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ピーターラビットとおんなじなんだね。
知り合って間もないころ、水琴は俺の三人の妹たちのことを聞いてそう言った。
「知らない? ピーターの妹。フロプシー、モプシー、カトンテール……」
今までそんなことを言う奴とは会ったことがなかったから、とても印象に残っている。
最初に話したのはいつだったか、いまひとつ思い出せないけど。
まだ半分夢うつつの俺は、体にのしかかる重さに辟易する。なんだって、こんなに重いんだよ。タオルケットがこんなに重いはずないだろ、まったく……。と、はねのけようとした俺の手を誰かがしっかりと握った。
「みこと……」
はあ? 腕はそのまま、ぐいっと俺を引っ張った。なんだ、なんだ! パニックになって正気になったのは、武市の顔が目の前に迫ってからだった。
「たっ、たけち!」
寝ぼけている。酒臭さに吐き気を感じながら、恐ろしい展開を思い描いて、俺は必死で抵抗した。ここで押さえ込まれたら、絶対に逃げられない。
「みこと」
武市の厚い胸板に取り込まれそうになる。いかん、このままじゃ!
「うわぁぁ!」
とっさに膝で思いきりみぞおちに蹴りを入れてしまった。げっ、と声をあげて武市は沈黙した。
「わっ、わりィ……」
武市は唸りながら目を開けると、手探りで眼鏡を探した。まだ部屋の中が暗いのだ。
あ、暗い。今何時だ、昨夜あれからどうしたんだっけ? と、髪をかきあげて再びぎょっとする。上半身裸……じゃない、トランクス一丁だった。武市も俺も。なっ、なにがあったんだっけ? おぼろな記憶を必死でたどる。
ゲーセンで入店を断られて、気分が収まらなくて、じゃあ俺の部屋で対戦だ! とか言って武市と一緒に、ゲームした? それを裏づけるように床の上には、ゲーム機とソフトが何本か乱雑に散らばっている。
に、しても何ゆえトランクス一丁? あ、エアコンが止まってるからか。
「ヒコ~」
眼鏡をかけて多少正気に戻った武市が、腹を押さえながら低い声で呻いた。
「蹴ったな? 思いっきり、蹴ったな」
「ごめん、ごめんってば。だっておまえ寝ぼけて『水琴』とかって言って……」
ぐいと詰め寄ってくる武市に恐怖を感じて後ずさる。
「……寝ぼけてじゃないって言ったら?」
えっ? 寝ぼけて、ない? って……。なんとなく、顔から血が引けた気が。
「本気だって、言ったら?」
どん、と背中が壁にぶつかる。積んでいた雑誌が床に崩れた。逃げ場を失う俺になおも武市はにじり寄る。
がっ、と俺の左手をいきなり取ると、そのまま床に押さえつけらたれた。
「うっ!」
真顔の武市が俺を見下ろす。なっなんだよ、この展開は!
「まてっ、武市、おっおまえノンケだろうがっ!」
「このさい何でもいい。最近、水琴がやらしてくれないから、たまってんだよ」
「だからって……!」
絶対イヤだ! 暴れる俺の足をすくい取ると、武市はそのままのしかかって来た。
「……だぁ!」
ほんとの、ほんとの叫び声が喉元までせりあがって来た。と、唐突に玄関がかちゃんと開いた。
「なーんてな」
といって笑った武市は玄関を見たまま固まった。
「っあ、タカ!」
なにっ? 武市に再び蹴りを入れて起き上がると、呆然とした雄高がいた。今のシーンは、どう考えても『武市に組み敷かれる俺の図』だ。
「ゆ、雄高、誤解だ! 誤解っ! 武市、そーだよなっ」
武市は腹を抱えながら、うんうんと頷いたが、それを見たのか見ないのか、雄高はくるりと身を翻して止める間もなく部屋から駆け出した。慌てて追ったが、階段にたどり着くと雄高は自転車で白々と明けかけた朝の町に消えていった。
なんで、なんで! タイミング悪すぎ! がっくりして部屋に戻ると、服を着た武市が神妙な顔つきで正座していた。
「武市ぃ」
びくん、と小山のような体を震わせると、武市はいきなり土下座した。
「すまん、ヒコ。悪ふざけが過ぎた。タカには、俺から詫びを入れておく。だから……」
「だから?」
腕組みして俺は武市の後頭部を穴があくほど見つめた。ちくしょう、気持ちいいほど刈り上げやがって。
「このことは、水琴には黙っていてくれっ!」
がくっと俺の肩が落ちる。この期に及んで、心配なのはそれかい。怒る気力も失せる。
「言えるかよ、こんなこと。実は武市はバイだったなんてさ」
「ちっ違うっ、俺は、俺はストレートだっ」
分かってるよ、ちょっと意地悪したくなっただけだ。心配げに俺を見つめる武市に、手を振ってみせる。
「もう、いいよ。お前に悪気がなかったのはもう分かったら。水琴にも言わない。約束するから」
膝に両手を揃えて、ホント? と首をかしげる、体に似合わぬ動作に思わず吹き出す。怪訝に俺を見る武市に、もう一度約束する。
「でもさ、こんど迫って来たら拒まないからな」
「……」
顔面蒼白で武市が硬直した。ほんと、からかいがいのある奴。
「ウソにきまってんじゃん。もういいから、とにかく家に帰れよ」
「うっうん」
ぎくしゃくと首を縦に動かすと、武市はカバンを手にした。もう、始発のバスが動き出した時間だ。家にだって帰れるだろう。
「じゃ、ほんとに悪かったな」
玄関で見送る俺に、武市はどこか立ち去りがたそうにしている。
「夏じゅう、会えないけど、水琴のこと頼むな」
「うん……」
そう返事はしてみるものの、いいのか? 会って欲しくないのが本心じゃないのか。まあ、全くの馬の骨とつき合われるよりもまだマシって意味合いかな。
複雑な気持ちで武市を見送った。
とにかく、体がだるいや。もうひと寝しないと、いい考えも浮かびやしないだろう。
◆
『おかけになった電話は、電波の届かない範囲か、電源が入っておりませんー』
ああ、またかよ! 朝からなんべんかけてもこの状態。……雄高め、電源切っているな。俺はいらいらしながら、携帯電話の小さなディスプレイを見つめた。
ふだんは、緊急の用事以外は絶対に携帯にかけるなって言われてるけど、今は『緊急』なんだよ。雄高にだってそうなはずだ。なのに、電源を切ってる。つまり、それだけ俺に腹を立ててるって証拠かな……。
もう、昨夜から失態続きだ。踏んだり蹴ったりってやつ。
神さま、俺なにか悪いことでもしたんでしょうか?
ため息を吐くと通話を切った。大学のパティオに据えられた木陰のベンチの背もたれに体をあずけて真昼の空を見上げた。
真っ青な空に、入道雲。絵にかいたような夏の空だ。
もうすぐ夏休みだな……。その前に試験があるけど。割りのいいバイトを探して……たまの休みには雄高と遊んだりできたらいいんだけど。
そうするには、今朝のことを説明して……昨夜のことを謝って。
でも、昨夜の件については謝るってのは違うよな。なにを謝るんだよ。恋人として当然のことをしたまでだよ! あの相馬教授の顔を思い出すと、むかっ腹が立つ。
なんだよ、親しげに肩に手なんかのせやがって。
雄高も雄高だよ。気軽に体を触らせるなよ、俺以外に。昨夜のことで怒りを再発させると、さっきまで気持ち良かったはずの青空さえ憎らしくなって、キャップのツバをぐいっと引き下げると、そのままベンチでふて寝したくなる。
「ヒコくん、お昼食べちゃった?」
水琴の声に驚いて体を起こす。今日は髪を二つのシニヨンにまとめて、タンクトップにシースルーのブラウス、白のサブリナパンツの水琴が俺の前に立っていた。
確かに、水琴はかわいいとは思うけど、やっぱり違うな。ソソられる、って点では今朝の武市の方がよほど……。って、何考えてんだよ、俺。
「? ヒコくん……。なんか、ヘン」
俺の様子を敏感に察したのか、怪訝な顔で水琴は俺を見た。心の中を見透かされたようで、気まずくなった俺はうつむいた。
「どしたの、元気ないね。なんかあったの?」
半分は水琴のせいだよ、と言いたくなったけどぐっとこらえる。一つを話すと、全部を打ち明けないと話にならないから。取り繕って、うまくエピソードをまとめられるほどの器用さを自分に求めてはいかん。ならば、ストレートに聞いてしまえ。
「水琴さ、俺のこと、好き?」
鳩が豆鉄砲を食らったように、水琴は一瞬ぽかんとした。わずかな沈黙が流れた。水琴は瞼を二三回しばたくと、当たり前のように言った。
「好きに決まってるよぉ。ヒコくんは、あたしのこと、キライなの?」
「そんなコトあるわけないじゃん。そうじゃなくって、えーーーーと」
あまりに素直な反応に、今度は俺が焦る番だった。
「じゃ、たっ武市は、武市は……」
「好きだよ」
と、水琴はゆっくりとほほ笑んだ。これ以上ないというくらい良い笑顔で。
「大好き」
……聞いた俺がバカでした。思いっきりノロケたな、今。こんなんで、嘘をついているっていうなら、水琴は雄高以上にポーカーフェイスだよ。
「なんていうのかな、二人の『好き』の意味合いは微妙に違うけどね。わかる? そこんとこ。わかるよね、ヒコくんなら」
ね、と言われたら頷くしかなかろう。がっくんと脱力して首を縦にふる。でも、おかげで肩から荷がおりたような気がする。思わずベンチで脱力した。
とたんに、空腹感を覚えた。昨夜飲み過ぎたせいで気持ち悪くて、今朝から何も口にしていないから。
「腹ヘッタ。学食空いたかな……。水琴はもう食べちゃった?」
「あたしもまだだよ。講義が延長しちゃって。この時間ならもうピークは過ぎたと思う」
水琴は腕時計を見ながらそう答えた。じゃ、行こうか。俺ははずみをつけてベンチから立ち上がって、水琴について行った。
雄高が携帯に出ないら、強行突破だ。今夜はアパートの前に張りついてやる。
「ヒコくん、何食べる?」
「Aランチ!」
ひそかな決意と共に、Aランチの魚の種類を推測していた。
◆
雄高のバイトが終わるのは、十時過ぎのはずだから少し時間に余裕をもって川沿いにある、雄高のアパートまで行った。
俺のワンルームの部屋と比べ物にならないほど、古くてぼろい木造二階建のアパートだ。築二十年? だからこそ広さの割に家賃も安くていいよ、と雄高は明るく言ったけど初めてここに来たときに、足がすくんだ。
だって、安騎野の住んでいたアパートによく似ていたから。
雄高の部屋は二階の端にある。まだ明かりはついていない。こうして見上げるとき、俺のなかには消しがたい思いが去来する。
雄高が安騎野とつき合っていた……あの夏。安騎野の身辺を探って、ただ復讐をしようと思っていた俺。そんなとき、雄高が安騎野の部屋に入って行くのを見た驚き。
一晩中窓を見つめていた。あの部屋で安騎野と雄高は抱き合っている。そう考えると気が狂いそうだった。なんどとなく、踏み込んでやろうかと思い詰めた。
切なくて、切なくて、泣きたかった。
だから安騎野に抱かれている雄高を見たとき、現実をつきつけられてショックだった。
ソウヤッテ何度モ安騎野トヤッテタンダナ!
見ないでくれ、と雄高は叫んだ。けれど俺は見てしまったんだ。
雄高をやるときにそれを思い出さないと言えば嘘になる。雄高も思い出すのだろうか。安騎野との行為を。
俺はゆっくりと階段を登ると、雄高と交換した合鍵をポケットから出した。
勝手にあがって明かりをつければ、雄高は俺がいることがわかるだろう。そうしたら、もしかしたら、部屋に戻らないかもしれない。意外と、意地っ張りだからな、雄高。
俺は、ドアの前に腰を下ろして、階段の方を見た。階段の頂上に取りつけられた、裸電球のあかりに虫たちが集まり、乱れ飛んでいる。
アパートの六戸あるうち四部屋に住人がいる。みんな、ワケアリな住人ばかりらしく雄高のような貧乏学生がもう一人、他所で食い詰めたようなうさん臭い老人と、何の仕事をしているのかまったく不明な中年女性とが住んで居る。
安普請のせいで壁が薄いから、それぞれの生活音が聞こえてくる。テレビの音、水を使う音、ダンスミュージックも聞こえる。
手足を伸ばして床に座り直したとき、俺の指先に堅いものがぶつかった。
雄高の部屋のドアの下に半分押し込まれたハガキだった。郵便受けなんてないから、配達員が隙間にすべりこませたらしい。
なにげなく手に取ると、それは暑中見舞いだった。シンプルな、けれど趣味のよさが伝わる海辺の波うちぎわの写真だった。
手作りらしい。差出人の名前を明かりにかざして見た。住所はS市。だいぶ離れた海沿いの大きな街のものだ。名前は、知らない……。『峠 隆一郎・司』
誰? 峠なんて知り合いが雄高にはいたっけ? 前の街での知り合いかな……。以前の住所に近いし……。でも、この名前の組み合わせは奇妙だ。親子? でも連名って普通なら夫婦とかそういうのだよな。これってどうみても両方とも男の名前だと思うんだけど。と、そこまで考えたとき、名前に再び目が行った。 ……司?
司……安騎野か! すっかり忘れていた、安騎野の名前は司だ。
雄高の安騎野の名前を呼ぶ声まで耳に蘇った。狂おしい声で叫ぶ、雄高の声を。
なんで、雄高はいまだに安騎野とつき合いがあるのか。俺に内緒で連絡を取り合っている? どうして、もう終わったはずだろう?
ハガキを持つ手がふるえた。嫉妬と怒りで、めまいがする。
だから、階段を上がる足音に気づかなかった。
「史彦……」
はっと顔をあげると、いつものように自転車を担いでいる、どこか疲れたような顔の雄高がいた。俺と雄高は通路の端と端とで見合った。
「雄高」
雄高は、ゆっくりとした足取りで部屋の前までやってきて、俺の手の中にあるハガキに目を留めた。瞬く間に表情が険しいものに変わる。
「勝手に見るなよ……!」
口調は静かだが、怒りを込めた目つきで俺を睨んだ。そのままハガキを引ったくると、胸ポケットにおしこんで、部屋の鍵を開ける。
「なにしに来たんだ」
あまりのことに、口をきけなかった。こんな、こんなことってあるか? 今までにここまで冷たい態度の雄高なんかみたことない。だから、反対に腹が立った。
「昨夜と今朝のことを謝りに来たんだよ! でも、雄高はそんな事はどうでもいいみたいだな」
雄高は俺に背中を見せたまま、自転車を部屋に入れると、再び鍵をかけた。振り返った雄高の顔は青白く見えた。
「大声出すなよ、他所に聞こえる。外に行こう」
「そんなの、かまわねぇよ!」
雄高は俺の声をそのまま受け流すと、ふっと視線をそらして階段へと向かってしまった。しかたなく、俺もそれに続いた。怒りに拳を握りしめたまま。
大きな通りに一旦出て、コンビニの角を曲がるとひとけが失せる。そのまま百メートルも行くと河原に出ることができる。その間、二人ともなにも話さなかった。俺は話したいことが、聞きたいことが山ほどあった。
今朝の武市とのことは、まったくのジョークだということを手初めに、相馬教授のこと、それよりも安騎野のことだ。
明かりもほとんどない、河原は静まり返っていた。川のせせらぎだけが響いて、夏の草いきれでむせ返るほどだ。むっとするような湿気まじりの生暖かい空気が川と一緒に岸辺にも流れる。
雄高は川の流れに目を向け、両手をジーンズのポケットに入れたまま、微動だにしない。すこしうつむきかげんに立つ姿勢には、不思議と怒りやいらだちは感じ取れない。
「今朝のことは……」
俺が口火を切った。とにかく、話さなきゃならない。
「武市から、直接謝られた」
えっ? 拍子抜けした。いつ、どうやって? そのまま雄高は俺を見ずに続けた。
「バイト先のコンビニに来て、謝ってったよ」
……よく分かったな、今日のアルバイトが。もしかして、手当たり次第に雄高のバイト先を回ったのか? あいつなら、やりかねない。その行動力に正直舌を巻いた。
「お前と武市を見たときにはそりゃ驚いたけど、後から落ち着いて考えれば、武市がふざけてやった事だってくらい分かる」
なんだよ、そこまで察していながら連絡もよこさなかったのかよ。
「俺、そんなに信用されてないのか?」
ぽつり、と雄高が言った。
「相馬教授はいい人なんだよ。まだ三回生でゼミにも入っていない俺を気遣ってくれて。昨夜もバイトばかりしている俺をわざわざ誘って、奢ってくれたんだ」
そこで、お前はあんな行動を起こしたのだ、と雄高は責めているわけか?
「俺が悪いのかよ、全部俺が!」
「そうじゃ、ない……。もう少し、俺を信用して欲しいから」
「何を信用すればいいんだよ。俺よりも教授の方を優先するのに? 電話がくればさっさと飛んで行くし、教授から紹介されたバイトをして、奴からもらった携帯を持つお前に?」
「だから、今は夏の学会に向けて忙しいからだよ。バイトの件にしたって、少しでも割のいい仕事で俺の負担を減らそうとして」
「それで、見返りにお前と関係を持ちたいんだろう? 昨夜の様子、お前の肩に触ったりして下心ミエミエじゃないか。他の奴になんか触らせるなよ、雄高は俺のものなのに!」
きっ、と振り返った雄高の頬が強ばっている。その表情に圧倒される。ここまで雄高を怒らせたことなんて今までない。でも、俺はひるまない。ひるむもんか。
「俺は史彦のものじゃない」
堅い声で雄高が答えた。
「誰のものでもない。俺は俺だよ」
静かな、しかし瞳の奥に強い光を秘めて雄高は重ねて言った。
「俺をどこかに閉じ込めて、そして二人だけで生きて行こうっていうのか? この先。そんなの馬鹿げてる。……俺には目標がある。なにより俺は俺でありたいよ」
なんだよそれ、意味がわかんねぇよ。
「ほかに誰か好きな奴ができたんだな、あいつか、相馬教授なのか。もうやっちゃったんだろう? 雄高の好きそうなタイプだったもんな」
感情が高ぶる。自分をコントロールできない。いつも不安に思っていたこと、心の中にわだかまっていた雄高への不信が一気にふき出す。
「史彦はそんな見方しかできないんだ。教授とは無関係だよ。俺は俺のしたいことをする。それだけだ」
「それって、浮気でもなんでもするってことかよ。でも、そうじゃないなら……俺よりも、勉強の方が大切なのか?」
そう俺が言い放つと、雄高は悲しげに眉をしかめ、唇をかんで首を左右に振った。
喉がひりつく。胸が苦しい。なんでこんな言葉ばかり雄高に投げつけてしまうんだ。違うのに、もっと話し合いたいのに。なのに現実は、こんな言い争いだ。こうまで雄高を問い詰め、それでも俺の気はおさまることを知らない。
「それに、どうして安騎野から暑中見舞いなんかが来るんだ? 雄高はまだあいつと連絡を取り合っていたんだな。俺に隠れて」
「違う、安騎野じゃなくて……峠さんのほうだよ」
雄高はきっぱりと首を横に振った。
「精神科医、だっけ? なんでだよ」
「……進路のことで、いろいろ相談にのってもらったんだ」
だからって、なにもそいつに頼むことはないだろう。安騎野の主治医で同居人の奴になんて。納得出来ない俺は、自分が押さえられなかった。
「まだ、好きなんだろう?」
雄高は俺を見つめて押し黙った。その長い沈黙を肯定と受け取ってしまいそうになる。
「安騎野のことが忘れられないんだろう?」
雄高が拳を固めるのが暗闇の中でも見えた。殴り合いになるかもしれない……とっさに緊張し、身構えた。
「……しばらく逢わない方がいいみたいだな」
「えっ……」
「お互いに頭を冷やそう。俺、八月の末に教授の学会について大阪まで行くから。それが終わるまで……九月まで史彦に逢わないよ」
雄高は拳をとくと、前髪をかきあげた。声の震えを必死にコントロールするように、ゆっくりとした口調で俺に告げた。
「そっ、そんな」
俺は雄高の一方的な通告に言葉を失った。雄高の決意は堅いらしく、そのままアパートへと戻りかける。
「わかれるっていうのか!」
雄高が歩みを止めた。わずかに体をひねり、俺に視線をくれた。
「わかれたくないからだよ」
「だったら……」
雄高は答えず、ふっと空を見上げた。
「さっき聞いたよな、司のこと」
雄高は振り返る。そして俺を真っすぐにみて、あえて安騎野を名前で呼んだ。
「俺の強烈な片思いだったよ」
雄高は悲しげに笑ってみせた。その言葉が胸に突き刺さる。
「でも、もう峠さんと養子縁組までしたから……」
最後の声はかすれていた。雄高はうつむくと、いちど目元を拭った。そして、そのまま歩きだした。
「雄高」
俺の呼びかけにも、もう振り返りはしなかった。
雄高の姿が見えなくなるまで、おれは立ち尽くした。いつの間にか膝が小刻みにふるえていた。まばたきを忘れた瞳が乾いて自然と涙を流した。
言わせてしまった。遂に、言わせてしまった。ずっと怖くて聞かなかった、聞いてはいけなかった事を。こんなかたちで確かめることになるなんて。
激しい後悔が押し寄せて来る。また、思い出してしまう。安騎野のために涙を流す雄高の姿を。雄高はきっと、俺のためにはあんなふうに泣いたりしないだろう。
河原に座り込み、俺は泣いた。
強烈な片思い……それは、俺が雄高に向ける気持ちと同じなのかもしれない。
◆
「動くなよ」
雄高は目をきつく閉じて手を胸の前で堅く組むと、俺にされるがままになった。意外と痛みに強くないんだな。いつも俺にさせてくれるのは、実は俺に痛い思いをさせたくないからだって事ぐらい、ずっと前から知っているよ。でも、雄高は上手だから痛かったことなんて最初の数回くらいだった。
「じゃ、刺すから」
右の耳たぶを後ろから冷やしていた氷を外して、俺は雄高のそこへ熱消毒した安全ピンを突き刺した。瞬間、雄高の体が固まる。
「説明しなくていい!」
そう言いながらも雄高の体はガチガチだ。よほど怖いのかな。ゆっくりピンを抜くと、雄高のバースディ・プレゼントに買ってきたゴールドのピアスを穴に差し込んだ。
思ったよりも全然血が出てない。キャッチで留めると、消毒液を含ませた脱脂綿で耳たぶを拭く。きつく閉じて涙がにじんだ雄高の目尻に俺はキスをしながら、背中をさすった。
「終わったよ。痛かった?」
ほう、とため息を吐いて雄高の体から力が抜けた。
「想像してたより、痛くなかった。けど、キンチョーして疲れた……」
そのまま俺にもたれかかって雄高は大きく何度も息をした。悪かったな、厄介なものをプレゼントしてさ。雄高の肩を抱きながら、ピアスを見つめる。
これは俺のものだっていう証しだ。雄高は誰にも渡さない、絶対に。
「毎年、ピアス贈ろうかな」
「俺の耳を穴だらけにするつもりかよ。一個で充分。ありがとう、史彦。嬉しいよ」
雄高は首だけ振り向くと、俺に口づけた。
外はもう雪が降っていて、雄高のアパートは隙間風が遠慮なく入ってきて。お世辞にも温かいとは言えないけど、こうして二人でいるだけでも、なんだかいいよな。
俺は雄高を背中から抱きしめながら、降る雪を見ていた。バイト疲れの雄高がじき寝息を立てる。あっけなく、無防備に俺の腕の中で眠る雄高にもう腹を立てたりしない。
雄高は毎日を必死に送っていて、突っ張って生活している。弱みなんか見せないようにして。でも、こんなリラックスした姿を俺にだけ晒す。
「大好きだよ、雄高」
眠った雄高の耳元でに俺はささやく。
……雄高も言ってくれたよな、初めての時に。何度もなんども。あのとき、俺がどれほど嬉しかったか雄高にはわからないだろう?
一年以上前の思い出をゆっくり反すうしいていた。アパートに帰ってからずっと、つき合ってからの月日を思い返していた。
アパートの窓からぼんやりと眺めている四角い空が、明けて来る。
人が落ち込んで、雄高から「しばらく逢わない」っていわれて、世界なんか壊れて、朝なんか二度と来ないと思っていたのに……。
暴力的に朝は来る。今日だってきっと暑くなる。
時間になったら学校に行くだろう。試験が近いから、気軽に講義をサボることなんか、もうできなから。水琴に会ったら、いつも通りにふるまえるよ。
どんなに落ち込んでも、どんなに辛くても、それでも無理やり日常生活を続けようとするんだ。泣いてたって、また朝は来るんだ……。
少しでも寝た方がいい。それは分かっている。形ばかり目を閉じてみるけど、脳裏に蘇るのは、傷ついた雄高の顔だ。
……俺は史彦のものじゃない。
雄高の口調までありありと思い出せる。誰のものでもない、自分は自分だと。
まるで鼻先で扉を閉められた気分だ。雄高には、俺ですら入れない領域があるのか。それは、密かに持ち続ける恋心だったり、将来に対する夢だったり……雄高のなかに潜む誰にもあかさない不可侵の領域。
俺にだってあるさ。でも、それをかなぐり捨てでも、雄高と混ざりたかった。
雄高は違っていたんだな。
教授と学会に行くって? 大阪なんて、泊まりでなきゃ無理な場所に。それを考えるだけで、俺は嫉妬で気が狂いそうだよ。
雄高は、教授は違うっていったけど、向こうはそう思ってないかも知れないじゃないか。だいいち、あいつから求められて断れるほど、お前強い態度に出られるのか? そうやって安騎野のときだって、ズルズルと関係を続けていたんだろう?
信用なんかできない。好きだから。たまらなく好きだから。
いつだって、俺だけを見ていてくれよ。こんな不安な気持ちにさせないでくれよ。
ホントは強くなりたい。雄高を支えてあげられるほど。こんな嫉妬に悩まされたりしないくらい、強くなりたい。
情けない俺は、子どものように泣きながらいつのまにか眠っていた。
昼近くに俺を起こしたのは、水琴からの電話だった。
◆
図書室で落ち合った水琴は、遠くから俺を認めるとあからさまに怪訝な顔をした。それはもっともなことかもしれない。今日の俺の格好ときたら……。
水琴は新聞のコーナーにパフスリーブのワンピース姿でたたずんでいた。俺を見つけた時点で、新聞をラックに戻すと、小走りで駆け寄って来た。
「ヒコくん、どうしたの?」
帽子は好きだから、たいてい被っている。でも、今日はめったにかけないブルーのグラスまでかけてる。泣いて、目が腫れているから。
「う、ん」
曖昧に返事をした。いつも通りにしなきゃ、水琴はよけい不信に思う。できると思っていた。思っていたけど、無理みたいだ。
「タカくんと、なんかあったの?」
そう尋ねられたら、もう胸が詰まって目頭が熱くなる。駄目だ。やっぱり、俺には雄高のようにクールに振る舞うなんてできない。
「ケンカした……」
水琴は瞬間目を見開くと、力無くうなだれる俺の腕を取って、図書館と校舎とをつなぐテラスへと連れ出した。
木陰になってるベンチに俺を座らせると、手際よく自販機から冷たいコーヒーを買って来てくれた。
「信じらんない。ヒコくんとタカくんがケンカするなんて」
隣に腰を下ろすと、水琴はどこか呆然とした口調でつぶやくと、お茶を口に運んだ。俺も紙コップのコーヒーを一口すする。ちゃんとブラックだった。水琴は俺の好みをきちんと把握しているんだな。
「雄高は俺よりも勉強のほうが大切みたいだ……。それに教授との仲とか色々勘ぐったせいで、雄高に当分会わない、頭を冷やそうって言われた」
「そ……う」
答えあぐねるように、水琴は中途半端なあいづちをうった。安騎野のことはさすがに言えなかった。
「水琴はさ、武市から『俺のものだ』とか言われたら、どう? 嬉しくない?」
「ん……嬉しいよ。……けど」
水琴は背筋をすっと伸ばして、俺のほうは見ないで答えた。
「けど、たぶん怒る」
「なんで? なんで怒るんだよ」
顔をあげると、少し上気した頬の水琴がいた。座ってもやっぱり小さいその体から、えもいわれぬ気迫を感じて、俺はちょっとたじろいだ。
「そんなの対等じゃないから。だって、あたしはあたしの意志で武市が好きなんだもん。『もの』なんかじゃない。誰かがいなきゃ、誰かに好きだって言ってもらえなきゃ、一人前じゃない、なんてイヤだよ。武市がいなかったら、顔もあげられないなんて情けない人間にはなりたくないもん。武市がいればとっても嬉しいけど、それがすべてじゃないはずだから……」
俺はぐうの音も出なかった。どうしてそこまで厳しい考えを持てるんだ? 時々水琴がわからなくなる。雄高もかなり自分に厳しい奴だけど、それ以上に戒律のような価値観を貫こうとする水琴が怖くなる。
なんで、こんな小柄でぱっと見た目可愛い女の子が……。そんな俺の態度に気づいたのか、水琴はちょっと笑って言葉を続けた。
「母親はあたしに読書の楽しみを教えてくれた。そして、兄にかかりっきりになった。それを恨むわけじゃないよ。しかたないよね、兄貴は優秀だもん。手をかけたくなるのもわかる。でもねぇ長いこと本ばっかり読んでいたら、いつのまにか立派なフェミニストになっちゃった……やな女だなあって自分でも思うけどね」
最後は悲しそうに笑った。自分を皮肉るように、自嘲ぎみに。そんな水琴が痛々しく思えた。
「辛くない?」
「強くなりたい」
水琴はようやくほほ笑んだ。けれどそれには強い意志が感じられた。
「辛くても、もう少しだけ強くなりたい。ヘンかなぁ?」
「そんなことないよ。俺もゆうべ思った。強くなりたいって」
「そっか。でも強いってことは、きっと人に優しくできるってコトだと思うんだ。ヒコくんは、ホントはタカくんに優しくしたかったんでしょ? 傷つけたくなかったんでしょ? ケンカしながら後悔してたんでしょ?」
なんで水琴には分かるんだろう。ぎざぎざにささくれた俺の胸の内を優しく癒すように、水琴は言葉を紡ぐ。
「それでね、きっとそのことはタカくんも分かってるんだと思うよ。だから、当分は会わないで、冷静になろうって」
それくらいは俺にも分かるような気がした。
「うん。でも、悲しかった……」
夏休みになるのに、この先一カ月以上も雄高に会えないのかと思うと、悲しくて、寂しくてしょうがなかったんだ。弁解の余地さえ奪われようで。もう二度と俺のことなんか相手にしてくれなくなるんじゃないか、なんて不安になって。
考えてみれば、雄高はあんなふうだから、結構もてるんだ。同性からそれとなく誘われることだってあるみたいだし、仮に俺とわかれてもすぐに別の恋人ができるんじゃないかな。相手には不自由しないよ、きっと。
俺なんかよりも、もっと雄高にふさわしい相手が……。例えば教授のような。
そう考えると、自分が雄高に釣り合わないちっぽけな存在のように思えて、情けなくて情けなくて。
長い沈黙のあいだ、水琴はなんにも言わずにただ座っていた。ただ隣にいてくれた。従順な犬のように。蝉の声は容赦なく降り注ぎ、紙コップの中の氷はとうにとけていた。
やがて、四限目が始まる時間が迫ったとき、水琴は静かに立ち上がった。
「次、別々だけど講義に出られる?」
「うん。出なきゃ、試験前だしな。とにかく出席はしておく……」
「じゃあね」
それきり何も言わずに教室へ向かおうとした水琴の背中に俺は声をかけた。
「水琴、ありがとう」
くるりと振り返った水琴は、ほほ笑んで手を振った。そのまま、他の学生たちの中に紛れてしまった。
水琴が友だちでよかったと思った。思い悩んだことはほんの少しだけ軽くなったような気がする。それはほんとにわずかなことだけど。今の俺にはありがたいことだから。
講義に出よう。それから、試験だってある。雄高がいなくて、俺は俺の日常をこなす以外、今はできることなんかないから。
そうは思っていたけれど、散々な結果を残して前期の試験が終了した。夏休み明けには、いやがおうでも追試の嵐だということは、火を見るよりもあきらか……だった。
◆
雄高のいない夏。
覇気に欠ける俺は、そのまま実家へ帰った。実家にいてもすることなんか、なんにもないのに。そんなわけで日が高くあがっても、俺はベッドの中でふて寝していた。
「お兄ちゃん、お兄ちゃん!」
と、唐突に母屋に通じるドアを勢いよく開けて、末っ子の千乃が飛び込んできた。
やばいっ、鍵をかけ忘れてた、と思う間もなく、そのまま千乃はベッドにダイブした。
「でっ!」
がつん、とむこうずねに衝撃が走る。まだ八歳とはいえ、侮れない力だ。と、いうか体重。しばし口もきけずに、膝をさすって体を丸める。
「ねぇ、起きてよ」
千乃は俺の頭を小さな手のひらでぺちぺちと叩きながらベッドの上で暴れた。
「……起きてる。起きるから、おりろ」
「はーい」
しかたなく、起き上がる。実家に戻ってから連日これだ。おちおちゆっくりともしてられない。夏のバイトは決めていなかった。さりとて勉強なんかする気も起きない。ただ、暑くて暇なだけの夏。
着替え終わって振り返ると、椅子に座って足をぶらぶらさせながら千乃が出し抜けに尋ねた。
「ユタカくんは? あそびにこないの? とまりしないの?」
いきなり胸に突き刺さるようなことを、こいつは。俺は千乃の三つ編みをつんつんと引っ張りながら答えた。
「雄高は勉強で忙しいの」
「お兄ちゃんはベンキョウしないの?」
あああっ! コドモは容赦ない。千乃には俺の宿題のことなんかわかるはずない。千乃にとって宿題は『夏休みの友』だから。
「……ご飯を食べたら、勉強しにでかけるよ。千乃も宿題しろよな」
と、嘘をつく。とりあえず家から脱出しなきゃならない。
「うん」
千乃につき合わされちゃかなわん。背中に飛び乗った千乃をおんぶしたまま台所へ向かう。本日の妹たちのスケジュールを頭の中でざっと思い返す。
確か、中一の十子は部活で学校に行ってるはずだし、小五の百世は日舞のお稽古。小二の千乃の英会話は午後からだったかな。母親は、えーと、わからん。百世についていったのかも知れない。ひとり置いて行かれたせいか、千乃は完全に暇を持て余している。
実は、さっきみたいに部屋に飛び込んできた千乃に、見られたことがあった。
何をって、その……雄高と一緒に寝ているところを。もっともなにもしてなかったんだけど、でも二人とも裸だった。
ぽかんと口を開ける千乃を前にして、俺はひたすら慌ててうろたえるだけだったけど、雄高ときたら、全くの平常心。例の笑顔で千乃に話した。
「ゆうべは暑かったから、裸で寝たんだよ。びっくりしちゃったかな。他の人に話すとやっぱりびっくりされると思うから、これは僕と千乃ちゃんの秘密にしようね」
にっこり、とほほ笑みながら雄高は千乃に小指を差し出した。
『秘密』という大人びた言葉に千乃はしばし恍惚とし、うん、と大きくうなずくと、雄高とものすごく嬉しそうに指切りをしたのだ。 ……籠絡しやがった! 俺は雄高が少しだけ怖かった。こいつ、もしかして心理学なんぞを勉強して、他人を操縦するのがえらくうまくなったんじゃないか? って。
雄高は人当たりのよさと、人を見抜く聡明さとで、誰でも手玉に取れるんじゃないか。あいつが本気になりさえすれば、手に入らないものなんか何もないのかも知れない。
つまり俺は、ただ雄高の手のひらで踊っているだけなのかな。
長いつき合いのはずなのに、俺には雄高は永遠の謎だ。
取り合えず出かけることにしたのはいいが、行くところはこれといってない。だから、以前バイトをしていた書店に足が向いた。父親からもらった中古のセダンを運転して国道の店まですぐだから。
「いらっしゃいませ」
店に入ると、見知らぬショートヘアの女の子が元気よく挨拶をした。あれ? 若林さんじゃない。少しの違和感を覚えながら店長を探すと、奥のコンピュータの前で検品か何かの仕事をしていた。
「こんにちは」
「灰智! 久しぶりだな」
店長は少し太っていた。そして、髪が薄くなってた。けれど、相変わらず仕事熱心らしい。今も話をしながら、それでも手を休めない。
「ども。若林さんは?」
「ああ、産休に入ったんだ。来月、生まれる予定だよ」
へえ、御目出度だったんだ。何もしらなかった。ほんと、ここに来たの一年ぶりくらいだもんな。
「そうだ、うちの娘の写真見る? すごく可愛いよ」
唐突に頼みもしないのに胸ポケットからパスケースを取り出し、縫いぐるみを胸に抱いた色白な女の子の写真を見せた。
「ほら、可愛いだろう? うちのお姫さまは」
ああ、もう娘にめろめろなんだな店長……。そのパスケースに今も弟さんの写真も入れてるんでしょ。俺は見たことがいなけど。実をいうと、怖くて見られない。雄高と安騎野の話では、どうも俺とそっくりらしいから。なまじのホラーよりも怖いじゃん。
「いくつでしたっけ。三歳くらい」
「そう、もうすぐ三歳。すくすく育ってくれて嬉しいよ。ところで、灰智おまえ暇?」
せっかちな店長らしく、出し抜けに話題が変った。
「……ヒマ、です」
「あのさ、バイトしない? お盆から、そうだな9月のあたまくらいまでで悪いんだけど。若林さんが休みに入っちゃったし、坂井君はもう就職活動で地元に帰っちゃったし、どうにもならなくてさ、人手不足なんだ。新しい子は入ったけど、まだまだなんだよ。お前なら一通り仕事はわかってるし」
「いいですよ」
棚からぼたもち。ラッキーかも知れない。ここんとこ、イイコトなんか何にもなかったらちょっと嬉しい。それに、追試代くらい自分で用意しないといくらなんでもマズイ。
「碓氷は元気か? どうしてる」
「月末に大阪まで学会に行くって、今はそれの準備で忙しい、みたい、デス」
どことなく歯切れ悪く俺が答えると、店長は少し意味ありげに俺を見た。あれっ、雄高はもしかして俺とのことを店長に話していたのかな?
カミングアウトはしているって雄高は言ってたけど。でも、俺とつき合ってるってまで、言ってた? わずかばかりドキドキしたが、それ以上は聞かれなかった。
「じゃ、来週から頼むわ」
◆
なんで、心理学を専攻したいんだって雄高に聞いたことがある。
「人の心が、いちばん不思議だと思うから」
と、雄高は答えた。その意味は俺にはきちんと把握できない。雄高自身が体験した、不思議と思える人の心の動きはなんだったのかな。
「誰かを好きになること」
ぽつりと、雄高は言ったことがある。雄高は俺のことを何度も好きだって言ってくれたけど、俺よりもいまだに安騎野のことが好きなのかもな。
それとも水琴がいうように、『好きの意味が違う』のかな。俺にはわからない。そんな難しいことは。分かるのは、雄高が好きでたまらないということ。それだけ。
文庫を補充しながら俺は何を考えてんだか。さっきも店長に手が止まってるって注意されたばかりなのに……。時給下げられるぞまったく。気を取り直して仕事にかかろう。
雄高からは全く連絡なしだ。しないといったら、しない。なんであんなに頑固なのか。水琴に話したら、きっと信じられないって言われるよ。ほんと、雄高は見かけに騙されちゃだめなんだぞ。俺なんか、なんど電話をしようと思ったことか。
でも、ぐっとこらえるのは、これ以上雄高に嫌われたくないから。だから、我慢する。いいよ、我慢することなんか慣れてるから。コドモのころからずーっと、我慢してたからさ。八月もあと十日あまりで終わるから、そうしたら雄高に会える。だから、もう少しだけ辛抱する。
落ち込みがちの気分も、バイトに出るようになってから大分救われた。やっぱり体は動かしていたほうが精神状態もいいらしい。
「灰智さーん!」
レジからの声に、俺は顔をあげた。あれは、新入りの奈緒ちゃんが助けを求める声なのだ。なにかトラブルでもあったのかな。慌ててレジに駆けつけると、そこには意外なことに水琴が立っていた。
「あ? 水琴」
「ヒコくん、久しぶり!」
ポニーテールに髪をまとめて、海にでもでかけるような格好だ。
「あれ、どうやって来たの、ここまで。駅から歩いて来た?」
「ちがう~。車の免許を取ったんだよぉ、ほら」
と、水琴は自慢げに免許証を俺に見せた。夏休みに入ってから教習所に通い始めたのかな。知らなかった。
「がっ、交付されたの三日前じゃないか。車で来たんだ、ここまで。大丈夫か?」
水琴の住むM市から店まで、車でも小一時間。国道を南下するだけといっても、交通量が多いルートだ。こっちが青くなる。
「うーん。途中怖かったけど、なんとか。それよか来週、M市の花火見に来ない?」
来週の花火……そういえば毎年八月の下旬に花火大会があったな。河原でやるやつ。去年は、最後のさいごだけ雄高とみたっけ。
「いいよ。バイトが終わってからでも間に合うよな。七時に駅前のコンビニでいいかな?」
水琴も武市がまだ実習から帰らないから、暇を持て余して教習所なんかに通ったんだろう。一応、武市からも頼まれているから、水琴のお守りを。
「灰智さん。デートの約束ですか?」
レジの奈緒ちゃんが、からかうように俺たちを見た。
「違うよ。遊びに行く約束ってだけで」
「それをデートと言うんじゃないですか」
真顔で言われると返す言葉がない。そうなのかな。あんまり意識してないが。隣を見ると水琴も戸惑うようなあいまいな笑みを浮かべていた。
「じゃあ、またね」
「うん、七時に駅前な」
水琴は、俺に軽く手を振り、奈緒ちゃんにお辞儀をすると帰っていった。水琴が車の運転ね。あれで、もしかして武市のいる病院まで行くつもりじゃないだろうな。あんな山の奥まで。危ないって釘を刺しとこう。今晩電話しようかな。
「灰智さんの彼女? かわいい人ですね」
「友だちだよ。大学の」
そう答えると奈緒ちゃんは複雑な顔をした。うつむくと、顎のラインできっちりと揃えられた髪が前に流れた。
あれ、奈緒ちゃん俺に気があるんだろうか。と、自惚れる。
「俺も水琴ーさっきの彼女もお互いの恋人が今忙しくて会えないの。だから、俺のことを誘ってくれた、それだけ」
「……あの人、灰智さんのこと好きですよ」
な、なんでいきなりそんなことを言う? 奈緒ちゃん。うろたえる俺に奈緒ちゃんは黒目がちな冷静な瞳で付け加えた。
「灰智さんが、違うって言ったとき彼女傷ついた顔しましたよ。ほんの一瞬だけど」
武市から言われたことを俺は思い出していた。俺が気づかないだけなのか? はたからはそんなにあからさまに見えるものなのか?
「思い過ごしだよ、奈緒ちゃん」
俺はそう答えると、持ち場へと戻った。しかし、胸の中にわだかまりが残った。
水琴に確かめたじゃないか。俺は好きだけど、好きの意味が違うって。俺はそれを信じる。武市や奈緒ちゃんの見解が思い過ごしなのだと。
◆
駅前で落ち合った水琴は、髪をアップにして藍色の地に朝顔模様の浴衣を着ていた。こんな姿は、きっと武市に見せたいんだろうな。 多くの見物客と一緒に、橋の上から花火を眺める。上空に大輪の花が咲くたびに、水琴は小さな歓声を上げた。水琴は嬉しそうに、時折俺を見る。俺もつとめて明るく振る舞おうとした。
花火を見上げながら、けれど胸の中は雄高のことでいっぱいだった。
ここに来る前、懐かしい人に会った。電車に乗るほんの少し前に。
「史彦さんじゃないですか」
そう声をかけてきたのは、幼い男の子の手を引いたコウさんだった。雄高の家に長いこと通いの家政婦をしている。俺もコウさんの手料理を御馳走になったのは一度や二度ではない。
一通りの挨拶がすんでから、コウさんはため息をついた。
「雄高さんは、お元気ですか?」
お孫さんだろうか、コウさんにまとわりついて元気がいい。コウさんはそれを上手くあやしながら言葉を続けた。
「雄高さん、大学に入ってから一度もおうちに戻っていないので……」
「え?」
「なにか聞いていませんか? 高校を卒業したあたりに、奥様と言い争いになったようで……お手伝いのわたしが口を挟むのはなんなのですが、史彦さんなら雄高さんのことよくご存じですし」
なんか頭のなかがごちゃついて、どんな返事をしたのか忘れた。確か、雄高は元気だし家に帰らない理由は知らないけれど、一度くらい帰るように伝えると、コウさんに伝えたような気がする。
……雄高、おまえなにやってんだよ。俺になんにも言わずに。
独立したくて、奨学金を受けたりバイトしているのは知ってる。母親とうまくつきあえないってことも知っている。
だけど、家に帰っていないなんて一度も聞いた事ない。肝心なことは何一つ教えてくれない。俺はお前の相談にものれない奴だと思われているのか?
そんなに頼りないか、俺。確かに頼りないだろうな。独占欲強いし、親のスネかじって、てんでコドモだし。でも、愚痴を聞いてやるくらい俺にだってできるのに。
こんな気持ちを引きずったまま、水琴と花火を見るなんて。
「きれいだね」
水琴は打ち上がる花火を見上げながら言った。ごめん、俺、雄高と見たかったよ。その懺悔も含めて俺は優しく声をかけた。
「もうすぐ武市の実習も終わるな。そしたら、俺の地元で来月お祭りがあるから、武市と来いよ。四人で見に行こう。山車なんかキレイなんだぜ」
「……ヒコくん、タカくんと仲直りできそう?」
「わかんね。でも俺は会いたくてたまらないよ。水琴も武市と会いたいだろう?」
うん、と水琴は答えたけれど、その表情は暗くてよく見えなかった。奈緒ちゃんの言葉を思い出して、俺は少し落ち着かなくなる。
やがて川面に灯籠が流れて来た。本来のメインは花火大会じゃなくて、旧暦の盆に催される灯籠流しの方なのだ。俺たちは河原に降りて、小さな明かりを灯した灯籠をいくつも見送った。川岸は橋の上よりは人がまばらだった。手を合わせて、流した灯籠を見送る人達が中心だから。浮かれた気分は、この場にはあまりない。
「夏も終わりだね」
水琴はしんみりとした口調で、灯籠の橙色の明かりを見つめた。
なんにもなかった夏ももうじき終わる。今年は海へも行かなかった。ろくに遊びもせず、ただ、雄高を待っていた夏。
「後期に入ったら、同じ講義もほとんどなくなるんだね」
「うん……」
水琴は国文だし俺はシステム情報だし。一般教養が中心だった去年までとは全く別の専門課程が待っている。今までのように一緒につるんだり、待ち合わせしたり、というのは出来にくくなると思う。
「でも、それで全く会えなくなるってわけでもないさ。メールのやり取りだってできるんだし、時々は一緒に昼飯とか食おうぜ。俺、水琴といると楽しいし」
「そうだね」
水琴はようやく顔をあげると、ほほ笑んだ。なんだか、今日の水琴のようすはいつもと違う。ふだんは元気いっぱいな奴なのに。どこか体調でも悪いのかな。なんとなく不安になって、水琴の額に手を当ててみた。妹たちにするように。
「なっ、なに?」
水琴は小さく悲鳴をあげ飛びのいた。その声に俺の方が驚く。
「いや、なんか元気ないから熱でもあるのかと心配になって……」
慌てて手を離すと、水琴はうつむいた。その頬を花火の明かりが照らす。ほんのりと赤くなった水琴の頬を。
なんで? なんで赤くなるんだ? 戸惑いながら、水琴を見つめる。打ち上がる花火の衝撃波が俺の皮膚を震わせ、つられて上を向く。大音響で花火が花開くと、何かが胸にぶつかって来て俺は数歩よろめいた。
「……ヒコくん」
水琴が両目をきつく閉じ、俺にしがみつく。水琴の柔らかな感触がシャツを通して伝わり、全身が総毛立った。
「うわっ!」
悲鳴をあげ、我に返ると水琴は河原にしりもちをついていた。
「あっ……」
水琴は今にも泣きそうな顔で、それでも俺を睨みつたけた。俺……無意識に水琴を突き飛ばしてしまったんだ!
「み、水琴けがは」
手を貸そうと伸ばした俺の腕を水琴は振り払うと、そのまま何も言わずに立ち去った。俺は根が生えたように、その場から動くことが出来なかった。水琴の小さな体は人波の中にあっと言う間に消えてしまった。
一体、何が起こったんだ?
◆
残暑は続いている。俺の混乱もまだ続いている。一応今日でバイトも終わりだというのに、ろくな働きをしていないこの頃。
「灰智さん、これなに? いつの客注なの? もう終わった?」
「えーと、昨日お客さんに渡したよ」
「もう、ちゃんとチェックしといてくださいよ」
奈緒ちゃんが朝の荷物だしで、入荷伝票と注文を受けたリストと首っぴきになっているその横で、雑誌を束を解きながら俺は今一つしゃっきりしない気分で仕事をしていた。
あの一件以来、水琴との連絡は途絶えていた。家に電話をかければ居留守を使われ、携帯はいつも留守電に切り替わり、メールを出してもナシのつぶて。
肝心の武市ともまだ連絡が取れない……メールを出そうかと思ったけど、なんて書けばいいのか分からずに、出しそびれている。ホントなんて説明すればいいんだ? 水琴に襲われたって?
水琴はどうしてあんな行動に出たんだろう? たまたまよろけて俺にぶつかっただけ……な、わきゃないだろうし。考えれば考えるほど混乱するじゃないか。
「灰智、手が止まってるぞ。ただ手さえ人手が足りないんだ。もうすぐ開店なんだから、さっさとやれっ!」
店長から檄が飛ぶ。焦って手にした雑誌を運ぶ。平台に新刊を並べながら雑誌の表紙にふと目が行った。水琴がよく投稿している小説誌だ。その表紙の文字に、目が引き付けられた。
新人賞発表の文字に続いて、「矢部水琴」という名前があった。慌てて雑誌をめくる。これって水琴のペンネームだ。なんだよ、こんな表紙に名前が載るくらいだったら向こうから連絡もあったろうに、俺にそんな一言もなかった。いつもなら、落ちたとか、努力賞だったとか報告してくれるのに。
けれど新人賞の記事にたどり着く前に、後頭部をしたたか叩かれた。振り返ると、堪忍袋の緒が切れた、という顔をした店長が仁王立ちしていた。
「いいかげんにしろよ……時間を考えろ。雑誌読むなら休憩時間に読め!」
広くなった額に青い血管が浮かんでいる店長に本気でびびった。
「はっ、はい」
そんなこんなしているうちに、開店時間前からお客がちらほらと入店してきた。もう、水琴のことはいったん置いて働くしかなかった。店は動き出してしまったから。
昼の休憩時間まで、忙しく働いた。やることが山積みで、俺も今日で終わりだから中途半端な仕事は残したくなかったから、とにかく働くしかなかった。
遅番で出勤した皆に一言声をかけてから、店長と一緒に休憩時間であの雑誌を持って事務室に入った。
店長は愛妻弁当を食べながら、出版業界の雑誌に目を通している。その横で俺も雑誌を開いた。
水琴の作品『架空の庭』は、新人賞の二席に入賞していた。粗筋が紹介されている。
主人公の女の子は、大学で同性愛者の男と友人になる。始めは好奇心から接近したのだが、恋人がいながらその男に引かれていく。主人公の恋人と男の彼氏も含め、一見仲良くバランスが取れたかのようにつき合う四人だが、それぞれこの関係に不信や嫉妬を抱えている。やがて、男の彼氏に新たな年上の恋人が現れ、傷つく男を励ましながら関係が深まるかに見えたが、結局男は彼氏と縁りを戻す……。
頭が混乱する。これって、俺たちのこと? それも今現在のことを予見するような、そんなストーリーなのか? だって、これを投稿した時期を考えると、数カ月前だろうし、そうなるとこれを書いていたのは更にその前……半年くらい前。
水琴、なんで? こうなるって、知っていたのか? それともおまえ自身がこうなることを望んだのか?
雑誌を手にしたまま放心した。
水琴、おまえは俺たちと関係することで、傷ついていたのか?
昼食に持って来た弁当に手もつけず、俺は頭を抱え込んだ。
「灰智は今日でおしまいだな」
「はい」
弁当を片しながら店長が声をかけてきた。ぼうっとしたまま俺は答えた。
「碓氷とつき合ってるんだろ」
「はい」
と、何げに答えて椅子から落ちそうになった。あっ、俺今なんて言った? とんでもないことを白状してしまったような。耳が、顔が熱くなって汗が額にじわりと浮かぶ。
「そんなに慌てなくていいよ。ま、落ち着いて座れって」
穏やかな表情で店長は俺に話しかけた。胸に手をあてるとまだ心臓がバクバクいってるけど、取り合えず椅子に座り直す。
「なっ……なんで、分かったんでスか。雄高に聞いていたんですか」
「いや、なんとなく読みが当たっただけだ。お前は妙に意識して碓氷の話をしないなとか思っていたから」
と、店長は少し嬉しそうに笑った。他人の目は欺けないって事なのか。最近こんなことばっかり、ひしひしと感じる。
「大学はどうなんだ、あいつ。さぞ優等生で通ってるんだろう」
「そうです。教授のお気に入りのようです」
やっぱりなあ、と店長はお茶をすすると感嘆するように言った。
「あいつは誤解されやすいタイプだよな」
「誤解?」
意味が分からず俺は問い返した。
「そう、誤解。碓氷は外見もあの通りだし、人当たりもいいし、なまじ勉強もできるし、責任感強いし……非の打ち所がないじゃないか。だから、人好きのするしっかり者とか誤解される。でも、ホントの奴は特定の人以外には心を開かないし、けっこう臆病で淋しがりなんだと思うよ。まあ、色々あったからな。頼れる大人とか身近にいないだろう、きっと。直接じゃないけど、俺も責任の一端にあるような気がして、奴のことは気にかかるんだ」
責任はないと思う。死んでしまった弟さんのことを今更責めても意味のないことだし、雄高は出会った相手が、安騎野が悪かったんだと思う。
「始めにいっとくが、気を悪くするなよ灰智。お前と碓氷が並んだら、誰にだって碓氷のほうが大人びて見えるだろう。二人でいたら、碓氷が灰智を守る役だってみんな思うだろう」
ぐうの音も出なかった。一応店長は断りをいれたが、フォローできないくらいホントのことだ。店長はそのまま続けた。
「でもな、もろいのは碓氷の方だよ。あいつは気負ってるからそう見えるだけで……むしろお前の方が奴を支えているんだよ」
「え、俺が、雄高を?」
そんなことあるはずない。こんな駄目な俺が雄高を支えているなんて。
「信じられないか? 多分、我がまま言ったり本気で喧嘩したりするのは、お前に対してだけだと思うぞ。まわりに愛想をふりまいて嫌な顔ひとつしない奴が、素の顔を見せるのはお前にだけだよ、きっと」
俺にだけ? 確かに、そうかも……。よく怒るし、不機嫌な顔も見せるし。でもそれは俺に対して腹を立てたりするからじゃないのかな。
「お前は知らないと思うけど、碓氷が俺にお前の話をするときな、とても穏やかな顔をするんだ」
店長に言われて、目の辺りがぽうっと熱くなるのが分かった。そんなことって、あるのかな。面と向かって言われると、なんとも面はゆくて、手のひらにまで汗が浮かぶ。
「でっでも、俺しょうもない奴だし、雄高といても気後れすること多いし……」
「いいんだよ、別に。碓氷にとってはお前がいてくれるだけでさ。そんなに卑屈なるなよ、俺は知ってるよ、お前はいいやつじゃないか」
こんなふうに励まされるなんて正直思ってもいなかった。同性愛者は社会から奇異の目で見られるだけで、まして年長者からこんなふうに声をかけてもらえるなんて。
「俺は、弟の二矢ことは理解してやれなかったんだ。今でも後悔している。せめてお前たちには幸せになって欲しいと思うんだ。もっとも、男同士で幸せなにるってどういうことなのか、俺にも具体的にはよく分からないけどさ」
店長はちょっと笑って薄くなりかけの頭をかいた。俺も一緒に笑った。
「店長は安騎野のことを許したんですか?」
「いや、今でも許していない。でも、もういいかなって気はする。奴を責め続けても弟は帰らないしな。奴なりに苦しかったことは碓氷から聞いたし」
両手で湯呑み茶碗を包みながら、店長は遠くを見るような目つきをした。
もういい、か。どんなに苦しい出来事でも、いつの日にか『もういいや』って気持ちになれるんだろうか? 店長はそうなるために十年以上の月日が必要だった。
なら、今度の雄高との喧嘩もそれぐらいしたら、ただの笑い話になってるんだろうか。そうなれたらいい、と俺は思った。
「あのな、笑うなよ灰智。娘がな、子どものころの二矢と似ているんだ。ああ、かえって来たんだなって思ったよ……」
店長は照れ笑いを浮かべた。
バイトの最後の日はこんなふうにして終わった。
知り合って間もないころ、水琴は俺の三人の妹たちのことを聞いてそう言った。
「知らない? ピーターの妹。フロプシー、モプシー、カトンテール……」
今までそんなことを言う奴とは会ったことがなかったから、とても印象に残っている。
最初に話したのはいつだったか、いまひとつ思い出せないけど。
まだ半分夢うつつの俺は、体にのしかかる重さに辟易する。なんだって、こんなに重いんだよ。タオルケットがこんなに重いはずないだろ、まったく……。と、はねのけようとした俺の手を誰かがしっかりと握った。
「みこと……」
はあ? 腕はそのまま、ぐいっと俺を引っ張った。なんだ、なんだ! パニックになって正気になったのは、武市の顔が目の前に迫ってからだった。
「たっ、たけち!」
寝ぼけている。酒臭さに吐き気を感じながら、恐ろしい展開を思い描いて、俺は必死で抵抗した。ここで押さえ込まれたら、絶対に逃げられない。
「みこと」
武市の厚い胸板に取り込まれそうになる。いかん、このままじゃ!
「うわぁぁ!」
とっさに膝で思いきりみぞおちに蹴りを入れてしまった。げっ、と声をあげて武市は沈黙した。
「わっ、わりィ……」
武市は唸りながら目を開けると、手探りで眼鏡を探した。まだ部屋の中が暗いのだ。
あ、暗い。今何時だ、昨夜あれからどうしたんだっけ? と、髪をかきあげて再びぎょっとする。上半身裸……じゃない、トランクス一丁だった。武市も俺も。なっ、なにがあったんだっけ? おぼろな記憶を必死でたどる。
ゲーセンで入店を断られて、気分が収まらなくて、じゃあ俺の部屋で対戦だ! とか言って武市と一緒に、ゲームした? それを裏づけるように床の上には、ゲーム機とソフトが何本か乱雑に散らばっている。
に、しても何ゆえトランクス一丁? あ、エアコンが止まってるからか。
「ヒコ~」
眼鏡をかけて多少正気に戻った武市が、腹を押さえながら低い声で呻いた。
「蹴ったな? 思いっきり、蹴ったな」
「ごめん、ごめんってば。だっておまえ寝ぼけて『水琴』とかって言って……」
ぐいと詰め寄ってくる武市に恐怖を感じて後ずさる。
「……寝ぼけてじゃないって言ったら?」
えっ? 寝ぼけて、ない? って……。なんとなく、顔から血が引けた気が。
「本気だって、言ったら?」
どん、と背中が壁にぶつかる。積んでいた雑誌が床に崩れた。逃げ場を失う俺になおも武市はにじり寄る。
がっ、と俺の左手をいきなり取ると、そのまま床に押さえつけらたれた。
「うっ!」
真顔の武市が俺を見下ろす。なっなんだよ、この展開は!
「まてっ、武市、おっおまえノンケだろうがっ!」
「このさい何でもいい。最近、水琴がやらしてくれないから、たまってんだよ」
「だからって……!」
絶対イヤだ! 暴れる俺の足をすくい取ると、武市はそのままのしかかって来た。
「……だぁ!」
ほんとの、ほんとの叫び声が喉元までせりあがって来た。と、唐突に玄関がかちゃんと開いた。
「なーんてな」
といって笑った武市は玄関を見たまま固まった。
「っあ、タカ!」
なにっ? 武市に再び蹴りを入れて起き上がると、呆然とした雄高がいた。今のシーンは、どう考えても『武市に組み敷かれる俺の図』だ。
「ゆ、雄高、誤解だ! 誤解っ! 武市、そーだよなっ」
武市は腹を抱えながら、うんうんと頷いたが、それを見たのか見ないのか、雄高はくるりと身を翻して止める間もなく部屋から駆け出した。慌てて追ったが、階段にたどり着くと雄高は自転車で白々と明けかけた朝の町に消えていった。
なんで、なんで! タイミング悪すぎ! がっくりして部屋に戻ると、服を着た武市が神妙な顔つきで正座していた。
「武市ぃ」
びくん、と小山のような体を震わせると、武市はいきなり土下座した。
「すまん、ヒコ。悪ふざけが過ぎた。タカには、俺から詫びを入れておく。だから……」
「だから?」
腕組みして俺は武市の後頭部を穴があくほど見つめた。ちくしょう、気持ちいいほど刈り上げやがって。
「このことは、水琴には黙っていてくれっ!」
がくっと俺の肩が落ちる。この期に及んで、心配なのはそれかい。怒る気力も失せる。
「言えるかよ、こんなこと。実は武市はバイだったなんてさ」
「ちっ違うっ、俺は、俺はストレートだっ」
分かってるよ、ちょっと意地悪したくなっただけだ。心配げに俺を見つめる武市に、手を振ってみせる。
「もう、いいよ。お前に悪気がなかったのはもう分かったら。水琴にも言わない。約束するから」
膝に両手を揃えて、ホント? と首をかしげる、体に似合わぬ動作に思わず吹き出す。怪訝に俺を見る武市に、もう一度約束する。
「でもさ、こんど迫って来たら拒まないからな」
「……」
顔面蒼白で武市が硬直した。ほんと、からかいがいのある奴。
「ウソにきまってんじゃん。もういいから、とにかく家に帰れよ」
「うっうん」
ぎくしゃくと首を縦に動かすと、武市はカバンを手にした。もう、始発のバスが動き出した時間だ。家にだって帰れるだろう。
「じゃ、ほんとに悪かったな」
玄関で見送る俺に、武市はどこか立ち去りがたそうにしている。
「夏じゅう、会えないけど、水琴のこと頼むな」
「うん……」
そう返事はしてみるものの、いいのか? 会って欲しくないのが本心じゃないのか。まあ、全くの馬の骨とつき合われるよりもまだマシって意味合いかな。
複雑な気持ちで武市を見送った。
とにかく、体がだるいや。もうひと寝しないと、いい考えも浮かびやしないだろう。
◆
『おかけになった電話は、電波の届かない範囲か、電源が入っておりませんー』
ああ、またかよ! 朝からなんべんかけてもこの状態。……雄高め、電源切っているな。俺はいらいらしながら、携帯電話の小さなディスプレイを見つめた。
ふだんは、緊急の用事以外は絶対に携帯にかけるなって言われてるけど、今は『緊急』なんだよ。雄高にだってそうなはずだ。なのに、電源を切ってる。つまり、それだけ俺に腹を立ててるって証拠かな……。
もう、昨夜から失態続きだ。踏んだり蹴ったりってやつ。
神さま、俺なにか悪いことでもしたんでしょうか?
ため息を吐くと通話を切った。大学のパティオに据えられた木陰のベンチの背もたれに体をあずけて真昼の空を見上げた。
真っ青な空に、入道雲。絵にかいたような夏の空だ。
もうすぐ夏休みだな……。その前に試験があるけど。割りのいいバイトを探して……たまの休みには雄高と遊んだりできたらいいんだけど。
そうするには、今朝のことを説明して……昨夜のことを謝って。
でも、昨夜の件については謝るってのは違うよな。なにを謝るんだよ。恋人として当然のことをしたまでだよ! あの相馬教授の顔を思い出すと、むかっ腹が立つ。
なんだよ、親しげに肩に手なんかのせやがって。
雄高も雄高だよ。気軽に体を触らせるなよ、俺以外に。昨夜のことで怒りを再発させると、さっきまで気持ち良かったはずの青空さえ憎らしくなって、キャップのツバをぐいっと引き下げると、そのままベンチでふて寝したくなる。
「ヒコくん、お昼食べちゃった?」
水琴の声に驚いて体を起こす。今日は髪を二つのシニヨンにまとめて、タンクトップにシースルーのブラウス、白のサブリナパンツの水琴が俺の前に立っていた。
確かに、水琴はかわいいとは思うけど、やっぱり違うな。ソソられる、って点では今朝の武市の方がよほど……。って、何考えてんだよ、俺。
「? ヒコくん……。なんか、ヘン」
俺の様子を敏感に察したのか、怪訝な顔で水琴は俺を見た。心の中を見透かされたようで、気まずくなった俺はうつむいた。
「どしたの、元気ないね。なんかあったの?」
半分は水琴のせいだよ、と言いたくなったけどぐっとこらえる。一つを話すと、全部を打ち明けないと話にならないから。取り繕って、うまくエピソードをまとめられるほどの器用さを自分に求めてはいかん。ならば、ストレートに聞いてしまえ。
「水琴さ、俺のこと、好き?」
鳩が豆鉄砲を食らったように、水琴は一瞬ぽかんとした。わずかな沈黙が流れた。水琴は瞼を二三回しばたくと、当たり前のように言った。
「好きに決まってるよぉ。ヒコくんは、あたしのこと、キライなの?」
「そんなコトあるわけないじゃん。そうじゃなくって、えーーーーと」
あまりに素直な反応に、今度は俺が焦る番だった。
「じゃ、たっ武市は、武市は……」
「好きだよ」
と、水琴はゆっくりとほほ笑んだ。これ以上ないというくらい良い笑顔で。
「大好き」
……聞いた俺がバカでした。思いっきりノロケたな、今。こんなんで、嘘をついているっていうなら、水琴は雄高以上にポーカーフェイスだよ。
「なんていうのかな、二人の『好き』の意味合いは微妙に違うけどね。わかる? そこんとこ。わかるよね、ヒコくんなら」
ね、と言われたら頷くしかなかろう。がっくんと脱力して首を縦にふる。でも、おかげで肩から荷がおりたような気がする。思わずベンチで脱力した。
とたんに、空腹感を覚えた。昨夜飲み過ぎたせいで気持ち悪くて、今朝から何も口にしていないから。
「腹ヘッタ。学食空いたかな……。水琴はもう食べちゃった?」
「あたしもまだだよ。講義が延長しちゃって。この時間ならもうピークは過ぎたと思う」
水琴は腕時計を見ながらそう答えた。じゃ、行こうか。俺ははずみをつけてベンチから立ち上がって、水琴について行った。
雄高が携帯に出ないら、強行突破だ。今夜はアパートの前に張りついてやる。
「ヒコくん、何食べる?」
「Aランチ!」
ひそかな決意と共に、Aランチの魚の種類を推測していた。
◆
雄高のバイトが終わるのは、十時過ぎのはずだから少し時間に余裕をもって川沿いにある、雄高のアパートまで行った。
俺のワンルームの部屋と比べ物にならないほど、古くてぼろい木造二階建のアパートだ。築二十年? だからこそ広さの割に家賃も安くていいよ、と雄高は明るく言ったけど初めてここに来たときに、足がすくんだ。
だって、安騎野の住んでいたアパートによく似ていたから。
雄高の部屋は二階の端にある。まだ明かりはついていない。こうして見上げるとき、俺のなかには消しがたい思いが去来する。
雄高が安騎野とつき合っていた……あの夏。安騎野の身辺を探って、ただ復讐をしようと思っていた俺。そんなとき、雄高が安騎野の部屋に入って行くのを見た驚き。
一晩中窓を見つめていた。あの部屋で安騎野と雄高は抱き合っている。そう考えると気が狂いそうだった。なんどとなく、踏み込んでやろうかと思い詰めた。
切なくて、切なくて、泣きたかった。
だから安騎野に抱かれている雄高を見たとき、現実をつきつけられてショックだった。
ソウヤッテ何度モ安騎野トヤッテタンダナ!
見ないでくれ、と雄高は叫んだ。けれど俺は見てしまったんだ。
雄高をやるときにそれを思い出さないと言えば嘘になる。雄高も思い出すのだろうか。安騎野との行為を。
俺はゆっくりと階段を登ると、雄高と交換した合鍵をポケットから出した。
勝手にあがって明かりをつければ、雄高は俺がいることがわかるだろう。そうしたら、もしかしたら、部屋に戻らないかもしれない。意外と、意地っ張りだからな、雄高。
俺は、ドアの前に腰を下ろして、階段の方を見た。階段の頂上に取りつけられた、裸電球のあかりに虫たちが集まり、乱れ飛んでいる。
アパートの六戸あるうち四部屋に住人がいる。みんな、ワケアリな住人ばかりらしく雄高のような貧乏学生がもう一人、他所で食い詰めたようなうさん臭い老人と、何の仕事をしているのかまったく不明な中年女性とが住んで居る。
安普請のせいで壁が薄いから、それぞれの生活音が聞こえてくる。テレビの音、水を使う音、ダンスミュージックも聞こえる。
手足を伸ばして床に座り直したとき、俺の指先に堅いものがぶつかった。
雄高の部屋のドアの下に半分押し込まれたハガキだった。郵便受けなんてないから、配達員が隙間にすべりこませたらしい。
なにげなく手に取ると、それは暑中見舞いだった。シンプルな、けれど趣味のよさが伝わる海辺の波うちぎわの写真だった。
手作りらしい。差出人の名前を明かりにかざして見た。住所はS市。だいぶ離れた海沿いの大きな街のものだ。名前は、知らない……。『峠 隆一郎・司』
誰? 峠なんて知り合いが雄高にはいたっけ? 前の街での知り合いかな……。以前の住所に近いし……。でも、この名前の組み合わせは奇妙だ。親子? でも連名って普通なら夫婦とかそういうのだよな。これってどうみても両方とも男の名前だと思うんだけど。と、そこまで考えたとき、名前に再び目が行った。 ……司?
司……安騎野か! すっかり忘れていた、安騎野の名前は司だ。
雄高の安騎野の名前を呼ぶ声まで耳に蘇った。狂おしい声で叫ぶ、雄高の声を。
なんで、雄高はいまだに安騎野とつき合いがあるのか。俺に内緒で連絡を取り合っている? どうして、もう終わったはずだろう?
ハガキを持つ手がふるえた。嫉妬と怒りで、めまいがする。
だから、階段を上がる足音に気づかなかった。
「史彦……」
はっと顔をあげると、いつものように自転車を担いでいる、どこか疲れたような顔の雄高がいた。俺と雄高は通路の端と端とで見合った。
「雄高」
雄高は、ゆっくりとした足取りで部屋の前までやってきて、俺の手の中にあるハガキに目を留めた。瞬く間に表情が険しいものに変わる。
「勝手に見るなよ……!」
口調は静かだが、怒りを込めた目つきで俺を睨んだ。そのままハガキを引ったくると、胸ポケットにおしこんで、部屋の鍵を開ける。
「なにしに来たんだ」
あまりのことに、口をきけなかった。こんな、こんなことってあるか? 今までにここまで冷たい態度の雄高なんかみたことない。だから、反対に腹が立った。
「昨夜と今朝のことを謝りに来たんだよ! でも、雄高はそんな事はどうでもいいみたいだな」
雄高は俺に背中を見せたまま、自転車を部屋に入れると、再び鍵をかけた。振り返った雄高の顔は青白く見えた。
「大声出すなよ、他所に聞こえる。外に行こう」
「そんなの、かまわねぇよ!」
雄高は俺の声をそのまま受け流すと、ふっと視線をそらして階段へと向かってしまった。しかたなく、俺もそれに続いた。怒りに拳を握りしめたまま。
大きな通りに一旦出て、コンビニの角を曲がるとひとけが失せる。そのまま百メートルも行くと河原に出ることができる。その間、二人ともなにも話さなかった。俺は話したいことが、聞きたいことが山ほどあった。
今朝の武市とのことは、まったくのジョークだということを手初めに、相馬教授のこと、それよりも安騎野のことだ。
明かりもほとんどない、河原は静まり返っていた。川のせせらぎだけが響いて、夏の草いきれでむせ返るほどだ。むっとするような湿気まじりの生暖かい空気が川と一緒に岸辺にも流れる。
雄高は川の流れに目を向け、両手をジーンズのポケットに入れたまま、微動だにしない。すこしうつむきかげんに立つ姿勢には、不思議と怒りやいらだちは感じ取れない。
「今朝のことは……」
俺が口火を切った。とにかく、話さなきゃならない。
「武市から、直接謝られた」
えっ? 拍子抜けした。いつ、どうやって? そのまま雄高は俺を見ずに続けた。
「バイト先のコンビニに来て、謝ってったよ」
……よく分かったな、今日のアルバイトが。もしかして、手当たり次第に雄高のバイト先を回ったのか? あいつなら、やりかねない。その行動力に正直舌を巻いた。
「お前と武市を見たときにはそりゃ驚いたけど、後から落ち着いて考えれば、武市がふざけてやった事だってくらい分かる」
なんだよ、そこまで察していながら連絡もよこさなかったのかよ。
「俺、そんなに信用されてないのか?」
ぽつり、と雄高が言った。
「相馬教授はいい人なんだよ。まだ三回生でゼミにも入っていない俺を気遣ってくれて。昨夜もバイトばかりしている俺をわざわざ誘って、奢ってくれたんだ」
そこで、お前はあんな行動を起こしたのだ、と雄高は責めているわけか?
「俺が悪いのかよ、全部俺が!」
「そうじゃ、ない……。もう少し、俺を信用して欲しいから」
「何を信用すればいいんだよ。俺よりも教授の方を優先するのに? 電話がくればさっさと飛んで行くし、教授から紹介されたバイトをして、奴からもらった携帯を持つお前に?」
「だから、今は夏の学会に向けて忙しいからだよ。バイトの件にしたって、少しでも割のいい仕事で俺の負担を減らそうとして」
「それで、見返りにお前と関係を持ちたいんだろう? 昨夜の様子、お前の肩に触ったりして下心ミエミエじゃないか。他の奴になんか触らせるなよ、雄高は俺のものなのに!」
きっ、と振り返った雄高の頬が強ばっている。その表情に圧倒される。ここまで雄高を怒らせたことなんて今までない。でも、俺はひるまない。ひるむもんか。
「俺は史彦のものじゃない」
堅い声で雄高が答えた。
「誰のものでもない。俺は俺だよ」
静かな、しかし瞳の奥に強い光を秘めて雄高は重ねて言った。
「俺をどこかに閉じ込めて、そして二人だけで生きて行こうっていうのか? この先。そんなの馬鹿げてる。……俺には目標がある。なにより俺は俺でありたいよ」
なんだよそれ、意味がわかんねぇよ。
「ほかに誰か好きな奴ができたんだな、あいつか、相馬教授なのか。もうやっちゃったんだろう? 雄高の好きそうなタイプだったもんな」
感情が高ぶる。自分をコントロールできない。いつも不安に思っていたこと、心の中にわだかまっていた雄高への不信が一気にふき出す。
「史彦はそんな見方しかできないんだ。教授とは無関係だよ。俺は俺のしたいことをする。それだけだ」
「それって、浮気でもなんでもするってことかよ。でも、そうじゃないなら……俺よりも、勉強の方が大切なのか?」
そう俺が言い放つと、雄高は悲しげに眉をしかめ、唇をかんで首を左右に振った。
喉がひりつく。胸が苦しい。なんでこんな言葉ばかり雄高に投げつけてしまうんだ。違うのに、もっと話し合いたいのに。なのに現実は、こんな言い争いだ。こうまで雄高を問い詰め、それでも俺の気はおさまることを知らない。
「それに、どうして安騎野から暑中見舞いなんかが来るんだ? 雄高はまだあいつと連絡を取り合っていたんだな。俺に隠れて」
「違う、安騎野じゃなくて……峠さんのほうだよ」
雄高はきっぱりと首を横に振った。
「精神科医、だっけ? なんでだよ」
「……進路のことで、いろいろ相談にのってもらったんだ」
だからって、なにもそいつに頼むことはないだろう。安騎野の主治医で同居人の奴になんて。納得出来ない俺は、自分が押さえられなかった。
「まだ、好きなんだろう?」
雄高は俺を見つめて押し黙った。その長い沈黙を肯定と受け取ってしまいそうになる。
「安騎野のことが忘れられないんだろう?」
雄高が拳を固めるのが暗闇の中でも見えた。殴り合いになるかもしれない……とっさに緊張し、身構えた。
「……しばらく逢わない方がいいみたいだな」
「えっ……」
「お互いに頭を冷やそう。俺、八月の末に教授の学会について大阪まで行くから。それが終わるまで……九月まで史彦に逢わないよ」
雄高は拳をとくと、前髪をかきあげた。声の震えを必死にコントロールするように、ゆっくりとした口調で俺に告げた。
「そっ、そんな」
俺は雄高の一方的な通告に言葉を失った。雄高の決意は堅いらしく、そのままアパートへと戻りかける。
「わかれるっていうのか!」
雄高が歩みを止めた。わずかに体をひねり、俺に視線をくれた。
「わかれたくないからだよ」
「だったら……」
雄高は答えず、ふっと空を見上げた。
「さっき聞いたよな、司のこと」
雄高は振り返る。そして俺を真っすぐにみて、あえて安騎野を名前で呼んだ。
「俺の強烈な片思いだったよ」
雄高は悲しげに笑ってみせた。その言葉が胸に突き刺さる。
「でも、もう峠さんと養子縁組までしたから……」
最後の声はかすれていた。雄高はうつむくと、いちど目元を拭った。そして、そのまま歩きだした。
「雄高」
俺の呼びかけにも、もう振り返りはしなかった。
雄高の姿が見えなくなるまで、おれは立ち尽くした。いつの間にか膝が小刻みにふるえていた。まばたきを忘れた瞳が乾いて自然と涙を流した。
言わせてしまった。遂に、言わせてしまった。ずっと怖くて聞かなかった、聞いてはいけなかった事を。こんなかたちで確かめることになるなんて。
激しい後悔が押し寄せて来る。また、思い出してしまう。安騎野のために涙を流す雄高の姿を。雄高はきっと、俺のためにはあんなふうに泣いたりしないだろう。
河原に座り込み、俺は泣いた。
強烈な片思い……それは、俺が雄高に向ける気持ちと同じなのかもしれない。
◆
「動くなよ」
雄高は目をきつく閉じて手を胸の前で堅く組むと、俺にされるがままになった。意外と痛みに強くないんだな。いつも俺にさせてくれるのは、実は俺に痛い思いをさせたくないからだって事ぐらい、ずっと前から知っているよ。でも、雄高は上手だから痛かったことなんて最初の数回くらいだった。
「じゃ、刺すから」
右の耳たぶを後ろから冷やしていた氷を外して、俺は雄高のそこへ熱消毒した安全ピンを突き刺した。瞬間、雄高の体が固まる。
「説明しなくていい!」
そう言いながらも雄高の体はガチガチだ。よほど怖いのかな。ゆっくりピンを抜くと、雄高のバースディ・プレゼントに買ってきたゴールドのピアスを穴に差し込んだ。
思ったよりも全然血が出てない。キャッチで留めると、消毒液を含ませた脱脂綿で耳たぶを拭く。きつく閉じて涙がにじんだ雄高の目尻に俺はキスをしながら、背中をさすった。
「終わったよ。痛かった?」
ほう、とため息を吐いて雄高の体から力が抜けた。
「想像してたより、痛くなかった。けど、キンチョーして疲れた……」
そのまま俺にもたれかかって雄高は大きく何度も息をした。悪かったな、厄介なものをプレゼントしてさ。雄高の肩を抱きながら、ピアスを見つめる。
これは俺のものだっていう証しだ。雄高は誰にも渡さない、絶対に。
「毎年、ピアス贈ろうかな」
「俺の耳を穴だらけにするつもりかよ。一個で充分。ありがとう、史彦。嬉しいよ」
雄高は首だけ振り向くと、俺に口づけた。
外はもう雪が降っていて、雄高のアパートは隙間風が遠慮なく入ってきて。お世辞にも温かいとは言えないけど、こうして二人でいるだけでも、なんだかいいよな。
俺は雄高を背中から抱きしめながら、降る雪を見ていた。バイト疲れの雄高がじき寝息を立てる。あっけなく、無防備に俺の腕の中で眠る雄高にもう腹を立てたりしない。
雄高は毎日を必死に送っていて、突っ張って生活している。弱みなんか見せないようにして。でも、こんなリラックスした姿を俺にだけ晒す。
「大好きだよ、雄高」
眠った雄高の耳元でに俺はささやく。
……雄高も言ってくれたよな、初めての時に。何度もなんども。あのとき、俺がどれほど嬉しかったか雄高にはわからないだろう?
一年以上前の思い出をゆっくり反すうしいていた。アパートに帰ってからずっと、つき合ってからの月日を思い返していた。
アパートの窓からぼんやりと眺めている四角い空が、明けて来る。
人が落ち込んで、雄高から「しばらく逢わない」っていわれて、世界なんか壊れて、朝なんか二度と来ないと思っていたのに……。
暴力的に朝は来る。今日だってきっと暑くなる。
時間になったら学校に行くだろう。試験が近いから、気軽に講義をサボることなんか、もうできなから。水琴に会ったら、いつも通りにふるまえるよ。
どんなに落ち込んでも、どんなに辛くても、それでも無理やり日常生活を続けようとするんだ。泣いてたって、また朝は来るんだ……。
少しでも寝た方がいい。それは分かっている。形ばかり目を閉じてみるけど、脳裏に蘇るのは、傷ついた雄高の顔だ。
……俺は史彦のものじゃない。
雄高の口調までありありと思い出せる。誰のものでもない、自分は自分だと。
まるで鼻先で扉を閉められた気分だ。雄高には、俺ですら入れない領域があるのか。それは、密かに持ち続ける恋心だったり、将来に対する夢だったり……雄高のなかに潜む誰にもあかさない不可侵の領域。
俺にだってあるさ。でも、それをかなぐり捨てでも、雄高と混ざりたかった。
雄高は違っていたんだな。
教授と学会に行くって? 大阪なんて、泊まりでなきゃ無理な場所に。それを考えるだけで、俺は嫉妬で気が狂いそうだよ。
雄高は、教授は違うっていったけど、向こうはそう思ってないかも知れないじゃないか。だいいち、あいつから求められて断れるほど、お前強い態度に出られるのか? そうやって安騎野のときだって、ズルズルと関係を続けていたんだろう?
信用なんかできない。好きだから。たまらなく好きだから。
いつだって、俺だけを見ていてくれよ。こんな不安な気持ちにさせないでくれよ。
ホントは強くなりたい。雄高を支えてあげられるほど。こんな嫉妬に悩まされたりしないくらい、強くなりたい。
情けない俺は、子どものように泣きながらいつのまにか眠っていた。
昼近くに俺を起こしたのは、水琴からの電話だった。
◆
図書室で落ち合った水琴は、遠くから俺を認めるとあからさまに怪訝な顔をした。それはもっともなことかもしれない。今日の俺の格好ときたら……。
水琴は新聞のコーナーにパフスリーブのワンピース姿でたたずんでいた。俺を見つけた時点で、新聞をラックに戻すと、小走りで駆け寄って来た。
「ヒコくん、どうしたの?」
帽子は好きだから、たいてい被っている。でも、今日はめったにかけないブルーのグラスまでかけてる。泣いて、目が腫れているから。
「う、ん」
曖昧に返事をした。いつも通りにしなきゃ、水琴はよけい不信に思う。できると思っていた。思っていたけど、無理みたいだ。
「タカくんと、なんかあったの?」
そう尋ねられたら、もう胸が詰まって目頭が熱くなる。駄目だ。やっぱり、俺には雄高のようにクールに振る舞うなんてできない。
「ケンカした……」
水琴は瞬間目を見開くと、力無くうなだれる俺の腕を取って、図書館と校舎とをつなぐテラスへと連れ出した。
木陰になってるベンチに俺を座らせると、手際よく自販機から冷たいコーヒーを買って来てくれた。
「信じらんない。ヒコくんとタカくんがケンカするなんて」
隣に腰を下ろすと、水琴はどこか呆然とした口調でつぶやくと、お茶を口に運んだ。俺も紙コップのコーヒーを一口すする。ちゃんとブラックだった。水琴は俺の好みをきちんと把握しているんだな。
「雄高は俺よりも勉強のほうが大切みたいだ……。それに教授との仲とか色々勘ぐったせいで、雄高に当分会わない、頭を冷やそうって言われた」
「そ……う」
答えあぐねるように、水琴は中途半端なあいづちをうった。安騎野のことはさすがに言えなかった。
「水琴はさ、武市から『俺のものだ』とか言われたら、どう? 嬉しくない?」
「ん……嬉しいよ。……けど」
水琴は背筋をすっと伸ばして、俺のほうは見ないで答えた。
「けど、たぶん怒る」
「なんで? なんで怒るんだよ」
顔をあげると、少し上気した頬の水琴がいた。座ってもやっぱり小さいその体から、えもいわれぬ気迫を感じて、俺はちょっとたじろいだ。
「そんなの対等じゃないから。だって、あたしはあたしの意志で武市が好きなんだもん。『もの』なんかじゃない。誰かがいなきゃ、誰かに好きだって言ってもらえなきゃ、一人前じゃない、なんてイヤだよ。武市がいなかったら、顔もあげられないなんて情けない人間にはなりたくないもん。武市がいればとっても嬉しいけど、それがすべてじゃないはずだから……」
俺はぐうの音も出なかった。どうしてそこまで厳しい考えを持てるんだ? 時々水琴がわからなくなる。雄高もかなり自分に厳しい奴だけど、それ以上に戒律のような価値観を貫こうとする水琴が怖くなる。
なんで、こんな小柄でぱっと見た目可愛い女の子が……。そんな俺の態度に気づいたのか、水琴はちょっと笑って言葉を続けた。
「母親はあたしに読書の楽しみを教えてくれた。そして、兄にかかりっきりになった。それを恨むわけじゃないよ。しかたないよね、兄貴は優秀だもん。手をかけたくなるのもわかる。でもねぇ長いこと本ばっかり読んでいたら、いつのまにか立派なフェミニストになっちゃった……やな女だなあって自分でも思うけどね」
最後は悲しそうに笑った。自分を皮肉るように、自嘲ぎみに。そんな水琴が痛々しく思えた。
「辛くない?」
「強くなりたい」
水琴はようやくほほ笑んだ。けれどそれには強い意志が感じられた。
「辛くても、もう少しだけ強くなりたい。ヘンかなぁ?」
「そんなことないよ。俺もゆうべ思った。強くなりたいって」
「そっか。でも強いってことは、きっと人に優しくできるってコトだと思うんだ。ヒコくんは、ホントはタカくんに優しくしたかったんでしょ? 傷つけたくなかったんでしょ? ケンカしながら後悔してたんでしょ?」
なんで水琴には分かるんだろう。ぎざぎざにささくれた俺の胸の内を優しく癒すように、水琴は言葉を紡ぐ。
「それでね、きっとそのことはタカくんも分かってるんだと思うよ。だから、当分は会わないで、冷静になろうって」
それくらいは俺にも分かるような気がした。
「うん。でも、悲しかった……」
夏休みになるのに、この先一カ月以上も雄高に会えないのかと思うと、悲しくて、寂しくてしょうがなかったんだ。弁解の余地さえ奪われようで。もう二度と俺のことなんか相手にしてくれなくなるんじゃないか、なんて不安になって。
考えてみれば、雄高はあんなふうだから、結構もてるんだ。同性からそれとなく誘われることだってあるみたいだし、仮に俺とわかれてもすぐに別の恋人ができるんじゃないかな。相手には不自由しないよ、きっと。
俺なんかよりも、もっと雄高にふさわしい相手が……。例えば教授のような。
そう考えると、自分が雄高に釣り合わないちっぽけな存在のように思えて、情けなくて情けなくて。
長い沈黙のあいだ、水琴はなんにも言わずにただ座っていた。ただ隣にいてくれた。従順な犬のように。蝉の声は容赦なく降り注ぎ、紙コップの中の氷はとうにとけていた。
やがて、四限目が始まる時間が迫ったとき、水琴は静かに立ち上がった。
「次、別々だけど講義に出られる?」
「うん。出なきゃ、試験前だしな。とにかく出席はしておく……」
「じゃあね」
それきり何も言わずに教室へ向かおうとした水琴の背中に俺は声をかけた。
「水琴、ありがとう」
くるりと振り返った水琴は、ほほ笑んで手を振った。そのまま、他の学生たちの中に紛れてしまった。
水琴が友だちでよかったと思った。思い悩んだことはほんの少しだけ軽くなったような気がする。それはほんとにわずかなことだけど。今の俺にはありがたいことだから。
講義に出よう。それから、試験だってある。雄高がいなくて、俺は俺の日常をこなす以外、今はできることなんかないから。
そうは思っていたけれど、散々な結果を残して前期の試験が終了した。夏休み明けには、いやがおうでも追試の嵐だということは、火を見るよりもあきらか……だった。
◆
雄高のいない夏。
覇気に欠ける俺は、そのまま実家へ帰った。実家にいてもすることなんか、なんにもないのに。そんなわけで日が高くあがっても、俺はベッドの中でふて寝していた。
「お兄ちゃん、お兄ちゃん!」
と、唐突に母屋に通じるドアを勢いよく開けて、末っ子の千乃が飛び込んできた。
やばいっ、鍵をかけ忘れてた、と思う間もなく、そのまま千乃はベッドにダイブした。
「でっ!」
がつん、とむこうずねに衝撃が走る。まだ八歳とはいえ、侮れない力だ。と、いうか体重。しばし口もきけずに、膝をさすって体を丸める。
「ねぇ、起きてよ」
千乃は俺の頭を小さな手のひらでぺちぺちと叩きながらベッドの上で暴れた。
「……起きてる。起きるから、おりろ」
「はーい」
しかたなく、起き上がる。実家に戻ってから連日これだ。おちおちゆっくりともしてられない。夏のバイトは決めていなかった。さりとて勉強なんかする気も起きない。ただ、暑くて暇なだけの夏。
着替え終わって振り返ると、椅子に座って足をぶらぶらさせながら千乃が出し抜けに尋ねた。
「ユタカくんは? あそびにこないの? とまりしないの?」
いきなり胸に突き刺さるようなことを、こいつは。俺は千乃の三つ編みをつんつんと引っ張りながら答えた。
「雄高は勉強で忙しいの」
「お兄ちゃんはベンキョウしないの?」
あああっ! コドモは容赦ない。千乃には俺の宿題のことなんかわかるはずない。千乃にとって宿題は『夏休みの友』だから。
「……ご飯を食べたら、勉強しにでかけるよ。千乃も宿題しろよな」
と、嘘をつく。とりあえず家から脱出しなきゃならない。
「うん」
千乃につき合わされちゃかなわん。背中に飛び乗った千乃をおんぶしたまま台所へ向かう。本日の妹たちのスケジュールを頭の中でざっと思い返す。
確か、中一の十子は部活で学校に行ってるはずだし、小五の百世は日舞のお稽古。小二の千乃の英会話は午後からだったかな。母親は、えーと、わからん。百世についていったのかも知れない。ひとり置いて行かれたせいか、千乃は完全に暇を持て余している。
実は、さっきみたいに部屋に飛び込んできた千乃に、見られたことがあった。
何をって、その……雄高と一緒に寝ているところを。もっともなにもしてなかったんだけど、でも二人とも裸だった。
ぽかんと口を開ける千乃を前にして、俺はひたすら慌ててうろたえるだけだったけど、雄高ときたら、全くの平常心。例の笑顔で千乃に話した。
「ゆうべは暑かったから、裸で寝たんだよ。びっくりしちゃったかな。他の人に話すとやっぱりびっくりされると思うから、これは僕と千乃ちゃんの秘密にしようね」
にっこり、とほほ笑みながら雄高は千乃に小指を差し出した。
『秘密』という大人びた言葉に千乃はしばし恍惚とし、うん、と大きくうなずくと、雄高とものすごく嬉しそうに指切りをしたのだ。 ……籠絡しやがった! 俺は雄高が少しだけ怖かった。こいつ、もしかして心理学なんぞを勉強して、他人を操縦するのがえらくうまくなったんじゃないか? って。
雄高は人当たりのよさと、人を見抜く聡明さとで、誰でも手玉に取れるんじゃないか。あいつが本気になりさえすれば、手に入らないものなんか何もないのかも知れない。
つまり俺は、ただ雄高の手のひらで踊っているだけなのかな。
長いつき合いのはずなのに、俺には雄高は永遠の謎だ。
取り合えず出かけることにしたのはいいが、行くところはこれといってない。だから、以前バイトをしていた書店に足が向いた。父親からもらった中古のセダンを運転して国道の店まですぐだから。
「いらっしゃいませ」
店に入ると、見知らぬショートヘアの女の子が元気よく挨拶をした。あれ? 若林さんじゃない。少しの違和感を覚えながら店長を探すと、奥のコンピュータの前で検品か何かの仕事をしていた。
「こんにちは」
「灰智! 久しぶりだな」
店長は少し太っていた。そして、髪が薄くなってた。けれど、相変わらず仕事熱心らしい。今も話をしながら、それでも手を休めない。
「ども。若林さんは?」
「ああ、産休に入ったんだ。来月、生まれる予定だよ」
へえ、御目出度だったんだ。何もしらなかった。ほんと、ここに来たの一年ぶりくらいだもんな。
「そうだ、うちの娘の写真見る? すごく可愛いよ」
唐突に頼みもしないのに胸ポケットからパスケースを取り出し、縫いぐるみを胸に抱いた色白な女の子の写真を見せた。
「ほら、可愛いだろう? うちのお姫さまは」
ああ、もう娘にめろめろなんだな店長……。そのパスケースに今も弟さんの写真も入れてるんでしょ。俺は見たことがいなけど。実をいうと、怖くて見られない。雄高と安騎野の話では、どうも俺とそっくりらしいから。なまじのホラーよりも怖いじゃん。
「いくつでしたっけ。三歳くらい」
「そう、もうすぐ三歳。すくすく育ってくれて嬉しいよ。ところで、灰智おまえ暇?」
せっかちな店長らしく、出し抜けに話題が変った。
「……ヒマ、です」
「あのさ、バイトしない? お盆から、そうだな9月のあたまくらいまでで悪いんだけど。若林さんが休みに入っちゃったし、坂井君はもう就職活動で地元に帰っちゃったし、どうにもならなくてさ、人手不足なんだ。新しい子は入ったけど、まだまだなんだよ。お前なら一通り仕事はわかってるし」
「いいですよ」
棚からぼたもち。ラッキーかも知れない。ここんとこ、イイコトなんか何にもなかったらちょっと嬉しい。それに、追試代くらい自分で用意しないといくらなんでもマズイ。
「碓氷は元気か? どうしてる」
「月末に大阪まで学会に行くって、今はそれの準備で忙しい、みたい、デス」
どことなく歯切れ悪く俺が答えると、店長は少し意味ありげに俺を見た。あれっ、雄高はもしかして俺とのことを店長に話していたのかな?
カミングアウトはしているって雄高は言ってたけど。でも、俺とつき合ってるってまで、言ってた? わずかばかりドキドキしたが、それ以上は聞かれなかった。
「じゃ、来週から頼むわ」
◆
なんで、心理学を専攻したいんだって雄高に聞いたことがある。
「人の心が、いちばん不思議だと思うから」
と、雄高は答えた。その意味は俺にはきちんと把握できない。雄高自身が体験した、不思議と思える人の心の動きはなんだったのかな。
「誰かを好きになること」
ぽつりと、雄高は言ったことがある。雄高は俺のことを何度も好きだって言ってくれたけど、俺よりもいまだに安騎野のことが好きなのかもな。
それとも水琴がいうように、『好きの意味が違う』のかな。俺にはわからない。そんな難しいことは。分かるのは、雄高が好きでたまらないということ。それだけ。
文庫を補充しながら俺は何を考えてんだか。さっきも店長に手が止まってるって注意されたばかりなのに……。時給下げられるぞまったく。気を取り直して仕事にかかろう。
雄高からは全く連絡なしだ。しないといったら、しない。なんであんなに頑固なのか。水琴に話したら、きっと信じられないって言われるよ。ほんと、雄高は見かけに騙されちゃだめなんだぞ。俺なんか、なんど電話をしようと思ったことか。
でも、ぐっとこらえるのは、これ以上雄高に嫌われたくないから。だから、我慢する。いいよ、我慢することなんか慣れてるから。コドモのころからずーっと、我慢してたからさ。八月もあと十日あまりで終わるから、そうしたら雄高に会える。だから、もう少しだけ辛抱する。
落ち込みがちの気分も、バイトに出るようになってから大分救われた。やっぱり体は動かしていたほうが精神状態もいいらしい。
「灰智さーん!」
レジからの声に、俺は顔をあげた。あれは、新入りの奈緒ちゃんが助けを求める声なのだ。なにかトラブルでもあったのかな。慌ててレジに駆けつけると、そこには意外なことに水琴が立っていた。
「あ? 水琴」
「ヒコくん、久しぶり!」
ポニーテールに髪をまとめて、海にでもでかけるような格好だ。
「あれ、どうやって来たの、ここまで。駅から歩いて来た?」
「ちがう~。車の免許を取ったんだよぉ、ほら」
と、水琴は自慢げに免許証を俺に見せた。夏休みに入ってから教習所に通い始めたのかな。知らなかった。
「がっ、交付されたの三日前じゃないか。車で来たんだ、ここまで。大丈夫か?」
水琴の住むM市から店まで、車でも小一時間。国道を南下するだけといっても、交通量が多いルートだ。こっちが青くなる。
「うーん。途中怖かったけど、なんとか。それよか来週、M市の花火見に来ない?」
来週の花火……そういえば毎年八月の下旬に花火大会があったな。河原でやるやつ。去年は、最後のさいごだけ雄高とみたっけ。
「いいよ。バイトが終わってからでも間に合うよな。七時に駅前のコンビニでいいかな?」
水琴も武市がまだ実習から帰らないから、暇を持て余して教習所なんかに通ったんだろう。一応、武市からも頼まれているから、水琴のお守りを。
「灰智さん。デートの約束ですか?」
レジの奈緒ちゃんが、からかうように俺たちを見た。
「違うよ。遊びに行く約束ってだけで」
「それをデートと言うんじゃないですか」
真顔で言われると返す言葉がない。そうなのかな。あんまり意識してないが。隣を見ると水琴も戸惑うようなあいまいな笑みを浮かべていた。
「じゃあ、またね」
「うん、七時に駅前な」
水琴は、俺に軽く手を振り、奈緒ちゃんにお辞儀をすると帰っていった。水琴が車の運転ね。あれで、もしかして武市のいる病院まで行くつもりじゃないだろうな。あんな山の奥まで。危ないって釘を刺しとこう。今晩電話しようかな。
「灰智さんの彼女? かわいい人ですね」
「友だちだよ。大学の」
そう答えると奈緒ちゃんは複雑な顔をした。うつむくと、顎のラインできっちりと揃えられた髪が前に流れた。
あれ、奈緒ちゃん俺に気があるんだろうか。と、自惚れる。
「俺も水琴ーさっきの彼女もお互いの恋人が今忙しくて会えないの。だから、俺のことを誘ってくれた、それだけ」
「……あの人、灰智さんのこと好きですよ」
な、なんでいきなりそんなことを言う? 奈緒ちゃん。うろたえる俺に奈緒ちゃんは黒目がちな冷静な瞳で付け加えた。
「灰智さんが、違うって言ったとき彼女傷ついた顔しましたよ。ほんの一瞬だけど」
武市から言われたことを俺は思い出していた。俺が気づかないだけなのか? はたからはそんなにあからさまに見えるものなのか?
「思い過ごしだよ、奈緒ちゃん」
俺はそう答えると、持ち場へと戻った。しかし、胸の中にわだかまりが残った。
水琴に確かめたじゃないか。俺は好きだけど、好きの意味が違うって。俺はそれを信じる。武市や奈緒ちゃんの見解が思い過ごしなのだと。
◆
駅前で落ち合った水琴は、髪をアップにして藍色の地に朝顔模様の浴衣を着ていた。こんな姿は、きっと武市に見せたいんだろうな。 多くの見物客と一緒に、橋の上から花火を眺める。上空に大輪の花が咲くたびに、水琴は小さな歓声を上げた。水琴は嬉しそうに、時折俺を見る。俺もつとめて明るく振る舞おうとした。
花火を見上げながら、けれど胸の中は雄高のことでいっぱいだった。
ここに来る前、懐かしい人に会った。電車に乗るほんの少し前に。
「史彦さんじゃないですか」
そう声をかけてきたのは、幼い男の子の手を引いたコウさんだった。雄高の家に長いこと通いの家政婦をしている。俺もコウさんの手料理を御馳走になったのは一度や二度ではない。
一通りの挨拶がすんでから、コウさんはため息をついた。
「雄高さんは、お元気ですか?」
お孫さんだろうか、コウさんにまとわりついて元気がいい。コウさんはそれを上手くあやしながら言葉を続けた。
「雄高さん、大学に入ってから一度もおうちに戻っていないので……」
「え?」
「なにか聞いていませんか? 高校を卒業したあたりに、奥様と言い争いになったようで……お手伝いのわたしが口を挟むのはなんなのですが、史彦さんなら雄高さんのことよくご存じですし」
なんか頭のなかがごちゃついて、どんな返事をしたのか忘れた。確か、雄高は元気だし家に帰らない理由は知らないけれど、一度くらい帰るように伝えると、コウさんに伝えたような気がする。
……雄高、おまえなにやってんだよ。俺になんにも言わずに。
独立したくて、奨学金を受けたりバイトしているのは知ってる。母親とうまくつきあえないってことも知っている。
だけど、家に帰っていないなんて一度も聞いた事ない。肝心なことは何一つ教えてくれない。俺はお前の相談にものれない奴だと思われているのか?
そんなに頼りないか、俺。確かに頼りないだろうな。独占欲強いし、親のスネかじって、てんでコドモだし。でも、愚痴を聞いてやるくらい俺にだってできるのに。
こんな気持ちを引きずったまま、水琴と花火を見るなんて。
「きれいだね」
水琴は打ち上がる花火を見上げながら言った。ごめん、俺、雄高と見たかったよ。その懺悔も含めて俺は優しく声をかけた。
「もうすぐ武市の実習も終わるな。そしたら、俺の地元で来月お祭りがあるから、武市と来いよ。四人で見に行こう。山車なんかキレイなんだぜ」
「……ヒコくん、タカくんと仲直りできそう?」
「わかんね。でも俺は会いたくてたまらないよ。水琴も武市と会いたいだろう?」
うん、と水琴は答えたけれど、その表情は暗くてよく見えなかった。奈緒ちゃんの言葉を思い出して、俺は少し落ち着かなくなる。
やがて川面に灯籠が流れて来た。本来のメインは花火大会じゃなくて、旧暦の盆に催される灯籠流しの方なのだ。俺たちは河原に降りて、小さな明かりを灯した灯籠をいくつも見送った。川岸は橋の上よりは人がまばらだった。手を合わせて、流した灯籠を見送る人達が中心だから。浮かれた気分は、この場にはあまりない。
「夏も終わりだね」
水琴はしんみりとした口調で、灯籠の橙色の明かりを見つめた。
なんにもなかった夏ももうじき終わる。今年は海へも行かなかった。ろくに遊びもせず、ただ、雄高を待っていた夏。
「後期に入ったら、同じ講義もほとんどなくなるんだね」
「うん……」
水琴は国文だし俺はシステム情報だし。一般教養が中心だった去年までとは全く別の専門課程が待っている。今までのように一緒につるんだり、待ち合わせしたり、というのは出来にくくなると思う。
「でも、それで全く会えなくなるってわけでもないさ。メールのやり取りだってできるんだし、時々は一緒に昼飯とか食おうぜ。俺、水琴といると楽しいし」
「そうだね」
水琴はようやく顔をあげると、ほほ笑んだ。なんだか、今日の水琴のようすはいつもと違う。ふだんは元気いっぱいな奴なのに。どこか体調でも悪いのかな。なんとなく不安になって、水琴の額に手を当ててみた。妹たちにするように。
「なっ、なに?」
水琴は小さく悲鳴をあげ飛びのいた。その声に俺の方が驚く。
「いや、なんか元気ないから熱でもあるのかと心配になって……」
慌てて手を離すと、水琴はうつむいた。その頬を花火の明かりが照らす。ほんのりと赤くなった水琴の頬を。
なんで? なんで赤くなるんだ? 戸惑いながら、水琴を見つめる。打ち上がる花火の衝撃波が俺の皮膚を震わせ、つられて上を向く。大音響で花火が花開くと、何かが胸にぶつかって来て俺は数歩よろめいた。
「……ヒコくん」
水琴が両目をきつく閉じ、俺にしがみつく。水琴の柔らかな感触がシャツを通して伝わり、全身が総毛立った。
「うわっ!」
悲鳴をあげ、我に返ると水琴は河原にしりもちをついていた。
「あっ……」
水琴は今にも泣きそうな顔で、それでも俺を睨みつたけた。俺……無意識に水琴を突き飛ばしてしまったんだ!
「み、水琴けがは」
手を貸そうと伸ばした俺の腕を水琴は振り払うと、そのまま何も言わずに立ち去った。俺は根が生えたように、その場から動くことが出来なかった。水琴の小さな体は人波の中にあっと言う間に消えてしまった。
一体、何が起こったんだ?
◆
残暑は続いている。俺の混乱もまだ続いている。一応今日でバイトも終わりだというのに、ろくな働きをしていないこの頃。
「灰智さん、これなに? いつの客注なの? もう終わった?」
「えーと、昨日お客さんに渡したよ」
「もう、ちゃんとチェックしといてくださいよ」
奈緒ちゃんが朝の荷物だしで、入荷伝票と注文を受けたリストと首っぴきになっているその横で、雑誌を束を解きながら俺は今一つしゃっきりしない気分で仕事をしていた。
あの一件以来、水琴との連絡は途絶えていた。家に電話をかければ居留守を使われ、携帯はいつも留守電に切り替わり、メールを出してもナシのつぶて。
肝心の武市ともまだ連絡が取れない……メールを出そうかと思ったけど、なんて書けばいいのか分からずに、出しそびれている。ホントなんて説明すればいいんだ? 水琴に襲われたって?
水琴はどうしてあんな行動に出たんだろう? たまたまよろけて俺にぶつかっただけ……な、わきゃないだろうし。考えれば考えるほど混乱するじゃないか。
「灰智、手が止まってるぞ。ただ手さえ人手が足りないんだ。もうすぐ開店なんだから、さっさとやれっ!」
店長から檄が飛ぶ。焦って手にした雑誌を運ぶ。平台に新刊を並べながら雑誌の表紙にふと目が行った。水琴がよく投稿している小説誌だ。その表紙の文字に、目が引き付けられた。
新人賞発表の文字に続いて、「矢部水琴」という名前があった。慌てて雑誌をめくる。これって水琴のペンネームだ。なんだよ、こんな表紙に名前が載るくらいだったら向こうから連絡もあったろうに、俺にそんな一言もなかった。いつもなら、落ちたとか、努力賞だったとか報告してくれるのに。
けれど新人賞の記事にたどり着く前に、後頭部をしたたか叩かれた。振り返ると、堪忍袋の緒が切れた、という顔をした店長が仁王立ちしていた。
「いいかげんにしろよ……時間を考えろ。雑誌読むなら休憩時間に読め!」
広くなった額に青い血管が浮かんでいる店長に本気でびびった。
「はっ、はい」
そんなこんなしているうちに、開店時間前からお客がちらほらと入店してきた。もう、水琴のことはいったん置いて働くしかなかった。店は動き出してしまったから。
昼の休憩時間まで、忙しく働いた。やることが山積みで、俺も今日で終わりだから中途半端な仕事は残したくなかったから、とにかく働くしかなかった。
遅番で出勤した皆に一言声をかけてから、店長と一緒に休憩時間であの雑誌を持って事務室に入った。
店長は愛妻弁当を食べながら、出版業界の雑誌に目を通している。その横で俺も雑誌を開いた。
水琴の作品『架空の庭』は、新人賞の二席に入賞していた。粗筋が紹介されている。
主人公の女の子は、大学で同性愛者の男と友人になる。始めは好奇心から接近したのだが、恋人がいながらその男に引かれていく。主人公の恋人と男の彼氏も含め、一見仲良くバランスが取れたかのようにつき合う四人だが、それぞれこの関係に不信や嫉妬を抱えている。やがて、男の彼氏に新たな年上の恋人が現れ、傷つく男を励ましながら関係が深まるかに見えたが、結局男は彼氏と縁りを戻す……。
頭が混乱する。これって、俺たちのこと? それも今現在のことを予見するような、そんなストーリーなのか? だって、これを投稿した時期を考えると、数カ月前だろうし、そうなるとこれを書いていたのは更にその前……半年くらい前。
水琴、なんで? こうなるって、知っていたのか? それともおまえ自身がこうなることを望んだのか?
雑誌を手にしたまま放心した。
水琴、おまえは俺たちと関係することで、傷ついていたのか?
昼食に持って来た弁当に手もつけず、俺は頭を抱え込んだ。
「灰智は今日でおしまいだな」
「はい」
弁当を片しながら店長が声をかけてきた。ぼうっとしたまま俺は答えた。
「碓氷とつき合ってるんだろ」
「はい」
と、何げに答えて椅子から落ちそうになった。あっ、俺今なんて言った? とんでもないことを白状してしまったような。耳が、顔が熱くなって汗が額にじわりと浮かぶ。
「そんなに慌てなくていいよ。ま、落ち着いて座れって」
穏やかな表情で店長は俺に話しかけた。胸に手をあてるとまだ心臓がバクバクいってるけど、取り合えず椅子に座り直す。
「なっ……なんで、分かったんでスか。雄高に聞いていたんですか」
「いや、なんとなく読みが当たっただけだ。お前は妙に意識して碓氷の話をしないなとか思っていたから」
と、店長は少し嬉しそうに笑った。他人の目は欺けないって事なのか。最近こんなことばっかり、ひしひしと感じる。
「大学はどうなんだ、あいつ。さぞ優等生で通ってるんだろう」
「そうです。教授のお気に入りのようです」
やっぱりなあ、と店長はお茶をすすると感嘆するように言った。
「あいつは誤解されやすいタイプだよな」
「誤解?」
意味が分からず俺は問い返した。
「そう、誤解。碓氷は外見もあの通りだし、人当たりもいいし、なまじ勉強もできるし、責任感強いし……非の打ち所がないじゃないか。だから、人好きのするしっかり者とか誤解される。でも、ホントの奴は特定の人以外には心を開かないし、けっこう臆病で淋しがりなんだと思うよ。まあ、色々あったからな。頼れる大人とか身近にいないだろう、きっと。直接じゃないけど、俺も責任の一端にあるような気がして、奴のことは気にかかるんだ」
責任はないと思う。死んでしまった弟さんのことを今更責めても意味のないことだし、雄高は出会った相手が、安騎野が悪かったんだと思う。
「始めにいっとくが、気を悪くするなよ灰智。お前と碓氷が並んだら、誰にだって碓氷のほうが大人びて見えるだろう。二人でいたら、碓氷が灰智を守る役だってみんな思うだろう」
ぐうの音も出なかった。一応店長は断りをいれたが、フォローできないくらいホントのことだ。店長はそのまま続けた。
「でもな、もろいのは碓氷の方だよ。あいつは気負ってるからそう見えるだけで……むしろお前の方が奴を支えているんだよ」
「え、俺が、雄高を?」
そんなことあるはずない。こんな駄目な俺が雄高を支えているなんて。
「信じられないか? 多分、我がまま言ったり本気で喧嘩したりするのは、お前に対してだけだと思うぞ。まわりに愛想をふりまいて嫌な顔ひとつしない奴が、素の顔を見せるのはお前にだけだよ、きっと」
俺にだけ? 確かに、そうかも……。よく怒るし、不機嫌な顔も見せるし。でもそれは俺に対して腹を立てたりするからじゃないのかな。
「お前は知らないと思うけど、碓氷が俺にお前の話をするときな、とても穏やかな顔をするんだ」
店長に言われて、目の辺りがぽうっと熱くなるのが分かった。そんなことって、あるのかな。面と向かって言われると、なんとも面はゆくて、手のひらにまで汗が浮かぶ。
「でっでも、俺しょうもない奴だし、雄高といても気後れすること多いし……」
「いいんだよ、別に。碓氷にとってはお前がいてくれるだけでさ。そんなに卑屈なるなよ、俺は知ってるよ、お前はいいやつじゃないか」
こんなふうに励まされるなんて正直思ってもいなかった。同性愛者は社会から奇異の目で見られるだけで、まして年長者からこんなふうに声をかけてもらえるなんて。
「俺は、弟の二矢ことは理解してやれなかったんだ。今でも後悔している。せめてお前たちには幸せになって欲しいと思うんだ。もっとも、男同士で幸せなにるってどういうことなのか、俺にも具体的にはよく分からないけどさ」
店長はちょっと笑って薄くなりかけの頭をかいた。俺も一緒に笑った。
「店長は安騎野のことを許したんですか?」
「いや、今でも許していない。でも、もういいかなって気はする。奴を責め続けても弟は帰らないしな。奴なりに苦しかったことは碓氷から聞いたし」
両手で湯呑み茶碗を包みながら、店長は遠くを見るような目つきをした。
もういい、か。どんなに苦しい出来事でも、いつの日にか『もういいや』って気持ちになれるんだろうか? 店長はそうなるために十年以上の月日が必要だった。
なら、今度の雄高との喧嘩もそれぐらいしたら、ただの笑い話になってるんだろうか。そうなれたらいい、と俺は思った。
「あのな、笑うなよ灰智。娘がな、子どものころの二矢と似ているんだ。ああ、かえって来たんだなって思ったよ……」
店長は照れ笑いを浮かべた。
バイトの最後の日はこんなふうにして終わった。
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