花の簪

ビター

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東の姫

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 雨季の晴れ間に、遠く砂の海を越えてやって来たのは東国の姫君だった。
 駱駝の背に乗せられた輿には厚い布で幕がかけられ、中は見えなかった。王宮の入り口で旅団キャラバンは整列し、ひときわ大きく華やかな輿を乗せた駱駝は、大きく前後に体を揺らして足を折った。
「待ちかねておりましたぞ、姫よ」
 正装をした王が進み出て、とばりの奥の姫を呼んだ。
 姫の齢は十六と聞いている。夫となる王とは二十も歳が離れている。最初に見えたのは、白く細い指だった。そして色あざやかな錦の袖、その布の上に流れるぬばたまの長い髪。
 出迎えた大臣や女官たちがその艶やかさに吸い寄せられた。きっと、花のように美しい姫だろう。皆の熱い視線が注がれるなか、姫は伏せていた面をあげた。
「ようこ……そ」
 幕から現れた姿に、王は両手を広げたまま絶句した。
 想像したより背が高く、がっしりした木のように見えた。おつきの者に手を預けて駱駝から下りた姫は見慣れぬ東国の服を着ていた。顔の両側には長く髪を垂れ、残りは後ろに結いあげ、数本の大ぶりなかんざしで留めていた。
 張りだした顎、糸を引いたような細い目に魔物を思わせるような鉤鼻、そしてうすい眉と唇……。
 いならぶ者たちに臆することなく、ぽきん、と体を折るように姫は王に向かってお辞儀をした。
 優雅さからほど遠い、そのしぐさを女官や侍女たちはベールで口元を押さえて笑った。
 おそらく安心したのだろう。各々が仕える姫君の誰よりも、あまりにも特徴的な東国の姫を見て。
 わたしはウードを抱えて、だいぶ後ろから姫のようすを伺っていた。りゅうとした立ち姿、眉ひとつ動かさない仮面のような表情。重ね着した長い服の裾を体の前にひだをよせて持ち、苦虫をかんだような顔をした王の後を静しずと歩む。
 タイルを踏む足音は聞こえず、ただ衣のずれの音がするばかり。不思議な香りを漂わせる、嫁入り道具を持つ者たちが後に続いた。
 皆は姫のお付きのものたちがいるてまえ、あからさまに嘲ることはなかったが、たとえ言葉は解されなくとも醜く歪んだ口元を見れば考えていることなど、相手方に筒抜けだったろう。
姫は型どおりの御披露目のあとは、後宮に引きこもった。

 わたしは後宮の姫ぎみたちの宴で歌を披露する職を王よりいただいていた。
 主に王が訪れる部屋に夕刻まえに呼ばれ、食事を召し上がる傍らで歌った。
 東国の姫ぎみの部屋へは何度も呼ばれた。
 大国から同盟と和平の印に賜った花嫁を、王は粗略に扱うわけにはいかなかったのだろう。
 部屋は白大理石で作られていた。小さな中庭にはタイルで泉が作られ、ナツメヤシが数本、芝生に陰を落とす。
姫の嫁入り道具は見たこともないものばかりだった。黒檀のたんすの抽斗や手鏡、卓や椅子には花や小鳥のもようがきらめいていた。
 いったい何で作られているのか、わたしには見当がつかなかったが、物知りの大臣が言うには、海で採れる貝殻を使い、あのようなものに作り替えたのだと教えてくれた。細かく砕かれ磨かれた貝殻は、見る位置を変えれば赤や紫、緑や青といくつも色を変え、淡い光の膜でおおわれているようだった。
砂漠へ沈む夕日を簪のかたちに固めたとしか思えないようなものもあった。王や正妃が身につけるよりも華やかで大きな宝石のついた宝飾品も箪笥のうえに飾られているのを幾度か見た。
 身につける衣は、こちらのものへと変わっていったけれど、嫁いできたときのような錦の織物を羽織っていた。華やかな簪や指輪、首飾りを使ったのはお披露目の時だけで、いま身を飾るものといえば豊かな黒髪をまとめる地味な簪ひとつきりだった。
 いつも同じ顔で表情を変えない。まばたきを忘れたような細い目、引き結ばれた薄い唇。そして一言も話されない。たとえ、王がご機嫌をとろうとしても、それは変わらなかった。ただ、ウードをかき鳴らすわたしの手元をじっと見つめているように感じた。
 あまりに不愛想な姫の態度に、先代の父王や兄弟のすべてを殺して玉座についた激しい気性の王がいつ癇癪を起すかと、わたしのみならず仕える者たちは肝を冷やしていた。鋭い鷹のような眼を持つ王が激高することを恐れた。
 たとえ言葉が分からずとも、微笑まれたらよろしいのに。
 数年前に遙か西国から輿入れされた小麦色の肌に青い目をした姫君は、笑みを絶やさず王ばかりではなく皆から愛され、今では姫をお二人授かっている。
 東の姫の頑なさを皆は危ぶんだ。
 口さがない後宮の女官や宦官たちが噂するには、姫とはいえ母親の身分が低いため王宮の片隅に置かれ、大切にはされてこなかったという事。くわえてあの容姿……。つまり我が王は軽く見られたのだ、と。
 西と東を結ぶ交通の要衝の地であり、宿場町オアシスとして発展を遂げた国。王は飛ぶ鳥を落とす勢いで版図を広げて、ついには大国と肩を並べ同盟国にまでなったというのに。
 そんな王の自尊心を踏みにじるように、生まれの卑しい容姿のすぐれない姫をあてがわれ、会うたびに王には気に障ったのだろう。
 乾季が過ぎ、次の雨季がくる頃には王の足は遠ざかり、姫の本国からついて来たものたちも一人二人と帰され、ついには姫ぎみだけが残された。
 言葉の通じぬ侍女が一人、身の回りの世話をする侘しい暮らしへと変わっていった。

 後宮の誰もが姫について口にすることもなくなった頃、わたしは姫付きの侍女に部屋にくるよう呼ばれた。姫の部屋は以前呼ばれた時と変わらずにあった。
 豪奢な家具も、笑わぬ姫もそのままだった。
 無言のまま指でさし示し侍女を退出させ、絨毯のうえに単座した姫はわたしを正面に座らせた。そしてやにわに両手を差しのばし、ウードをよこすよう身振りで命じた。
 真一文字に結んだ薄い唇、開いているかどうか分からぬ細い目には強い光りが宿っていた。
 壊されたりはしないだろうか。不慣れな素人に渡すことに不安を感じたが、まさか逆らうわけにもいかない。
 睨み付け、いつまでも手を戻す気配のない姫に根負けしたわたしは姫の前に膝で立ち、ウードを両手で差し出した。
 細い枝のような腕で姫はウードを受け取ると、その重さに驚いたのか瞬間目を見開いたがすぐ腕の中に抱きかかえた。
 その動きは優しく赤子を抱くようだった。あのぎこちないお辞儀をした姫と同じ人物とは思えなかった。
 わたしがウードを弾くためのリーシャを渡すと、姫がウードの弦を弾いた。
その一音だけでわたしの背筋がふるえた。楽器の扱いに慣れている。すくなくとも、まったくの素人ではない。今度はわたしが姫の手元を見つめる番だった。
 姫はウードをかき鳴らした。音色が重なりあい、わたしたちの間に音の波紋が広がった。
 姫はそのまま目を閉じ、巧みにリーシャを動かし、整った旋律を見つけ出していった。そして、かすかに歌いだした。
 ああ、ああ……。それは姫の国の言葉だった。柔らかくすべてをつつみこむような抑揚。
 いつしか、わたしは水辺にいた。緑なすオアシスの清らかな流れが目の前にあり、岸辺で青い小さなつぼみが次々と静かに開く。わたしには風にそよぐ甘い花の香さえ感じられた。
 姫の歌声はまるで少年のようで、高く澄み渡り天へ昇っていく。
 歌は決して長くはなかった。けれど、歌声が途絶えてもわたしはしばらく動けずにいた。
 それは姫も同じだった。今まで見たことのない微笑みを浮かべていた。
 中庭の泉から水が流れ落ちる音と、棗椰子の葉のざわめきが聞こえていた。壁に囲まれた四角い空間だけ、別の世界にあるように感じた。
「…………!」
 しわがれた声にわたしは現実に引き戻された。不意に姫はウードをわたしに押し付けてきた。そして立ち上がると、あとも見ずに隣の部屋へと歩み去ってしまった。
 ひとり残されたわたしは、夢でも見たように感じ、立ち上がり歩こうにも、おぼつかなく感じた。
 外の扉を開け侍女と入違った。
「先ほどの歌は初めて聞いたわ。とても美しいわね」
 侍女はわたしが歌ったものと、疑いもしなかった。
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