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第二章
初めてのおでかけ
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徐郭と別れた紫水は芙蓉別邸に戻ってくると、寝台になだれ込んでそのまま眠りに落ちた。
そして三時間後、ぱちっと目を覚ました。
「よく寝たぁ…ぁぁあっと」
あと一刻で正午という時分。
窓から見える庭の木々の緑が日光をさらさらと散らして、目にも鮮やかだ。
「う…ん。湯浴みしよ」
今日は特に予定もない。
かといって、天気もいいし、日がな一日ダラダラするのも勿体無い。
湯で気分を入れ替えて、のんびり西市にでも出かけよう。
紫水は伸ばした腕を左右に振ると、寝台を出た。
◇
バシャンと勢いよく頭に湯をかぶる。顔にしたたる雫を両手ではらい落として、ゆっくりと湯舟に身体を沈める。
軽くなった手足を伸ばし、全身の筋肉から力を抜く。浮力に身体を預け、ふぅ、と大きく息を吐く。
やわやわと白い湯気がのぼる、穏やかな時間。
じんわりと指先が温まり、血管が広がっていく。その温度は全身に伝わり、凝り固まった感情もゆっくりと溶かしていく。
浴槽の縁に頭を乗せて、ゆらゆらと浮力に身を任せていると、薬草が入った湯のすっきとした青い香りが鼻に抜けた。
「気持ちいい…」
このままずっと、湯に浸っていたいくらい。
伸ばした足を湯舟の端にかけ、顎まで浸かる。重かった身体も徐々に解《ほど》けて、心まで軽くなっていく。
まさに至福の時間。
「入りますよ」
「ぎゃぁぁっ」
ガラッと戸が開くと同時に、斉潁が麻布を片手に入って来た。
「な、なにっしてんのっ!」
思いっきり取り乱し、水飛沫を巻き上げる紫水とは対象的に、彼は飄々と浴槽の横まで来ると、目を丸くして固まる紫水に手を伸ばし、湯船から引き揚げた。
「出かけましょう」
「ちょ、なにっ」
「お手伝いしますよ」
「え、ちょっとっ…。―ひぎゃぁっ!」
戸惑う紫水を素早く大判の布でくるむと、ひょいと抱き上げて浴室を出た。
「支度しますよ」
斉穎はその足で紫水を母屋の居間へ運んだ。鏡台の前の椅子に紫水を座らせると、広げた夏布で髪をふき、慣れた手つきで櫛で梳いた。
「じ、自分でするからっ」
抵抗の余地もなく連れてこられた紫水だが、何から何までされるがままは不本意だ。彼の腕を掴んで、拒否の意を示す。
相手は同性の侍女なんかではない。午前の明るい室内に布一枚巻かれただけの自分が、恥ずかしくてならない。早くここから出て行って欲しいのに、彼はテキパキと慣れた手付きで、紫水の濡れた髪を整えていく。
「時々母を手伝っていたので、髪を結う程度は支障ないので」
「我は頼んでませんけど」
紫水は眉をつり上げるが、相手は柔らかな微笑みを返すだけ。この男は今日も人の話を聞いていない。そもそも聞く気がないのかも。
彼は長い指を器用に動かし、髪を束ねていく。その動きは梅梅と同じくらい、無駄がなく要領がいい。悔しいが、器用な人だ。
「仕上げは衣を着た後で―。今日は、何色の衣にしましょうか」
紫水の手を引き、卓子のある部屋の真ん中まで連れ出す。
「いや、自分でやるから!」
「選ばせて下さい」
「って、待って、待ってって!」
身体を覆い隠す唯一枚の布に手がかかり、焦った紫水が後ずさる。
「ほらほら、逃げない」
朗らかな声と共に伸びた腕が腰に巻きつき、紫水はあっさりと囚われる。
「何も纏わない方が、好《この》みなのですが」
「ひゃぁ」
勢いよく引っ張られて、紫水の身体からばさっと布が取り払われた。
昼下がりの部屋は庭の光が反射して、奥まで明るい。晒された肌に舞う紅いはなびらが、紫水の目にもくっきりと映る。
この跡を微笑む彼の薄い唇が這ったと思うと、燃えるほど恥ずかしい。
「風情がありますね。花びらが舞っているかのようで」
「何が風情ですか!」
幾度となく肌を晒しているけれど、この状況は耐えがたい。
彼は上から下まで余すことなく眺め、ふむふむと何故かうなずいている。
「このままが一番良いのですが、他人には見せたくないのでね。仕方ないです」
「どうしてそういう事言えるんですか?その発想、信じらんない!」
「普通でしょう」
真っ赤になって叫ぶ紫水に、彼は涼しい顔で答える。
「も…、この変態っ!」
「はははっ。男なんて皆、そんなものですよ」
朗らかに笑う彼に言い返すことも出来ず、紫水はひとり身体を震わせる。
ほんと信じられない。
この男の頭の中は、どうなっているんだ?
手際よく肌着を着せながらうそぶく男に、怒りのあまり脳天から白煙が上がりそうだ。
「淡い色の方が、肌に映えますね」
大きな卓子に整然と並べられた衣と紫水を交互に見ながら、彼が選んだのは意外にも、淡い翠と白の色合わせ。
普段から紫水は寒色系のすっきりとした色合いを好んで着ていた。自分では選ばない合わせが、想像以上に可愛くて新鮮だった。
「あ…」
素敵―。
卓子に広げられた衣装に心惹かれた九瑤は、慌てて両手で口元を押さえた。聞かれたくない。
「背筋を伸ばして。ほら」
斉潁は粛々と紫水に衣を重ねていく。肩から白の薄い袷の衣を胸元を緩めにして袷をつくる。胸元からつま先に流れる絹の裳は陽の光を通した若葉の色。その上に薄黄色の被巾を羽織る。
「化粧も少しだけ、しておきましょう」
軽く白粉をはたき、花鈿と唇に紅を差す、最低限の化粧。
ねじり上げた髪に牡丹の細工の貴石の簪を挿す。華美でない主張が、品の良さを感じる仕上がりだ。
「―出来ました。やはりとても似合いますね」
満足気な彼に背中を押され、鏡台の前に進む。鏡の中の自分の姿に、紫水は思わず目を見開いた。
「すごい…」
控え目だけれど存在感がある、凛とした少女の姿。
特別凝ってもいないのに、楚々として品がある。普段の自分とはまったくの別人だが、嫌いじゃない。
感嘆のため息をもらす紫水の顔を、斉潁が覗き込む。
「お気に召しましたか?」
「…はい」
流されたようで悔しい。でも、高揚する気持ちは否定できない。
「出かけましょう、さぁ」
白い歯をこぼす斉潁に手を引かれて、紫水はしぶしぶ部屋を出た。
◇
芙蓉別邸を出た二人は、馬車で東市にやって来た。
都は皇城の入り口、朱雀門から南へと真っ直ぐに伸びる朱雀大街を中心として、左右対称に設計されている。右金吾衛府があるのは西半分、商業の中心である右京。そして東側の左京は貴人や官僚の邸宅が並ぶ街。その中にある東市は宮廷や官僚向けの高級品を中心とした品揃えに定評がある。
西市が庶民の台所なら、東市は贅沢品の宝庫、といったところだろう。
「どちらに向かってるんです?」
たかたかと隣を歩く斉潁に、紫水は聞いてみる。
「いくつか買い物をしようと。貴女も物入りでしょう。必要なものがあったら、遠慮なく言ってください」
「あ、はい…」
答えたものの、紫水は普段からそんなに買い物をしない。
陸家の質実剛健の気風に染まっているせいか、普段の生活はすこぶる質素だ。
何より自立を目指す身としては、貯金が第一。基本給金は必要最低限だけ使って、残りは貯蓄に回す自称倹約家だ。
「あ」
子供のように連れられるまま大人しく街路を歩いていた紫水だが、ある一点に目を止めると、歩きながら前から後ろへぐるっと顔だけ回して追いかけた。
「どうしました?」
「あ、ちょっと」
反対側の人だかりが気になったらしい。
人がたむろする露店の奥に見えるのぼりには『餅』と『果実』の文字が見える。
「ぐっ…」
紫水の喉が鳴った。
一番好きなおやつは甘い餡をくるんだ餅。食べることが何よりの娯楽。給料日の紫水の自分へのご褒美は、休日に並んで買う有名店の甜菓子だ。
察したらしい斉潁が、ふっと目元を緩めて言う。
「買ってきますよ。あちらの木の下で待っていて下さい」
「あ、すみません…」
人だかりの中へ入っていった彼の背を見届け、紫水は言われた通り人の少ない街路の端、槐の木陰に身を寄せた。
ここならば人目にもつきにくい。幹に背を預け、のんびりと待つことにした。
多少の時間はかかるだろう。しばらく様子を眺めていたが、そこそこ手持ち無沙汰なってきたので、顔を上げて樹を見上げてみた。
両手を回しても届かないくらいの幹が、その手を悠々と天に広げている。ちらりと覗く青い空から重なる葉を分けて降り注ぐ木漏れ日が眩しくて、紫水は目を細めた。
「綺麗だなぁ…」
呟いた言葉が、なんだか他人行儀に耳に響いた。
街路を抜けた風がざわざわと葉を揺らす。
何もかもが非日常的な今日。
慣れない相手と慣れない自分の姿。なぜここにいるのかも不思議。全てが醒めない夢の中のようで、どこか実感がわかない。足元がふわふわとした、心許ない感覚だった。
「混んでるのかな…」
当分慣れそうもないが、彼はすごく細かい所に気がつく。それがちょっと面倒くさい時もあるけれど、気を遣って菓子を買ってくれるので、そこはちゃんと感謝しようと思う。
足元に視線を落とし、ふぅっと大きく息を吐いた時だった。
「九瑶っ!」
「?」
呼ぶ声に顔を上げると、街路の反対側から官服の一団がこちらを見ていた。
知り合いだろうか。紫水が様子を伺っていると、その中の一人に手を振る陸明を見つけた。
「明兄!」
小さく手を上げる。彼は一緒にいた人に何か言うと、紫水に走り寄った。
「九瑶…。一瞬、見違えましたよ」
「あ、あぁ…。これは、ちょっと」
意外そうな彼の様子に、紫水はうつむいた。
普段は女装をしていないので、この手の格好を見られるのは少し気恥ずかしい。
「とても…、似合っていますよ」
「お世辞でも、嬉しい。…ありがとうございます、兄上」
ほんのりと頬を染め、ちらっと視線を上げてはにかんだ紫水に陸明も口元を緩めた。
「ご友人とお買い物ですか?」
「あ、うん…」
正直に言えず、言葉を濁す。取り繕うのは、良くないとわかっているけど。
「あ、明兄は、大丈夫ですか?先ほどの方々と…」
「あぁ、後から追うと言ってあるので。いつものことなんです。刑部の司郎中が部員に飲みに行こうというので、私も」
「そうですか」
各省庁との行き来が多い彼。右金吾衛府にあまり顔を出さないのは、こういう付き合いが多いのが要因なのかもしれない。
「九瑤…。すこし、疲れてませんか?」
陸明は紫水の肩に手を乗せると、顔を近づけた。じっと見つめてくる彼に目を合わせられなくて、紫水は小さく口をすぼめる。
「…あれから、なかなか貴女の姿が見れなくて、心配だったんです」
「ん…」
触れて欲しくない話題。
憂いの色を顔に広げてこちらを見る彼に、指先が小さく震える。
顔を見るとどうしても、揺れてしまう。
どうせ届かないのに、消えてくれない胸の鼓動。
それなのに、あの男に翻弄される節操のない我が身が口惜しくて、心臓がねじれてギュッと音を立てる。
「大丈夫…だから」
お願い、そんな顔で見ないで。
いたたまれずに、指先で袖を握る。心臓は大きく動いて、こぼれ出そうなほどに上下している。
「辛いことは、ないですか?」
陸明の指先が、ほんのりと紫水の頬に触れた。
「ん…」
熱い肌の上を、彼の冷えた爪の感触が伝う。
小さく頷いて、紫水は目を伏せる。
何も言えない。
言葉が出てこない。
これでは余計に、不審に思われてしまうのに。
「―あ、そうだ。昨日、貰ったんです」
咄嗟に思い出し、紫水は手首にぶら下げていた巾着からの中から金色の笛を取り出し、彼に見せた。
「競技会の賞品」
紫水の小指ほどの、細い筒型の笛。側面に『陸九瑶』と名前が彫ってある。
純金製の笛は優勝班に贈られる、目玉賞品。これを持つ者は衛士内で羨望の的となる。
「あぁ、いいですね」
彼は受け取ると、自分の口元に寄せピイっと短い音を鳴らした。
「駄目ですよ。彼ら来ちゃうから」
「これくらいの音なら平気でしょう」
金吾衛府共通の召集の合図。衛士はこの笛の音に反応するように訓練されている。
それは左金吾衛も同じ。近くにいたら、馬を飛ばしてやって来るだろう。
「吹いてみて」
自分が吹いたばかりの笛を、紫水の唇に当てる。
言われるがまま唇を尖らせ息を吹き込むと、クピィ~っと間の抜けた音が出た。
「ちゃんと吹かないと、来れませんよ」
子供を揶揄うような顔を見せた彼は紫水の左手をとり、笛を握らせた。
「いつでも呼んでください。これを吹いて」
紫水の肩に手を置いて身体を寄せると、陸明は額に接吻をした。
「忘れないで下さいね」
悪戯っぽく笑った彼は「では」と言うと、踵を返し行ってしまった。
「…」
角を曲がる後ろ姿を見送る紫水は、耳まで真っ赤だった。
どうしたことだろう―。
茫然と彼の背が消えた方を向いたまま立ち尽くす紫水の頭は、もう破裂寸前。
「もう…」
こんな子供だましの戯れに、紫水の心臓は上へ下への大騒ぎだ。
奥にしまい込んだはずの感情が、胸から溢れ出そうになる。
やっぱり、諦められないよ―。
視界がだんだんと、ぼやけていく。
上手く息ができなくて、胸が苦しい。
彼の手のひらの温度をくっきりと残したままの左手を胸に寄せ、重ねた右手でぐっと握りしめた。
そして三時間後、ぱちっと目を覚ました。
「よく寝たぁ…ぁぁあっと」
あと一刻で正午という時分。
窓から見える庭の木々の緑が日光をさらさらと散らして、目にも鮮やかだ。
「う…ん。湯浴みしよ」
今日は特に予定もない。
かといって、天気もいいし、日がな一日ダラダラするのも勿体無い。
湯で気分を入れ替えて、のんびり西市にでも出かけよう。
紫水は伸ばした腕を左右に振ると、寝台を出た。
◇
バシャンと勢いよく頭に湯をかぶる。顔にしたたる雫を両手ではらい落として、ゆっくりと湯舟に身体を沈める。
軽くなった手足を伸ばし、全身の筋肉から力を抜く。浮力に身体を預け、ふぅ、と大きく息を吐く。
やわやわと白い湯気がのぼる、穏やかな時間。
じんわりと指先が温まり、血管が広がっていく。その温度は全身に伝わり、凝り固まった感情もゆっくりと溶かしていく。
浴槽の縁に頭を乗せて、ゆらゆらと浮力に身を任せていると、薬草が入った湯のすっきとした青い香りが鼻に抜けた。
「気持ちいい…」
このままずっと、湯に浸っていたいくらい。
伸ばした足を湯舟の端にかけ、顎まで浸かる。重かった身体も徐々に解《ほど》けて、心まで軽くなっていく。
まさに至福の時間。
「入りますよ」
「ぎゃぁぁっ」
ガラッと戸が開くと同時に、斉潁が麻布を片手に入って来た。
「な、なにっしてんのっ!」
思いっきり取り乱し、水飛沫を巻き上げる紫水とは対象的に、彼は飄々と浴槽の横まで来ると、目を丸くして固まる紫水に手を伸ばし、湯船から引き揚げた。
「出かけましょう」
「ちょ、なにっ」
「お手伝いしますよ」
「え、ちょっとっ…。―ひぎゃぁっ!」
戸惑う紫水を素早く大判の布でくるむと、ひょいと抱き上げて浴室を出た。
「支度しますよ」
斉穎はその足で紫水を母屋の居間へ運んだ。鏡台の前の椅子に紫水を座らせると、広げた夏布で髪をふき、慣れた手つきで櫛で梳いた。
「じ、自分でするからっ」
抵抗の余地もなく連れてこられた紫水だが、何から何までされるがままは不本意だ。彼の腕を掴んで、拒否の意を示す。
相手は同性の侍女なんかではない。午前の明るい室内に布一枚巻かれただけの自分が、恥ずかしくてならない。早くここから出て行って欲しいのに、彼はテキパキと慣れた手付きで、紫水の濡れた髪を整えていく。
「時々母を手伝っていたので、髪を結う程度は支障ないので」
「我は頼んでませんけど」
紫水は眉をつり上げるが、相手は柔らかな微笑みを返すだけ。この男は今日も人の話を聞いていない。そもそも聞く気がないのかも。
彼は長い指を器用に動かし、髪を束ねていく。その動きは梅梅と同じくらい、無駄がなく要領がいい。悔しいが、器用な人だ。
「仕上げは衣を着た後で―。今日は、何色の衣にしましょうか」
紫水の手を引き、卓子のある部屋の真ん中まで連れ出す。
「いや、自分でやるから!」
「選ばせて下さい」
「って、待って、待ってって!」
身体を覆い隠す唯一枚の布に手がかかり、焦った紫水が後ずさる。
「ほらほら、逃げない」
朗らかな声と共に伸びた腕が腰に巻きつき、紫水はあっさりと囚われる。
「何も纏わない方が、好《この》みなのですが」
「ひゃぁ」
勢いよく引っ張られて、紫水の身体からばさっと布が取り払われた。
昼下がりの部屋は庭の光が反射して、奥まで明るい。晒された肌に舞う紅いはなびらが、紫水の目にもくっきりと映る。
この跡を微笑む彼の薄い唇が這ったと思うと、燃えるほど恥ずかしい。
「風情がありますね。花びらが舞っているかのようで」
「何が風情ですか!」
幾度となく肌を晒しているけれど、この状況は耐えがたい。
彼は上から下まで余すことなく眺め、ふむふむと何故かうなずいている。
「このままが一番良いのですが、他人には見せたくないのでね。仕方ないです」
「どうしてそういう事言えるんですか?その発想、信じらんない!」
「普通でしょう」
真っ赤になって叫ぶ紫水に、彼は涼しい顔で答える。
「も…、この変態っ!」
「はははっ。男なんて皆、そんなものですよ」
朗らかに笑う彼に言い返すことも出来ず、紫水はひとり身体を震わせる。
ほんと信じられない。
この男の頭の中は、どうなっているんだ?
手際よく肌着を着せながらうそぶく男に、怒りのあまり脳天から白煙が上がりそうだ。
「淡い色の方が、肌に映えますね」
大きな卓子に整然と並べられた衣と紫水を交互に見ながら、彼が選んだのは意外にも、淡い翠と白の色合わせ。
普段から紫水は寒色系のすっきりとした色合いを好んで着ていた。自分では選ばない合わせが、想像以上に可愛くて新鮮だった。
「あ…」
素敵―。
卓子に広げられた衣装に心惹かれた九瑤は、慌てて両手で口元を押さえた。聞かれたくない。
「背筋を伸ばして。ほら」
斉潁は粛々と紫水に衣を重ねていく。肩から白の薄い袷の衣を胸元を緩めにして袷をつくる。胸元からつま先に流れる絹の裳は陽の光を通した若葉の色。その上に薄黄色の被巾を羽織る。
「化粧も少しだけ、しておきましょう」
軽く白粉をはたき、花鈿と唇に紅を差す、最低限の化粧。
ねじり上げた髪に牡丹の細工の貴石の簪を挿す。華美でない主張が、品の良さを感じる仕上がりだ。
「―出来ました。やはりとても似合いますね」
満足気な彼に背中を押され、鏡台の前に進む。鏡の中の自分の姿に、紫水は思わず目を見開いた。
「すごい…」
控え目だけれど存在感がある、凛とした少女の姿。
特別凝ってもいないのに、楚々として品がある。普段の自分とはまったくの別人だが、嫌いじゃない。
感嘆のため息をもらす紫水の顔を、斉潁が覗き込む。
「お気に召しましたか?」
「…はい」
流されたようで悔しい。でも、高揚する気持ちは否定できない。
「出かけましょう、さぁ」
白い歯をこぼす斉潁に手を引かれて、紫水はしぶしぶ部屋を出た。
◇
芙蓉別邸を出た二人は、馬車で東市にやって来た。
都は皇城の入り口、朱雀門から南へと真っ直ぐに伸びる朱雀大街を中心として、左右対称に設計されている。右金吾衛府があるのは西半分、商業の中心である右京。そして東側の左京は貴人や官僚の邸宅が並ぶ街。その中にある東市は宮廷や官僚向けの高級品を中心とした品揃えに定評がある。
西市が庶民の台所なら、東市は贅沢品の宝庫、といったところだろう。
「どちらに向かってるんです?」
たかたかと隣を歩く斉潁に、紫水は聞いてみる。
「いくつか買い物をしようと。貴女も物入りでしょう。必要なものがあったら、遠慮なく言ってください」
「あ、はい…」
答えたものの、紫水は普段からそんなに買い物をしない。
陸家の質実剛健の気風に染まっているせいか、普段の生活はすこぶる質素だ。
何より自立を目指す身としては、貯金が第一。基本給金は必要最低限だけ使って、残りは貯蓄に回す自称倹約家だ。
「あ」
子供のように連れられるまま大人しく街路を歩いていた紫水だが、ある一点に目を止めると、歩きながら前から後ろへぐるっと顔だけ回して追いかけた。
「どうしました?」
「あ、ちょっと」
反対側の人だかりが気になったらしい。
人がたむろする露店の奥に見えるのぼりには『餅』と『果実』の文字が見える。
「ぐっ…」
紫水の喉が鳴った。
一番好きなおやつは甘い餡をくるんだ餅。食べることが何よりの娯楽。給料日の紫水の自分へのご褒美は、休日に並んで買う有名店の甜菓子だ。
察したらしい斉潁が、ふっと目元を緩めて言う。
「買ってきますよ。あちらの木の下で待っていて下さい」
「あ、すみません…」
人だかりの中へ入っていった彼の背を見届け、紫水は言われた通り人の少ない街路の端、槐の木陰に身を寄せた。
ここならば人目にもつきにくい。幹に背を預け、のんびりと待つことにした。
多少の時間はかかるだろう。しばらく様子を眺めていたが、そこそこ手持ち無沙汰なってきたので、顔を上げて樹を見上げてみた。
両手を回しても届かないくらいの幹が、その手を悠々と天に広げている。ちらりと覗く青い空から重なる葉を分けて降り注ぐ木漏れ日が眩しくて、紫水は目を細めた。
「綺麗だなぁ…」
呟いた言葉が、なんだか他人行儀に耳に響いた。
街路を抜けた風がざわざわと葉を揺らす。
何もかもが非日常的な今日。
慣れない相手と慣れない自分の姿。なぜここにいるのかも不思議。全てが醒めない夢の中のようで、どこか実感がわかない。足元がふわふわとした、心許ない感覚だった。
「混んでるのかな…」
当分慣れそうもないが、彼はすごく細かい所に気がつく。それがちょっと面倒くさい時もあるけれど、気を遣って菓子を買ってくれるので、そこはちゃんと感謝しようと思う。
足元に視線を落とし、ふぅっと大きく息を吐いた時だった。
「九瑶っ!」
「?」
呼ぶ声に顔を上げると、街路の反対側から官服の一団がこちらを見ていた。
知り合いだろうか。紫水が様子を伺っていると、その中の一人に手を振る陸明を見つけた。
「明兄!」
小さく手を上げる。彼は一緒にいた人に何か言うと、紫水に走り寄った。
「九瑶…。一瞬、見違えましたよ」
「あ、あぁ…。これは、ちょっと」
意外そうな彼の様子に、紫水はうつむいた。
普段は女装をしていないので、この手の格好を見られるのは少し気恥ずかしい。
「とても…、似合っていますよ」
「お世辞でも、嬉しい。…ありがとうございます、兄上」
ほんのりと頬を染め、ちらっと視線を上げてはにかんだ紫水に陸明も口元を緩めた。
「ご友人とお買い物ですか?」
「あ、うん…」
正直に言えず、言葉を濁す。取り繕うのは、良くないとわかっているけど。
「あ、明兄は、大丈夫ですか?先ほどの方々と…」
「あぁ、後から追うと言ってあるので。いつものことなんです。刑部の司郎中が部員に飲みに行こうというので、私も」
「そうですか」
各省庁との行き来が多い彼。右金吾衛府にあまり顔を出さないのは、こういう付き合いが多いのが要因なのかもしれない。
「九瑤…。すこし、疲れてませんか?」
陸明は紫水の肩に手を乗せると、顔を近づけた。じっと見つめてくる彼に目を合わせられなくて、紫水は小さく口をすぼめる。
「…あれから、なかなか貴女の姿が見れなくて、心配だったんです」
「ん…」
触れて欲しくない話題。
憂いの色を顔に広げてこちらを見る彼に、指先が小さく震える。
顔を見るとどうしても、揺れてしまう。
どうせ届かないのに、消えてくれない胸の鼓動。
それなのに、あの男に翻弄される節操のない我が身が口惜しくて、心臓がねじれてギュッと音を立てる。
「大丈夫…だから」
お願い、そんな顔で見ないで。
いたたまれずに、指先で袖を握る。心臓は大きく動いて、こぼれ出そうなほどに上下している。
「辛いことは、ないですか?」
陸明の指先が、ほんのりと紫水の頬に触れた。
「ん…」
熱い肌の上を、彼の冷えた爪の感触が伝う。
小さく頷いて、紫水は目を伏せる。
何も言えない。
言葉が出てこない。
これでは余計に、不審に思われてしまうのに。
「―あ、そうだ。昨日、貰ったんです」
咄嗟に思い出し、紫水は手首にぶら下げていた巾着からの中から金色の笛を取り出し、彼に見せた。
「競技会の賞品」
紫水の小指ほどの、細い筒型の笛。側面に『陸九瑶』と名前が彫ってある。
純金製の笛は優勝班に贈られる、目玉賞品。これを持つ者は衛士内で羨望の的となる。
「あぁ、いいですね」
彼は受け取ると、自分の口元に寄せピイっと短い音を鳴らした。
「駄目ですよ。彼ら来ちゃうから」
「これくらいの音なら平気でしょう」
金吾衛府共通の召集の合図。衛士はこの笛の音に反応するように訓練されている。
それは左金吾衛も同じ。近くにいたら、馬を飛ばしてやって来るだろう。
「吹いてみて」
自分が吹いたばかりの笛を、紫水の唇に当てる。
言われるがまま唇を尖らせ息を吹き込むと、クピィ~っと間の抜けた音が出た。
「ちゃんと吹かないと、来れませんよ」
子供を揶揄うような顔を見せた彼は紫水の左手をとり、笛を握らせた。
「いつでも呼んでください。これを吹いて」
紫水の肩に手を置いて身体を寄せると、陸明は額に接吻をした。
「忘れないで下さいね」
悪戯っぽく笑った彼は「では」と言うと、踵を返し行ってしまった。
「…」
角を曲がる後ろ姿を見送る紫水は、耳まで真っ赤だった。
どうしたことだろう―。
茫然と彼の背が消えた方を向いたまま立ち尽くす紫水の頭は、もう破裂寸前。
「もう…」
こんな子供だましの戯れに、紫水の心臓は上へ下への大騒ぎだ。
奥にしまい込んだはずの感情が、胸から溢れ出そうになる。
やっぱり、諦められないよ―。
視界がだんだんと、ぼやけていく。
上手く息ができなくて、胸が苦しい。
彼の手のひらの温度をくっきりと残したままの左手を胸に寄せ、重ねた右手でぐっと握りしめた。
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