夏花火

ビター

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「ほんとに、来るんでしょうね?」
 中西は、神経質そうに前髪に手をやりながらおれを睨んだ。いつ見ても派手な女……。いくら真夏だからって、胸まで見えてるそのスリップドレスはないだろ? パンツみえそうなその丈はないだろ。いかにも『ワタシって魅力的ー誰か押し倒して』ってカンジか? 丁寧に塗られた爪はきっとネイルサロンでやってもらったんだろうな。飯とかつくんのか、こいつ……なんてことを考えていたら、再び中西に睨まれた。目元が青くて、俺はビビる。
「タヌキを意識している?」
「なによ、急に」
「だって目の周り、タヌキみたいだぜ」
 真顔で指摘すると、隣に立っている水琴みことがたまらず吹き出した。ソバカスを散らした愛嬌のある顔を真っ赤にしてけらけらと笑った。
「ヒコくん、メイク、メイクだから」
 水琴は背伸びして、小声で教えてくれたが、俺にはタヌキにしか見えない。いつもそばにいる水琴は化粧っ気がほとんどないから、どうもそういうことに疎くなってしまう。
「とにかく、あと五分しても来なかったら、灰智かいちくんの言ったことなんか全然信用しないからね」
 びしり、と中西は細い眉を吊り上げて言った。慌てて腕時計を見ると、約束した時間はもう十分も過ぎていた。一限目の授業もないのに、こんな時間に雁首そろえて駅前のコンビニの店頭で待ち合わせしている大学生というのは、けっこう間抜けだよな。通勤通学の人波からはぐれて、吹きだまってるわけだし。
「タカくん、時間を守る人なのにね」
 心配げに水琴は、やつがやって来るはずの道を遠く眺めた。来るのはタクシーやバスばかりだ。
 中西は鼻先で笑い、きっちりと赤く塗られた唇を舌でひとなめすると挑戦的に豊かな胸をそらした。
「ほんとはいないんでしょ、カレシなんて。自分はゲイだとか、そうやって人のこと煙に巻くのはいいかげんに…」
 と、中西が俺に詰め寄ったとき、クロスバイクが派手なブレーキ音を立てて俺の背後で止まった。
「あ、タカくん!」
 水琴の声に振り返ると、雄高ゆたかがバイクに乗ったままで、そこにいた。体にぴたりとくる黒のTシャツにストレートのジーンズ。平凡な服装のくせに、スタイルがいいせいか人目を引かずにはいられない。寝起きのようにぼうっとしたままだが、俺と目が合うと片手を挙げて、にっこりとほほ笑んだ。
「遅かったじゃねーか!」
 雄高は俺の声など聞こえなかったように、前髪をかきあげる。形の良い額が見えた。右の耳たぶには、俺が贈ったピアスが光っている。
「あ、おはよう。水琴ちゃん」
「う、うん。タカくん、おはよう」
 水琴ちゃん、じゃねーだろっ! 俺は半分腹立たしく思いながら、でも雄高の笑顔を見るとなにも言えなくなった。中西を見ると、頬を赤らめて雄高の姿を凝視している。と、バッグをぎゅっと胸の前に抱え込むと、上目使いに俺を睨んだ。
「こんなの」
 はぁ? その声は小さくて聞き取りにくかったので俺は問い返した。
「こんなの、ズルイ!」
 涙目で捨てぜりふを吐くと、中西は振り返りもせずに走って行った。急な展開にぽかんとする俺に雄高は声をかけた。
「史彦? もういいのか。よくわかんないけど」
 雄高は眠そうにあくびをした。そこで俺は我にかえる。雄高は深夜のコンビニのバイトが引けたばかりだってことに。
「うん、ごめんな。バイトがえりなのに無理させて。今日は?」
「授業は午後からだから、一回部屋に戻って寝る……」
 ぼうとした表情に戻ると、雄高はペダルに足をかけた。その姿のよさに、見慣れているはずの俺でもちょっと目を奪われた。
「じゃあな」
 軽く手を振って行こうとする雄高に、俺は慌てて追いすがった。
「明日、明日の晩は俺んとこ、これるんだよな」
 雄高は自転車を止めると、俺の伸びた髪にさらりと指を絡めてから、頬をひと撫でした。ぞくり、とした感覚が腰の当たりから背骨を走った。
 雄高は目の奥で優しく笑うと、頷いた。それから思い出したように水琴の方を向く。
「そうだ、武市(たけち)からこの間本を借りたんだ。ありがとうって水琴ちゃんから伝えてくれるかな。じゃ、こんど四人で一緒にあそぼうね」
 うんうん、と水琴が声もなく頷くのを認めてから雄高は駅前の橋をわたって、川沿いの遊歩道を駆け抜けて行った。
「……なんかさ、タカくんこの頃よけいにカッコよくなったんじゃない?」
 ほう、とため息を吐きながら水琴が俺に話しかけた。うん、俺もそう思う。返事の代わりに深く頷く俺に、水琴はちょっとふくれた。
「もう、中西さんがズルイって言うのもわかるな」
「ああ、あれどんな意味があるんだ。なんでずるいんだよ」
 呆れ顔で水琴は俺を見た。だってほんとにわからないだからしょうがないじゃないか。
「二人して立つとね、もうはまっちゃってるのよ。タカくんあんなだし、ヒコくんだって自覚ないだろうけど、カッコいいんだもん」
「いや、おれは自覚あるね。ないのは雄高の方」
「あっきれた~、だ・か・ら、そんなカッコイイ男の子が二人でくっついちゃったら、女の子に回って来るイイオトコの数が減っちゃうじゃない」
 あ、そゆことか。色男は辛いね。で、あのカッコイイ雄高と『あんなこと』や『こんなこと』をしたり、してもらったりする仲なんだぜ。
 ふふふふふふ、と一人思い出し笑いする俺の背中を水琴が拳でこづいた。俺は笑うのを止めて、うんと伸びをした。
「これで中西もなにも言うまい。さ、面倒ごとも片がついたし、なんか食うか。水琴何がいい? 今日は二限目からだよな。軽く食べてこう」
「ま、いいけどね。あたしは中西さんに同情するなあ」
 くりくりとした髪を振りながら、水琴は子どものようにサンダルのつま先でアスファルトを蹴った。
 いくらでも嫉妬してくれ。そんなものちっとも怖くないさ。俺には雄高がいる。それだけで百万馬力さ。たとえ大学が違っていても、たとえ雄高のバイトが忙しすぎてなかなか会えなくてもね。
「しっかし、あいつの笑顔はリーサルウエポンだな。俺でも腰抜けるかと思った」
「うーん、最終兵器ってことね。わたしもクラクラした。さすが、バイト先でオバサンにグラタン三個注文させるだけの笑顔よね」
 水琴は物知りだ。面倒な説明も抜きで話せる友人だ。趣味の範囲も似通っているし、さっきみたいに雄高を紹介してもびびらなかった、ただひとりの女子。雄高も結構に気に入ってるらしいしな。
 男どもは、俺がゲイだと公言すると、もう近寄らなかった。なんかな、すぐに俺が押し倒すとでも思ってるのかね。すんげー思い上がりだよな。こっちにだって、好みってものがあるのにさ。そんなわけで、水琴は学部は違うけれど大学でできた唯一の友人といっていい存在だ。
「あたし、コーヒーとサンドイッチがいいな、そんでフルーツつきなの」
 お互い朝食はまだだ。大学のそばのいつもの喫茶店のモーニングということで話がまとまり、俺と水琴は雄高が去って行った方向とは逆の山手に向かって歩きだした。
                                       ◆
 M市で三度目の夏を迎える。もう俺たちは大学三年で、二人とも結局高校からエスカレーターで入れる付属の大学は選ばなかった。
 雄高はあのあと、にわかに自立しはじめた。自分で進路を決めて、やたら勉強に打ち込むようになった。で、学費の安い国立に合格。俺はやっぱり雄高と離れたくなかったから、同じM市にある公立になんとか滑り込んだ。
「ヒコくんと、タカくんってどうやって付き合い出したの?」
「どうって、幼なじみだったから。ごく自然にってやつかな」
 喫茶店の窓際の席で、各々ノートパソコンをのぞきながらの会話。俺たちが通う大学は、ノートパソコンの携行が義務づけられている。講義の予定や、単位の修得状況はもとより、メールやなにやらとにかく必需品で、日に何度もパソコンをひらくのだ。
「ふーん……」
 納得がいまひとついかないようで、水琴はディスプレイ越しに俺を見つめた。詳しく話すことじゃないだろ。俺たちの経緯は。辛気くさくって、誰にも話せやしない。考えてみれば、物騒な話だし。
「でも、いいね。高校の時からなんでしょ? 今だにラブラブだもんね」
「なんだよ、武市とうまくいってないのか」
「そんなことないよ。今日だって、ほぉらメールだってちゃんと来てるもん」
 と、水琴はほんのちらりとだけ、メールを見せると、照れ隠しに笑った。こういうとこはすごくかわいいと思う。正直。
「でもさ、武市の方はもう今年で卒業じゃない。病院実習やら、国家試験の勉強やらであんまり会えない」
 水琴は電源を切ると、パソコンをカバンに収めた。そのままちょっと疲れたように、椅子の背にもたれた。休講がないのを確かめると、俺もパソコンを片した。
「まだメールが来る分だけ良いよ。雄高はさ、パソコンすら持ってないから。あいつもバイトだ、勉強だであんまり時間なくてさ」
 俺たちは二人してため息をついた。お互い忙しい恋人を持つと辛いね。それに、俺には気がかりなことがある。最近の雄高に。それは……。
「明日は会えるんでしょ、タカくんに」
 はっと俺は思考を中断して、意識を水琴に戻した。そうだ、明日はゆっくりと会える。
「髪を切ってもらう予定だから」
 去年あたりから、俺の髪を切ってくれてる。高校の時は、たんに伸ばしているだけだったが、今は雄高がちょっと気の利いたように整えてくれている。あいつはおしゃれだからな。
「タカくんってば、なんでも出来ちゃうんだね」
「うん。でも子どもはできないよ」
 びしっとお絞りが俺の顔にあたった。もう、と口のなかでぼやく水琴はキュートだ。
 水琴はこういう話題が嫌いだ。嫌がるのを分かっていながらやめられないのは、一種のセクハラだな。自分でもわかっちゃいるけど、水琴の反応を見るのが楽しくて、ついついやってしまうんだ。
「就職活動とかしてる?」
 話題を切り替えて、水琴がモーニングセットのホットサンドイッチに手を伸ばした。俺も、コーヒーにを口に運びながら、考えてはいた。
 三年だから、将来のことも具体的にしなきゃならないわけで。
「お家を継ぐとか?」
「そりゃないね。実家は妹の誰かが継ぐだろ」
 実家は不動産やら建設業やらをしている。妹たちは後妻の子だから、俺が継ぐより三人の妹の誰かに来るはずの、出来のよい婿がやった方が倒産しないってもんだ。
「水琴こそどう考えてるの? 教職とってるから、やっぱ学校の先生を狙う?」
「一応はね。実習にも行くし。でも、先生なんて柄じゃないもん。それは自分でも分かるから。だからって一般企業も難しいし……」
「小説は? 投稿だってしてるんだから、プロになればいいよ」
「そっちの方がよっぽど難しい。あたしの作品なんか、クラブ活動のレベルだもん。好きなだけじゃ、プロになんてなれるわけないよ」
 水琴は時間を見つけては、少しずつ作品を仕上げて雑誌に投稿している。ただのゲーム好きでその領域を出ない俺からすれば、創作活動を続けることは、とてつもないことのように思えて、水琴を尊敬の眼差しで見ているんだけど。
「結婚しちゃえば? 武市と。それなら永久就職だしさ」
 きっ、と水琴は俺を睨むと再びお絞りが飛んだ。
「なにそれ、女はおとなしく家にいろっての? それで満足してろっていうの? あたしはイヤ。そんなの、守られるだけの存在にはなりたくない!」
「わかってる、わかってるって。そんなに怒るなよ」
 顔を上気させてつかみかかりそうな勢いの水琴を俺は制した。水琴はフェミニストだから、こんな意見には過敏なのだ。
「女なんて、つまんない…」
 水琴はほお杖をつくと、ポツリとつぶやいた。俺は水琴を見ていると、ときおり痛々しくて抱き締めてやりたくなることがある。しないけど。
 百五十もない小さい背丈で、華奢な体の内にとんでもないエネルギーを持っていて、でもそれをうまく制御できなくて。成績だって悪くない。俺よりずっといい。なにより、授業をサボる女子にだって、ノートを貸してあげるようなお人よしだし。
 こんな彼女がいる武市は絶対にシアワセモノだと思うよ。
 詫びの気持ちも込めて、セットに付いてきたグレープフルーツの皿を水琴の方にずいっと押した。
「男でもままならないことだってあるよ。ようは生き方だろ。これでも食べて元気になってくれ」
「もう、ヒコくんが苦手なだけじゃない、これ。好物でもあてがっておけばいいって考えてない? しかもこんなんで丸め込まれる自分がイヤ」
 小さく舌打ちしながら、でもちょっと明るい表情に水琴は戻った。
「武市は理学療法士になるんだろ?」
「うん。国公立病院の公務員狙い。医療系ってさ、手に職持ってるから強いよね。タカくんはどうするのかな。院まで進むの?」
「多分ね。もう教授の資料の収集とか整理なんか手伝ったりしてるし」
 と、言ってちょっとむかつく。その教授が曲者で。
「助手みたいなものね。すごいね、まだ三年なのに。成績もよかったよねタカくんは」
「ほとんど優。良が二つ三つあったけど。あんだけバイトしていて、なんであーゆー成績がとれるんだか凄すぎて、もうわかんねー」
 己の成績を思い浮かべると、恥じ入るばかりだ。ろくにバイトもせずに親のすねをかじっているのに。雄高はもう俺に釣り合わないほど立派になってしまったようで、ひとり取り残された気分になる。
「高校の時から、勉強ができたんだ」
「そうでもないよ。俺とおんなじくらいだった。一緒に放課後から夜まで本屋でバイトしたりしてさ」
 あのころのことを思い出すと、懐かしくてちょっと切なくなる。あのバイトは、俺は高二の冬で辞めた。雄高のほうは勉強と両立させて、受験ぎりぎりまで続けていた。
「あの笑顔でレジとかしてたの? うわー、えっちな本なんか持ってけないじゃない」
「固定ファンはついてた、な」
 いろんなことが思い返されて腸がにえくりかえる。それ以上思い出すのを止める。だからこそ、最近不安なんだ。
「雄高がさ、携帯を持ったんだ」
 暗い声になってしまった。きょとん、と水琴はホットサンドを口にしたまま俺を見た。が、乱暴に二三度あごを動かし、飲み下すと意気込んで俺に尋ねた。
「な、なんで、タカくんって持たない主義だったじゃない。いくらヒコくんがすすめても」
 そう、金銭的にもそんな余裕ないし、そうまで縛り合うのは、お互いを信用していないってことじゃないかと雄高は言っていた。おれは渋々同意していたけど。
 それなのに、最近あいつは携帯を持っている! 
「教授……相馬教授っていうんだけど、その人がお古をくれたって言うんだ。ほら、助手をしているからいつでも連絡とかできるように」
 と、言いつつもなんか腹が立つ。なんというか、腹の中心で蛇が火を吐きながらとぐろを巻くっていうイメージ。
「えー、でも普通そこまでしないよぉ」
「うん、俺もそう思う」
 だからこそ不安なんだ。雄高は、あいつは……。
「年上に弱いんだから、まったく!」
 虚を突かれたように、水琴は一瞬放心した。きっと頭のなかでは巨大なクエスチョンマークが跳びはねてるんだろう。
「タカくん、おぢさんとか好きなの?」
「……ファザコンなんだよ」
 詳しい説明は省いて、俺はぬるくなったコーヒーを飲み干した。なんか意外、と水琴はつぶやくとなんとなく二人押し黙って朝食をとった。
 そう、雄高は年上に弱い。ファーストコンタクトが安騎野だったこともあるのか、母子家庭で育ったせいか、やつはどこかで、父親なるものを求めているんじゃないか、と俺は踏んでいる。
 大人の包容力のある男に言い寄られて、雄高はそっちにいっちゃうんじゃないかと思うのは、あながち考え過ぎじゃないさ。俺なんか、焼きもちばっか焼いてて、まるでコドモだし。包容力なんてものには、縁がないよ。
 だからよからぬ想像が頭の中を占めて、ひとり悶々とする夜がある。……薄暗い大学の教授の部屋で、あんなことやこんなことをされていたら、ああ、されていたら、俺はどうすればいいんだ!? 雄高は基本的に、あまり拒めない奴だと思うんだ。なまじ優しいから。それに経験あるから、どっちでも大丈夫だし。余計に不安。
「信用してない?」
 水琴がテーブルに顔をくっつけてまで、俺の目をのぞき込んだ。薄茶色のくりんとした目だ。まるで、子犬みたいな。
「してるさ。一緒にいろいろなことをくぐり抜けて来たパートナーだから」
「うん。タカくんはなんたってヒコくんにぞっこんだよ。今朝の二人のようすだってはたから見れば、もうきゃーってカンジだったし、ゼッタイ大丈夫! さてと、そろそろ学校にいかなきゃ遅刻するね」
 水琴は俺の肩をぽんと叩くと、元気良く立ち上がった。そうだよな、大丈夫だよな。俺も水琴のあとを追って店を出た。
 夏の強い日差しが、道路に濃い影を作っている。少し先を行く水琴が俺が来るのをまっている。木綿のスカートと、肩までのくるりとした髪が風に涼しげにそよいだ。
「あのさ、『いろんなこと』よかったら後で聞かせてね」
 水琴が笑いながらそう言った。カバンをかけながら俺は答える。
「小説のネタにされたんじゃ、たまんないね。こないだの入選したら、なんかおごれよ」
「出世払いってことで、聞かせてよぉ」
「な・い・しょ」
 水琴は少し不満げなポーズを取ったが、すぐに機嫌をなおして俺と並んで学校までのみちのりをあるきだした。川沿いの街路樹のプラタナスが鈴によく似た実を風にゆらした。
 いつか、あのときのことを水琴か、だれかに話せることがあればいいな、とちらちら揺れる葉の先を見ながら俺は思った。四年経った今でも、無理だけど。
「あ、ヒコくん、急がないとホント遅れちゃう! ダーッシュ!!」
 水琴は俺の背中を押した。見かけに寄らず、体育会系の水琴は既に数メートル先まで駆け出していた。
 道路の逃げ水と競うように、俺たちは学校へと急いだ。
                                       ◆
 雄高が来るまでに、部屋を片づけようと思っていた。八畳のワンルームは、雑誌やゲーム機とかゲームソフトが散乱して、とてもじゃないが二人座る余裕なんてないから。そうしようと思っていたのに、気づけば雄高は呼び鈴を押すと愛車のクロスバイクを担いでさっさと部屋に上がり込んでいた。
 俺はと言えば、ゲームのコントローラーをしっかりと握っていたのだ。
「ちょっとくらい片付けろよ」
 と、雄高は呆れ顔で買って来た弁当を置くと、床に散らばるそれらの物を手際よく整理し始めた。俺がやれば何時間もかかりそうな部屋を、ものの十分ほどでなんとか見られる程度の状態にしてしまう。こいつって、天才かもしれない。
「やっぱり、雄高と一緒に住みたいな。大学に入るときにそうすればよかった」
「やだ。そしたら俺、お前の面倒で日が暮れるから」
 冷たいー雄高は時々冷たい。ちえっといいながら、俺は冷蔵庫からビールを持って来ると遅めの夕食をとる雄高のそばに座った。
「今日は早かったんだな。なんのバイト?」
「家庭教師。教授の紹介でさ」
 雄高くらい優秀なら、それは適職だ。けれど、教授という言葉に俺は神経を尖らせた。
「教授って、相馬教授のことだよな。中学生?」
「うん。中二の……」
 そこで雄高は一旦区切った。なんとなく気まずそうに箸を止めた雄高を追い詰めるように俺は問いただした。
「どっち?」
 どことなく、言葉がとげとげしくなってしまう。
「……女の子」
 うーん。この場合、どっちなら俺は安心するんだろう? 雄高は年下趣味はないみたいだから、男の子なら安心のような気がする。けど、不安。だからって女の子だとなあ。
「気を持たせるようなことはするなよ」
 一応クギを刺しておく。雄高のルックスに、くらくらこない女子中学生のほうが絶対に珍しいと思うから。雄高はほお張ったフライをかみ砕きながら俺をじっと見た。
「その言葉、そのままお前に返すよ」
 買って来た缶のお茶で喉を潤し、雄高は言った。
「なんだよ、それ。俺はそんなことしてないぜ。昨日だってちゃんと中西のことをフったわけだし」
 そう俺が言ってからも数瞬、雄高は俺の目を探るように見つめた。
「じゃあ、いい」
 ふっと逸らすと、また弁当に食らいついた。なんだよ、その言い方。ちょっと腹立たしく思いながら、俺はビールをあおった。
 せっかく、ふたりっきりで過ごしているのに。なんで、喧嘩腰になっちゃうんだよ。パソコンの週間スケジュールソフトに、マークまでつけて待ってたのに。黙々と食事をする雄高の横で、俺はそこはかとなく悲しくなっていた。
 会話も無く、雄高は食事を終えるとゴミを片づけた。そしてぽんぽんと俺の頭を叩く。
「ほら、髪を切ってやるよ。どんなふうにする?」
「……お客さん、とか言えよ」
 拗ねて言うと、雄高は吹き出した。一気に和んで、俺も一緒に笑った。それからフローリングに新聞紙を何枚か広げ、その真ん中にパソコンディスクの椅子を置き、にわか仕立ての理髪店を雄高と一緒に作った。
「では、お客さん、どういたしましょう。でもさ、おまえ金払わないじゃないか」
「払ってやるよ。体で」
 首にタオルを巻いて座ると、雄高は何いってんだかとぼやきながら、持参した霧吹きで俺の前髪を湿らし、手際よくピンでまとめた。
「全体的に整えるだけでいいかな。そろそろ暑さも本番だから、も少し切ろうな」
「うん」
 雄高は以前美容院でアルバイトをしていたときに、お古のハサミを一丁もらった。それを使って俺や自分の髪を切っている。
「洗髪だけの仕事だったのに、よく覚えたな」
「見よう見まね。ま、ちょっと教わったけどね」
 しゃきしゃきと、小気味よい音を立てながら雄高は俺の髪を切る。雄高は大学に入学して以来、どれほどの職種をこなしたんだろう。俺でもそれ全部は把握していない。
 俺は、父親に甘えることにしたけど、雄高は自立することを選んだ。学費から生活費まで、奨学金やバイト代で賄っている。
「雄高って手先が器用だからな。なんでもできるって水琴も感心してたぞ」
「手や体を使う仕事をしている人を俺は尊敬するよ。なんか人の役に立ってるってダイレクトに感じられるだろう。俺が就きたい仕事は、あんまり人様の役に立つって内容じゃないからさ」
 あれだけ立派にやってる雄高の、コンプレックスってやつなのかな。俺は髪を切ってもらいながら、いまだに決めかねている自分の職業についてまた考え込んでしまった。
 散髪は二十分程度で終了した。散らばった髪の毛を掃除すると、雄高にビールを渡した。
「シャワー浴びてこいよ」
 うん、と頷きながら俺は頬を赤らめた。確かにそれはするって思ってるけど、積極的に雄高に言われると照れる。いまだに。
「あのな、史彦。髪の毛のくずが残ってるだろう。それを洗い落としたらブロウして全体のようすが見たいからなの」
 あ、そうなの。肩透かしをくらってなんかがっかりした。雄高ってやっぱり完璧主義者だよな。それが羨ましくもあり、またつまらなくもありってとこだな。
 俺はバスタオルを掴むと、おとなしくバスルームに向かった。
 たしかに汗で細かい髪の毛が首筋や胸のあたりにもくっついていた。シャワーでていねいに洗い流していたら、不意に扉が開いて、裸の雄高が入って来た。とたんに、汗と雄高の匂いが広がった。
「おれも浴びる」
 照れてなのか、ビールに酔ってなのか雄高は上気した顔で、俺の方を見ずにそう言った。
「おまえ、腹筋が八つに割れるんだな」
 雄高は適度な肉体労働の結果、全体的に筋肉がついて引き締まった体になった。クロスバイクを愛用しているせいもあって、二の腕からくっきりと白黒に分かれるほど日に焼けている。
「史彦、ビールばっか飲んでると太るぞ」
 ぎくり、として俺は自分の腹を見る。まだ大丈夫。しかし油断は禁物。
「親父さんみたいに」
「それを言うなよ」
 雄高は少し意地悪っぽく言った。親父は太った。なんか、いかにも成り金の不動産屋のオヤジに成り果ててしまった。将来ああならないと、誰が保証できよう。
 しかし、男ふたりユニットのバスルームは狭い。それぞれ体を洗おうとしても肘や足がぶつかってしょうがない。その状態に業を煮やしたのか雄高が俺にいった。
「史彦、洗ってやるからちょっとおとなしくしてろ!」
 そういうと、雄高は俺の体を洗い出した。ボディソープを細かく泡立て、ていねいに背中から洗い、正面を向かせられた。目が合うと、雄高は一瞬恥ずかしそうに瞳を逸らした。一緒に入るのは久しぶりだし、お互いどこか緊張ぎみなのだ。
 そのくせ、俺のモノは勝手に元気よくなりつつあった。あせっている俺に気づいたのか、雄高がそれに軽く、ほんの軽く手を触れた。
「わっ」 
 くすり、と雄高は笑うと空いた左手を俺の首に回し、耳たぶをかんだ。俺のものは雄高の手の中にすっぽりと包まれてしまった。首筋を唇がなんども往復する。
 雄高はそのまま唇を求めた。ソープがついた手がゆっくりと動かされるたび、俺は声をあげるのをこらえた。
「ゆ、雄高だめだよ……こんな……狭いとこじゃ…」
 構わず雄高はそのまま俺の首にきつく手を回した。合わせた雄高の肌を直に感じて俺の下半身は更に血が集まる。俺も雄高の腰に手を回して抱き寄せた。
 そのまま数秒間……様子が変なことに気づいた。手を回して、そのままなのだ。心持ち、雄高の腕が重くなる。腰を支える俺の腕に体重が預けられたかと思うと、膝から力が抜け雄高は浴室の床にへたりそうになった。ああっ、やばい! これは!
「寝るな、雄高! こんなとこで寝るなよ」
 前にもあった。車の免許を取ったばかりの頃、あまりの嬉しさに雄高を乗せてホテルに行こうとしたら途中でバイト疲れの雄高が寝ちゃって、って違う~俺もパニックになってる。自分と同じくらいとはいえ、こんなでかい体、ベッドまで運べやしない!
 肩を揺すると、うん、と生返事をしながら雄高がおもだげに瞼を開いた。
「昨夜はコンビニで、でもレポートがあったから寝てない……」
 言いたいことは分かる、なんとなく。だから、起きてくれ。そんな俺の願いが通じたのか、雄高はなんとか起きると、申し訳程度に体を拭きひとりでベッドにたどりついた。ベッドに倒れ込むと、そのまま気持ち良さそうに寝息を立てる雄高。
 それを見て、俺はほっとした。しかし、同時に脱力する。
 間抜けだ。間抜けすぎる。俺の格好。素っ裸でなにしてんだ? 今夜はやるんじゃなかったのか? 下を向くと、まだなんとか力をもっているそれが目に入った。
 自分ですりゃいいわけか? それはなんか、空しい。
 俺は雄高の頭の滴を拭いて、クーラーを切った。
 バスタオルを腰に巻いて、部屋の明かりを落とす。窓を開けると八月が近いとはいえ、それなりに涼しい風が入って来る。雄高はクーラーが苦手だからな。
 ビールをもうひと缶空けながら、俺は雄高が眠るベッドにもたれた。
 ちなみに、車の中で寝込まれたときには、意味もなくそのままドライブした。そのときも自分の間抜けさを、ひとり呪った。
 一緒に住んでもこんな感じなんだろうか。雄高とすれ違いが多くて、ろくに話も出来ずに結局俺は淋しいままなのかもしれない。
 安騎野から雄高を取り返してきたのに、なんでいまだに俺は淋しいままなんだろう。つき合い始めたばかりのころのような、嬉しくて体が幸福感ではちきれそうだった、あんな感情を味わうことは、もう二度とないんだろうか。
 雄高は優しい。浮気もしない。そりゃね、雄高はセックスとかあまり好きじゃないみたいだけど、だからってないがしろにされてるって気は全然しない。なのに。
 二人になれば、恋人同士になればきっと癒されると思っていたんだ。なんていうのかな、一人でいる孤独ってやつから解放されるって思ってた。
 夏は俺の気持ちを不安にさせる。あれからずっと。
 不安なんだ。もしかして、雄高はまだ安騎野のことを忘れられずにいるんじゃないか、って。怖くてそんなこと聞けやしないけど。
 雄高は心理学の勉強をしたいと思っている。将来的には学者になるのか、カウンセラーになるのか、そのへんはまだ決めていないらしいけど。そのために信じられないほど勉強している。それは、安騎野の影響のような気がしてしまう。だって、あの出来事の前にはそんなこと微塵にも伺えなかったんだから。
 そんなことを考えながら空き缶のふちをかんでいたら、後ろから髪を引かれた。振り返ると雄高が悪戯っぽく笑った。さっきよりもずっとはっきりした表情だ。
「ごめん、起こしちゃったか」
「ちょっと寝たら、すっきりしたよ。迷惑かけたな」
 雄高はタオルケットを片手で持ち上げて、俺を誘った。そんな、いいのかな。
「疲れてんじゃないのか」
「せっかくここに泊まるのに、いいのか?」
 いや、だめです。我慢できません。
「やらせてくれる?」
 雄高が頷くのを見てから、俺は隣にすべりこんだ。雄高は俺を両の腕で包み込んだ。風呂上がり、石鹸の匂いがする。俺はそのまま雄高の喉元から顎にかけて唇を這わせた。雄高の腕は、背中から腰のほうへとゆっくりと焦らすようにおりていく。合わせたお互いの体に挟まれ、中心のそこが再び徐々に熱くなる。
 唇を重ねて、舌を絡めると雄高は恍惚とした表情で俺を見返す。そんな雄高に俺は高ぶり、全身が泡立つ。
 すぐにでも押し入りたい気持ちをおさえて、雄高の体をうつ伏せにする。薄明かりの中で見る雄高の裸体は、腕が日に焼けていてまだ白いシャツを着ているようだ。肩口に唇を当てたまま、雄高のそれを手の中で上下させるとかすかに声をあげる。
  あいた手で、胸の突起をつまみながら耳の後ろに唇を寄せ、バスルームでの雄高を真似て耳朶をかむ。
「んッ」
 雄高の体が震える。浅い息を繰り返しながら、俺にされるがままになっている。雄高のそれは熱を帯び、指先で先端の尖りをこすると、ぬめる液体が指にからまる。
「あっ」
 湿った指を雄高のなかへもぐりこませ折り曲げると、びくん、と背中をそらせて雄高は声をあげた。わずかな抵抗と締めつけとを指に感じ、俺の動悸も一気に早まる。
「も、もう……史彦……っ」
「いれて欲しい?」
 首を捩って俺を見た雄高は、半分泣きながら頷いた。そうやって俺に懇願するさまは、普段の雄高しか知らない奴らからすれば信じられなだろう。優等生の雄高が今は快楽に没入して、乱れている。そんな姿にぞくりとしながら、俺は少し焦らす。
「じゃ、俺のも……」
 そう言うだけで、雄高は従順に俺を口に咥えた。舌を絡めながらゆっくりと、どっちが焦らしているのかわからなくなるような感じ。根元まで口に含み、生暖かいそれの中に入れられると、それだけでもう甘い痺れがわきおこる。雄高は上手なんだ。初めてのときは、そのせいであっと言う間にいかされた。今は堪える。
 雄高はいきり立つそれに甘く歯を立てる。そのたびに俺の体もわずかに震える。けれど雄高の入り口を指で責めるのも忘れない。
「いい、雄高、もう」
「ん……」
 雄高は最後まで気を抜かなかった。口の中で出してしまいたい衝動に駆られた。このままだと、だめだ、俺の方が先にいきそうだ。俺は雄高の内股に手をあて、腰を心持ち浮かせる。雄高の熱い指が俺のものを握ぎり、そこへ導く。
 体重をわずかにかけ食い込ませると、柔らかく充血したそこは難無く俺を受け入れる。
「あ、あッ」
 雄高の体がびくん、と跳ねる。今のはどっちの声だったんだろう。雄高の締めつけが頭の芯を痺れさせる。瞬間いきそうになるのを無理に堪えて、さらに深く挿入する。体からどっと汗が吹き出す。
「ゆ、雄高……いいッ」
 雄高は眉根を寄せ、熱い息を吐きながら俺の首にしがみついて唇を求める。
「動いて」
 言われるままに体を動かす。雄高の体は何度もベッドに沈み、そのたびに小さく声を上げる。雄高のそれは、俺の腹に押しつけられて反り返っている。その痛々しいまでの熱さと堅さを手の中にいれてしごく。
「うっ、んっ」
 今日はさせない。してほしい気持ちより、雄高をいかせたいという気持ちが強いから。雄高は俺の下で、肌をばら色に染めて俺を受け入れている。
 深く突き刺さったそれを意識するように、時折締めつけがきつくなる。
「んっ」
 快感のうねりに逆らうように雄高は涙ぐみながら歯をくいしばる。なんで、そんなに色っぽいんだよ。雄高はされる方がホントは上手なのしれない。こんな姿を俺は独り占めしている。そう思うだけで独占欲が満たされ、反対に誰にも渡したくないという独占欲もまた強まる。
 こんな雄高を知っているのは、俺だけだ。
「俺だけだよな」
 意味も分からないだろうが、雄高は頷く。
「誰にも……させないよ・な、俺にだけ……」
「ふみ……ひこ、史彦…」
 雄高のかすれた声が俺の名前を呼ぶ。
「もう、ダメだ……」
「いけよ、雄高」
 俺ももうだめ……。
「うっ!」
 俺が雄高の中で、雄高が俺の手の中で果てるのは一緒だった。雄高のシーツを強く握っ指から力が抜け、雄高は深い息を何度かついた。雄高の体に重なりながら、俺は充足感に包まれる。体をはなして口づける。
「雄高、もう一回……」
 体を半分抱き起こすようにして体位を変えようとしたが、重くて動かせない。と、いうか動いてくれない。突如、頭ががくりと後ろに落ちた。いつのまにか雄高は寝息をたてて熟睡していた。
 なっ、なんで? もしかして、もうだめってのは『眠くてもうだめ』って意味だったのか? ちょっと待てよ、一回きり? もう終わりなわけ? 
 まだまだいける体力をひとり持て余し、無理にしてやろうかとも思ったが、いくらなんでもそれはやめた。
 すっきりしたようすの雄高の寝顔に半分腹立ちながら、あきらめた。続きは明日の朝にでもすればいいさ。タオルケットを引き上げ、俺も雄高の隣に体を伸ばして眠ることにした。                   
                                       ◆
 かすかな水音で目が覚めた。一瞬雨が降っているのかと思った。隣に寝ているはずの雄高を探して、腕が無意識に動く。しかし、手ごたえは無かった。
「?」
 うそ……無理やり目を開けて起き上がると、バスルームから鼻歌まじりで頭を拭きながら出てきた雄高と目が合った。
 もう、起きてる。昨夜のつづき……は? 放心する俺の額に雄高は口づけた。
「もう八時すぎたぞ。今日は何限目からだ?」
 なんで、なんで、そうマイペースなんだ? むかつきながら雄高を睨むと雄高は、のほほんとした笑顔でベッドの端に座り、俺を抱き寄せた。
「昨夜はごめんな。睡魔に負けてさ。でも、とってもよかったよ」
 雄高はそう言ってから今度は唇にキス。そのままベッドに引きずり込もうと俺が姑息に考えたとき、無粋な電子音が鳴り響いた。
 雄高は慌てて俺をはなすと、自分のカバンを探っている。なに、雄高の携帯? こんな朝っぱらから? 雄高は慣れた手つきで操作すると、電話の主と話し始めた。
「あ、お早うございます」
 資料がどうのこうの、図書館にどうのこうの、学会の紀要がどうのこうの。なんとなく誰からの電話か察しがつく。
 俺は雄高の背後ににじり寄って、聞き耳を立てた。かすかに低い声が聞こえる。雄高はてきぱきと答え、携帯を切ると後ろに張りつく俺に気づいて少し慌てた。
「相馬教授から?」
 俺に気圧されるように雄高は頷いた。ふーん。
「俺、九時までに大学の研究室にいかなきゃならないんだ。教授の資料を集めに。史彦、シャツ貸してくれよ」
 勝手知ったる雄高は俺のクローゼットから、ハイネックの半袖を選び身支度を始めた。なんとなく面白くない。
 手持ち無沙汰にパソコンを立ち上げて、ネットに接続するとメールが届いていた。一見して妙なタイトルだった。
「なんだこれ」
 俺の声に雄高が振り返り、一緒にディスプレイを覗いた。
「武市からじゃん。『水琴には見せるな』?」
 雄高はそれを見て数秒黙ったが、ふーんと意味ありげにつぶやくと、冷蔵庫から持参してきたトマトジュースを取りそのまま玄関に向かった。
「じゃ、俺行くから」
「えっっ、そんな、もう?」
 混乱したまま、俺は雄高の後を追おうとした。
「どーでもいいから、裸でうろつくなよ。それから、今日はハイネックを着てけよ」
 指摘されて、慌てて床に落ちているトランクスをはく。やっぱり間抜けだ。
「なんで、ハイネック? 暑くてかなわないよ」
「……シャツでもいいけど、ボタンはきっちりと、はめとけよ」
 ますますわからん。しかし雄高はごく真面目な顔でそう促す。
「とにかく、今日お前が恥をかけば、それは……まあ俺の責任だけど、とにかく水琴ちゃんには絶対に見られるなよ」
 それだけ言うと、雄高はクロスバイクを担いで階段を駆け降りていった。
 謎な言葉を残して嵐のように雄高が去ってから、俺はもう一度タイトルを確かめてメールをオープンさせた。
『ヒコへ
 おりいって話があるので、今日の夕方6時に佐波屋で待っている。
 これは水琴には知らせないこと。
                     武市雅義』
 佐波屋は商店街にある書店だ。武市の専門学校と大学とのほぼ中間点にある。
 なんでこんなまわりくどいことをするんだろうな。俺の携帯の番号だって教えてあるのに。まあ、夕方ならあいてるけど。
 シャワーを浴びてから雄高に言われたとおりハイネックを着た。朝から暑いぞ、今日も。すきっ腹のまま大学まで行くと、エントランスで水琴が待っていた。
「おっはよー、ヒコくん。チョコバーたべる?」
 うっ、と思いながらもとりあえず好意だから受け取る。一限目が終わったばかりで、教務課や図書室に続くエントランスには、前期の試験日程が発表されたこともあってか学生で溢れていた。
「今日も暑いよな」
「そうだね。でも髪すっきりしたよ」
 暑さに負けて、俺は髪を後ろで結おうとした。と、水琴が顔を赤くして動きを止めた。視線は俺の首筋で止まっている。
 あっ、と気づく。ようやく気づく。手で隠してももう遅い。
 頭の中で雄高が、『バカ』と言った。
                                       ◆
 その日は気詰まりなまま、水琴と過ごすことになった。幸いなことに、重なってる講義は一つだけだったから、学校が終わるとそのまま俺は武市との待ち合わせ場所へ行った。
 夕方の書店は混んでいた。俺は店内をぶらぶらとあるいていたが、文庫の乱雑さが気になってしょうがない。平積みが崩れているのが許せない。てきとーなとこに戻された本が許せない。元書店アルバイトとしては、見過ごせない乱雑さだ。控えめに、控えめにと他の客の視線を意識しながら俺はそれらをそっと直して歩いた。きっと店員に『嫌みな奴』って思われてるだろう。でも、ホントは雑誌のぐしゃぐしゃも直したい! 
「なにやってんだよ」
 後ろからそう声をかけられ、あせって俺は振り返った。明らかに呆れ顔の武市がいた。照れ笑いしながら、俺は頭をかいた。
「悪いな、呼びだして」
「いや、別に用事もなかったしさ」
「ここじゃなんだから。他に行こう」
 武市は俺に広い背中を見せて店を出た。俺もそれについていった。武市は高校時代はラガーマンだったから、ごつい体をしている。身長は同じくらいだが、ウエイトは奴の方が少なく見積もっても十キロは多いだろう。厚い胸板とがっしりした腰回り。太ももは水琴のウエストくらいありそうな体格。水琴と並ぶと、ほんとにオトナとコドモだ。
 ……どうやって、してんだろ。昨夜のことがまだ生々しく残っているせいか、俺は下世話な想像をしたことを一人恥じた。
 武市と雄高と三人でよく行く安い居酒屋に向かい合って座わり、とりあえずビールを注文した。武市はメガネを外すと、レンズの曇りを拭った。いつも思うのだが、武市の顔は広目天の像に似ている。ええと、あれだ教科書に載っていた東大寺の戒壇院の塑像。
「武市の顔って仏像系だよな」
 しみじみと言うと、武市は怪訝な表情を浮かべた。
「なんだ、そりゃ。どうせ目が細いさ」
「俺だって一重だよ。一重同盟とかつくりたいくらいだ」
「……ヒコ、おまえ水琴ともこんな調子で会話してるのか?」
 うん、と頷くと、武市は見事なまでに濃い眉毛を八の字にした。武市も水琴に準じて俺のことをヒコと呼ぶ。ほんとに仲のよい奴らだな。
 つまみも何品か頼み、俺と武市はビールを口にした。一気にジョッキの半分ほど飲んで息を吐くと、武市はもうジョッキを干していた。
「はえー」
「うまいよな。今日は特に暑かったし」
 そのまま二杯目を注文してから、武市は指を組んでなにかを考え込むように押し黙った。「そういえば、おりいって話したいことってなに?」
「……うん、まあ」
「酔っ払わないと言えないことか?」
 武市は曖昧に頷くと、運ばれた二杯目も半分ほど飲み干した。お通しの枝豆を口にしながら武市は、だまったままだ。
 つまみがすべて運ばれたのを機にしたのか、武市は自分の両膝に手を乗せ俺の顔を見た。心持ち顔が赤いのは、既に酔っているから?
「水琴のことをどう思ってる?」
 出し抜けな質問を浴びせられ、瞬間頭に浮かんだのはチョコバーを差し出す水琴だった。まあ、一番新しい記憶ということで。
「どぉって、トモダチ」
「……」
 納得がいかない、という顔で武市は俺を見つめた。だからもう一度言う。
「トモダチ」
 うーん、と武市は唸ると残っていたビールをまた一気に飲んだ。更に注文する。そんなにハイペースで飲んで大丈夫なのか? こいつの家はここからタクシーでどれくらいだっけ? 早くも帰りを心配して俺は、はらはらしていた。
「お前にとって、女ってどういうものなんだ? その……なんていうか」
 口ごもりながら武市はシシャモを口にほうり込んだ。武市は俺と雄高のことは承知のうえでつき合ってくれる貴重な同性の友人だ。決して興味本位でそう聞いている訳じゃない。でも、なんて言えばいいのかなあ。
「恋愛の対象にはならなよ。でも同性だからってみんなが皆、対象になるわけじゃない。それはお前も同じだろう? 女の子なら誰でもいい?」
 生真面目に武市は首を横に振った。武市が水琴にべた惚れなのを知っている。だから説明出来る。これでいい加減なやつだったら、ばからしくて説明なんかしない。
「なんていうのかな、そりゃ時々水琴がすごく可愛い、って思うこともあるよ」
 武市の肩がぴくんと動いた。ちょっと怖い。ケンカになったら、絶対に勝ち目なんかない。言葉を選んで話をしないと、こじれそうだ。
「あのさ、犬とか猫って可愛いじゃないか。もうそれだけで可愛いってとこあるよね。赤ちゃんとかさ。それとよく似ているよ」
「なんだそりゃ、水琴は犬猫と同じだっていうのか?」
「だから、たとえだよ。たとえ。純粋に可愛いってことで、えーと、そうだな色気とかは全く介入しない」
 この場のポイントは、恐らく『色気』だ。つまり、水琴をなんだ、その、押し倒したくなるかどうかということなんだろ。
「……」
 どこか不満げな表情で武市は低く唸った。だってさ、他にどう説明すればいいんだろ。水琴は気の合う友人だもの。大切であることには変わりないけど、恋人にはならない。絶対に。なぜなら俺には雄高がいるから。
「水琴は、水琴は……」
 武市は続く言葉を言い兼ねて、口ごもった。額から汗がにじんでいる。いつぞや、水琴から武市は緊張するとやたら汗をかくと聞いた。つまり緊張している?
「ヒコのことが好きなんだよ」
 一息で言うと、三杯目もぐーっっとあおった。俺のえーっっという声とともに。
「そ、そりゃ、俺も好きだよ。友人だから」
「違うって、恋愛の対象としてだよ」
「だってお前たち、つき合ってるんだろ?」
「確かにつき合ってるよ。それなりのことをしてるしな。俺は恋人同士だと思ってるよ。でも、水琴はヒコの方が好きなんだよ」
 まくし立てられて俺は返答に詰まった。声をかけて来たのは水琴のほうだった。でもあいつはそれらしい素振りは見せないよ。
「お前は水琴といつも一緒じゃないか」
「……うん」
 それは否定出来ない。武市はいらだたしげに、モズクを箸でつついた。
「一緒に食事したり、勉強したり、買い物に行ったり、いつもつるんでるじゃないか。水琴を嫌がらずに」
 だって楽しいからさ。水琴といると。などと今、正直に言えば、どんなことになるか。恐ろしいので言わずにおく。
「そうやって、優しくされればされるほど、あいつは傷つくんだよ。なんたってお前はタカ一筋だし、その間に割って入れないってことを水琴はホントに理解しているから」
「でも、そうしているのは武市の代わりだよ。忙しいんだろ、学校のほう。水琴だってあんまり会えないって淋しそうにしてたぞ」
「なかなか時間が取れないことは、そりゃ事実だけど…」
 痛いところを突かれたのか、武市は大きな体をしょんぼりと丸めた。
「何が不安なんだよ、武市」
「何もかも不安だよ。俺とつき合い出したのだってほんの偶然だし。確かに中学は一緒だったけど、もしも、俺がバイト先でタカと知り合わなかったら…」
 武市と雄高はバイト先の飲み屋で出会った。そこへ俺と水琴が遊びに行って、偶然にも中学のクラスメイトの武市と水琴は再会したんだ。
「それだって、大切なことだろう?」
 きっかけなんて、どこに転がってるかわからないじゃないか。それすらない奴だっているんだし、贅沢ってもんだよ。
「安全パイだなって、さ。俺」
「安全パイ?」
「そう、水琴は俺が好きなことを分かってるから。中学のときからずーっと好きだってコト知っていたから」
 甘えているってことじゃないか。そんな表現じゃなくて。
「一番欲しいものが手に入らないから、俺で我慢している」
「ちょっと待てよ、水琴ってそんなに器用なのか?」
 友人を非難されて俺は腹が立った。相手がその恋人だとしても、言っていいことと悪いことがあるはずだ。 
「不器用だよ……だからあいつは優しい。そうしなきゃ俺にすまないとでも思っているみたいに。嫌われてはいないと思う。でも、優しくされると今度は俺の方がツライ」
 とても、好きだからと続くのだろう。見かけによらず、繊細。雄高の武市への評論を思い出す。武市は正直だ。それは武市がいままで、真っすぐな気持ちで生きて来た証しのようで、俺は感服する。きっと、誰かを裏切ったり裏切られたりせずに、正面からぶつかってきたんだろう。
「俺は水琴を恋人には出来ないよ」
 うん、と武市は頷いた。どこか今にも泣きそうな雰囲気だ。
「水琴に絶交だって、言えばいいのか」
 まるで現実味がない。どうやって言うんだ、それもいきなり。
「いや、ヒコ……悪かった。いまの話は忘れてくれ」
「なんだよ、そりゃ。さんざん言うだけ言って!」
「だから、謝るよ! 謝る。俺が水琴を好きなだけなんだよ」
 武市は横をむいて鼻をすすると、メガネを外してお絞りで顔を拭いた。水琴…武市はおまえのことがこんなにも好きなんだぜ。
 一種の修羅場にいながら、俺は心底二人が羨ましくなった。
 以前、雄高が言った。両想いは奇跡だって。あの時の光景が目に浮かぶ。電車のなかで涙を止めることができなかった雄高。あのポーカーフェイスの雄高が人目も気にせずに泣くなんて。
 胸の奥の小さな刺が疼く。
 雄高は人目なんかぜんぜん気にしないほど、安騎野が好きだったんだ。
  武市は手洗いに立った。武市を待つあいだ、いやでもあの夏の日のことが思い出された。 俺はあの夏、傷ついた。他人を傷つけもしたけどな。だから、もう誰かをそんな思いに晒すのは止めようと誓った。
 感情を押さえ込むより、きっちりとぶつけて、思うことはなるべく言葉にして相手に伝えようと。そうすることで、すべてうまく行っているわけじゃないけど、前よりも楽になったような気はする。
 自分がゲイであること。それをまわりに公言はしているが、実は親にはまだカミングアウトしていない。だから、中西のようにたまに俺に告白した奴には雄高を紹介する。水琴のときはどうしたんだっけ? 水琴は友人からスタートだから。特別、「好き」とか言われない。ま、お互い嫌いじゃないから一緒にいるんだろうけど。
 友情と、愛情の差はどこにあるんだろう。
 更に、自分のゲイという嗜好を加えると、その境界線はとても曖昧になる。
 そんなことをうだうだと考えているうちに、さっぱりした顔で武市が席に戻って来た。腰を降ろすと、すぐにビールを追加注文した。
「ヒコ、今日は飲もう!」
 すでに大ジョッキで三杯を空にしている。飲もう、って俺そんなに強くないのに。あと一杯くらいでもう充分なんだけど……。運ばれたビールを喉を鳴らして豪快に飲む武市に不安を覚える。たしかに武市はウワバミだ。ほっとくと、どれほど飲むか限界を俺は知らない。どーでもいいが、こいつか泥酔した場合はどうすればいいんだろう?
 そんな心配をよそに、武市は追加を止めない。まだまだ飲む気だ。
「ほら、ヒコも飲めよ」
 武市は強引にグラスをぶつけて乾杯すると、五杯目も飲み干した。ああ、もうどうにでもなれ! だ。迷いを振り切って俺もグラスに口をつけた。
「そういえば、また女の子をフッたんだって? 水琴がメールで教えてくれたぜ」
「フッたっていうか、中西の場合はあいつのプライドの高さで自爆したようなもんだ」
「なんじゃそりゃ?」
「つまりさ、自分になびかない男はいないってプライドがあるんだよ。見た目はまあ、美人系なんだろうな。コンパじゃモテるらしいし」
「なに、モーションかけられたのか?」
「俺、去年学祭で女装したろ? あのふざけたコンテストで」
 と、武市はげらげらと笑った。ああ、すでに酔っ払いモードだ。
「女装コンテスト! ああ、凄かったな。なまじ女子より美人だった。タカは露骨に不機嫌になるし。あの時の写真売れたんだろう?」
 不本意ながら、首を縦に振る。そう、三桁売れたと実行委員会から感謝された。そんなの感謝されてもうれしくねーよ。
「それ以来かな。妙に顔が売れちゃったみたいだ。で、中西もそんな一人だったわけで。しかし、雄高を見せたらすぐ帰った」
「ほお。まあ、タカを見せられたらさがるしかないな。けっこうヒドイことするよな」
 と、いう表情や反応が水琴と同じだから、思わず吹き出す。
「やっぱ、お似合いだよ。お前と水琴。水琴にも同じようなこと言われたぜ」
「そっかあ?」
 武市は額を赤くさせて、照れた。うーん、素直で気持ちのいい奴。
「ヒコは夏休みは実家に帰るのか」
「んー、こっちでバイトしようと思ってる。帰ろうと思えば電車で三十分だ。雄高も帰らないみたいだし。武市は、なんかあるのか」
 武市はジョッキを置くと、ちょっとため息を吐いた。
「八月に入ったら、H山療養病院で実習なんだ。四週間」
 H山って、山奥の温泉地にある長期療養所だったよな、確か。
「もしかして、泊まり込みで?」
「そう、泊まり込みで。すげーぞ、この間あいさつに行ってきたけど、携帯も圏外だってくらい山ん中だった」
 ふう、とぼんやり遠くを見る目つきで武市は放心した。だから、水琴の話をしたかったのか。夏中留守にするから余計に不安だったんだ。
「だから、今日は最後の息抜きってとこだ」
「最後じゃないだろ。水琴と会うんだろ、実習に行く前に」
「……うん」
 武市は、はにかんで短く刈り込んだ頭をかいた。もう、全面的に応援するけどな。 
 それから、たわいのないことを話ながら、したたか飲んで店を出た。熱帯夜続きのせいか、歩道はまだ込み合った状態だ。
 足がふらつく。ついつい車道のほうに傾く俺の体を武市が引き戻す。なんで、こいつはちっとも酔ってないんだ。俺の倍は飲んだはずなのに。
「目がぁまわるぅ」
「タカほど弱くないけど、ヒコもあんまり酒には強くないな」
「武市がザルなんだよ」
 雲を踏むような足取りで歩いていたら、大学生のグループらしい団体とすれ違った。武市が酔っ払っている俺を用心してか、グループに道を明け渡してやり過ごそうとした。
 うちの大学ではないみたいだ。ゼミかなんかの集まりかな。十数人の男女がほどよく混ざっている。もうすでに酒が入っているらしく、賑やかな一団だ。
「あれ? 雄高…」
 その人波のなかに、不意に雄高の姿を見つけた。グループの最後尾に見慣れた俺のシャツを着た雄高が歩いている。
「ほんとだ、タカ!」
 武市が大きな声で雄高を呼び止めると、面食らったように雄高は足を止めた。その一瞬の表情に俺は愕然とした。『マズイッ』て、そんな顔した!!
「ひさぁしぶり~」
「あ、ああ」
 能天気に声をかける武市に雄高は歯切れが悪そうに答えた。不審の目で見つめる俺を見ないように、雄高はどこかそわそわと落ち着かない。
「碓氷くんの友だちかい?」
 雄高の背後から、ひょいと顔を覗かせた紳士が雄高に声をかけた。
 俺は目を見張った。もしかして、コレか。
 背はさほど高くはないが、素材のよい麻のスーツをラフに、しかも崩れた感じをまったく漂わせずに着こなしている。べっ甲縁の眼鏡が教養の高そうなその風貌にはまっている。髪は豊かだけど、染めたような銀髪だ。三十代後半くらい? でも、その年で教授はないだろうから、若く見えるだけかも。
 俺のなかで、警戒音が鳴り響く。
 コレハ、雄高ノたいぷダゾ。
「相馬教授……?」
 目の前のその人物を全く無視して俺は雄高に問いかけた。自分で声が尖っているのがわかる。しかしそれに答えたのはなぜか雄高ではなかった。
「そう、初めまして。あ、もしかして君が史彦くん?
 あくまで気さくに、さわやかに相馬教授は雄高を差し置いて俺に答えた。教授の言動に雄高が明らかにうろたえている。
 知ってる、俺の名前を。やっぱりそうか。こいつが今朝の甘いムードを邪魔して俺から雄高をさらって行った張本人。
「雄高ぁ!」
 教授の言葉に耳を貸さず、俺は雄高との距離を一気に縮め、胸倉をつかむとそのまま強引にキスをした。
「ヒコ……!」
 唇が触れた直後、武市が悲鳴のような声をあげて俺を雄高から引き離した。
「はなせよ、武市!」
 わめく俺をとんでもない力で羽交い締めにしながら、武市はポカンとしたままの教授と口元を押さえる雄高から離脱するようにズルズルと後退した。
「すんません、こいつ酔っ払ってるんです。おいヒコ、冗談キツイぜ」
 不自然な笑い声を交えて武市が弁解した。数人の学生が騒ぎを聞きつけて振り返る。雄高は顔をこわばらせながら、俺から目を逸らした。
「タカ、こいつはちゃんと送ってくから。じゃあな」
「雄高……」
 涙目で、うーうー唸る俺を連れて武市は強引に歩きだした。雄高、こっち向けよ。そんな迷惑そうな顔をしないでくれよ。
「ユニークな友人だね」
 教授の声がかすかに耳に届いた。曖昧にうなずく雄高の肩にさりげなく手を置く教授に、俺は言い知れぬ殺意に近い嫉妬を覚えた。
「ヒコ、馬鹿かおまえ。あんなことして、タカが困るだろう?」
 子どものように悔し涙を流しながら唇をかみしめる俺。情けなくていやだ。武市の言うことはわかる。わかる、けど……。
「嫌なんだよ、雄高があの男といるのが」
「さっきの、例の教授なのか?」
 水琴だな。メールで教えてるんだな。なんだよ、結局武市と水琴ってうまくいってるんじゃないかよ。そんな他のカップルのことをひがむ自分が嫌でうつむく。
「どうすればいいんだよ」
 あれは、雄高が魅かれるタイプなんだ。あれといる時間のほうがきっと俺よりも長いんだ。俺の知らない雄高を知っている男なんだ。 黙り込む俺をなだめるように、武市は俺の頭に手を乗せた。
「今夜はお前につきあうから。ゲーセンにでも行くか? 対戦でもなんでもいいぜ」
 小さな子どもをあやすように、優しい声で武市は話しかける。だから、ちょっとイジワルな物言いで武市を困らせてみたくなる。
「武市はキャッチャーのヌイグルミが目当てだろ。水琴にやるやつの」
 うっ、と武市がひるむ。思いどおりの反応に気をよくして俺はようやく顔を上げた。
「そうだな、ゲーセン行こう。険直しだ」
 雄高の件はひとまず置いておこう。
 大通りに面したアミューズメント・パークを目指して二人で歩きだした。
 ……しかし、酔っ払いの俺たちは入店をやんわりと断られたのであった。
  

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