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史彦にさえ有効な雄高の笑顔が通じない人物は、知る限りでは二人だけだ。
いつのころからか、雄高は自分の笑顔が『通用』することに気づいた。
以前にも女子学生に、佐野と同じようなことを尋ねられたことがあった。
つまり、同性愛者かと。そのとき雄高はほほ笑んで、「どうして?」と聞き返すだけでよかった。彼女は顔を赤らめると、もうそれ以上聞こうとはしなかった。
けれど、例外はある。雄高の作り笑顔が通じないのは、一人は相馬教授。もっとも、男親のいない雄高にとって相馬教授は父親がわりのようなものだから、支障はない。
残る一人は、安騎野。
二月に別れて以来、全く連絡はない。もっとも、今度こそもう会わないと決めたのだから、雄高は淋しくはなかった。なにより今は史彦がすぐそばにいる。
そういえば、もう一人。安騎野の義理の妹、葉月にも雄高は完敗した観がある。彼女は内科医だが、亡くなった父親の峠医師同様、精神科医に向いているのではないだろうか。
佐野は葉月に共通するような部分がある。……扱いにくいのだ。
雄高は、葉月の磨きあげられた黒曜石のような瞳を思い出した。何もかも見通すような、冷徹な瞳を。
佐野は分からない。佐野は自分の思ったような反応を示さない。
雄高は、灰色の未知なるものがじわりと心の奥底に広がるような気がして、怖くなった。
雄高と史彦が一緒に暮らしていることも知っていた。
史彦でさえ、家族に引っ越しの知らせはしたけれど、雄高と同居を始めたことまでは話していない。二人の関係は、未だに家族にはカミングアウトしていないことだし、雄高も相馬教授にしか打ち明けていない。
いわば、秘密みたいなものだ。秘密とまでいわないまでも、あまり知られて欲しくないことは事実だ。
やましいことではない。二人の合意の元で生活は営まれているのだ。やましいことではない。そうしている人の数が少ないだけ、マイノリティなだけで……。
けれど、雄高の心はざわめくのだ。
史彦は目立つ存在だ。昨今、長髪の男など珍しくもないが、史彦ぐらい長く伸ばして、しかも髪質が女性に負けないほどの艶やかさで、さらに加えるなら涼やかな容姿に似合っている……そんな男、一度見たら忘れられないはずだ。
史彦が勤める、『Mコンピュータ・メンテナンス』は大学の様々な部署に出入りしている。昨日のようにごくたまにではあるが、史彦も仕事で大学に顔を出してはいる。けれど、自分から雄高の知り合いだとは声高に言っていないはず。
迂闊すぎたのだろうか。
紹介してくれ、と佐野は言った。雄高は、ふたりを引き合わせたくないと感じていた。佐野は、雄高と史彦の関係に微妙な影を落とすような、そんな不吉な予感がする。
腕の中の重いマニュアルは、そのまま雄高の気の重さだった。
食事の用意は、どちらがするとは決めていない。お互いに多忙な身のうえだ。それぞれが食べたいものを買って帰るというパターンが定着しつつあった。
しかし、二人一緒のときには顔を合わせて食事をするということだけは決めてある。一緒に生活をするうえで、最低のラインだろう。
雄高は多少料理はできるが、史彦ときたらさっぱり。もっぱら総菜を買って帰るのは史彦だ。今夜は残業の帰りに、どうしても焼き鳥が食べたくなったと言って買って来た。
「別にかまわないよ。俺も来週なら時間があるし」
史彦は塩味の焼き鳥を満足げに口にしながら、雄高に答えた。佐野からの申し出について、史彦は拍子抜けするほどあっさりと了解した。
「でも、佐野は俺たちが一緒に暮らしているってことまで知っている」
「なんか問題ある?」
全く頓着しない、史彦に雄高は少しいらついた。ほどよく冷えたビールはまだグラスに半分近く残っている。落ち着いて飲めないのだ。
「……特別な関係かって、聞かれたよ。佐野は感づいてるんじゃないか? 俺たちのことを」
「他人に知られると、駄目か。雄高は俺といると迷惑……」
史彦がまつげでけぶる切れ長の目で雄高を見た。雄高は慌てて言い直した。
「そんなこと、ないよ。ただ、言いふらすことでもないだろ」
「確かにな。でも、佐野って奴は結構いい奴じゃない? 仕事熱心だしさ」
雄高は史彦の意見のどちらにも賛同しかねた。いい奴、とは思えない。今日の口ぶりもどこか喧嘩腰だったし、仕事に関しては学内では『切れ者』と耳にはするけれど、雄高自身はそれを確かめたわけではない。
「行方不明の本を整理しようって言い出したのは、あいつらしいよ。みんなが長年面倒臭がってやらなかったことを、あいつが陣頭指揮取ってやってるらしい」
「だからか」
係長が佐野に向かって、お前の仕事と言っていた訳を雄高は理解した。
「前からいる連中は、面白くないみたいだったな。俺は本のことはよくわからないけど、キャリアの長そうな上司と互角に渡り合っていたし、コンピュータに関して質問するのはあいつばかり。他の職員はついてこれなかった。そのとおり行動力あるし。あいつ、来たばっかりなんだろう?」
「うん。一月に採用されたから、まだ半年もたってない」
「そうだとすれば、やっぱり仕事熱心だよ」
雄高も頷かないわけにはいかなかった。ビールを一口飲んで、焼き鳥をつまむ。
「あんなに愛想いいのに、周囲から受け入れられていないみたいで、なんかかわいそうだったよ」
その言葉に雄高はむせた。逆流したビールが鼻にまわって、ひどくせきをする雄高の背中を史彦があわててなでさすった。
「どうした、急に」
雄高は頭が混乱した。あいつが、愛想がいい? 史彦に対して? アルコールが鼻孔の粘膜を痛めつける。雄高は涙を流しながら、無理やり話そうとした。
「ふっ、史彦、ほんとに佐野の話をしてるのかっ?」
せきがおさまると、雄高はティッシュで口と鼻を拭いながら史彦に問い返した。史彦は雄高から剣呑なものを感じ取ったのか、少し言いよどんだ。
「佐野、だろう? 俺より背が少し低くて、黒縁の分厚いレンズの眼鏡をかけてて、同年代の奴なんて、他に図書館にいないだろ?」
「……あいつ、態度サイアクだったぞ。俺たちには。出雲井くんなんか、いづらくてさっさと研究室に帰るくらい」
正確に言うなら、雄高には。笑いもしなかった。いや、笑ったかもしれない。馬鹿にするように。
「そうか? 機嫌が悪かっただけかもな。じゃ、久々に外で飲もう。佐野も一緒さ」
雄高の不安になど気づかずに、明るく提案する史彦にまた少し腹を立てた。しかし、ここのところ、引っ越しや新年度の慌ただしさからゆっくりと外食する暇も無かったから雄高もしぶしぶ同意した。
「じゃあ、水曜日に。その日は残業がないからさ。雄高もクリニックの日じゃないだろ」
予定はあっさりと決まった。
いつのころからか、雄高は自分の笑顔が『通用』することに気づいた。
以前にも女子学生に、佐野と同じようなことを尋ねられたことがあった。
つまり、同性愛者かと。そのとき雄高はほほ笑んで、「どうして?」と聞き返すだけでよかった。彼女は顔を赤らめると、もうそれ以上聞こうとはしなかった。
けれど、例外はある。雄高の作り笑顔が通じないのは、一人は相馬教授。もっとも、男親のいない雄高にとって相馬教授は父親がわりのようなものだから、支障はない。
残る一人は、安騎野。
二月に別れて以来、全く連絡はない。もっとも、今度こそもう会わないと決めたのだから、雄高は淋しくはなかった。なにより今は史彦がすぐそばにいる。
そういえば、もう一人。安騎野の義理の妹、葉月にも雄高は完敗した観がある。彼女は内科医だが、亡くなった父親の峠医師同様、精神科医に向いているのではないだろうか。
佐野は葉月に共通するような部分がある。……扱いにくいのだ。
雄高は、葉月の磨きあげられた黒曜石のような瞳を思い出した。何もかも見通すような、冷徹な瞳を。
佐野は分からない。佐野は自分の思ったような反応を示さない。
雄高は、灰色の未知なるものがじわりと心の奥底に広がるような気がして、怖くなった。
雄高と史彦が一緒に暮らしていることも知っていた。
史彦でさえ、家族に引っ越しの知らせはしたけれど、雄高と同居を始めたことまでは話していない。二人の関係は、未だに家族にはカミングアウトしていないことだし、雄高も相馬教授にしか打ち明けていない。
いわば、秘密みたいなものだ。秘密とまでいわないまでも、あまり知られて欲しくないことは事実だ。
やましいことではない。二人の合意の元で生活は営まれているのだ。やましいことではない。そうしている人の数が少ないだけ、マイノリティなだけで……。
けれど、雄高の心はざわめくのだ。
史彦は目立つ存在だ。昨今、長髪の男など珍しくもないが、史彦ぐらい長く伸ばして、しかも髪質が女性に負けないほどの艶やかさで、さらに加えるなら涼やかな容姿に似合っている……そんな男、一度見たら忘れられないはずだ。
史彦が勤める、『Mコンピュータ・メンテナンス』は大学の様々な部署に出入りしている。昨日のようにごくたまにではあるが、史彦も仕事で大学に顔を出してはいる。けれど、自分から雄高の知り合いだとは声高に言っていないはず。
迂闊すぎたのだろうか。
紹介してくれ、と佐野は言った。雄高は、ふたりを引き合わせたくないと感じていた。佐野は、雄高と史彦の関係に微妙な影を落とすような、そんな不吉な予感がする。
腕の中の重いマニュアルは、そのまま雄高の気の重さだった。
食事の用意は、どちらがするとは決めていない。お互いに多忙な身のうえだ。それぞれが食べたいものを買って帰るというパターンが定着しつつあった。
しかし、二人一緒のときには顔を合わせて食事をするということだけは決めてある。一緒に生活をするうえで、最低のラインだろう。
雄高は多少料理はできるが、史彦ときたらさっぱり。もっぱら総菜を買って帰るのは史彦だ。今夜は残業の帰りに、どうしても焼き鳥が食べたくなったと言って買って来た。
「別にかまわないよ。俺も来週なら時間があるし」
史彦は塩味の焼き鳥を満足げに口にしながら、雄高に答えた。佐野からの申し出について、史彦は拍子抜けするほどあっさりと了解した。
「でも、佐野は俺たちが一緒に暮らしているってことまで知っている」
「なんか問題ある?」
全く頓着しない、史彦に雄高は少しいらついた。ほどよく冷えたビールはまだグラスに半分近く残っている。落ち着いて飲めないのだ。
「……特別な関係かって、聞かれたよ。佐野は感づいてるんじゃないか? 俺たちのことを」
「他人に知られると、駄目か。雄高は俺といると迷惑……」
史彦がまつげでけぶる切れ長の目で雄高を見た。雄高は慌てて言い直した。
「そんなこと、ないよ。ただ、言いふらすことでもないだろ」
「確かにな。でも、佐野って奴は結構いい奴じゃない? 仕事熱心だしさ」
雄高は史彦の意見のどちらにも賛同しかねた。いい奴、とは思えない。今日の口ぶりもどこか喧嘩腰だったし、仕事に関しては学内では『切れ者』と耳にはするけれど、雄高自身はそれを確かめたわけではない。
「行方不明の本を整理しようって言い出したのは、あいつらしいよ。みんなが長年面倒臭がってやらなかったことを、あいつが陣頭指揮取ってやってるらしい」
「だからか」
係長が佐野に向かって、お前の仕事と言っていた訳を雄高は理解した。
「前からいる連中は、面白くないみたいだったな。俺は本のことはよくわからないけど、キャリアの長そうな上司と互角に渡り合っていたし、コンピュータに関して質問するのはあいつばかり。他の職員はついてこれなかった。そのとおり行動力あるし。あいつ、来たばっかりなんだろう?」
「うん。一月に採用されたから、まだ半年もたってない」
「そうだとすれば、やっぱり仕事熱心だよ」
雄高も頷かないわけにはいかなかった。ビールを一口飲んで、焼き鳥をつまむ。
「あんなに愛想いいのに、周囲から受け入れられていないみたいで、なんかかわいそうだったよ」
その言葉に雄高はむせた。逆流したビールが鼻にまわって、ひどくせきをする雄高の背中を史彦があわててなでさすった。
「どうした、急に」
雄高は頭が混乱した。あいつが、愛想がいい? 史彦に対して? アルコールが鼻孔の粘膜を痛めつける。雄高は涙を流しながら、無理やり話そうとした。
「ふっ、史彦、ほんとに佐野の話をしてるのかっ?」
せきがおさまると、雄高はティッシュで口と鼻を拭いながら史彦に問い返した。史彦は雄高から剣呑なものを感じ取ったのか、少し言いよどんだ。
「佐野、だろう? 俺より背が少し低くて、黒縁の分厚いレンズの眼鏡をかけてて、同年代の奴なんて、他に図書館にいないだろ?」
「……あいつ、態度サイアクだったぞ。俺たちには。出雲井くんなんか、いづらくてさっさと研究室に帰るくらい」
正確に言うなら、雄高には。笑いもしなかった。いや、笑ったかもしれない。馬鹿にするように。
「そうか? 機嫌が悪かっただけかもな。じゃ、久々に外で飲もう。佐野も一緒さ」
雄高の不安になど気づかずに、明るく提案する史彦にまた少し腹を立てた。しかし、ここのところ、引っ越しや新年度の慌ただしさからゆっくりと外食する暇も無かったから雄高もしぶしぶ同意した。
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