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第二章
男の企み
しおりを挟む九瑶が芙蓉別邸に戻ると斉潁は既に帰宅しており、居間の窓脇に置かれた文机に向かい読書の最中だった。
「戻りました」
「お帰りなさい。遅かったですね。―飲みに行ったんですか」
顔を上げた斉潁は官服姿を見て察したらしい。
「えぇ。…康殿と、刑部の方々と。着替えてきます」
素直に答えて、奥の部屋に入った。家人に手伝われ、髪を下ろし、着替えを済ませてまた居間に戻る。
部屋を見回すと彼はまだ窓際にいた。彼の向かう文机の脇に、九瑶も黙って腰を下ろした。
様子を見ていると、斉潁は広げた巻物を読みながら、何かを備忘録に書き付けている。ちらとこっちを見た彼は九瑤と目が合うと小さく微笑んで、また視線を紙の上に戻した。
終わるまで待とうか。
しばらく大人しく見ていた九瑶だったが、少し悩んだ後、覚悟を決めると思い切って声をかけた。
「潁様―」
「どうされました?」
広げた巻物から目線をはずして、斉潁は静かにをこちらを見た。
九瑤の声に何かを感じ取ったのだろう。ひんやりとした視線に九瑶は気圧されそうになりながらも、めげずに膝を近づけ、話を切り出した。
「潁様。貴殿は、どちらの兄に付くつもりなのです?」
ここ最近、ずっと心に引っかかっていた。
一緒に暮らしていても、見えない彼の本心。
夜中、ふと目を覚ますと隣にいるはずの彼がいないことが度々あった。閨を出て行方を探すと彼は大抵、池の側の石に腰を下ろして空を眺めていた。
濃紺に溶けてしまいそうな夜、聞こえるのは風の音だけ。
柱の影からそっと彼を覗くと、その横顔には寂寞の色が広がっていた。物思いにふける彼の姿。その虚ろな佇まいに、どこか違和感を覚えた。
「潁様は閨でさえ決して隙を見せない。私にもずっと、本心を隠したまま」
「そんなことは」
「欺けると思っていましたか?こんなに近くにいる人間を」
真剣な顔で問う相手に、斉潁は巻物を持っていた手を下ろした。ふうっと小さくため息をつくと、膝をずらして向き直り、九瑤を見た。
「さすが陸家のご教育―。感服しました。大人しく飼われているだけの人ではないんですね」
「馬鹿にして」
小馬鹿にされ、ムッとした表情の九瑤に、斉穎が弁解する気配はない。淡々と話を続ける。
「とことん甘やかされて溺れてくれればよいのに、そうといかないのですね。それでこそ、私が見込んだ女子なのですが、少々面倒ではあります」
「生憎兄弟同様、我も血の気の多い人種なので。それで、太子と秦王、どちらを選ぶんですか?」
「…それを聞いて、公主はどうなさるのです?」
「質問で返さないで下さい」
怒気を孕んだ口調に、斉潁はふっと眉を寄せた。戸惑いさえ見せないその顔は、まるで転んだ子供を慰めるような表情を浮かべている。
こんな状況の中でも慈しみの眼差しを向ける彼に、自分など本当はこれっぽっちも相手にしてないのだと思い知らされた気がして、九瑶は心のどこかで悲しい気持ちになった。
「公主は、どちらの兄君がお好きですか?」
「潁様は、私の質問に答える気など無いのですね」
強い口調で返すと、彼は眉を下げて見せた。そして腕を伸ばして、九瑤の膝の上に置かれた手を取った。
「…私は貴女の望み通りにあるのみです。信じてもらえませんか」
「今はそんなこと、聞いてません」
他人が見たら、溺愛と呼ぶ人もいるだろう。
整えられた環境と、注がれる愛の言葉。
確かにここに来てから、何不自由なく過ごせている。
でも、それは『甘い罠』。
大人の余裕を見せつけ、無知な子供を翻弄したら思い通りに手懐けられるとでも思ったのか。
なめられては困る。
本心を見せない人間を、大人しく受け入れると思うか。
「侮らないで、と言いましたよね?」
本当に祝言を挙げる気があるのならば、真相を確かめないと、こちらの気が済まない。
「私だって、下級とはいえ流内官です。今の政局がどういうものか、理解している」
射貫くような眼差しを向ける少女を、斉潁は深々とした瞳で見つめ返す。その顔は何かを伝えているようにも映る。
「我、気づいたんです」
黙ったままの相手に、腹を決めた九瑶は核心を突く一言を、真っ直ぐにぶつけた。
「どちらに付くか、あなたはまだ決めかねている。そうでしょう?」
最初は自分の意思を尊重しての行動だと思っていた。
今まで通り仕官を続けることも、姚廉に『想い人』として紹介したことも、公主であることを公にしないのは、『九瑶』としての生活を配慮しての事だと。
でも、東市で会った陸明の言葉がきっかけで、この男の真意は別にあるのではと疑い始めた。
陸明は「公主である」九瑶の護衛に任命された男。その任期は公主でなくなる時、つまり「降嫁するまで」。
あの時、「いつでも呼んで」と彼が言ったのは、九瑶が降嫁していないから。決定事項であっても、まだ正式な祝言は執り行われていない。それは破棄もあり得る、不確定な状態ということ。
「様々な思惑が絡んでいる中で、他に気を取られて、一番大事なものを我は見落としてました」
秦王は喪が明ける半年を待たずに、芙蓉別邸を下賜してまで既成事実に持ち込んだのは何故か。杜卿が何か一枚かんでいるのはわかっている。だが、それなら何故、公主の降嫁について決定的な話が広がらないのか。
「誰かが、意図的に世論操作を目論んで噂を流している」
そう考えるに至った。
「そして斉潁殿。あなたは誰も信じていない」
出来すぎた物語。そんな安っぽいまがい物を素直に信じる程、我の頭は寝ぼけていない。
「あなたはこの馬鹿馬鹿しい政争の裏で、ひとり何かを企んでいる」
秦王派には近づいたと思わせ、太子派には従順な姿勢のまま。
どちらも欺むいているのは、紛れもなくこの男だ。
「太子派にも秦王派にもつかず離れずの距離を保ちながら、機を窺っている。そうでしょう?」
「…敵いませんね、貴女には」
斉潁は柔らかく微笑むと腕を伸ばし、九瑶を抱き寄せて髪に接吻した。
「そういうところが、たまらないんです」
髪から耳、頬へと唇が下りる。こうやって彼はいつも自分のペースに巻き込もうとする。
「誤魔化さないで下さい」
降り注ぐ接吻の雨の切れ間をぬって、九瑶は言い返す。
「本当ですよ。貴女には嘘をつかない、と言ったじゃないですか」
そう言いながら、斉潁は九瑶の衣の胸元に手を入れ、袷を割った。露わになった肌を大きな手で掬い上げ、やわやわと揉み始める。
「ちょっと、なにしてっ!誰かが来たら!」
「主の睦事を邪魔する愚か者など、この家にはいませんよ」
「そうやって流そうとして」
「詰めが甘いんですよ…。そこが弱点ですね」
柔らかい肌を愛でながら、斉潁は耳元で囁く。
「この屋敷に貴女の味方はいません。もちろん、私にも」
「―どう、いう…」
震え始めた身体を耐えながら見上げると、彼は廊下に視線を向けていた。
「貴女は常に監視されている。私もね」
「どうして潁様が…」
疑り深い杜卿の手先なのか。考えようとしても、身体を撫でる彼の手がそれを拒む。
「私たちは剣の上を歩いているんです。気を許してはいけない」
沢山の接吻を降らせながら、斉潁が囁く。
「お互いの本心を確かめるのは、閨の中のみ―。忘れないで」
「―」
承諾の言葉は必要なかった。そのまま九瑶は斉潁の腕の中で甘い夢へと引きづりこまれた。
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