。
「混乱されるのも当然です。まずは、こちらでお茶でも」
「なんて呑気な事を。馬鹿なんですか?貴方は」
この男、正気か?
紫水の頭に一気に血がのぼる。元来、短気な性分。これは父親の血だ。認めたくないけど。
「あなたと一緒に、茶など飲めるとでも?」
噛み付く紫水に彼はこれといって慌てる様子もなく、斉穎は手を握ったままにこやかに続ける。
「ご機嫌を損ねてしまったようですね」
「当然です」
「やっと貴女に逢えて、舞い上がっているのです。お許しください」
「許せとは、なんと図々しい事を」
「そんな顔も可愛いですよ」
揶揄われて、紫水の顔が真っ赤になる。
「あなたの目は節穴ですか」
「確かにそうです。盲目ですね、殊、貴女に関しては」
「もう少し賢い人であればよかったのに。残念でなりません」
軽薄な男は嫌い。
紫水は堂々と嫌味を言うが、相手に気にする様子も無い。
「貴女を前にして平常心などでおれません。あの夜から毎晩夢に見ていました。宵に下りた天女を、この手に抱いて眠る日を」
「…」
歯の浮くようなクサイ台詞を不思議なほど爽やかに語る彼を、紫水は怪訝な顔で見上げる。
春の日が射し込む部屋の中。
選ばれし者が纏う紅の官服に身を包み、佇む男は悔しいかな、誰が見ても絵になる。
あの時は気づかなかったが、落ち着いた声の割には肌つやがいい。話しぶりからある程度場数を踏んだ年齢なのかと思ったが、意外と兄と大して変わらないくらいなのかもしれない。
無言でじろじろ見ていた紫水に、彼は首を傾げる。
「どうしました?私の顔に何か?」
「…意外と若そうだな、と」
紫水の素朴な感想に、斉潁は目を丸くした。少しの間があった後、ははっと声を上げて笑った彼は少年のように無邪気な顔をみせた。
「兄君と同じくらいですよ」
「気障な事ばかり言うから、もっと年増かと」
紫水の率直な感想に、彼は「それは…」と呟くと、口元をくっと締め真顔になった。
「公主は年上はお嫌いですか?」
「そんなこと聞いて、どうするんですか?」
今更なんの意味がある。
紫水の趣味嗜好を考慮するには、遅すぎるだろう。
「好敵手は真っ先に、蹴落さないと。女性はすぐに心変わりしますから、ね」
今度は悪戯っぽく笑った。
その顔に不覚にも、どくんと紫水の心臓が鳴った。
駄目だ。顔がいい。
陽の光の下で微笑んだ彼はあまりに流麗で、紫水は思わず見惚れてしまう。
自分に向いた視線に気を良くしたのか、斉穎は饒舌になる。
「他の男に気が移るなんて、許せないでしょう。そんな素振り見たら、嫉妬で狂ってしまいます」
「…よく言うわ。婚姻なんて、男にとってはただの出世の手段でしかないのに。取り繕わなくて結構です」
「取り繕う?天女は全てお見通しでしょう?我の心に曇りなきことも」
平然とのたまう彼に、紫水は呆れるばかり。
「あなたは口が上手くて、ほんとに嫌になります」
「嘘だと思いますか。私は、ずっと―」
月の様な静けさを湛えた彼の瞳に、紫水の顔が揺れた。静寂の世界に鈴の音がひとつ落ちて、紫水は斉穎の腕に囚われた。
「こうしたかった―」
紅い衣に抱きしめられ、紫水は涼やかな香の立つ、たくましい胸に身体ごと沈む。
「ずっと、考えていました。愛しい人に触れる瞬間を」
きつく絡むかたい腕。どくどくと鼓動を刻む心臓の音。
頬から響く彼の鼓動に、紫水の身体が熱くなる。
「やっと、今日、叶った」
紫水の頭に、彼の顎がのせられる。
彼の手が紫水の肩から腕を往復した。
すっぽりと収まった華奢な身体に斉潁は目を細める。
「貴女を腕の中に眺めて」
背中に回った腕がゆるみ、二人の間に隙間が出来た。身体をそらして顔を上げた紫水に影が重なり、視界が塗りつぶされた。
「―」
重なる唇。柔らかな温度。
慈しむような動きに、焦れったいような感覚。
前とは異なる、初々しい恋人同士の様な甘い接吻に紫水の胸は大きく上下する。
触れる唇が小さく震え、紅い衣を握る紫水の手にギュッと力がこもる。
「公主…」
ようやく顔を離した斉穎の親指が紫水の唇をなぞった。
ぼんやりとした目で彼を見上げると、視線が重なった。
滔々と湧く森の奥の泉のように、奥深い眼差し。
強い引力に惹きつけられ、紫水の胸が大きく脈を打つ。
「委ねて、私に…」
彼の左手がゆっくりと背中をなぞる。這うような手のひらに、動物の本能が、紫水の背中を一気に駆け抜けた。
駄目だ。逃げなきゃ―。
甘く囁く声に流されそうになっている事にはたと気づき、紫水はぐっと丹田に力を込めた。
「冗談じゃない―」
紫水は彼の右脇に左手を伸ばし、油断している彼の腰剣を一気に引き抜くと、喉元に向け突き上げた。
「舐められたものよ。我が流されるとでも?」
低い声を響かせ、相手を睨みつける。
「この縁談、辞退して下さい―。我は降嫁なんて御免です」
きらめく剣先に彼を見据え、紫水は努めて冷静に言う。
「それに、簡単に転がされるほど、子供じゃありません」
「…そう、それは申し訳ない。大人の女性に、失礼でしたね―」
この緊迫の場面でも、斉穎は微動だにせず切れ長の眼差しを細め、口元に笑みを留めている。
得体の知れない不気味さに、紫水の背中にざわっと寒気が走った。
だがここで尻込みなんて出来ない。紫水は負けじと睨み返す。
「えぇ。もう大人なので」
未熟だろうと下級だろうと、一人の官吏とて奉職している身。軽んじられるのは不本意極まりない。
「子供扱いはご遠慮下さい」
「では、そのようにしましょう―」
そう言う口元が歪んだと思うと、彼はさっと身をずらし紫水の剣を持つ手に腕を伸ばした。だがそれを紫水は咄嗟に振り払った。
伊達に陸家で育ったわけじゃない。
この程度の動きくらい、見極められないはずがない。
「甘いな」
あざ笑うような呟きと共に紅い袖が目の前を舞うと、ガキンッと耳につく金属音が部屋に響いた。
「―え」
我が身に起きたことを、紫水はすぐには理解出来なかった。
背中から男の左腕に身体を拘束され、握っていたはずの剣は遠く視界の端に転がっていた。
「十五から羽林軍にいたので、それなりに『女性の扱い』は慣れている、と自負しております」
滔々と耳元で囁く彼の言葉は仄暗さを含んでいて、紫水は冷や水を浴びせられた心地がした。
「…はな、して」
掠れた声が少し震えた。彼が喉の奥で笑ったのが分かった。
「公主は過激なのが、お好きなようで」
「…っ」
悔しさと屈辱感に、全身が震えて燃えるように熱くなる。
「では、続きをしましょう―」
それは勝利を確信した上の、宣戦布告だった。
0
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