公主のひめごと

濱田みかん

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第二章

親友

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 立ち上がるのに少しふらついた九瑶を、近くを歩いていた同僚がサッと駆け寄って支えた。

「大丈夫か?」
「あぁ…、はい…。すみません」
「最近働き過ぎじゃない?少し、風に当たっておいで」
「…お言葉に甘えて」

 九瑶は照れ笑いをひとつおいて、部屋を出た。
 ぐるっと廊下をまわり人気のない庭の前に出て、濡縁の縁側におもむろに腰掛ける。
 衛府の北面に広がる裏庭には水路が張り巡らされている。都城の北を流れる渭河から分かれた南へと下る小川を水梁で引き入れて作られ、この小さな庭に潤いを注いでいる。
 さらさらと流れる水音が心地よいこの空間は、九瑶のお気に入りの場所だ。

「駄目だな…」

 昼も夜も気の抜けない生活が、もう十日ほど続いていた。
 二日と置かずに営まれる夜戯。散々乱された後は泥のように眠るのに、身体は重くて疲れがまるで取れない。

 春の鳥が翼を休める庭を眺める九瑶の後れ毛を、風がふわりと流す。
 まだ冷たさを残す風が、火照りの残る身体を醒ましていく。

「空回りばっかり…」

 なんだか全てが上手くいかない。

 三日前に西市で掏摸スリで捕まった子供が口を割らず、聴取が一向に進まない。
 律令下では十二歳以下なら罪を問われない。身元が分かればすぐ釈放なのに、どうしてか完全黙秘。お願いだから何か言って。悪口でもいいから。

 昨日は刃傷沙汰があったと思えば、夫の浮気を疑った妻の狂言だし。
 くだんの道観を覗くも、いかつい門衛に阻まれるし。
 點心おやつ買おうとしたら、売り切れてるし。
 筆は折れるし。

「だぁぁぁ~っ!」

 もう自棄ヤケくそ。叫んで頭をかきむしる。
 誰も見ていないから、気にしない。
 小さな脳は既に過熱状態オーバーヒート。凡人には負荷が大きすぎる。

「…もっと賢く、生まれてればなぁ」

 この身体に脈々と流れる、『筋肉第一主義』の血。
 国史を顧みても、実家は武力行使万歳の家系。兄姉(といっても異母だけど)を見ても、外見は総じて一級品だが、振ったらカランコロンと音がしそうな頭だったりする。いわゆる『残念な人』の典型例だ。

「悲しすぎるわ」

 長兄・伯枢に至ってはその最たるもの。根っからの脳筋。彼が太子なんて不安しかない。
 だから知恵のある魏延の爺が太子少傅指導役についているんだとは思うが。
 いや、彼でいいのか?人選、合ってる?

 兄姉で唯一の切れ者、次男・秦王仲璇でさえ、あんな文を送って来るくらい抜けているところがある。

「この国、大丈夫かな…」

 いや、そんな心配してる場合じゃなかった。

 一番の悩みの種は、あの男。
 大理寺正 斉潁。

 兄から届いた文に偽りがなければ、彼は大理寺最高裁判所の官僚で、清廉潔白で品行方正な有望株、だそう。眉目秀麗、かつ控え目で人と争うことをせず、三綱五常さんこうごじょうを体現する人物で、彼以上の夫君は広い宮廷を見回しても他にいない―。

 って、誰が信じるか!

 どうしたら品行方正なんて言葉が出てくるんだろう。
 全然違うじゃないの。
 清廉潔白って何?彼の笑顔は白じゃなくて黒でしょうに。ツッコミどころが多すぎて、口がひとつじゃ足りないよ。

「兄上も、ああ見えて中身は筋肉だからなぁ…」

 人を見る目を養え、なんて難しい事を言っても無駄かもしれない。
 本当の事を言っても、きっと信じてもらえない。恥ずかしくて言えないけど。

 もしかして、言えないようにわざと…?
 
 杜卿はああ言っていたが、正式な納采《結納》が済んでいるのかさえ、真偽は定かでない。そもそも勝手に決められているのだから、極秘に済まされたとしてもおかしくはないが。
 それか外堀を埋めて、既成事実として押し切るつもりなのか…。
 どんどん疑心暗鬼に陥っていく。
 どいつもこいつも、とんだ策士だ。我ばかり振り回されて。

「しかも、『夫婦ごっこ』なんて」

 邸にいるときは怪しまれないように、仲睦まじい姿を、とか言い出した。
 確かに視線は感じる。きっと杜卿の息のかかった人間が家人に交っていて、告げ口でもしているんだろう。

 おかげで彼が早く帰って来た日は、帰宅から眠りに落ちるまで、飽くことなく付き合わされる。
 出迎えの接吻に始まり、着替えから夕餉、食後の一服、湯浴みの後、寝支度、そして…。

 思い出すだけで、頭が沸騰しそうになる。
 笑顔で迫って来る破廉恥な許婚に、抵抗するもことごとく返り討ちに合い、毎回甘く溶かされる有様。悔しいがたぶん我より、我の身体を把握しているのは彼だ。

 昨晩もひどい目にあった。
 燭台が煌々と照らす中で身体の隅々まで見られ、なぞられ、接吻をされた。
 人の目に触れることのない衣の下は、所かまわず『契約の証』が刻まれている。

 流石に毎晩はしんどい。
 ただ、彼も忙しいらしく、帰宅が遅い日が多いのが今のところ救いだ。
 今朝、邸を出る前に家人に夕餉の希望を聞かれた。察するに、きっと彼は今日は帰ってこないだろう。
 そして、我は明日が定休日。

「今日ぐらい、羽目を外したいわ」

 うん。飲みに行こう。誰か見つけよう。

「それじゃぁ、定時までもうひと踏ん張しますか」

 やっぱり、気晴らしは大事だ。
 うーんと伸びをして、我は部屋に戻った。


 ◇

 誰かいないかな~。
 仕事終わり、知っている顔を探してきょろきょろしていると、折よく通りかかる人がいる。

「阿郭~!おかえりぃっ!」

 持つべきものは徐郭。なんて都合よく現れてくれるんだ。九瑤は満面の笑みで幼馴染を出迎えた。

「おっ。今日はもう店じまい?」
「うん。定時で上がり」

 洛都東都から帰ってきた彼は沢山の手土産を携えて、各所に挨拶回りしていたらしい。
 十日ぶりに会う彼は、少し日焼けしていた。

「九瑶、そろそろこの間の貸し、払ってよ」
「うん。この後行こうよ」
「あ。はなから行く気満々だな」
「あは」

 家に帰る気も起きない。まさに渡りに船。
 意気揚々と、二人並んで普寧坊に繰り出した。

 市と同じく、繁華街の店も正午から始まる。右金吾衛府から歩くと、時間もお腹も丁度いい頃合いだ。

「あれからどう?少しは慣れた?」

 気になっていた事を徐郭は真っ先に聞いてみた。強制同棲は珍しい。政略結婚は上流階級の家では珍しい事じゃなけど、やっぱり心配。それに、ふたりの間に隠し事は必要無いと思っている。

「ぜ~んぜん」
「ごめん、見てわかった」
「だよね」

 聞いておいてなんだが、九瑶の事は顔を見るだけでだいだい分かる。
 彼女が実家に連行されていた笄礼成人前の三年間を除けば、ほぼ三日に一度の頻度で顔を合わせてる計算。これだけ一緒にいたら、誰だってわかる。
 特に無駄に素直な、この親友は。

 出会いは記憶に無いくらい昔。
 父の縁で幼い我が陸家に通い始めた頃からの付き合い。二つ下の彼女は才気煥発な子で、どちらかというと運動音痴で、武芸に向かない自分をいつも気に掛けてくれた。
 陸家は身分を問わない。だけど、そこに来ている人間が必ずしもそうとは限らない。
 官位を捨てた親の子供を、見下してくる『ご子息』も多い。
 そんな奴らを正々堂々と剣で叩き潰し、我に向って拳を高々と突き上げた九瑶の顔。あの悪餓鬼の笑顔を、我は一生忘れないだろう。

「お相手はどんな人なの?」
「よくわかんない」
「見た目は?好みだったりする?」
「顔だけは、凄く」
「よかったじゃん。仲良くなれそう?」
「物理的に仲良くさせられて、つらい」

 ほぼ棒読み。瞳孔が開きそうになってて、どんよりした影を背負う姿が笑いを誘う。

「へぇ…。ちゃんと契約通りなんだ。で、夫婦のあれは、どうなの?」
「…馬鹿になるくらい、もてあそばれてるよ…」

 声がちいさくなったところを見ると、まだ恥ずかしさの方が勝っているんだろう。そんなとこは可愛らしいと思う。

「あぁ、強いんだ。意外」
「意外?」
「ほら、外でいくらでも遊べるじゃない?だから許嫁に毎晩って、あんまり聞かないねぇ」
「一日置きだけど。ほんと、死にそう」
「性欲強めの旦那様なのかもね」
「なんか、草食動物になった気分だよ」

 旺盛に食われているらしい。
 悲嘆にくれる、悩ましげな横顔。
 それが妙に艶冶《えんや》で、すれ違う人がちらりと視線を送る。

「相手にとっては、いい縁組なのかもね」
「政略結婚とか、ほんと嫌」
「半目やめて。美人が台無し」
「冗談でもそういうの止めて。お世辞浴び過ぎて、憤死しそう」

 見た目が良すぎるのも、実は良家の出なのも、この親友にとっては余計なお荷物でしかないんだろう。

 天からの授かりものギフテッド
 一握りの稀なる人間が持つそれを、徐郭は隣を歩く親友に見ていた。

「ねぇ、九瑶。我、肉食べたい」
「うん。酒も飲みたい」
「じゃあ、あそこにしよう。紅花」

 指さす先は『紅花酒家』の看板が掲げられた店。
 ここは最近、衛士の中で話題の店。西域の血が濃い娘が給仕をする、ちょっと値の張る店だ。

 二人は窓側の壇上の席に向かい合って座った。
 運ばれてきたのは、見た目から異国の趣向の食器たち。

 戦禍が過ぎ去ったこの時代、諸外国と交易が盛んに行われ、砂漠を渡ってやって来た西域の名産品が都に多数運びこまれた。多種多様な人種が入り乱れるこの界隈には商人も多く滞在し、こういった異国趣味エキゾチシズムが要所に見受けらた。

「はぁい。何から飲む?」

 明るい調子で、給仕の娘が注文を取りに来た。
 茶色の髪に赤茶色の瞳。愛嬌のある顔で、どことなく蠱惑的。

「葡萄酒かな。阿郭は何がいい?」
「そうだね…」

 渡された菜譜メニューから顔を上げると、徐郭が何か言った。

『何がおすすめ?』
『あら、わかるの?』
『うん、少しだけ。仕事で使うから』

 突然、徐郭が流暢な外国語で喋り出したので、九瑶は驚いた。
 二人はいくつか言葉を交わし、彼女はにっこり笑って店の奥に入っていった。

「玉英だって。名前」
「すごい。喋れるんだ、波国の言葉」
「商人相手にするからね。多少は出来るよ。九瑶も少しはわかるんだ」
「実家で覚えさせられたから。挨拶くらいだけど」

 外交使節との会談を想定した問答集を暗記した程度。
 正直、会話は難しい。単語も聞き取れるかどうか。

「とりあえず乾杯しよ」

 九瑶は首の長い銅の水差しを傾け、紅い葡萄酒を玻璃の器に注いで、徐郭に渡す。

「出張、お疲れさま」
「毎日お疲れ様」

 洋杯グラスを右手に傾け、二人は乾杯をした。
 歩いて乾いた喉を、渋くて甘い液体が撫でるように流れていく。
 胸に落ちると、ほわんと泡のように膨らんで、一気に気分も高揚した。

「大理寺正、ね…」
「聞いたことある?兄の説明だとそうらしいけど、本当かな」

 赤紫色の液体が満ちた玻璃の洋杯ごしに、九瑶がジトっと見る。
 前と違って疑い深く、もとい慎重になったのは、右金吾衛の仕事のおかげか。成長したな、と徐郭は思う。

「うん。確か、すんごい優秀な若手の注目株。控え目で腰の低い人らしい」
「…それ、きっと別人だよ」

 兄といい、みんな違う人物を言ってるんじゃないか。
 毎晩楽しげに人を弄ぶあの男と、絶対に同じな訳がない。
 九瑶にしたら、まったくの同一人物とは考えられない。

「じゃあ外面が異常にいい、または二重人格、とか。いずれにせよ超現実主義者リアリストかもね。将来安泰だよ、官僚としては」
「夫君としては、どっちも最低だわ」

 くぅっと嘆いて、九瑶は杯を仰ぐ。

「我としては、九瑶を大切にしてくれる人なら、それでいいんだけど」
「…」

 大切にするって、どういう事なんだろう。
 幼子にするように、頭を撫でて愛でる感じだろうか?
 それとも、箱にしまっておく感じだろうか?
 黙ったまま首をかしげ一点を見つめた九瑶に、徐郭は心配そうな表情をみせる。

「優しくない?」
「…」

 優しいって、なんだろう。
 何をしたら、優しいのか。
 九瑶は考えるが、思いつかない。

「わかんないや…」

 脳裏に浮かんだ我を見下ろす彼の顔。そういえば、どうしていつも、あんなに無邪気に笑うんだろう。彼の目には何が写っているんだろう。 
 何も知らない。
 彼がどんな人なのかも、よく知らない。
 我はまだ、心も体も、自分の置かれている状況を受け止める事が出来ていない。

「本当に、祝言婚礼挙げるのかな、我は」

 つぶやく九瑤の視線の先には、広い店内の真ん中で西域風の音楽と共に、胡旋舞を舞う娘たちの姿。
 煌めく袖が光を撒き散らし、男たちが歓声を上げる。
 その一瞬の輝き。一時の夢。
 蝋燭の火で回る走馬灯のごとく、天井に星空を描く。
 瞬いては消えるその光。
 儚いその姿に、九瑤は自分を重ねた。
 つかみどころのない、不確かな輪郭。あるようで無いかもしれない、自分という形。なんだか全てが、まるで他人事の様に思えてくる。

「考えたことなかったよ、あの男の事なんて」
「そうなの。じゃあ、聞いてみなよ。ご本人に」
「なにを?」
「食べ物の好みとか、嫌いなものとかでもいいんじゃない?その人を知らないと、どう接していいかも分かんないでしょう」
「分かったら、逃げようがあるかな」
「そこは諦めてないんだ」
「うん。でも、陸家にはもう戻れないんだなって」
「何言ってるの、明兄のこと、ずっと追いかけてるくせに」
「…無理だよ」

 ぽつりとつぶやいた九瑶の身体が、卓子の上に沈んだ。

「振られちゃった、からさ」
「したの?告白」
「ううん」
「じゃあ、駄目な訳じゃ―」
「違うんだよ」

 徐郭の言葉を遮った九瑤の瞳が、大きく揺れた。

「明兄に、我は見えてないんだよ…」

 喉の奥からどうにか引き絞って、呻くように言いうとおでこを机に落とした。

「そうか…」

 そうとは思わないが、徐郭はただ相槌を打つだけにとどめた。
 当の本人に確認するのも、出過ぎた真似だろう。
 あの人も、聡明過ぎて自分で全て解決しようとする。嫡子としての立場に忠実に、感情までをも無機質に処理する男を、我は哀れだと思う。

「明兄と釣り合う女の子に、生まれたかったよ…」
「…九瑤に、足りないものなんてないよ」

 確かに、中身はちょっと変わってるかも知れないけれど、人の為に怒って、人の為に泣けるこの子は間違いなく善人だ。

「ただ、明兄の『好き』が、少し違うんだよ」

 羨望、渇望、欲望。
 感情はひとつ文字が違っただけで、その色を大きく変える。
 何色の目で、相手を見つめるのか。
 目は飛び出した脳。本人に自覚は無くとも、そこに本音が現れる事、気づく人は少ない。
 彼の視線に熱が交じる瞬間を、我は何度も見ている。

「九瑤が大切な存在であることに、変わりはないよ」
「大切って、何だろうね…」

 九瑶の頬にツーっとひとすじ、涙が伝った。
 音も出さずに流れるそれを、止めようとは思わない。

「今日はうち泊まっていってもいいから」
「うん」
「たまにはゆっくり泣いとけ」
「うん」

 手拭いを渡すと、九瑶は顔をうずめて肩を震わせた。

 ◇

 明け方に目を覚ますと、目を腫らした九瑤が既に身支度を整えていた。
 結局、昨晩はうちに泊まった。人の寝台を占領しあれこれ話しているうちに、気づいたら寝落ちしていた。
 気を張ってたんだろう。
 小さい頃から変わらない寝顔に、正直ホッとした。

「付き合ってくれて、ありがとう」
「ん」
「帰るね」
「気を付けて」

 明るくなり始めた街路に出て、九瑶を見送る。
 小さくなる背中が心細くて、胸にチクッとした痛みが走る。

 こんな時、助けてあげられたらよかったのに。
 何もない自分には、分不相応な望みか。

「人のこと、言えた義理じゃないや」

 身の程を知っている。それが賢い我の愚かなところだ。

 大きくため息をついて、徐郭は天を見上げた。
 白み始めた東の空に光る明けの明星が、彼女の背が消えた上に残っている。

「願わくば、素顔の彼女に寄り添ってくれる人でありますように」

 青白い輝きに、我はささやかな祈りを込めた。
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