水曜日のパン屋さん

水瀬さら

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第2章 思い出のあんぱん

5月23日(水) 晴れ 2

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 一週間ぶりに会う音羽くんは、ジャージ姿で、髪も乱れていて、寝起きみたいだった。
「お、おはよう」
 私が言ったら、音羽くんはあからさまに顔をしかめた。
「なんでお前がいるの?」
「あのっ、パンを……さくらさんのパンを、持ってきたの」
 私がパンを差し出すと、音羽くんはさらに顔をしかめる。いつも不機嫌ではあるけれど、今日は超機嫌が悪そうだ。
「よかったら……一緒に……食べない?」
 音羽くんが私を無視するように、部屋から出てきた。そして無言のままリビングに行き、ソファーにどかっと腰かけると、リモコンでテレビをつけた。
 バラエティー番組の笑い声が、部屋の中に不自然に響き渡る。

「市郎おじいちゃん……」
 私はそんな音羽くんに言う。
「もうすぐ退院できるんだってね?」
 音羽くんはなにも言わないで、リモコンでチャンネルを変えている。
「よかった……ね?」
 じっとテレビを観ていた音羽くんが、リモコンでテレビを消した。そしてテーブルの上に、リモコンを放り投げて、つぶやいた。
「でも俺……なんにもできなかった」
 私は黙って音羽くんを見る。
「じいちゃんが倒れてるの見ても……俺はなんにもできなかった」
 音羽くんがソファーに座ったまま、うなだれた。私は首を横に振る。
「そんなの、しょうがないよ。私だってなにもできなかった」
「俺は……」
 私の言葉をさえぎるように、音羽くんが言った。
「怖かったんだ。怖くて……なにもしてあげられなかった」
 音羽くんの声はかすれていて、今にも消えてしまいそうだった。

「ひとが死ぬのは……もう、いやだ」
「……うん」
 音羽くんはお父さんを亡くしているから……。大事なひとを亡くすということを、経験しているから。
「もう誰も……いなくならないでほしい」
「音羽くん……」
 静かに近づいて、音羽くんの隣に座る。音羽くんの体温を、すぐ近くに感じ取る。
 しばらくそのまま黙り込んだあと、そっと手を伸ばしてみた。頼りないこの手で、音羽くんの手をぎこちなくにぎる。
 私の手を引いて歩いてくれたあの日のように……私は音羽くんの手を、にぎりしめる。

 部屋の中は静かだった。なんの音も聞こえなかった。
 みんなが学校で勉強しているときに、私は音羽くんの家でこんなことをしている。
 だけどそれは私にとって、とても大事なことのように思えた。

「市郎じいちゃん……」
 うつむいたまま音羽くんがつぶやく。私の手は振り払おうとはしない。
「娘さんのところに行っちゃうって」
「うん」
「もう、パンを買いに来れなくなる」
「うん……そうだね」
 音羽くんが片方の手で、鼻をすする。
「でも……これでいいんだよな」
 私は音羽くんの声を聞く。
「いなくなるわけじゃないから……だからこれで、いいんだよな」
 返事の代わりに、ぎゅっと強く、音羽くんの手をにぎった。すると音羽くんは、私の隣で小さく漏らす。
「……いてぇよ」
「えっ」
「手、痛い」
「あっ、ごめんなさい!」
 私はあわてて手を離した。急に恥ずかしくなって、どうしたらいいのかわからなくなる。そんな私を見て、音羽くんは笑った。

「パン、ちょうだい」
「う、うん」
 私は袋から出したパンを、音羽くんに見せる。
「おじいちゃんたちが好きな、あんぱんだよ」
 音羽くんは私からパンを受け取り、ひとくちかじる。私も音羽くんの隣で、パンを食べる。
 中に入っているのは、甘くてやさしい味の餡だ。
「おいしいね?」
 音羽くんはなにも言わなかった。文句を言わないんだから、きっとおいしいんだろう。
 私は音羽くんの隣でふっと微笑む。すると音羽くんが、パンを口にしながらつぶやいた。
「父さんほどじゃないけど」
「え?」
「さくらさんのパンも、まあまあだな」
 音羽くんは、素直じゃない。

 最後のひとかけらを口に放り込んで、音羽くんは立ち上がった。
「食ったらさっさと帰れ。ガキは」
 なんなの? 自分こそ、ガキじゃない。悔しいから、私も言い返す。
「音羽くん、さっき泣いてたよね?」
 音羽くんが私をにらむ。私はぷいっと顔をそむけて、逃げるように部屋を飛び出す。
「芽衣っ! お前っ……さくらさんに絶対言うなよ!」
「言ってやる! 音羽くんがめそめそ泣いてたって!」
「お前なー!」
 音羽くんが怒鳴ってる。だけどいつもの音羽くんに戻ってよかった。
 私はなんだか嬉しくなって、お店に続く階段を駆け下りた。

 お店に戻ると、さくらさんが椅子に座っていた。
「さくらさ……」
 声をかけようとして、口をつぐんだ。さくらさんはひとりでじっと窓の外を見ている。
 桜の木の、緑の葉が風に揺れていた。はじめてここに来た日、満開だった桜の花を思い出す。
 私はもう一度、さくらさんの横顔を見る。さくらさんはぼうっとした顔つきをしている。泣いてなんかいないけど、なぜか泣いているようにも見えた。

「あ、芽衣ちゃん」
 さくらさんが私に気づく。そしていつものように、にっこり微笑む。
「どうだった? うちのバカ息子」
「あ、元気になったみたいです。さくらさんのパンを食べて」
「芽衣ちゃんのおかげでしょ?」
 いたずらっぽく笑ったさくらさんの後ろで、ドアが開く。
「こんにちは」
「いらっしゃいませ!」
 さくらさんの明るい声が、お店の中に響いた。
「今日はいいお天気ね」
「ほんと。どこかに出かけたくなりますねぇ」
 お客さんと話しているさくらさんのことを見る。そしていつか聞いた言葉を思い出す。
『まぁ私もショックだったけど。なんとか二人でやってるの』
 いつも明るいさくらさんだけど、大変なことも、きっとたくさんあるんだと思う。
 子どもの私にはわからない、いろんなことが、たくさん……。
 さくらさんの笑い声を聞きながら、私はそんなことを考えていた。
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