23 / 28
砂塵 2
しおりを挟む
その時のわたしは、酒場で店開きの用意をしていた。
店に面した大通りを男が一人、何事かわめきながら走り去る声を聞いた。
「なんだ?」
厨房に居た親父たちも、わたしとお運びの少年も声を聞きつけて、おもてを見た。
いつもの喧騒に混じり、遠くに女の悲鳴が聞こえたかと思うと、周りをはばからぬ慟哭が城壁にこだました。
「ちょっと、見て来ます」
一言いいおいて、わたしは声のほうへと駆けだした。通りにいる人々は泣き声に引き寄せられるように、東の門へと向かっていく。我先へと道行く者たちと体をぶつけながらたどり着くと、そこには旅装のうら若き女性と足元に倒れる傷だらけの男がいた。それを取り巻く数人の者たち。さらに幼い女の子が女性の上着をつかんでいる。
倒れた男の上着は、切り裂かれ血で染まっていた。
女性の袖からは、小麦色の肌が見えた。砂と陽ざしを避けるための頭巾からは金の髪がのぞいている。
これは、西の姫か!
人垣の隙間から、わたしは姫の一団をみとめた。二人の侍女と三人の男、そして一人の幼女。西の姫には女の子が二人いたはずだが、もう一人の姿が見当たらず、胸騒ぎがした。
集まった人々は、何事かと泣き叫ぶ女性を見ている。皆、彼女が妃の一人だなどと知らないのだ。
青い目の西の姫は逃げ出したいと思っていると、以前ゾランから聞いた。きっと、実行にうつしたのだ。恐らくは、作物を売りに来た農夫や隊商にまぎれてオアシスを出たのだろう。青い目の姫は故国と親交のある西のオアシスをめざしたに違いない。
けれど、戻って来たということは。
わたしの脳天から背中まで、一気に冷たいものが走った。
門を守る兵士が駆けより、口のきけるものから事情を聴きだしているようだ。姫は幼女を抱きしめ、泣き崩れていた。
兵士の近くで話を聞いた者から、言付けのように徐々に野次馬たちに伝わる。
「東の兵士と出くわした、だって?」
「子どもを一人連れ去られた」
姫たちはきっと、故国である西へと進んだはずだ。そこで、東の兵士と出会うとは。いったいどうやって東の者たちはオアシスを通り越して西にいたのだ。
一つ一つの知らせに、人々は口を徐々に閉ざした。うつむくもの、天を仰ぎ見るもの、ただ茫然としているもの。
その間も、姫の嗚咽は続いた。故国の言葉で泣き喚き、うずくまるようにして地に伏してしまった。王宮からの使者がやってきたとき、女性が何者なのか悟ったらしく、群衆から声があがった。
「まさか、王の妃なのか!」
王宮の使いが、周囲を鋭い視線で見渡すと皆はいっせいに口を閉ざした。使いたちは、身も世もなく嘆く姫を両側からささえて、姫の一行と共に宮殿へと連れていった。そして入れ違いに、早馬が門を飛び出した。きっと王へと知らせを持って行くのだろう。
「あれは、西から輿入れした姫だろう?」
「王族が逃げ出そうとするなんて、どういうことだ」
「なあ、どうなるんだ。我らが王は……」
負ける、という言葉は口から出ることはなかったが、その場にいた皆がそれぞれに気づいたはずだ。
ざわざわと人の波が引いて行く。門から離れれば離れるほど、男も女も足早になっていく。まるで襲い来る災いから逃れようとするように。
わたしは酒場へ戻ると、親父へと事の次第を伝えた。
「まさか、西へ向かって東の兵と会うはずがないだろうが」
にわかには信じられないと、親父は首を横に振った。確かに、楼門はこちら側の兵士たちが相当数、街道をふさいでいたはずだ。では、どこから。
現に、青い目の姫は西へと行きつけなかったのだ。子どもを奪われ、あれではもう正気には戻れないのではないだろうか。
その日の仕事は、店の者たち全員がどこか心ここにあらずといったふうだった。お運びの少年は注文を間違え、厨房の親父たちは肉を黒焦げにし、わたしは皿を何枚か割った。もっとも、客のほうも同じだったらしく、兵士志願者のなかには、引き返す話をしている者たちもいた。
街中でも、数人で話し込む姿があちこちで見られた。
今回の出来事は、オアシスの民人の気持ちに小さなひびを入れるには十分すぎることだったのだ。
日が暮れてから戻った王宮は、町の様子に反して静かだった。いつもの中庭には孫姫さまはいなかったが、王宮に仕える者たちは、ただ粛々と自分の仕事をこなしていた。
誰もが伏し目がちで、目を合わせることも言葉を交わすこともなかった。
わたしは自室に戻ってから、買い集めた物を袋に詰めて、いつでも持ち出せるように準備をした。
翌朝、再び東の門から悲鳴が上がった。門の外に、変わり果てた幼い子どもが寝かせられていたのだ。
後宮から、すすり泣く声が一日中絶えなかった。
そしてこれは始まりに過ぎなかった。
店に面した大通りを男が一人、何事かわめきながら走り去る声を聞いた。
「なんだ?」
厨房に居た親父たちも、わたしとお運びの少年も声を聞きつけて、おもてを見た。
いつもの喧騒に混じり、遠くに女の悲鳴が聞こえたかと思うと、周りをはばからぬ慟哭が城壁にこだました。
「ちょっと、見て来ます」
一言いいおいて、わたしは声のほうへと駆けだした。通りにいる人々は泣き声に引き寄せられるように、東の門へと向かっていく。我先へと道行く者たちと体をぶつけながらたどり着くと、そこには旅装のうら若き女性と足元に倒れる傷だらけの男がいた。それを取り巻く数人の者たち。さらに幼い女の子が女性の上着をつかんでいる。
倒れた男の上着は、切り裂かれ血で染まっていた。
女性の袖からは、小麦色の肌が見えた。砂と陽ざしを避けるための頭巾からは金の髪がのぞいている。
これは、西の姫か!
人垣の隙間から、わたしは姫の一団をみとめた。二人の侍女と三人の男、そして一人の幼女。西の姫には女の子が二人いたはずだが、もう一人の姿が見当たらず、胸騒ぎがした。
集まった人々は、何事かと泣き叫ぶ女性を見ている。皆、彼女が妃の一人だなどと知らないのだ。
青い目の西の姫は逃げ出したいと思っていると、以前ゾランから聞いた。きっと、実行にうつしたのだ。恐らくは、作物を売りに来た農夫や隊商にまぎれてオアシスを出たのだろう。青い目の姫は故国と親交のある西のオアシスをめざしたに違いない。
けれど、戻って来たということは。
わたしの脳天から背中まで、一気に冷たいものが走った。
門を守る兵士が駆けより、口のきけるものから事情を聴きだしているようだ。姫は幼女を抱きしめ、泣き崩れていた。
兵士の近くで話を聞いた者から、言付けのように徐々に野次馬たちに伝わる。
「東の兵士と出くわした、だって?」
「子どもを一人連れ去られた」
姫たちはきっと、故国である西へと進んだはずだ。そこで、東の兵士と出会うとは。いったいどうやって東の者たちはオアシスを通り越して西にいたのだ。
一つ一つの知らせに、人々は口を徐々に閉ざした。うつむくもの、天を仰ぎ見るもの、ただ茫然としているもの。
その間も、姫の嗚咽は続いた。故国の言葉で泣き喚き、うずくまるようにして地に伏してしまった。王宮からの使者がやってきたとき、女性が何者なのか悟ったらしく、群衆から声があがった。
「まさか、王の妃なのか!」
王宮の使いが、周囲を鋭い視線で見渡すと皆はいっせいに口を閉ざした。使いたちは、身も世もなく嘆く姫を両側からささえて、姫の一行と共に宮殿へと連れていった。そして入れ違いに、早馬が門を飛び出した。きっと王へと知らせを持って行くのだろう。
「あれは、西から輿入れした姫だろう?」
「王族が逃げ出そうとするなんて、どういうことだ」
「なあ、どうなるんだ。我らが王は……」
負ける、という言葉は口から出ることはなかったが、その場にいた皆がそれぞれに気づいたはずだ。
ざわざわと人の波が引いて行く。門から離れれば離れるほど、男も女も足早になっていく。まるで襲い来る災いから逃れようとするように。
わたしは酒場へ戻ると、親父へと事の次第を伝えた。
「まさか、西へ向かって東の兵と会うはずがないだろうが」
にわかには信じられないと、親父は首を横に振った。確かに、楼門はこちら側の兵士たちが相当数、街道をふさいでいたはずだ。では、どこから。
現に、青い目の姫は西へと行きつけなかったのだ。子どもを奪われ、あれではもう正気には戻れないのではないだろうか。
その日の仕事は、店の者たち全員がどこか心ここにあらずといったふうだった。お運びの少年は注文を間違え、厨房の親父たちは肉を黒焦げにし、わたしは皿を何枚か割った。もっとも、客のほうも同じだったらしく、兵士志願者のなかには、引き返す話をしている者たちもいた。
街中でも、数人で話し込む姿があちこちで見られた。
今回の出来事は、オアシスの民人の気持ちに小さなひびを入れるには十分すぎることだったのだ。
日が暮れてから戻った王宮は、町の様子に反して静かだった。いつもの中庭には孫姫さまはいなかったが、王宮に仕える者たちは、ただ粛々と自分の仕事をこなしていた。
誰もが伏し目がちで、目を合わせることも言葉を交わすこともなかった。
わたしは自室に戻ってから、買い集めた物を袋に詰めて、いつでも持ち出せるように準備をした。
翌朝、再び東の門から悲鳴が上がった。門の外に、変わり果てた幼い子どもが寝かせられていたのだ。
後宮から、すすり泣く声が一日中絶えなかった。
そしてこれは始まりに過ぎなかった。
0
あなたにおすすめの小説
妻からの手紙~18年の後悔を添えて~
Mio
ファンタジー
妻から手紙が来た。
妻が死んで18年目の今日。
息子の誕生日。
「お誕生日おめでとう、ルカ!愛してるわ。エミリア・シェラード」
息子は…17年前に死んだ。
手紙はもう一通あった。
俺はその手紙を読んで、一生分の後悔をした。
------------------------------
どうやら夫に疎まれているようなので、私はいなくなることにします
文野多咲
恋愛
秘めやかな空気が、寝台を囲う帳の内側に立ち込めていた。
夫であるゲルハルトがエレーヌを見下ろしている。
エレーヌの髪は乱れ、目はうるみ、体の奥は甘い熱で満ちている。エレーヌもまた、想いを込めて夫を見つめた。
「ゲルハルトさま、愛しています」
ゲルハルトはエレーヌをさも大切そうに撫でる。その手つきとは裏腹に、ぞっとするようなことを囁いてきた。
「エレーヌ、俺はあなたが憎い」
エレーヌは凍り付いた。
お飾りの妻として嫁いだけど、不要な妻は出ていきます
菻莅❝りんり❞
ファンタジー
貴族らしい貴族の両親に、売られるように愛人を本邸に住まわせている其なりの爵位のある貴族に嫁いだ。
嫁ぎ先で私は、お飾りの妻として別棟に押し込まれ、使用人も付けてもらえず、初夜もなし。
「居なくていいなら、出ていこう」
この先結婚はできなくなるけど、このまま一生涯過ごすよりまし
一級魔法使いになれなかったので特級厨師になりました
しおしお
恋愛
魔法学院次席卒業のシャーリー・ドットは、
「一級魔法使いになれなかった」という理由だけで婚約破棄された。
――だが本当の理由は、ただの“うっかり”。
試験会場を間違え、隣の建物で行われていた
特級厨師試験に合格してしまったのだ。
気づけばシャーリーは、王宮からスカウトされるほどの
“超一流料理人”となり、国王の胃袋をがっちり掴む存在に。
一方、学院首席で一級魔法使いとなった
ナターシャ・キンスキーは、大活躍しているはずなのに――
「なんで料理で一番になってるのよ!?
あの女、魔法より料理の方が強くない!?」
すれ違い、逃げ回り、勘違いし続けるナターシャと、
天然すぎて誤解が絶えないシャーリー。
そんな二人が、魔王軍の襲撃、国家危機、王宮騒動を通じて、
少しずつ距離を縮めていく。
魔法で国を守る最強魔術師。
料理で国を救う特級厨師。
――これは、“敵でもライバルでもない二人”が、
ようやく互いを認め、本当の友情を築いていく物語。
すれ違いコメディ×料理魔法×ダブルヒロイン友情譚!
笑って、癒されて、最後は心が温かくなる王宮ラノベ、開幕です。
【完結】捨て去られた王妃は王宮で働く
ここ
ファンタジー
たしかに私は王妃になった。
5歳の頃に婚約が決まり、逃げようがなかった。完全なる政略結婚。
夫である国王陛下は、ハーレムで浮かれている。政務は王妃が行っていいらしい。私は仕事は得意だ。家臣たちが追いつけないほど、理解が早く、正確らしい。家臣たちは、王妃がいないと困るようになった。何とかしなければ…
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
(完結)醜くなった花嫁の末路「どうぞ、お笑いください。元旦那様」
音爽(ネソウ)
ファンタジー
容姿が気に入らないと白い結婚を強いられた妻。
本邸から追い出されはしなかったが、夫は離れに愛人を囲い顔さえ見せない。
しかし、3年と待たず離縁が決定する事態に。そして元夫の家は……。
*6月18日HOTランキング入りしました、ありがとうございます。
置き去りにされた転生シンママはご落胤を秘かに育てるも、モトサヤはご容赦のほどを
青の雀
恋愛
シンママから玉の輿婚へ
学生時代から付き合っていた王太子のレオンハルト・バルセロナ殿下に、ある日突然、旅先で置き去りにされてしまう。
お忍び旅行で来ていたので、誰も二人の居場所を知らなく、両親のどちらかが亡くなった時にしか発動しないはずの「血の呪縛」魔法を使われた。
お腹には、殿下との子供を宿しているというのに、政略結婚をするため、バレンシア・セレナーデ公爵令嬢が邪魔になったという理由だけで、あっけなく捨てられてしまったのだ。
レオンハルトは当初、バレンシアを置き去りにする意図はなく、すぐに戻ってくるつもりでいた。
でも、王都に戻ったレオンハルトは、そのまま結婚式を挙げさせられることになる。
お相手は隣国の王女アレキサンドラ。
アレキサンドラとレオンハルトは、形式の上だけの夫婦となるが、レオンハルトには心の妻であるバレンシアがいるので、指1本アレキサンドラに触れることはない。
バレンシアガ置き去りにされて、2年が経った頃、白い結婚に不満をあらわにしたアレキサンドラは、ついに、バレンシアとその王子の存在に気付き、ご落胤である王子を手に入れようと画策するが、どれも失敗に終わってしまう。
バレンシアは、前世、京都の餅菓子屋の一人娘として、シンママをしながら子供を育てた経験があり、今世もパティシエとしての腕を生かし、パンに製菓を売り歩く行商になり、王子を育てていく。
せっかくなので、家庭でできる餅菓子レシピを載せることにしました
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる