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薔薇姫 2
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侍女はオアシスの内情を東の国へと流していた。
花茶がバザールから消えてからも、入手できたのは東と通じていたからだろう。それを姫さまはご存知だったのだろうか。
侍女のすべきことは、こちらの動きを知らせることだったらしい。
では姫さまは? 姫さまの、すべきこととは、一体何なのだ。
わたしは牢屋の湿った床で膝を抱えた。同じく牢にいる者たちは落ち着きを失っていた。暗闇の中で、同じ房にいる男たちが、ざわざわと動く気配がする。それは他の房も同じようだ。房に面した通路には、見張りの気配は感じられない。もしや、見張りの兵士たちも逃げ出したのか。
「もうすぐ東の兵士たちが乗りこんでくるのか」
「おれたちはどうなるんだ」
「盾にされるらしいぞ」
牢にいるのは、人を傷つけたりした者たちではなく、王は間違っていると声を上げたり、物を盗んだりといった者たちらしい。歳や見かけも、ばらばらだ。少なくとも盾となって役立てるほど、頑健そうには見えない。四角い牢獄の奥からは、嗚咽がもれ聞こえる。
騒ぎを収める者がいないまま、不安をあおる言葉が続く。
「おれたちが殺されるあいだに、王宮の連中は逃げる気だろう」
捨て鉢な口調が、石の壁に声が響く。逃げる? どこへ?
「逃げられると思うなら、自力で逃げてみろよ」
聞き覚えのある応えに、顔を上げた。灯りなどないはずの通路に、かすかな光があった。
「よう」
房に開けられたわずかなのぞき穴から、わたしを見下ろすゾランがいた。
「生きていたのか!」
「死ぬようなヘマをするか、おれが」
ごとん、と音がして不意に目の前の扉が開いた。ゾランがかんぬきを外したのだ。突然の出来事に、居合わせた者たちが口をつぐんだ。
「迎えに来た。前金のぶんの仕事だ」
捧げ持つランプの灯りの中、皮の鎧を身につけたゾランは、鬼神のような陰影をまとい、わたしに手を伸べた。
「おまえだけ逃げるのか、おれも連れて行け」
一人がゾランに言い寄ると、我も我もと戸口へと人々が殺到する。ゾランはすばやくわたしを胸の中に抱きこみ、背後へと回した。
「おれは、こいつに雇われている。こいつのことしか面倒を見ない。それに、おれたちがこれから向かうのは、王宮だ。どさくさに紛れて、見張りが手薄になっているとはいえ、王宮は違う。いまだ戦を諦めない王に従う兵士がいる。そんななかへ、おまえらを連れていけない」
ランプの灯りを、詰め寄る男にぐいっと近づけると、皆は押し黙った。わざわざ火中の栗を拾いに行くというゾランの言葉に。
「その代わり、逃げ道を教えてやる」
ざわりと、どよめきが上がった。
「カナートの流れに逆らって上っていけ。ここから出られるだろう」
ゾランが話し終わると、我れ先にと房のものたちは足早に出て行った。ついでだ、とゾランは残りの房から人々を開放し、同じように話して聞かせた。
「これくらいすれば、いまだ忠実なる王宮の兵士たちも、右往左往するだろうさ」
ゾランは全員が出て行ったのを確かめてから、わたしに向き直った。
「行くか」
わたしはうなずいた。王宮へ、いまこそ姫のもとへ。
「牢屋の見張りの連中のように、おれの言葉を鵜呑みにしてくれりゃ、いいが」
「逃げ道を教えたのか」
広間から回収してくれたウードを、わたしに差し出してゾランが片頬で笑った。見張りたちに、カナートのことを教えたらしい。
「でも、みんながカナートから逃げたら、大変なさわぎで姫さまをお連れするなんて……」
「カナートへ行った連中には囮になってもらう」
「え?」
「……常に先手を打っておくものさ。道はひとつじゃない」
ゾランはわたしと手を繋ぐと、足早に走り出した。
暗闇に乗じて、王宮の廊下を進む。途中、カナートへと続く中庭の横を通った。扉は開け放たれていた。石の壁に水をかき乱す音が反響していた。
すでにカナートの地上への出口には、東の兵たちが手ぐすね引いて待っているのではないか。
ゾランは別の逃げ道があると口にしていたが、ほんとうだろうか。
「王の人望の厚さたるや、まったくな」
廊下や廻廊、姫の部屋の前にすら、衛兵はいなかった。いや違った。扉の前にうずくまる者がいた。
「ここで待っていろ」
ゾランはわたしから手を離し、ひとり衛士のもとへとゆっくりとした足取りで近づいた。夜目にも衛士がゾランに気づいて立ち上がるのが見えた。
声をひそめて二人は会話しだした。わずかに聞き取れる言葉から、衛士は扉の前から動く様子がないことが伺われた。
何度も首を横に振る衛士に、あきらめたのかゾランが戻って来た。
「部屋の鍵は、王が自ら持っているそうだ。そして、あいつは度胸があるようには見えないが」
と、顎で入り口の扉を示し、ゾランはため息をついた。
「逃げる気など毛頭ない、だと。それは姫も同じだそうだ」
「そんな、姫があの衛士に声をかけたというのか」
ゾランは顔にかかる髪をかきあげ、呆れたように天井を見上げた。
「必要だったら、話くらいするだろうさ。……必要だから、声をかけたんだろう。きっとおまえが来ると信じていたことの裏返しだ」
わたしは言葉に詰まった。たしかに、そうだ。姫はわたしの気持ちを疑ったりはしない。
「以前に侍女と二人で来た中庭を覚えているか。行くぞ。もしかしたら、姫と会えるかも知れん」
姫の居室の反対側へと廻廊を小走りに行く。時々、物が割れる音や悲鳴のような甲高い声が聞こえる。
「火の手があがっていないだけ、まだましだな。自棄(やけ)になって、家族を殺して火をつける奴がいたりするから」
まるで実際に見たことがあるように、ゾランは話した。いや、見たことがあるのかも知れない。ゾランの故国はどこなのだろう、そこは今もあるのだろうか。
「入るぞ」
ゾランは扉を押し開いて、わたしを中へと導いた。先日と同じように二つの部屋を通り越し、鉄格子のところまで行った。果たして姫は来てくださるだろうか。月明かりが照らす広い庭の向こう側に、白い庇がぼんやりと見える。
「さがれ」
ゾランはまた鳥の声真似をした。鳴き声は四角い庭に反響し、庇の下で何かが動いた。思わずゾランを押しのけて、鉄格子につかまる。
「姫さま!」
言ったとたん、ゾランがわたしの口を押えた。
「声がでかい」
人影が少しずつ近づく。わたしは何度も首肯してゾランから解放された。
「姫さま……」
宴で見た時のように、ベールを被った姫さまが鉄格子の向こうに立っていた。
「逃げましょう、今なら混乱に乗じて逃げられます」
胸の前で指を組み、姫はうつむいた。もう侍女はいない。王宮にたった一人になってしまった姫を、わたしが置いて行けるはずがない。
「わたしは姫さまに歌ってほしいのです。思うままに歌ってほしい。お願いです」
わたしの懇願に、姫はかすかに首を左右にふった。そして面(おもて)を上げて真っすぐにわたしを見た。
「やくめ、あります。わたしに」
「役目なんて、あなた様の命より重いものなんてない」
「たいせつ、やくそく」
迷いのない、はっきりした声だった。わたしは鉄格子を握りしめた。噛みしめた奥歯がきしんだ。いったい誰と結んだ約束なのだ。
「いくら相手方の将軍が、姫さまの兄うえであっても安心はできません。どうか、どうかわたしと逃げてください」
姫さまは、数歩あゆまれてわたしの前に立った。
「さーでぐ……さーでぐ」
初めて名前を呼ばれて、わたしは目を見開いた。鉄格子を掴むわたしの手に、姫はそっと手を重ねた。冷たい指は、かすかにふるえていた。
「さーでぐ、たいせつ。はじめ、わたし、うた」
そう言って姫は強く頭をふった。
「歌うおつもりはなかったのですか」
こくん、と姫はうなずかれた。
「わたし、うた、うたわない。さーでぐ、いた。きれいな、こえ。でも、ツマラナイ」
姫さまが輿入れされたころ、わたしは仕事に飽いていた。声のために作り変えられた体を持て余していた。
「わたしは姫さまの歌声に出会うまで、ただ声を出していただけです。あなたさまの歌はわたしの魂に火を灯しました」
あなたのように、なりたいと。あなたの歌声に近づけたならと。この気持ちは切望というものだと知った。
姫さまは音曲の神に愛された、特別なお方なのだと分かった。わたしなど足元にも及ぶまい。けれど、あなた様のそばにいるときには、天上の美しさの片鱗を感じることができたのだ。
「……さーでぐ、うた、すき?」
かすかに首をかたむけて、姫はわたしに訊ねた。夜が明けたなら、ご自身がどうなるのかも知れず、運命に身を委ねるしかないというのに、姫はたしかに微笑まれていた。
いつしかわたしの頬を涙が伝っていた。喉が詰まったように、わたしは声が出なかった。無理に話そうとすれば、膝からくずおれてしまいそうだ。
「さーでぐ……」
涙にぬれるわたしの目を、細い月のような瞳が見つめた。姫の唇がわずかに動いている。ゆっくりと、ゆっくりと。声はなかった。けれど、わたしには確かに聞こえたのだ。姫の歌声が。
いつしかわたしたちは、あの懐かしい庭にいた。
小鳥が歌っているのでしょう、という侍女の言葉。誰はばかることなく、歌をうたう姫とわたしがいる。
声に出さずとも、姫の歌は一言一句もらさず、その抑揚まですべて覚えている。いつしかわたしも、姫の唇の動きに合わせて歌っていた。無音の中に、姫の世界があった。長く息を吐き、歌は終わった。
「姫さま、姫さま」
「うた、ある、さーでぐ、に」
初めてふれた姫の指は、あたたかくなっていた。わたしの涙は止まっていた。姫の歌は、わたしの中にあるのだ。
「これ」
姫は胸元に挟んでいた書状を、わたしに差し出した。さらにベールを外すと簪を抜取った。それは、姫がいつも身に着けていた、あの薔薇をかたどった地味な簪だった。
「それ、もって」
手渡されたものを見つめるわたしの肩にゾランが手を置いた。
「おい、それはきっと、おまえのための嘆願書だ。そうなんだろう」
ゾランが話しかけると、姫はうなずいた。
不意に手元が明るいことに気づいた。いつ の間にか、夜明けが近づいていたのだ。鳥たちが囀り始めている。
「行くぞ、それが姫の答えだ」
ふわりと体が宙に浮いたかと思うと、ゾランはわたしを肩に担いで走り出した。
「そんな、姫さま!」
思わず手を伸ばしても、届くはずがない。
「おろせ、おろせゾラン!」
姫は一気に遠ざかっていく。姫の影が手をふっていた。
花茶がバザールから消えてからも、入手できたのは東と通じていたからだろう。それを姫さまはご存知だったのだろうか。
侍女のすべきことは、こちらの動きを知らせることだったらしい。
では姫さまは? 姫さまの、すべきこととは、一体何なのだ。
わたしは牢屋の湿った床で膝を抱えた。同じく牢にいる者たちは落ち着きを失っていた。暗闇の中で、同じ房にいる男たちが、ざわざわと動く気配がする。それは他の房も同じようだ。房に面した通路には、見張りの気配は感じられない。もしや、見張りの兵士たちも逃げ出したのか。
「もうすぐ東の兵士たちが乗りこんでくるのか」
「おれたちはどうなるんだ」
「盾にされるらしいぞ」
牢にいるのは、人を傷つけたりした者たちではなく、王は間違っていると声を上げたり、物を盗んだりといった者たちらしい。歳や見かけも、ばらばらだ。少なくとも盾となって役立てるほど、頑健そうには見えない。四角い牢獄の奥からは、嗚咽がもれ聞こえる。
騒ぎを収める者がいないまま、不安をあおる言葉が続く。
「おれたちが殺されるあいだに、王宮の連中は逃げる気だろう」
捨て鉢な口調が、石の壁に声が響く。逃げる? どこへ?
「逃げられると思うなら、自力で逃げてみろよ」
聞き覚えのある応えに、顔を上げた。灯りなどないはずの通路に、かすかな光があった。
「よう」
房に開けられたわずかなのぞき穴から、わたしを見下ろすゾランがいた。
「生きていたのか!」
「死ぬようなヘマをするか、おれが」
ごとん、と音がして不意に目の前の扉が開いた。ゾランがかんぬきを外したのだ。突然の出来事に、居合わせた者たちが口をつぐんだ。
「迎えに来た。前金のぶんの仕事だ」
捧げ持つランプの灯りの中、皮の鎧を身につけたゾランは、鬼神のような陰影をまとい、わたしに手を伸べた。
「おまえだけ逃げるのか、おれも連れて行け」
一人がゾランに言い寄ると、我も我もと戸口へと人々が殺到する。ゾランはすばやくわたしを胸の中に抱きこみ、背後へと回した。
「おれは、こいつに雇われている。こいつのことしか面倒を見ない。それに、おれたちがこれから向かうのは、王宮だ。どさくさに紛れて、見張りが手薄になっているとはいえ、王宮は違う。いまだ戦を諦めない王に従う兵士がいる。そんななかへ、おまえらを連れていけない」
ランプの灯りを、詰め寄る男にぐいっと近づけると、皆は押し黙った。わざわざ火中の栗を拾いに行くというゾランの言葉に。
「その代わり、逃げ道を教えてやる」
ざわりと、どよめきが上がった。
「カナートの流れに逆らって上っていけ。ここから出られるだろう」
ゾランが話し終わると、我れ先にと房のものたちは足早に出て行った。ついでだ、とゾランは残りの房から人々を開放し、同じように話して聞かせた。
「これくらいすれば、いまだ忠実なる王宮の兵士たちも、右往左往するだろうさ」
ゾランは全員が出て行ったのを確かめてから、わたしに向き直った。
「行くか」
わたしはうなずいた。王宮へ、いまこそ姫のもとへ。
「牢屋の見張りの連中のように、おれの言葉を鵜呑みにしてくれりゃ、いいが」
「逃げ道を教えたのか」
広間から回収してくれたウードを、わたしに差し出してゾランが片頬で笑った。見張りたちに、カナートのことを教えたらしい。
「でも、みんながカナートから逃げたら、大変なさわぎで姫さまをお連れするなんて……」
「カナートへ行った連中には囮になってもらう」
「え?」
「……常に先手を打っておくものさ。道はひとつじゃない」
ゾランはわたしと手を繋ぐと、足早に走り出した。
暗闇に乗じて、王宮の廊下を進む。途中、カナートへと続く中庭の横を通った。扉は開け放たれていた。石の壁に水をかき乱す音が反響していた。
すでにカナートの地上への出口には、東の兵たちが手ぐすね引いて待っているのではないか。
ゾランは別の逃げ道があると口にしていたが、ほんとうだろうか。
「王の人望の厚さたるや、まったくな」
廊下や廻廊、姫の部屋の前にすら、衛兵はいなかった。いや違った。扉の前にうずくまる者がいた。
「ここで待っていろ」
ゾランはわたしから手を離し、ひとり衛士のもとへとゆっくりとした足取りで近づいた。夜目にも衛士がゾランに気づいて立ち上がるのが見えた。
声をひそめて二人は会話しだした。わずかに聞き取れる言葉から、衛士は扉の前から動く様子がないことが伺われた。
何度も首を横に振る衛士に、あきらめたのかゾランが戻って来た。
「部屋の鍵は、王が自ら持っているそうだ。そして、あいつは度胸があるようには見えないが」
と、顎で入り口の扉を示し、ゾランはため息をついた。
「逃げる気など毛頭ない、だと。それは姫も同じだそうだ」
「そんな、姫があの衛士に声をかけたというのか」
ゾランは顔にかかる髪をかきあげ、呆れたように天井を見上げた。
「必要だったら、話くらいするだろうさ。……必要だから、声をかけたんだろう。きっとおまえが来ると信じていたことの裏返しだ」
わたしは言葉に詰まった。たしかに、そうだ。姫はわたしの気持ちを疑ったりはしない。
「以前に侍女と二人で来た中庭を覚えているか。行くぞ。もしかしたら、姫と会えるかも知れん」
姫の居室の反対側へと廻廊を小走りに行く。時々、物が割れる音や悲鳴のような甲高い声が聞こえる。
「火の手があがっていないだけ、まだましだな。自棄(やけ)になって、家族を殺して火をつける奴がいたりするから」
まるで実際に見たことがあるように、ゾランは話した。いや、見たことがあるのかも知れない。ゾランの故国はどこなのだろう、そこは今もあるのだろうか。
「入るぞ」
ゾランは扉を押し開いて、わたしを中へと導いた。先日と同じように二つの部屋を通り越し、鉄格子のところまで行った。果たして姫は来てくださるだろうか。月明かりが照らす広い庭の向こう側に、白い庇がぼんやりと見える。
「さがれ」
ゾランはまた鳥の声真似をした。鳴き声は四角い庭に反響し、庇の下で何かが動いた。思わずゾランを押しのけて、鉄格子につかまる。
「姫さま!」
言ったとたん、ゾランがわたしの口を押えた。
「声がでかい」
人影が少しずつ近づく。わたしは何度も首肯してゾランから解放された。
「姫さま……」
宴で見た時のように、ベールを被った姫さまが鉄格子の向こうに立っていた。
「逃げましょう、今なら混乱に乗じて逃げられます」
胸の前で指を組み、姫はうつむいた。もう侍女はいない。王宮にたった一人になってしまった姫を、わたしが置いて行けるはずがない。
「わたしは姫さまに歌ってほしいのです。思うままに歌ってほしい。お願いです」
わたしの懇願に、姫はかすかに首を左右にふった。そして面(おもて)を上げて真っすぐにわたしを見た。
「やくめ、あります。わたしに」
「役目なんて、あなた様の命より重いものなんてない」
「たいせつ、やくそく」
迷いのない、はっきりした声だった。わたしは鉄格子を握りしめた。噛みしめた奥歯がきしんだ。いったい誰と結んだ約束なのだ。
「いくら相手方の将軍が、姫さまの兄うえであっても安心はできません。どうか、どうかわたしと逃げてください」
姫さまは、数歩あゆまれてわたしの前に立った。
「さーでぐ……さーでぐ」
初めて名前を呼ばれて、わたしは目を見開いた。鉄格子を掴むわたしの手に、姫はそっと手を重ねた。冷たい指は、かすかにふるえていた。
「さーでぐ、たいせつ。はじめ、わたし、うた」
そう言って姫は強く頭をふった。
「歌うおつもりはなかったのですか」
こくん、と姫はうなずかれた。
「わたし、うた、うたわない。さーでぐ、いた。きれいな、こえ。でも、ツマラナイ」
姫さまが輿入れされたころ、わたしは仕事に飽いていた。声のために作り変えられた体を持て余していた。
「わたしは姫さまの歌声に出会うまで、ただ声を出していただけです。あなたさまの歌はわたしの魂に火を灯しました」
あなたのように、なりたいと。あなたの歌声に近づけたならと。この気持ちは切望というものだと知った。
姫さまは音曲の神に愛された、特別なお方なのだと分かった。わたしなど足元にも及ぶまい。けれど、あなた様のそばにいるときには、天上の美しさの片鱗を感じることができたのだ。
「……さーでぐ、うた、すき?」
かすかに首をかたむけて、姫はわたしに訊ねた。夜が明けたなら、ご自身がどうなるのかも知れず、運命に身を委ねるしかないというのに、姫はたしかに微笑まれていた。
いつしかわたしの頬を涙が伝っていた。喉が詰まったように、わたしは声が出なかった。無理に話そうとすれば、膝からくずおれてしまいそうだ。
「さーでぐ……」
涙にぬれるわたしの目を、細い月のような瞳が見つめた。姫の唇がわずかに動いている。ゆっくりと、ゆっくりと。声はなかった。けれど、わたしには確かに聞こえたのだ。姫の歌声が。
いつしかわたしたちは、あの懐かしい庭にいた。
小鳥が歌っているのでしょう、という侍女の言葉。誰はばかることなく、歌をうたう姫とわたしがいる。
声に出さずとも、姫の歌は一言一句もらさず、その抑揚まですべて覚えている。いつしかわたしも、姫の唇の動きに合わせて歌っていた。無音の中に、姫の世界があった。長く息を吐き、歌は終わった。
「姫さま、姫さま」
「うた、ある、さーでぐ、に」
初めてふれた姫の指は、あたたかくなっていた。わたしの涙は止まっていた。姫の歌は、わたしの中にあるのだ。
「これ」
姫は胸元に挟んでいた書状を、わたしに差し出した。さらにベールを外すと簪を抜取った。それは、姫がいつも身に着けていた、あの薔薇をかたどった地味な簪だった。
「それ、もって」
手渡されたものを見つめるわたしの肩にゾランが手を置いた。
「おい、それはきっと、おまえのための嘆願書だ。そうなんだろう」
ゾランが話しかけると、姫はうなずいた。
不意に手元が明るいことに気づいた。いつ の間にか、夜明けが近づいていたのだ。鳥たちが囀り始めている。
「行くぞ、それが姫の答えだ」
ふわりと体が宙に浮いたかと思うと、ゾランはわたしを肩に担いで走り出した。
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