公主のひめごと

濱田みかん

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第二章

芽生える疑惑

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 二人は少し早めに右金吾衛府を出た。指定された場所は都城内最大の繁華街・平康坊ではなく、その西隣の務本坊。ここは国士監官僚育成学校がある坊で、科挙に挑戦する学生向けの宿が多くあり、本屋や楽器店、安価な飯店が建ち並ぶ懐に優しい場所エリアだ。

 時間より早く着いた二人が軒先で店員に名を告げると、もう先に着席しているとの事。早足で部屋に向かった。

「お待たせしてすみません!陸です」
「あ、陸殿」

 振り向き手を上げた男は、先日刑部を案内してくれた荀軍曹の部下、袁坦えんたん。本日の仕切り役だ。

「こちら大理事の通事舎人、康殿です」
「お邪魔します」
「どうぞどうぞ」
「失礼します」

 袁坦は一緒に来ていた同僚三人と既に飲み始めていた。九瑶と康氏も席に座ると、早速杯を手渡された。

「まずは一杯」
「いただきます」

 注がれた甘い酒をくいっと飲みほし、杯を空にする。すると間髪を容れずに、袁坦の同僚が酒瓶を傾けた。

「我、荀司郎中の直下で」
「それは毎日、お疲れ様です」

 九瑶も酒瓶を手に取り、相手の杯に注ぐ。

「毎日書簡出す度に突っ返されてさ。ほんと、大変だよねぇ」
「ですねぇ」

 すこし大袈裟に頷き、相槌を打つ。自分も経験者だから、よく分かる。彼の下で仕事していて、大変じゃない事なんて、ひとつもない。意味も分からず叱咤されるばかりの毎日は、やはり辛い。だけど仕事からは逃げられない。人生はどこに行っても理不尽の連続だ。

「任官から一年半、彼の下だったんだって?よく生き延びたね」
「死にかけてましたよ、当時は」

 もう一人の言葉に九瑶は苦笑いを返した。
 本当に、新人時代は日々何を食べていたのかも記憶に無い。
 毎日新しいことをやって、失敗して、怒られて、調べて、書いて、直されて…の連続。配属されて直ぐは、わからないことしかなくて、何かを悩むより、ひたすら目の前の仕事をこなすだけだった。
 それで余計に『もっと考えろっ!』と雷を落とされたのだが。

「見た目と違って根性あるんだね、陸殿は」
「いや、他に出来る事もなくて、ひたすら手を動かしてた、って感じです。当時は必死過ぎて、記憶もないくらいで。どうしたら、彼が認める文が書けるのかなって、ひたすら試して、繰り返して」
「押印してもらえるコツってあるの?」
「う~ん。コツかわからないんですが、短い文章で結論と全体像を端的に説明して、補足を後から時系列に書くようにしてました」
「あ~。わかる気がする、報告する時も『結論は?』って聞かれるしな」
「話が長いと怒り出すよな」
「確かに!」

 なんか、とか、あの、とか言い淀むと途端に眉間にしわを寄せる顔を思い出し、九瑶は笑った。だから軍曹の前ではいつも早口になるんだ。無意識の習慣だ。

「でもさ、端的過ぎても駄目じゃん。『考察が足りないんだ!』ってよく怒られるよ」
「そう。全てを描けとも言われた…」
「私も軍曹に『立体的に物事を見ろ』って、いっつも怒鳴られてたんですが、最初、その意味がわからなくて…」
「難しく言うよね、軍曹殿。頭いい人って単語が難し過ぎる時があるんだよね」

 刑部のふたりがお互いに頷きあっている。まだ、彼らは鬼軍曹の教育手法に慣れていないのだろう。そんな時期も、もちろんあった。

「彼の言う『立体的』がなんだかわからなくて…。色々怒られているうちに、視点をいくつも持てってことなのかなって、ふと思ったことがあって」
「―客観的、てことかもね」
「それだっ!」

 袁坦が言った言葉に、九瑶がぱっと目を輝かせた。

「それです!すごく高い場所から広く物を見ているんだなって」
「我も常にそれは感じる…。陸殿は何かきっかけはあったの?」
「ある時、もう書くのが嫌になったことがあって。それで書庫に逃げ出して…。その時にふと、彼の書いた文章を読んだんです。それで、自分との違いに気づいて。真似をして書いてみたら、直しの箇所が減って」
「なるほどねぇ…」

 しみじみと言う袁坦は九瑶の杯に酒を注ぐと、自分の杯にも注いだ。並々とゆれる水面に視線を落として、ぽつりと言う。

「いや、正直なところ、びっくりしたんだ…。普段、荀司郎中って予定外の来客は断るのに、君が来たって言ったら『すぐに通せ』って。そんな人間が皇城にいるのかって、信じられなくてね」
「ただ、『あいつまた何かやらかしたな』って思われたんだと…。結局、あの時にお願いした事も、荀判事が片づけてくれて」

 男が釈放された経緯を、九瑶もそれとなく耳にしていた。彼が関係各所に手を回したのは明らかだった。

「彼に話を聞いてもらえるのは、きちんと意見を持った人間だけ―。陸殿は認められてるんだよ」
「そうでしょうか…」
「今まで頑張った結果だよ。彼は絶対に言わないけどね」
「…」
「いいんじゃないの。あの態度を受け入れても」
「…幸せな勘違い、してみます」

 九瑶はふっと目を細めると、杯に口づけた。喉に流れた酒が胸を熱くした。



「ところで、お二人はどういう?いい感じじゃない」

 並んで和やかに談笑する九瑶と康氏を見て、ひとりが聞いてきた。九瑶は改めて彼を紹介した。

「実は初対面なんですよ。今日、私の聴取を手伝っていただいて」
「斉寺正から頼まれまして」
「あぁ、あの人ね。それは断れないね」
「なんでですか?」

 頷いた男に九瑶が訊ねると彼に代わって、隣の男が赤い顔で「ほら」と、答えを奪う。

「今をときめく若手官僚の筆頭だよ。お近づきになりたいじゃん」
「出世しそうな官僚にすり寄っておこぼれに与《あずか》るのが、我々濁官ノンキャリが生きる道だからね」
「卑屈だなぁ」
「しぶとく根を張り生き残る。それが濁官の雑草魂じゃ!」

 おちゃらけた男に、はははははと皆が一斉に笑った。
 何だかんだ、楽しくやっている。意外と下級官僚濁官の方が気楽でいいかもしれない。
 楽しそうな彼らを見ると、自分も公主なんかでなく、こんな立場で仕事していければなぁ、と思う。

「で、陸殿は寺正と知り合いなの?」
「あ、いや、えっと…。兄の知り合いらしく」

 言葉を濁して誤魔化そうとした九瑤に、康氏が振り向き、真剣な顔をした。

「陸殿。寺正は間違いなく優良物件です。ぜひ」
「いや…」
「おすすめです、本当に」

 押し売りに困惑しながら、九瑤はつまみの皿に箸を伸ばした。肉の甘辛煮。濃い味付けは酒が進む。

「早くお心をお決めください。将来は国政の要を必ず務める方ですよ」

 康氏の目が弧を描いている。彼に疑う気はないらしい。やっぱり奴は偽善者だ。完全に洗脳されている。

「え、陸殿は斉寺正と付き合ってるの?」
「違いますっ」

 真っ赤になって両手を振る九瑶の横で、康氏は胸を張り声高らかに言う。

「斉寺正の想い人なんですよ、陸殿が」
「ちょっと、康殿っ」
「そうなんだ!」

 どうしてそう、余計な事を言うのか。
 場が一気に盛り上がる。老若男女問わず、皆こういう話題にはすぐ飛びつくらしい。

「待って、待って、誤解だから!」
「口説いている最中だと伺いましたよ、寺正ご本人から」
「知りませんよ!」
「照れちゃってぇ。可愛いなぁ、陸殿ぉ」
「違いますって!!」

 揶揄われた九瑤は、耳まで真っ赤。その様子を見た彼らは余計に騒ぎ立てる。

「へぇ~、いいじゃない!出世株だよ、青田買いじゃん」
「いやいやいやいや」
「仕事が出来るやつは手が早いなぁ」
「ほんとだなぁ。我はてっきり、降嫁の候補だと」
「あぁ。それか中書令の御令嬢か」
「な。てっきり政略結婚で地固めするのかと思ってた。このまま太子派なんだな、彼は」
「え?どういうことですか?」

 途中からの内容が飲み込めず、またしても九瑶は聞き返した。

「ほら、朝堂の上の方は二大勢力じゃない?彼らみたいな若手官僚がどちらにつくかで、潮流が大きく変わる転換点が今なんだよ。動くのかなぁって思ってたけど、そのまま太子派な残留だな」
吏部人事部の姚公は秦王に寄るらしいよ。この前、秦王府の私的な宴席に顔を出してたらしい」
「若手二大巨頭が袂を分かつか。面白いな」
「公主目当て、だろう」
「だな。一発逆転の機会チャンスだもんな」

 姚廉の事だろう。そんな動きまで伝わるものなのか。まこと宮中とは恐ろしい所だ。
 それにしても、自分は何も知らないんだ。今日ここに来なかったら、全く違う風景を見ていたはず。
 悔しさに唇をくっと結んだ九瑶に、康氏がそっと耳打ちした。

「―大理寺の寺卿長官が太子派の重鎮なんです。そもそも大理寺に斉寺正を引き抜いたのが寺卿で。派閥って結構そうやって生まれるんです」
「そうなんですね…」

 事実と真実は違うのかもしれない。
 九瑤は盛り上がる周りに反して、心は冷静さを取り戻していた。
 あの男が秦王に付いた事は知られていない。むしろ世間はその逆を信じている。
 もしかして、康氏に手伝いを頼んだことも、こういった噂を見込んでなのか。自分は太子派だと印象付ける事で誰かを牽制しているのか?もしそこまで計算しているとなると、きっと別に目的があるはすだ。

 善人ぶったあの仮面の裏で、彼ら・・は何を企んでいるのか―。

「官僚の派閥争いって、ほんとすごいよな。今日も平康坊で美女侍らせて高い酒飲みながら内緒話してるんだろうな」
「金つぎ込んで、官位もあてがってほだすんだな。それは逃げられないよなぁ」
「寺卿はお気に入りの妓女まで連れ出して、彼を巻き取ったらしいじゃん」
「あぁ、南曲の薛元せつげんとかいう」
「当代随一の詩を詠むという女か。羨ましい」
「一晩で我の給金1か月分くらいだろう。そんな接待、されてみたいな」
「そうだな」

 はははと盛り上げる男たちを横目に、胸にある決意が育っていくのを九瑶はひしひしと感じていた。
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