花の簪

ビター

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薔薇姫 1

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 戦が始まってから、すでに百日を数えていた。
 今夜は城塞の上に灯りがともった。それは東の軍がオアシスを囲み、夜が明けたなら攻撃を開始するとの予告だ。
逃げ遅れた民の嘆きの声が王宮の中にまで聞こえてくる。いや、王宮に取り残された者たちもまた、こらえ切れずに泣いているのだ。
 すでに東国直轄のオアシスを奪い返され、周囲の同盟が次々と降伏していくなか、王の娘婿の治めるすぐ東隣のオアシスまで陥落してしまった。生き残りの兵を引き連れて、王が戻って来たのは十日前だ。
「まだ、打つ手は残っている」
 始めはそう言い放っていた王も、ゆらぐ炎に照らされた今の顔は苦渋に満ちていた。王宮に戻ってからも、武装をとかずにいる王はまだ戦うつもりでいるようだ。
 王の右隣に座る一の妃は口を閉ざし、膝のうえに孫姫さまを抱いている。
子どもを失った西の姫は、寝所に伏せているところを連れてこられたようだ。ゆったりとした夜着が、動くたびに胸元が見えそうになるのにも気を遣わず、お付きのものがそのたび直している。何をされても瞳はうつろで、口は半開きのまま時おり亡くなった王女の名を小さく呼ぶ。
 一昨日、東の軍に和平の場についてくれるようにと伝えに行った使者は、首だけになって戻って来た。あまりに虫の良すぎる申し出だ。東が受け入れるはずがない。
 これが大国に弓を引いた結末だ。
 東西の要衝として領土と利益を肥やした王の思いあがった行動を、大国である東が許すはずがなかった。
 いつもは華やかな宴が催される広間には、王族を始めとして主だったものたちが集まっていた。暇(いとま)をもらい損ね、王宮に取り残されたものたちも、その様子を柱の陰や扉の向こうで聞き耳を立てている。
 残り少ない食材をかき集めて供された酒や料理はわずかだった。草花の模様が織り込まれた上質な絨毯のうえに並べられた料理は、誰一人として手を付けることもなく冷めていく。
 風もそよがず、わずかなランプを灯された室内は、香辛料の香りと人いきれでむせ返りそうだ。
 ひたいに浮いたうすい汗をぬぐいわたしは場を見渡した。遠目には、姫さまの姿が認められた。しゃんと背筋を伸ばしている。薄紅色の更紗のベールを頭から被り、口元だけをのぞかせて、うつむきかげんに王の近くに侍女とともに座していた。
 わたしは胸に抱くウードの竿を握る指に力を入れる。
「こちらには、切り札がある」
 王はユェジー姫へと視線を走らせた。
「潘(ハン)将軍は、ユェジー姫の兄だ」
 姫の肩がぴくりと動いた。姫の、兄ぎみ。姫が自分よりも巧みに楽器を弾くといった兄ぎみが、将軍となって遣わされていたのか。
「まさか、血のつながる妹を見殺しにするまい」
 そう言って、気付けのように杯をあおった。姫はいつものように、唇を真一文字に結び表情が乏しいままでいる。まるで話の内容など分からぬとでもいうように。
 逃げ出すための準備はしておいた。ただ、逃げ帰って来た兵士の中に、ゾランを見つけられなかった。消息をたずねようにも、兵士たちは誰もが気が立っており、声をかけることさえためらわれた。
 逃げる機会はあるのか、姫とともにこのオアシスを抜け出すことはできるだろうか。今も同じ部屋にいても、千里も隔たりがあるようだ。姫はわたしを見ようともしない。
「大丈夫だ。しかし、だ。女どもにはがっかりさせられた」
 王は声を張り上げたが、一の妃は王を一顧だにせず、声に驚いてぐずり始めた孫姫さまを優しくあやした。
「王族から真っ先に逃げ出すなど、恥を知れ」
 廊下や部屋の四隅から、ざわざわとささやきあう声がした。真偽のほどが不明だった噂が、真実だと知らされた者たちの動揺は隠せない。
 一の妃は眉間に皴を寄せたまま、静かに王から顔をそむけた。娘王女さまの婚家のあるオアシスはすでに東の手に落ちた。帰る住まいもなく、身重の王女は幼い王子を連れて、どこへ行ってしまわれたのか。
 げんに西の姫は逃げきれなかった。亡くなった小さな姫のように、どこかで東の兵士に命を奪われてしまったのではないか。確かめようのないことなのだが。一の妃の勇み足を王は咎めている。
「ああ、気分が悪いわ。楽師、楽師はいるか!」
 ぼうとしていたわたしは、隣にいた男に肩を押され腰を浮かせた。
「はい」
「よくぞ残っていた、サーデグ。ほかの楽師連中は出て行ったのか。薄情なものだな。何か歌え、賑やかで威勢のいい歌を」
 立ち上がったわたしは、向けられる多くの視線を痛いほど感じた。わたしは無理やり笑顔をつくり、ウードをかき鳴らした。高い天井へ音は響き、わたしは勇ましい勲(いさおし)を歌おうとした。顎をわずかにあげたとき、ユェジー姫さまと視線が絡み合ったように感じた。
 とっさに爪(リーシャ)がすべった。ぶざまな濁った音に、曲の拍子がずれた。
 わたしは何を歌おうとしているのか。王が所望した勲を歌うべきだ。しかし、立ち上がって改めて目にした妃や姫たちの悲痛な表情を前にして、わたしの爪が紡いだ曲は、勲ではなかった。
 柔らかく、ゆったりとした旋律。小川のように細く清らかな流れが生まれた。
 もう二度と帰ることのない故郷、二度と会うことのない愛しい人。
 わたしは歌わずにはいられなかった。
 姫に教わった歌を。
 わたしの喉から、滑らかな歌声があふれた。今までにないほどの伸びやかさ、細やかさだった。自分でも信じられない。ごく自然に歌声を操ることができた。
 姫さまに聞いて欲しい。思い出してほしい。
 何度も繰り返した稽古の日々を。あの小さな箱庭で過ごした日々を。あなた様が生き生きとウードを弾き、飽くことなく歌った時を。
 わたしは忘れたことがない。忘れることなどできない。
 万感の思いを込めて歌い上げると、宴の場に波紋が生まれたように感じた。音のふるえは後奏と響きあい、静かに消えていった。
 無我夢中で歌い終わるとわたしは片膝を折って頭を下げた。胸に手をあて、荒い呼吸を押さえようとしていると、すすり泣く声が四方から聞こえてきた。
 息を整えて顔をあげると、一の妃を始め、女たちがみな声をひそめて涙を流していた。いや、女ばかりではなかった。男たちも、若い者も歳かさの者も。
 立ち上がってわたしは真っ先に姫さまを探した。みな顔を伏せる中、姫さまはベールをはずし、まっすぐにわたしを見ていた。わずかに笑みをたたえ、わたしを教え導いたときとおなじ表情で。
 わたしの頬が、からだが一気に熱くなった。こんなときなのに喜びで胸がはちきれそうになった。大きく口を開けて息を吸った。叫び出したい衝動を抑え込み、胸を押さえたとき、鋭い視線を感じた。
 王がわたしを睨みつけていた。王の横にはいつもの小柄な通詞がいて、耳元で何かをささやいている。
 あっ、とわたしは思わず口に手をやった。
 ゾランの忠告を今さら思い出したのだ。
「サーデグ! きさま、その歌を誰から教わった! この場でよもや東の歌を歌うとは、命が惜しくないのか」
 王の怒号にわたしはよろめいた。ついさっきまで歓喜に打ち震えていた胸は、いまは冷たく早鐘を打つ。
「しかも、道ならぬ恋の歌だというではないか。サーデグ、まさかユェジー姫と」
 わたしが動き出す前に、すぐそばにいた兵士たちにわたしは取り押さえられた。がんっと顎が床に激しくぶつかり、痛みが脳天まで突き抜けて目の裏に火花が散った。
「ち、ちがい……っ」
 弁明しようとしたが、舌が上手く回らない。その間にも、後ろ手にねじ上げられ、あまりの痛さにわたしは悲鳴を上げてウードを取り落とした。
「密通には死を!」
 王の声と共に、兵士が鞘から刀身を抜く音が耳に届いたとき、凛とした声が響いた。
「わたくしです、わたくしがサーデグ殿へ歌を教えました」
 人々の動きに合わせて、ざわっと風が起きた。無理に首を上げると、姫の侍女が立ち上がり、王と対峙していた。
「おまえか、奴隷あがりの風情で」
 侍女は背筋を伸ばし、臆することなく顔をあげている。そして王の前に進み出た。
「あなたさまは、もう覚えてもいらっしゃらないでしょうね。わたしが家族と暮らしていた小さなオアシスのことなんて」
 侍女は一度、わたしを見た。
「おまえには、東の血が流れていたな。こちらのことを東に漏らしてはいなかったろうな」
 くっとわずかに体を曲げると、侍女はさもおかしな話をきいたとばかりに笑い始めた。
「まさか、きさま……!」
 侍女は、くくくと笑って見せると、口元から手を離し王を見据えた。
「滅びればいい。オアシスもおまえの血筋の者もすべて」
 王を指さし、高らかに断じた。
「斬れ!」
 王の怒号と同時に、駆け寄った兵が剣を侍女にふりおろした。鈍い音がして、侍女が料理のなかに音をたてて倒れ、それきり動かなくなった。宴は一転、血なまぐさいものになった。
「ユェジー姫、おまえも加担していたのか」
 姫は顔色一つ変えずに、単座していた。その姿は王の怒りに油を注いだ。
「東が美しく可愛げのある姫をよこしたなら、こんなことにはならなかった! おまえは災いの種だ」
「そんな!」
 思わず声を上げたわたしの背中に兵の膝がのしかかり、言葉は続かなかった。
「そいつも、始末しろ」
 こんどこそ終わりだ。こんなところで死ぬのか。姫を助けることも出来ずに。悔しさに涙がにじんだ。
「やめなさい!」
 一の妃の声が響いた。
「明日、門の入り口に牢屋の者たちと一緒に並べるがいい。人の盾として少しでも時間が稼げるように」
 それまで無言だった一の妃の声に気おされたように、王が口をつぐんだ。
 引き起こされ、地下の牢へと連れて行かれる刹那に姫の姿を目で追った。わずかに肩を落とした姿が、ひどく小さく見えた。
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