月の道を辿って、いつかまたあなたに会いたい

水瀬さら

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24食目 菊さんの卵とじうどん

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 この町に来て八回目の朝。梨花は柔らかい朝の日差しと、穏やかな波の音で目が覚めた。
 布団の中で仰向けになったまま、もうすっかり見慣れてしまった天井を見つめる。

「今日……帰るんだ」

 そう口に出したら、なんともいえない気持ちが込み上げてきて、それを振り払うように勢いよく体を起こした。


 支度をして広間へ行くと、出汁の良い香りが部屋中に漂っていた。

「おはようございます、梨花さん」
「おはようございます、芙美さん」
「いよいよ今日はお帰りですね。列車の運行も通常に戻りましたし、外はポカポカ陽気ですよ」

 芙美がそう言って、にっこり微笑む。広間の窓からは明るい朝日が差し込んでいた。

「あの、今朝もみんなで一緒に食事をしたいんですが」
「ふふっ、もうそのつもりのようですよ」

 芙美がいたずらっぽく笑ったとき、広間に十希也がやってきた。お盆に三つのどんぶりをのせている。

「朝飯、できたぞ」
「わぁ、いい香り。なんですか?」

 梨花の前に、十希也がどんぶりを置いた。温かい湯気が立っている。のぞき込むと、ふわふわの卵とその上にのった緑のねぎ、つゆの中には白いうどんが見えた。

「十希也さん、これって……」
「『菊うどん』のうどん。秘伝のレシピで作ってみた」

 そう言って十希也が、梨花の隣に座る。
 たしかに見た目はこの前食べたうどんにそっくりだ。

「とにかく食ってみてくれ」
「はい」

 梨花が箸を持つと、「菊さんのおうどん、久しぶりだわ」と、芙美も嬉しそうに箸を取る。

「いただきます」

 三人そろってそう言って、うどんをすすった。
 ふわふわの卵も、太めでコシのあるうどんも、優しい味のつゆも、菊さんのうどんそのものに思えた。

「おいしいです」

 梨花はそう言ったが、十希也は渋い顔をしていた。

「うーん、うまいけど、なんか違う」
「えっ、違いますか? 私には同じようにおいしかったですけど」
「いや、やっぱ菊さんのとは違う」
「でもレシピは同じなんですよね?」
「レシピは同じでも、作り手が違うと微妙に変わっちまうんだよ。俺は親父の味もまだ出せてない」

 そう言いながら、十希也はつゆを全部すすると「ごちそうさま」と箸を置いた。
 すると同じように最後のひと口を食べた芙美が、箸を置きながら言った。

「そうね。なにかが足りないといえば、『心』かもしれないわね」
「心?」

 十希也がつぶやくと、芙美がうなずいた。

「菊さんもお父さんも料理には心を込めて作っていたわ。あんたにはまだそれが足りないのかもしれないわね」

 十希也がなにか言いたげに顔をしかめる。また喧嘩になったらどうしようとひやひやしたが、十希也は素直に「わかった」と言った。そして梨花だけに聞こえるような声で、ぼそっとつぶやいた。

「今度あんたが来るまでに、完璧にしとく」

 梨花の気持ちが晴れやかになって、大きくうなずいた。
 朝日の差し込む三人の食卓。
 帰りたくない、と出かかった声を、梨花はそっと呑み込んだ。


「芙美さん、本当にお世話になりました」

 宿の前で梨花は頭を下げる。外まで出てきてくれた芙美が、梨花の手を取る。

「いつでも遊びにきてくださいね」
「はい。また必ず来ます」

 芙美は微笑んで、梨花の手をそっと離すと、少し眉をひそめた。

「十希也はなにしてるのかしら。駅まで送ってあげなさいって言ったのに」

 梨花は慌てて首を横に振ると、ボストンバッグを手に持った。

「いえっ、大丈夫です! お見送りとかされるの苦手なんで、私はこれで!」
「だったら、十希也を呼んで……」
「大丈夫です! あの、本当にこのままで……」

 本当は十希也の顔を見たら、帰りたくなくなってしまう気がするからだ。

「そう? じゃあ、気をつけてお帰りくださいね」
「はい。ありがとうございました」

 梨花は頭を下げて、手を振る。芙美も笑顔で手を振ってくれた。


 芙美と別れて、駅へと続くゆるい坂道を上っていく。振り返るとのどかな港の風景が見えて、鼻の奥がツンと痛んだ。

「にゃお」

 足元で猫の鳴き声がした。

「デュオ」

 梨花の足に顔をすり寄せてくるデュオを、そっと抱き上げた。

「もうさよならなんだ。でもまた会いにくるから、元気でいてね」
「にゃおん」

 柔らかいデュオの毛に頬ずりをしてから、そっと地面に下ろした。

「にゃお、にゃお」

 しかしデュオは鳴きながら、三本の足で梨花のあとを必死で追いかけてくる。駅の改札はもう目の前だ。

「デュオ、だめだよ。これ以上は来られないの。十希也さんのおうちに帰ってね」
「にゃん、にゃん」

 駄々をこねるように鳴かれてしまい、梨花は困ってしまう。
 だけどもうそろそろ電車が来る。ホームに向かわなければならない。

「ごめんね。バイバイ、デュオ」

 最後に一度だけ頭を撫でると、梨花は逃げるように改札を抜けた。

「にゃお、にゃお!」

 デュオはその場に立ち止まったまま、まだ鳴いている。
 後ろ髪を引かれながらも、梨花は急いでホームへ向かった。そのときだ。

「梨花!」

 誰かに名前を呼ばれた。慌てて振り返ると、十希也がデュオを抱き上げ、そのまま改札を抜けてこちらに走ってくる。

「十希也さん?」

 戸惑う梨花の前に、十希也が息を切らしながら立った。

「にゃお! にゃお!」

 十希也に抱かれたデュオが梨花に向かって鳴き声を上げる。

「どうしてこんなところまで……」
「これ……渡したくて……」

 十希也が持っていた小さな風呂敷包みを差し出す。前に桟橋で重に会ったとき、サンドイッチを包んでいた風呂敷だ。

「なん……ですか?」
「腹減ったら食えよ」

 梨花は黙って十希也の手から風呂敷包みを受け取る。一瞬だけ触れ合った指先が、すぐに離れた。

「梨花」

 十希也に名前を呼ばれたのは、今日がはじめてだ。

「いつかまた、満月の夜に来いよ」

 満月の夜……梨花の頭に、海にできた月明かりの道が浮かんでくる。
 また満月の夜に、ここで一緒にあの景色が見られるなら……それまでどんなことでも頑張れそうな気がした。

「はい」

 うなずいた梨花に、十希也が言った。

「いろいろありがとな」

 梨花の心に、温かいものが染みわたる。

「こちらこそ、ありがとうございました」

 ひと気のない駅のホームに電車が滑り込んできた。

「デュオ、今度こそ本当にバイバイだよ」

 電車が停まりドアが開く。数人の乗客が降りてきて、発車のベルが鳴りはじめる。
 梨花はもう一度デュオの頭を撫でて、列車に乗り込む。

「にゃおん……」

 そんな梨花のことを、十希也とデュオが見つめている。

「またね、十希也さん」

 あふれる気持ちを抑えて梨花が言うと、十希也がうなずいた。

「ああ、またな、梨花」

 目の前でドアが閉まり、ふたりの距離がわずかに遠くなる。やがて列車が、ゆっくりと動き出す。梨花は風呂敷包みを抱えながら、ドアの窓から外を見る。
 誰もいなくなったホームでは、十希也がデュオを抱いたまま、梨花に向かって大きく手を振っていた。
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