花の簪

ビター

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歌い手

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 わたしが後宮に居られるのには、理由があった。
 少年の歌声を失わないために、体から『男』取り去ったからだ。官宦たちと同じように。
 わたしは後宮の入り口に近い階段をのぼり、オアシスが見渡せる特別な塔へと向かった。
 塔の最上階の展望室には、透かし模様を彫り込んだ木の窓がはめられてあり、街を見下ろせる。外出の自由がない後宮の女たちのために作られた見晴らしのよい塔のいちばん上にある。
 夕日が砂丘の向こうに傾きかけていた。夕焼けは白い石を敷き詰めた街路を淡い紅色に染め始めていた。まもなく城壁の門が閉められると鐘が時を告げる。その直前の往来の激しさだ。
 慌ただしく行き交う人や連なる駱駝を見つめてわたしは思った。
 神はなんと皮肉なことをなさるのか、と。
 姫は声が出ないわけではなかったのだ。ただ、沈黙していただけで。
 容姿にまるでそぐわない美しい歌声をもっていることを、もしや故国の父王さえご存じないのかも知れない。もし知っていたのなら、きっと我が王に伝えただろうし嫁入り道具に楽器の一つも必ずや持たせただろうから。
 神はどうやって選ぶのだろう。愛するものをどうやって決めるのだろう。
 わたしは神のほほえみからは遠く離れている。生死をかけてまで歌い手を選んだのは、歌が好きだからでもなければ人より秀でていたからでもない。
 子だくさんの貧しい家に生まれ、口べらしで外へ出されたのだ。ほんの少し、他の者より歌えただけ。ほんの少し他の者より歌を覚えるのが早かっただけのことだ。
 師匠に声変わりまえに『男』であることを捨てさせられた。
 とくべつ才に恵まれたわけではない。ただ、ただ生きていくために……。
 そんな、なし崩しに歌にたずさわるわたしにすら分かる。
 姫は、歌の神から愛されたのだ。
 羨ましくないと言えば嘘になる。けれど、姫の窮屈な後宮での暮らしを思うとなんとも言い難いものも感じた。
 なぜ大勢の前で披露しないのだろう。
 あれだけの歌声ならば、王の気を惹くことができるだろう。姫を見くびる後宮のものたちに、一矢報いることもできるだろう。
けれど姫はそうしない。何かわけでもあるのだろうか。
 わたしには、わからない。
 王族という人々の生きようは。
 ウードを鳴らすと、丸い天井に反響してふだんの数倍よい音に聞こえる。それでも、姫の鳴らした音の足元にもおよばない。
 わたしは記憶に残った姫の歌声を真似た。
 歌い出しは、糸のように細く長く、途切れることのない高い音。
 喉をひらき、腹から声を響かせる。けれどわたしの声が天井にわだかまる。
 ……ちがう。耳に残る声はもっと高く澄みきったものだった。
 わたしは頭を振ると、天井のモザイクの唐草アラベスクを見つめ、緑なす水辺を夢想した。
 ウードで曲の流れを思いだしながら、リーシャを細やかに動かし旋律を刻む。
 歌の意味は分からなかった。ただ、懐かしく感じた。胸のなかに忘れ去られた泉があることに気づかされた。
 師匠の盲目の姉さまのウードを思い出した。
 土壁の粗末な小屋の片隅に姉さまは座り、ウードを弾いた。わたしは耳をすませていつまでもいつまでも聞いていたいと思った。繊細に動く指先をじっと見つめていた幼いころのわたし。
 あのころ、ウードの弦のふるえはわたしの胸のふるえだったはずだ……。
 遠い昔の感覚、初めて自分のための楽器が誂えられた日。
 男を切り取った術後に死の淵をさまよい、よみがえったときに最初に確かめた自分の声。
 固く閉じられた蓋が不意に開き、想いがほとばしった。
 高く、もっと高く歌え。
 あまりに不完全なわたしの声。それでも願わずにいられなかった。
 誰かのご機嫌を取るためではなく、聞き流されるためにただ奏するのではなく。
 どうか、どうか……心からまた歌いたい。姫ぎみのように。
 不完全な歌が終わった時、背後に人の気配を感じた。
「もう終わり? 続きはないの?」
 振り返ると、一の妃が侍女を従えて立っていた。とっさにわたしはひざまずき、頭をさげた。
「聞いたことのない歌。すてきね、こんど聞かせて」
「あ……これは」
 わたしの言いかけた言葉をさえぎるように、妃はわたしの前をかすめて横切り窓から外を眺めた。
「王はこのところおいでにならない」
 妃は王よりも二つ年上で、東の姫と同じくらいの歳で輿入れをされた。皇子・皇女はすでに成人している。たおやかというよりも、骨太な美しさを持つ方だ。
「市街にあのような者たちが目立つようになるなんて。なにか悪いことを考えていなければいいのだけれど」
 あのような者と妃が言うのは、商人でもなく農民でもなく、武人くずれのようなものを指していた。ほんらいならば、門の付近にだけいて王宮に近い街の中心部までは入って来られない慣わしだったのだが。
「東の姫の従者を追い返してしまったし」
 姫の従者たちはもう故国へ戻りついたころだろう。その意味を大国の王はどのように受け取るのだろうか。小さくとも、火種とはならないだろうか。
「……東の将軍に切れ者がいると噂されているの、知っている?」
 わたしの考えを見透かすように、妃は言葉をつづけた。
「王位からは遠く離れた皇子らしいのだけれど。勇猛なだけでなく、いくつもの言葉を操るほど賢い者だとか」
 妃の声は低く沈んでいく。けれどそれを振り切るように、小さく笑った。
「女はまつりごとに口を出すなと叱られてしまうわね」
 一の妃は、くるりと身をひるがえし階段へと向かう。
「新しい歌が聞きたいわ。サーデグ」


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