花の簪

ビター

文字の大きさ
9 / 28

絹の歌声 3

しおりを挟む
「姫さまは、ご気分が優れぬため、お会いにはならないそうです」
 二日後に訪れた姫さまの居室の前で待ち受けていた侍女は、わたしを止めた。
 歌えぬわたしに、いまだ腹を立てているのか。不甲斐ない弟子と見限られたのか。扉は固く閉ざされている。
 わたしは用意してきた菓子の包みを侍女へと預けた。侍女は品定めをするように、包みの重さを手で測り鼻を近づけて香りを確かめたりした。
「……姫さまが望むものが、このようなものでないくらい、あなたにはおわかりでしょうに」
 わたしよりもいくらか年下の侍女は、はっきりとそう口にした。その物言いに思わず眉間に力が入る。喉の渇きを覚えながらわたしは低く尋ねた。
「あなたは」
 侍女は唇を引き結び、視線を逸らさずにいた。
「何も存じあげません」
 今更ながら、認識の甘さに気付かされた。足しげく通い、そのたびに何度も同じ歌を繰り返す声がすれば、わたしがただ姫に歌って差し上げているとは思わないだろう。何をしているのか侍女の知るところとなっていても不思議ではない。
 無防備過ぎたか、わたしも姫も。こと歌のことになると周囲のことなど眼中になくなる。
 おそらくは、姫がわたしたちの言葉を解することも、四六時中そばにいれば薄々は感じ取っているだろう。
「姫さまは前回、あなた様が帰られてから、ろくにお食事をしてくださらないのです」
 すべての責はわたしにある、とでも言いたげに侍女はわたしの瞳をまっすぐに見た。わたしは視線を受け止めることができずに、目を逸らした。
「三日」
 はっと顔を上げると、侍女は扉に手をかけていた。
「三日、お待ちになるそうです」
 そう言い残して、侍女は扉の向こうへと消えた。わずかな隙間から、ほんの一瞬姫さまの後姿が見えたように思った。
 甘い菓子も香り豊かなお茶も、姫さまの無聊を慰めはしない。わたしのほかに誰も訪れることのない後宮の片隅で、姫の唯一の楽しみはウードを弾き、歌うことなのだ。
 わたしを遠ざけることは、そのままご自身を楽しみから遠ざけることに他ならない。楽器の一つも持たない姫さまには、どれほど苦しいことだろうか。いくら侍女があるていど姫のことを分かっていようとも、目の前で歌うことなど考えられない。
 類まれな美しい声を小さな体に閉じ込め、張り裂けそうな胸をだいてうずくまっている姿が目に浮かび、わたしも苦しくなる。
 もういっそ、わたしのウードを姫に渡して後宮を去ろうか。急な申し出を受け付けられることはないだろう。せめて代わりとなる楽師を見つけなければ。しかし、ここ数日のあいだ町を歩いて気付いた。酒場の親父の言うとおり、門をくぐる商隊がぐっと減っていた。日中ならばにぎわうはずの市場(バザール)にも人影はまばらで、品ぞろえもさびしく感じた。
 庭を囲むように張り巡らされた廻廊を抜けて自室へと戻るしかない。いつになく、荒くれ者たちの騒がしい鍛錬の音も聞こえず、ほかの姫や愛妾たちからの部屋からはときおり笑いさざめく声が聞こえるばかり。
 姫はわたしが歌えると思っているのだろうか。食事もせずにいることは、わたしへの当てつけか。
 姫はご自身が特別であることを分かってはいないのだ。
 わたしは姫のような神からの愛を受けてはいない。指先が固くなっているのは、初めてウードを持った日から絶えることなく鍛錬を重ねた結果だ。体を変えてまで手に入れた今の歌声も、身につけるまでに気の遠くなるほど稽古を重ねてきたのだ。
 ……姫は叫んでいた。

 けいこ、けいこ、ねえさん、できる。

 歌の上手な姉ぎみと、楽器の名手である兄ぎみがいると姫は片言に話された。転じて、自分はできないのだと。
 あれほどの声の持ち主である姫さまでさえ、修練を積まれたと。ならば、わたしごときが届くはずがないではないか。与えられた三日で、わたしは歌えるようになるとは思えない。まるで心もとない。
 けれど、これいじょう食事を断たれて姫さまのお体を害するわけにはいかない。
 まるでご自身を人質にして、わたしに歌えといっているかのようだ。
 頑固者の姫さまは、わたしが歌えるようになるまで食事を断り続けるだろうという憶測も、あながち外れないのではないか。
 姫さまの、お気持ちを少しでも明るいものにできる手立ては、ただわたしが持っているという皮肉さ。
 歌うしか、ないのだ。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

妻からの手紙~18年の後悔を添えて~

Mio
ファンタジー
妻から手紙が来た。 妻が死んで18年目の今日。 息子の誕生日。 「お誕生日おめでとう、ルカ!愛してるわ。エミリア・シェラード」 息子は…17年前に死んだ。 手紙はもう一通あった。 俺はその手紙を読んで、一生分の後悔をした。 ------------------------------

どうやら夫に疎まれているようなので、私はいなくなることにします

文野多咲
恋愛
秘めやかな空気が、寝台を囲う帳の内側に立ち込めていた。 夫であるゲルハルトがエレーヌを見下ろしている。 エレーヌの髪は乱れ、目はうるみ、体の奥は甘い熱で満ちている。エレーヌもまた、想いを込めて夫を見つめた。 「ゲルハルトさま、愛しています」 ゲルハルトはエレーヌをさも大切そうに撫でる。その手つきとは裏腹に、ぞっとするようなことを囁いてきた。 「エレーヌ、俺はあなたが憎い」 エレーヌは凍り付いた。

お飾りの妻として嫁いだけど、不要な妻は出ていきます

菻莅❝りんり❞
ファンタジー
貴族らしい貴族の両親に、売られるように愛人を本邸に住まわせている其なりの爵位のある貴族に嫁いだ。 嫁ぎ先で私は、お飾りの妻として別棟に押し込まれ、使用人も付けてもらえず、初夜もなし。 「居なくていいなら、出ていこう」 この先結婚はできなくなるけど、このまま一生涯過ごすよりまし

一級魔法使いになれなかったので特級厨師になりました

しおしお
恋愛
魔法学院次席卒業のシャーリー・ドットは、 「一級魔法使いになれなかった」という理由だけで婚約破棄された。 ――だが本当の理由は、ただの“うっかり”。 試験会場を間違え、隣の建物で行われていた 特級厨師試験に合格してしまったのだ。 気づけばシャーリーは、王宮からスカウトされるほどの “超一流料理人”となり、国王の胃袋をがっちり掴む存在に。 一方、学院首席で一級魔法使いとなった ナターシャ・キンスキーは、大活躍しているはずなのに―― 「なんで料理で一番になってるのよ!?  あの女、魔法より料理の方が強くない!?」 すれ違い、逃げ回り、勘違いし続けるナターシャと、 天然すぎて誤解が絶えないシャーリー。 そんな二人が、魔王軍の襲撃、国家危機、王宮騒動を通じて、 少しずつ距離を縮めていく。 魔法で国を守る最強魔術師。 料理で国を救う特級厨師。 ――これは、“敵でもライバルでもない二人”が、 ようやく互いを認め、本当の友情を築いていく物語。 すれ違いコメディ×料理魔法×ダブルヒロイン友情譚! 笑って、癒されて、最後は心が温かくなる王宮ラノベ、開幕です。

【完結】捨て去られた王妃は王宮で働く

ここ
ファンタジー
たしかに私は王妃になった。 5歳の頃に婚約が決まり、逃げようがなかった。完全なる政略結婚。 夫である国王陛下は、ハーレムで浮かれている。政務は王妃が行っていいらしい。私は仕事は得意だ。家臣たちが追いつけないほど、理解が早く、正確らしい。家臣たちは、王妃がいないと困るようになった。何とかしなければ…

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

(完結)醜くなった花嫁の末路「どうぞ、お笑いください。元旦那様」

音爽(ネソウ)
ファンタジー
容姿が気に入らないと白い結婚を強いられた妻。 本邸から追い出されはしなかったが、夫は離れに愛人を囲い顔さえ見せない。 しかし、3年と待たず離縁が決定する事態に。そして元夫の家は……。 *6月18日HOTランキング入りしました、ありがとうございます。

置き去りにされた転生シンママはご落胤を秘かに育てるも、モトサヤはご容赦のほどを 

青の雀
恋愛
シンママから玉の輿婚へ 学生時代から付き合っていた王太子のレオンハルト・バルセロナ殿下に、ある日突然、旅先で置き去りにされてしまう。 お忍び旅行で来ていたので、誰も二人の居場所を知らなく、両親のどちらかが亡くなった時にしか発動しないはずの「血の呪縛」魔法を使われた。 お腹には、殿下との子供を宿しているというのに、政略結婚をするため、バレンシア・セレナーデ公爵令嬢が邪魔になったという理由だけで、あっけなく捨てられてしまったのだ。 レオンハルトは当初、バレンシアを置き去りにする意図はなく、すぐに戻ってくるつもりでいた。 でも、王都に戻ったレオンハルトは、そのまま結婚式を挙げさせられることになる。 お相手は隣国の王女アレキサンドラ。 アレキサンドラとレオンハルトは、形式の上だけの夫婦となるが、レオンハルトには心の妻であるバレンシアがいるので、指1本アレキサンドラに触れることはない。 バレンシアガ置き去りにされて、2年が経った頃、白い結婚に不満をあらわにしたアレキサンドラは、ついに、バレンシアとその王子の存在に気付き、ご落胤である王子を手に入れようと画策するが、どれも失敗に終わってしまう。 バレンシアは、前世、京都の餅菓子屋の一人娘として、シンママをしながら子供を育てた経験があり、今世もパティシエとしての腕を生かし、パンに製菓を売り歩く行商になり、王子を育てていく。 せっかくなので、家庭でできる餅菓子レシピを載せることにしました

処理中です...