花の簪

ビター

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砂塵 2

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 その時のわたしは、酒場で店開きの用意をしていた。
 店に面した大通りを男が一人、何事かわめきながら走り去る声を聞いた。
「なんだ?」
 厨房に居た親父たちも、わたしとお運びの少年も声を聞きつけて、おもてを見た。
 いつもの喧騒に混じり、遠くに女の悲鳴が聞こえたかと思うと、周りをはばからぬ慟哭が城壁にこだました。
「ちょっと、見て来ます」
 一言いいおいて、わたしは声のほうへと駆けだした。通りにいる人々は泣き声に引き寄せられるように、東の門へと向かっていく。我先へと道行く者たちと体をぶつけながらたどり着くと、そこには旅装のうら若き女性と足元に倒れる傷だらけの男がいた。それを取り巻く数人の者たち。さらに幼い女の子が女性の上着をつかんでいる。
 倒れた男の上着は、切り裂かれ血で染まっていた。
 女性の袖からは、小麦色の肌が見えた。砂と陽ざしを避けるための頭巾からは金の髪がのぞいている。
 これは、西の姫か!
 人垣の隙間から、わたしは姫の一団をみとめた。二人の侍女と三人の男、そして一人の幼女。西の姫には女の子が二人いたはずだが、もう一人の姿が見当たらず、胸騒ぎがした。
 集まった人々は、何事かと泣き叫ぶ女性を見ている。皆、彼女が妃の一人だなどと知らないのだ。
 青い目の西の姫は逃げ出したいと思っていると、以前ゾランから聞いた。きっと、実行にうつしたのだ。恐らくは、作物を売りに来た農夫や隊商にまぎれてオアシスを出たのだろう。青い目の姫は故国と親交のある西のオアシスをめざしたに違いない。
 けれど、戻って来たということは。
わたしの脳天から背中まで、一気に冷たいものが走った。
 門を守る兵士が駆けより、口のきけるものから事情を聴きだしているようだ。姫は幼女を抱きしめ、泣き崩れていた。
 兵士の近くで話を聞いた者から、言付けのように徐々に野次馬たちに伝わる。
「東の兵士と出くわした、だって?」
「子どもを一人連れ去られた」
 姫たちはきっと、故国である西へと進んだはずだ。そこで、東の兵士と出会うとは。いったいどうやって東の者たちはオアシスを通り越して西にいたのだ。
 一つ一つの知らせに、人々は口を徐々に閉ざした。うつむくもの、天を仰ぎ見るもの、ただ茫然としているもの。
 その間も、姫の嗚咽は続いた。故国の言葉で泣き喚き、うずくまるようにして地に伏してしまった。王宮からの使者がやってきたとき、女性が何者なのか悟ったらしく、群衆から声があがった。
「まさか、王の妃なのか!」
 王宮の使いが、周囲を鋭い視線で見渡すと皆はいっせいに口を閉ざした。使いたちは、身も世もなく嘆く姫を両側からささえて、姫の一行と共に宮殿へと連れていった。そして入れ違いに、早馬が門を飛び出した。きっと王へと知らせを持って行くのだろう。
「あれは、西から輿入れした姫だろう?」
「王族が逃げ出そうとするなんて、どういうことだ」
「なあ、どうなるんだ。我らが王は……」
 負ける、という言葉は口から出ることはなかったが、その場にいた皆がそれぞれに気づいたはずだ。
 ざわざわと人の波が引いて行く。門から離れれば離れるほど、男も女も足早になっていく。まるで襲い来る災いから逃れようとするように。

 わたしは酒場へ戻ると、親父へと事の次第を伝えた。
「まさか、西へ向かって東の兵と会うはずがないだろうが」
 にわかには信じられないと、親父は首を横に振った。確かに、楼門はこちら側の兵士たちが相当数、街道をふさいでいたはずだ。では、どこから。
 現に、青い目の姫は西へと行きつけなかったのだ。子どもを奪われ、あれではもう正気には戻れないのではないだろうか。
 その日の仕事は、店の者たち全員がどこか心ここにあらずといったふうだった。お運びの少年は注文を間違え、厨房の親父たちは肉を黒焦げにし、わたしは皿を何枚か割った。もっとも、客のほうも同じだったらしく、兵士志願者のなかには、引き返す話をしている者たちもいた。
 街中でも、数人で話し込む姿があちこちで見られた。
 今回の出来事は、オアシスの民人の気持ちに小さなひびを入れるには十分すぎることだったのだ。
 日が暮れてから戻った王宮は、町の様子に反して静かだった。いつもの中庭には孫姫さまはいなかったが、王宮に仕える者たちは、ただ粛々と自分の仕事をこなしていた。
 誰もが伏し目がちで、目を合わせることも言葉を交わすこともなかった。
 わたしは自室に戻ってから、買い集めた物を袋に詰めて、いつでも持ち出せるように準備をした。
 翌朝、再び東の門から悲鳴が上がった。門の外に、変わり果てた幼い子どもが寝かせられていたのだ。
 後宮から、すすり泣く声が一日中絶えなかった。
 そしてこれは始まりに過ぎなかった。
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