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史彦が指定したのは、水曜日。なぜ水曜日だったのか、理由を知ったときには既に雄高の機嫌は斜めにかしいでいた。
不機嫌ー。雄高を知る多くの者たちは、そんな雄高は見たこともないし、想像すらできないと言うだろう。普段の雄高は誰にでも愛想がよく、とても礼儀正しい。
けれど、史彦と待ち合わせている趣味のいいバーに佐野と二人でいるということが、雄高にとっては不愉快に感じていた。内装は五十年代のアメリカを意識してつくられていて、低くジャズが流れている。そのリズムも、雄高には騒がしく聞こえるだけで、佐野と会話するために話題にできそうなことは何もなかった。
目の前に座る佐野は、どこかそわそわとして浮足立っている。そう、先週今夜のことを知らせにいったときの態度も思い返すと腹立たしい。
「まさか、ほんとに俺のために一席設けてくれるなんてね。思ってもみなかったな」
佐野はそう言った。雄高がどうして、と問うと涼しい顔で、
「だって碓氷さん、灰智さんのこと独り占めにしておきたいみたいだし」
言われて、一瞬かっと頭に血が上った。そして、愕然とした。いいように佐野にあしらわれている自分に。佐野は、にやりと笑うだけだった。
「俺、碓氷さんのこと学生のころから知ってるんだ」
無言でバーボンのグラスを掴んでいた雄高に、佐野は悪びれもせずに声をかけた。佐野は、普段よりは身なりに気を使ったらしく、さすがに髪に寝癖はついてなかった。毛先がはねるのは、パーマのせいか、癖毛なのか。そうすると、いくぶん愛嬌があるように見える。
「僕も、知ってますよ。奨学金の面接のとき、会いましたよね」
「へえ、俺のことなんか覚えてくれたんですか? まあ、碓氷さんは『イチ抜け組』だったからね、余裕ってやつですか」
いちいち言葉に刺があるような気がするのは、雄高のうがちすぎだろうか。佐野はおかまいなしに続けた。
「他の奴らが噂してたんですよ。『碓氷があれだけバイトしながらいい成績が取れるのは、教授連中に体でも売ってるからだろう』ってね」
「……!」
雄高は拳でテーブルを叩いた。がつん、という鋭い音は周囲の酔客を振り向かせるほど大きかった。数秒間、グラスと皿がかすかに触れ合う音が響いた。
「冗談ですよ……碓氷さんに対するやっかみ」
佐野は何事もなかったように、話す。雄高は、胸のなかで怒りが渦巻き、自分でも険しい目つきになっていくことが感じられた。
ジン・トニックを一口飲むと、佐野は雄高をからかうように見つめた。
「実際、面接のディスカッションになれば、碓氷さんの成績がそんなことで取れたとは思えませんでしたから。理路整然としていて、切れがあって」
「あいにく、家を飛び出してしまっていたからね。奨学金は、命綱だったんだ。意地でも落とせない……。ほかの奴らからなんと言われようと、僕は勉強していた。当然の結果を手にしていたまでだ」
「へえ。さすが、講師にまでなる人は云うことが違うや。でも、碓氷さんが相馬教授に目をかけてもらっているのは、事実でしょう? 現に、あんなふざけたタブロイドにも血相変えて走っていくような人物もいるわけだし」
勘ぐられた原因は、やはり史彦だったらしい。図書館での現場を思い浮かべて、雄高は苦笑した。雄高のそんな態度がカンに触ったのか、佐野は一時口をつぐんで酒を飲んだ。
「でも、佐野さんだって米留学したのは、奨学金制度を活用したからでしょう。僕の存在が、佐野さんの足を引っ張ったわけじゃない」
「確かにね」
中途半端に会話が途切れ、雄高は腑に落ちないものを感じた。だから? 雄高が奨学金を得るためにした努力は、自分自身でも今では信じられないくらいだ。そのことで、全くの第三者の佐野から非難めいたことを言われても、雄高はどう受け取っていいかわかるかけがない。
「灰智さんと同居してるんでしょう?」
挑むような表情をつくり、佐野は雄高に尋ねた。その質問に、雄高はもう動揺しなかった。答えは用意して来たから。
「してますよ。大学からの給料はどの程度かわかりますよね。実際薄給だから、僕は週に二回精神科のクリニックでカウンセラーのバイトをしているくらいだ。広いところに住みたいなら、誰かと部屋をシェアすれば安くあがるし合理的じゃないですか」
「そう、ですね。でも、お二人とも結婚してもおかしくない年齢なのに、わざわざ同居をしてるなんて不自然じゃないですか」
佐野の受け答えには、雄高の神経を逆なでるような語気が含まれている。どうしてここまで食い下がられなければならないのだろう。雄高は怒りを通り越して、疲労感さえ覚えた。額にかかる前髪をかきあげながら佐野を一瞥すると、そのまま無視してバーボンをあおった。
「君がどう思うと、勝手だよ」
雄高の喉をアルコールが熱くして胃へ下っていく。どれほどの道程を経て、史彦と暮らせるようになったか知りもしないくせに。佐野から何を云われようと、その点に置いては雄高には揺るぎないものが存在する。
「勝手に想像していいんですか?」
押し黙った雄高に、佐野はなおも食い下がろうとした。雄高は唇を引き締めて、佐野を睨んだ。二人の間に不穏な空気が流れ、一触即発かと思われたとき、妙に浮かれた男が店に入って来た。
「あっ、雄高っ! ごめん、待った?」
したたか酔った史彦が、両脇に女の子を連れて店内に現れた史彦は他の客の視線を一瞬で集めた。それほど、史彦は目立つ。おまけに、華やかな女性つき。まさに両手に花。
トレンチコートを羽織った史彦は長い髪を後ろで結び、りゅうとした姿で雄高と佐野の前に立った。身長は雄高とほぼ同じ百八十弱。口を開かずまじめな顔をしていれば、充分に二枚目で通る。しかし、実際の史彦は気さくで明るい。
「歓迎会が時間どおりに終わらなくってさ、ワルイワルイ。佐野さんも、待たせてごめんなさい」
ペコリと頭をさげる史彦。その様子に、ついて来た女の子たちが笑う。
「史彦……」
雄高は気が抜けて、頭を抱えた。妙に気取ったりしない史彦が好きだ。けれど、雄高は佐野のまえではもう少しだけ格好つけて欲しいと思った自分を複雑に感じた。
そう、なぜ史彦が水曜日の今日、残業がなかったのか。それは、会社の歓迎会だったから。ついでに、佐野との会見もすませてしまおうという史彦の横着な計画が分かったとき、雄高は呆れてものが言えなかった。
「こんばんは」
佐野が礼儀正しく挨拶すると、史彦はまあまあとでもいうように手をひらひらさせて雄高の隣に座った。ショートヘアにオレンジのパンツスーツの子は雄高と佐野の間に、もう一人の髪を結いあげ、フェミニンなレース使いのワンピースの子は史彦と佐野の間に腰かけた。二人が動くとかすかに周囲に甘やかな香りが流れた。
「すみません、灰智さんにどうしてもってお願いして、ついてきちゃいました」
にこりと笑ったショートの子は、魅力的なハスキーヴォイスだった。ねっ、とぱっちりした二重の瞳でウインクした。目線で向かいに座ったもう一人に笑いかけると、こちらは黒目がちの目を細めて恥ずかしそうに頷いた。
「会社の同僚なんだ。伊勢さんと、川辺さん」
「伊勢やよいです。演歌歌手みたいな名前でしょ? あ、わたしギムレット。梓、なんにする?」
オーダーを取りに来た店員に、即答で注文しながら明るく自己紹介した。一方川辺は、メニューを丹念に見てから、小さな声で、
「モスコミューレ」
と言った。史彦は黒ビールを頼み、史彦と佐野は一杯目と同じものをそれぞれ注文した。
「それで、えーと……雄高、あと何を言えばいいんだ?」
「あのな……。碓氷です。すみません、酔っ払うとただのオヤジになっちゃうんです、コイツ」
「えー、いつもこんな調子ですよ。社でも」
気にしてないらしく、伊勢が答えた。それはそれで、問題がありそうだ。佐野は雄高をちらり見ると、ようやく口をひらいた。
「佐野です。碓氷さんと同僚です。部署は違うけど」
「うん、マニュアル忘れてしまって迷惑をかけました。ところで図書館のコンピュータの調子どう? レスポンス悪くないかな」
「このあいだプログラムを修正してもらったおかげで、いい具合ですよ」
自然な笑みで答える佐野。たしかに、史彦には愛想がいい。さっきまでの好戦的な佐野が嘘のようだ。どことなく、面白くない雄高は二杯目のバーボンを一気に半分ほど飲んでしまった。
「碓氷さんは、大学の教授なんですか」
川辺が頬を上気させて雄高に尋ねた。色白で、すらりとした首にチョーカーが印象的だ。
「この歳で教授なんてありえないよ。僕はただの講師」
川辺は頬に手をあてて、ひそやかなため息をついた。クリア系のマニキュアが塗られた爪が薄暗い照明のなかでかすかに光った。
「ヤッパついてきてよかったよね、梓。灰智さんがいつも言うんですよぉ、『友だちは男前だ』って。だから、どれだけ男前なのか見せてって」
「期待どおり?」
佐野が茶化すように突然会話に加わった。雄高は少し不快に思ったが、この場の雰囲気を壊す訳にもいかず苦々しい思いを封じ込めてほほ笑んだ。
「期待以上! だよね、梓」
「ホント……」
「だろ、だろ?!」
史彦は我がことのように、はしゃいだ。雄高は史彦のこんな点を不思議に思う。
佐野に指摘されるまで気づかなかったが、雄高は史彦を誰にも紹介したくないと思っていたらしい。特別親しい人、たとえば相馬教授のような人物になら、紹介する。けれど、史彦は大学のあたりから雄高を誰彼となく紹介しまくる。それは、史彦に言い寄る女性を遠ざけるためだったりもしたけれど、基本的に史彦は雄高を皆に見せたいらしいのだ。
「佐野さん、パソコン好きなんだって? インターネットとかやる? ゲームは好き?」
史彦が佐野に矢継ぎ早に質問すると、佐野は嬉しそうに膝を乗り出して答えた。
「ええ。どれも。留学先の友人とメール交換もしてます。あ、アドレス交換しましょう」
「ああいいよ。雄高はさ、コンピュータの方はさっぱりで」
二人の会話が弾む。間に座る川辺が気を利かせて、史彦と席を交換した。楽しげに話す史彦に雄高は胸の中で舌打ちした。
「いつからお友達なんですか、灰智さんと」
席を替えて隣に移って来た川辺が、グラスの細い脚に指をかけて雄高に話しかけた。
「子どものころからだよ。父親同士が友人だったから」
雄高の言葉に、佐野は史彦と会話しながらも注意深く耳を傾けているように感じられた。眼鏡の奥の瞳がわずかに雄高に動いたような気がした。
「一緒だったのは、高校だけだったけど」
「えー、じゃあ男子校ですよね!」
嬉々とした声を伊勢があげた。意味が分からず、雄高はその反応に少し戸惑った。
「やよいさんてば、目の色が変わってるわよ」
川辺がたしなめると、伊勢が照れたようにピアスに手を当てた。
「男子校出身って、珍しいかな。伊勢さんと川辺さんは?」
「わたしたちも高校が一緒なんです。しかも女子校。それで、女子校出身っていうと妙に頬をポっとさせる男性って多いんですよ。まったく、何を想像しているやら。でもね、って二人でよく話すんです。男性が女子校に幻想を持つように、わたしたちも男子校って聞くと、はしゃいじゃうよねって」
そうそう、と伊勢と川辺は可愛らしい笑い声をあげ、一気に女子高生に戻ったように若やいだ。
「伊勢さんは後輩から手紙をもらうタイプじゃありませんか?」
「そうなんですよ、やよいさん応援団長だったから、ファンレターやらバレンタインにチョコやら山のようにもらってたんですよ」
「やだ梓、ばらさないでよ。恥ずかしいったらありゃしない。女の子同士で。でも、男子校ではそんなことなかったんですか?」
伊勢と川辺の瞳が好奇心できらめいた。ああ、そういうことかと雄高はひとりごちした。思春期の単性だけの空間は、異性からの興味や想像をかき立てずにはいられない。
「女子校って、『秘密の花園』みたいだよね。実際もそうなの?」
「ゼーンゼン。むしろ女の子だけって遠慮がないし、掃除だっていい加減。異性の目がないから、だらしがなくてね」
「同じようなものだよ。考えてもごらんよ、いい体格の男子が狭い教室にひしめいてるんだよ。夏なんか汗くさくてたまらなかったし、掃除は当然行き届かなくて雑然としてた。お嬢さんたちが想像するようなことはないよ」
「えー、残念。だって、ねえ」
伊勢は雄高の顔をちらりと見ると、口ごもってグラスを傾けた。
「碓氷さん素敵だから、男の人にも……」
川辺が細い声でささやくように言った。伊勢が顔を真っ赤にして、雄高の隣で体を小さくした。雄高はおかしくなって、ついふたりをからかいたくなった。
「僕が、なに?」
にこりとほほ笑むと、川辺は首まで朱に染めそのまま無言になった。当然の反応を雄高は楽しんだが、向かい合わせの佐野の冷ややかな目線に気づいた。史彦とゲームやコンピュータの話で盛り上がっていても、やはり雄高たちの会話も耳に入れていたらしい。
おそらく、はたから見れば賑やかで華やかな五人グループだろう。会話も弾み、陽気な雰囲気だ。ただ、雄高と佐野だけはどこか冷めていた。お互いの態度や発言を注意深くチェックしている。奇妙な緊張感……。
雄高のグラスの氷がとけて、からんと音を立てた。雄高は三杯目を注文した。
それから他愛もない話で、夜が更けた。
「とても楽しかったです。また、一緒に飲みましょうね」
伊勢と川辺が並んで雄高に挨拶した。さすがに佐野に悪いと思ったのか、彼にもお義理にならない程度の言葉をかける。雄高たちは彼女たちがタクシーに乗り合わせるの見届けてから、歩きだした。
値千金とは良く言ったもので、今夜は満月にちかい月が空に昇り、風はふわりと包み込むような心地よさだ。酔いを覚ますために、川沿いの遊歩道を三人は歩いた。
「佐野さんのアパートって、俺たちの近くなんだってね」
「中天神町。近所のコンビニで灰智さんのこと見たことがありますよ」
佐野がいった町名は、雄高たちのすぐ隣だ。そこから一キロと離れていない上天神町にマンションがある。利用する路線バスも一緒だろう。自転車の使えない雨の日には同じ車輛に乗り合わせるのかと思うと雄高の気持ちは重くなった。
「そりゃ近いや。もう少しだけ歩こうか。次の橋まで行ったらタクシーを拾おう。いいかな? 雄高」
史彦が雄高にもたれかかる。雄高は佐野の視線を気にしながらも、史彦の体を支えた。
「構わないけど、大丈夫か? 弱いくせに飲み過ぎなんだよ、史彦は」
「いいじゃん。久しぶりで楽しかったし……」
史彦はふだんから残業や出張が多い。雄高も大学と、クリニックでのバイトと掛け持ちで慌ただしく日々を過ごしている。一緒にでかけられる機会も少ない。部屋にいても、お互いに持ち越した仕事をしなければならない事もあるから、こうしていられる時間はとても貴重に感じられるのだ。
風が酔って熱くなった頬に気持ちがいい。川のせせらぎを聞きながら歩いていた。史彦がクライスラーの曲を口ずさんだ。川岸に史彦のハミングが流れた。ほんのわずかの沈黙の後、不意に佐野が歩みを止めた。怪訝に思って雄高と史彦がが振る返ると、佐野が口を開いた。
「恋人同士なんでしょう?」
史彦の腕を支える雄高の指が、無意識にきつくトレンチコートの袖をつかんだ。佐野の表情は暗くてよくみえない。けれど、ごく落ち着いた口調だ。まるで天気の話でも始めたように。思い切って切りだした、という感じではない。
「そうだよ」
史彦が静かに答えた。雄高はあえてなにも口を差し挟まず、目を伏せた。佐野が息を呑む雰囲気が伝わった。
「それについて、佐野さんがどう思おうと俺は気にしない。でも、大学で雄高に迷惑をかけるようなことだけは、しないでくれ」
いつの間にか、史彦は雄高と指を絡め手をつないでいた。その手も少しだけ震えている。雄高は緊張から汗ばむ史彦の手を握り返した。
「……もししたら?」
「許さない」
史彦のきっぱりした声に、佐野はひるんだように見えた。そして眼鏡を中指で押し上げると、くすりと笑った。
「俺、アメリカにいたんですよ。免疫ありますから。ゲイの連中はむこうではごくありふれた存在だし、クラスメイトにもいましたよ。これで碓氷さんたちを脅すような卑怯なマネなんか、絶対にしません」
ホントに、と佐野は約束した。その言葉に、史彦から緊張がとけたようだ。かすかに息を吐く気配が感じられ、雄高も肩から力が抜けた。
「どっちから告白したんですか?」
「オレ、俺の方。雄高を誰にもやりたくなくてさ」
史彦はつないだ手を大きく振りながら答えた。いつもながら、史彦の真っすぐさに雄高のほうが照れてしまう。史彦は隠さない。自分のほうが雄高をずっと好きだと。だから、安騎野のことをいつまでも思い続ける雄高を容認しているようなところが見えた。恋愛関係で、ともすれば「好きになり過ぎた方が負け」ということも史彦には通じない。
「誰かに、取られそうだったんですか?」
「うん。すげー強敵に」
その言葉に雄高の胸は痛んだが、史彦に合わせて笑った。安騎野との熱かった二月の一夜が脳裏をよぎる。あのとき味わった、安騎野の信じられないほどの優しさと激しさが一気に体全体にフィードバックして、雄高の良心をさいなんだ。
「でも、勝ったのは俺だから」
「ちがうよ、俺が……」
手をつないだままで、今度は雄高が立ち止まった。俯き加減だった顔をあげて、雄高は真顔で史彦を見つめた。いま、言わなければ。ここで、佐野の前で。
「俺が、必要だったんだ。史彦のことが……誰より」
史彦は切れ長の瞳を見開いて雄高を見ている。佐野はその隣でまなじりをあげ、青ざめた顔を雄高に向けた。雄高は佐野の表情に溜飲を下げた。
史彦は雄高の肩を抱いて、耳元で小さな声で尋ねた。
「もう忘れたんだな、ほんとに。あいつのこと」
雄高はうなずいた。もう、忘れた。安騎野は遠い日の幻なのだ。雄高は史彦に甘えている。言葉や態度でわかりすぎるくらい雄高への愛情を表現する史彦に。だから、雄高はめったに口にしなかった。言葉では素直に言えなかった。
言えてよかった。安騎野への決別の言葉を口にすることで、ようやくすべてを思い出に出来るだろう。もっと史彦が好きになるだろう。
新芽をつけた柳が、史彦の長い髪と一緒に風にそよぐ。雄高は史彦との絆の強さをいつまでも確かめていたいと思った。
「マンションに遊びに行ってもいいですか?」
ここからなら歩いた方が面倒がないと、佐野はタクシーは断った。タクシーに乗る間際、佐野が史彦に切り出した。史彦は雄高へと目配せし、雄高がうなずくとそれが合意の印になった。
「今日はありがとうございました。じゃあ、近いうちにお邪魔します。お休みなさい。碓氷さん……図書館へも来てくださいよ」
「ええ。調べ物が山ほどありますから」
それじゃあ、と佐野は二人を見送った。
この時点では、雄高はなにも知らなかった。佐野が一体何を考えているかなど。
不機嫌ー。雄高を知る多くの者たちは、そんな雄高は見たこともないし、想像すらできないと言うだろう。普段の雄高は誰にでも愛想がよく、とても礼儀正しい。
けれど、史彦と待ち合わせている趣味のいいバーに佐野と二人でいるということが、雄高にとっては不愉快に感じていた。内装は五十年代のアメリカを意識してつくられていて、低くジャズが流れている。そのリズムも、雄高には騒がしく聞こえるだけで、佐野と会話するために話題にできそうなことは何もなかった。
目の前に座る佐野は、どこかそわそわとして浮足立っている。そう、先週今夜のことを知らせにいったときの態度も思い返すと腹立たしい。
「まさか、ほんとに俺のために一席設けてくれるなんてね。思ってもみなかったな」
佐野はそう言った。雄高がどうして、と問うと涼しい顔で、
「だって碓氷さん、灰智さんのこと独り占めにしておきたいみたいだし」
言われて、一瞬かっと頭に血が上った。そして、愕然とした。いいように佐野にあしらわれている自分に。佐野は、にやりと笑うだけだった。
「俺、碓氷さんのこと学生のころから知ってるんだ」
無言でバーボンのグラスを掴んでいた雄高に、佐野は悪びれもせずに声をかけた。佐野は、普段よりは身なりに気を使ったらしく、さすがに髪に寝癖はついてなかった。毛先がはねるのは、パーマのせいか、癖毛なのか。そうすると、いくぶん愛嬌があるように見える。
「僕も、知ってますよ。奨学金の面接のとき、会いましたよね」
「へえ、俺のことなんか覚えてくれたんですか? まあ、碓氷さんは『イチ抜け組』だったからね、余裕ってやつですか」
いちいち言葉に刺があるような気がするのは、雄高のうがちすぎだろうか。佐野はおかまいなしに続けた。
「他の奴らが噂してたんですよ。『碓氷があれだけバイトしながらいい成績が取れるのは、教授連中に体でも売ってるからだろう』ってね」
「……!」
雄高は拳でテーブルを叩いた。がつん、という鋭い音は周囲の酔客を振り向かせるほど大きかった。数秒間、グラスと皿がかすかに触れ合う音が響いた。
「冗談ですよ……碓氷さんに対するやっかみ」
佐野は何事もなかったように、話す。雄高は、胸のなかで怒りが渦巻き、自分でも険しい目つきになっていくことが感じられた。
ジン・トニックを一口飲むと、佐野は雄高をからかうように見つめた。
「実際、面接のディスカッションになれば、碓氷さんの成績がそんなことで取れたとは思えませんでしたから。理路整然としていて、切れがあって」
「あいにく、家を飛び出してしまっていたからね。奨学金は、命綱だったんだ。意地でも落とせない……。ほかの奴らからなんと言われようと、僕は勉強していた。当然の結果を手にしていたまでだ」
「へえ。さすが、講師にまでなる人は云うことが違うや。でも、碓氷さんが相馬教授に目をかけてもらっているのは、事実でしょう? 現に、あんなふざけたタブロイドにも血相変えて走っていくような人物もいるわけだし」
勘ぐられた原因は、やはり史彦だったらしい。図書館での現場を思い浮かべて、雄高は苦笑した。雄高のそんな態度がカンに触ったのか、佐野は一時口をつぐんで酒を飲んだ。
「でも、佐野さんだって米留学したのは、奨学金制度を活用したからでしょう。僕の存在が、佐野さんの足を引っ張ったわけじゃない」
「確かにね」
中途半端に会話が途切れ、雄高は腑に落ちないものを感じた。だから? 雄高が奨学金を得るためにした努力は、自分自身でも今では信じられないくらいだ。そのことで、全くの第三者の佐野から非難めいたことを言われても、雄高はどう受け取っていいかわかるかけがない。
「灰智さんと同居してるんでしょう?」
挑むような表情をつくり、佐野は雄高に尋ねた。その質問に、雄高はもう動揺しなかった。答えは用意して来たから。
「してますよ。大学からの給料はどの程度かわかりますよね。実際薄給だから、僕は週に二回精神科のクリニックでカウンセラーのバイトをしているくらいだ。広いところに住みたいなら、誰かと部屋をシェアすれば安くあがるし合理的じゃないですか」
「そう、ですね。でも、お二人とも結婚してもおかしくない年齢なのに、わざわざ同居をしてるなんて不自然じゃないですか」
佐野の受け答えには、雄高の神経を逆なでるような語気が含まれている。どうしてここまで食い下がられなければならないのだろう。雄高は怒りを通り越して、疲労感さえ覚えた。額にかかる前髪をかきあげながら佐野を一瞥すると、そのまま無視してバーボンをあおった。
「君がどう思うと、勝手だよ」
雄高の喉をアルコールが熱くして胃へ下っていく。どれほどの道程を経て、史彦と暮らせるようになったか知りもしないくせに。佐野から何を云われようと、その点に置いては雄高には揺るぎないものが存在する。
「勝手に想像していいんですか?」
押し黙った雄高に、佐野はなおも食い下がろうとした。雄高は唇を引き締めて、佐野を睨んだ。二人の間に不穏な空気が流れ、一触即発かと思われたとき、妙に浮かれた男が店に入って来た。
「あっ、雄高っ! ごめん、待った?」
したたか酔った史彦が、両脇に女の子を連れて店内に現れた史彦は他の客の視線を一瞬で集めた。それほど、史彦は目立つ。おまけに、華やかな女性つき。まさに両手に花。
トレンチコートを羽織った史彦は長い髪を後ろで結び、りゅうとした姿で雄高と佐野の前に立った。身長は雄高とほぼ同じ百八十弱。口を開かずまじめな顔をしていれば、充分に二枚目で通る。しかし、実際の史彦は気さくで明るい。
「歓迎会が時間どおりに終わらなくってさ、ワルイワルイ。佐野さんも、待たせてごめんなさい」
ペコリと頭をさげる史彦。その様子に、ついて来た女の子たちが笑う。
「史彦……」
雄高は気が抜けて、頭を抱えた。妙に気取ったりしない史彦が好きだ。けれど、雄高は佐野のまえではもう少しだけ格好つけて欲しいと思った自分を複雑に感じた。
そう、なぜ史彦が水曜日の今日、残業がなかったのか。それは、会社の歓迎会だったから。ついでに、佐野との会見もすませてしまおうという史彦の横着な計画が分かったとき、雄高は呆れてものが言えなかった。
「こんばんは」
佐野が礼儀正しく挨拶すると、史彦はまあまあとでもいうように手をひらひらさせて雄高の隣に座った。ショートヘアにオレンジのパンツスーツの子は雄高と佐野の間に、もう一人の髪を結いあげ、フェミニンなレース使いのワンピースの子は史彦と佐野の間に腰かけた。二人が動くとかすかに周囲に甘やかな香りが流れた。
「すみません、灰智さんにどうしてもってお願いして、ついてきちゃいました」
にこりと笑ったショートの子は、魅力的なハスキーヴォイスだった。ねっ、とぱっちりした二重の瞳でウインクした。目線で向かいに座ったもう一人に笑いかけると、こちらは黒目がちの目を細めて恥ずかしそうに頷いた。
「会社の同僚なんだ。伊勢さんと、川辺さん」
「伊勢やよいです。演歌歌手みたいな名前でしょ? あ、わたしギムレット。梓、なんにする?」
オーダーを取りに来た店員に、即答で注文しながら明るく自己紹介した。一方川辺は、メニューを丹念に見てから、小さな声で、
「モスコミューレ」
と言った。史彦は黒ビールを頼み、史彦と佐野は一杯目と同じものをそれぞれ注文した。
「それで、えーと……雄高、あと何を言えばいいんだ?」
「あのな……。碓氷です。すみません、酔っ払うとただのオヤジになっちゃうんです、コイツ」
「えー、いつもこんな調子ですよ。社でも」
気にしてないらしく、伊勢が答えた。それはそれで、問題がありそうだ。佐野は雄高をちらり見ると、ようやく口をひらいた。
「佐野です。碓氷さんと同僚です。部署は違うけど」
「うん、マニュアル忘れてしまって迷惑をかけました。ところで図書館のコンピュータの調子どう? レスポンス悪くないかな」
「このあいだプログラムを修正してもらったおかげで、いい具合ですよ」
自然な笑みで答える佐野。たしかに、史彦には愛想がいい。さっきまでの好戦的な佐野が嘘のようだ。どことなく、面白くない雄高は二杯目のバーボンを一気に半分ほど飲んでしまった。
「碓氷さんは、大学の教授なんですか」
川辺が頬を上気させて雄高に尋ねた。色白で、すらりとした首にチョーカーが印象的だ。
「この歳で教授なんてありえないよ。僕はただの講師」
川辺は頬に手をあてて、ひそやかなため息をついた。クリア系のマニキュアが塗られた爪が薄暗い照明のなかでかすかに光った。
「ヤッパついてきてよかったよね、梓。灰智さんがいつも言うんですよぉ、『友だちは男前だ』って。だから、どれだけ男前なのか見せてって」
「期待どおり?」
佐野が茶化すように突然会話に加わった。雄高は少し不快に思ったが、この場の雰囲気を壊す訳にもいかず苦々しい思いを封じ込めてほほ笑んだ。
「期待以上! だよね、梓」
「ホント……」
「だろ、だろ?!」
史彦は我がことのように、はしゃいだ。雄高は史彦のこんな点を不思議に思う。
佐野に指摘されるまで気づかなかったが、雄高は史彦を誰にも紹介したくないと思っていたらしい。特別親しい人、たとえば相馬教授のような人物になら、紹介する。けれど、史彦は大学のあたりから雄高を誰彼となく紹介しまくる。それは、史彦に言い寄る女性を遠ざけるためだったりもしたけれど、基本的に史彦は雄高を皆に見せたいらしいのだ。
「佐野さん、パソコン好きなんだって? インターネットとかやる? ゲームは好き?」
史彦が佐野に矢継ぎ早に質問すると、佐野は嬉しそうに膝を乗り出して答えた。
「ええ。どれも。留学先の友人とメール交換もしてます。あ、アドレス交換しましょう」
「ああいいよ。雄高はさ、コンピュータの方はさっぱりで」
二人の会話が弾む。間に座る川辺が気を利かせて、史彦と席を交換した。楽しげに話す史彦に雄高は胸の中で舌打ちした。
「いつからお友達なんですか、灰智さんと」
席を替えて隣に移って来た川辺が、グラスの細い脚に指をかけて雄高に話しかけた。
「子どものころからだよ。父親同士が友人だったから」
雄高の言葉に、佐野は史彦と会話しながらも注意深く耳を傾けているように感じられた。眼鏡の奥の瞳がわずかに雄高に動いたような気がした。
「一緒だったのは、高校だけだったけど」
「えー、じゃあ男子校ですよね!」
嬉々とした声を伊勢があげた。意味が分からず、雄高はその反応に少し戸惑った。
「やよいさんてば、目の色が変わってるわよ」
川辺がたしなめると、伊勢が照れたようにピアスに手を当てた。
「男子校出身って、珍しいかな。伊勢さんと川辺さんは?」
「わたしたちも高校が一緒なんです。しかも女子校。それで、女子校出身っていうと妙に頬をポっとさせる男性って多いんですよ。まったく、何を想像しているやら。でもね、って二人でよく話すんです。男性が女子校に幻想を持つように、わたしたちも男子校って聞くと、はしゃいじゃうよねって」
そうそう、と伊勢と川辺は可愛らしい笑い声をあげ、一気に女子高生に戻ったように若やいだ。
「伊勢さんは後輩から手紙をもらうタイプじゃありませんか?」
「そうなんですよ、やよいさん応援団長だったから、ファンレターやらバレンタインにチョコやら山のようにもらってたんですよ」
「やだ梓、ばらさないでよ。恥ずかしいったらありゃしない。女の子同士で。でも、男子校ではそんなことなかったんですか?」
伊勢と川辺の瞳が好奇心できらめいた。ああ、そういうことかと雄高はひとりごちした。思春期の単性だけの空間は、異性からの興味や想像をかき立てずにはいられない。
「女子校って、『秘密の花園』みたいだよね。実際もそうなの?」
「ゼーンゼン。むしろ女の子だけって遠慮がないし、掃除だっていい加減。異性の目がないから、だらしがなくてね」
「同じようなものだよ。考えてもごらんよ、いい体格の男子が狭い教室にひしめいてるんだよ。夏なんか汗くさくてたまらなかったし、掃除は当然行き届かなくて雑然としてた。お嬢さんたちが想像するようなことはないよ」
「えー、残念。だって、ねえ」
伊勢は雄高の顔をちらりと見ると、口ごもってグラスを傾けた。
「碓氷さん素敵だから、男の人にも……」
川辺が細い声でささやくように言った。伊勢が顔を真っ赤にして、雄高の隣で体を小さくした。雄高はおかしくなって、ついふたりをからかいたくなった。
「僕が、なに?」
にこりとほほ笑むと、川辺は首まで朱に染めそのまま無言になった。当然の反応を雄高は楽しんだが、向かい合わせの佐野の冷ややかな目線に気づいた。史彦とゲームやコンピュータの話で盛り上がっていても、やはり雄高たちの会話も耳に入れていたらしい。
おそらく、はたから見れば賑やかで華やかな五人グループだろう。会話も弾み、陽気な雰囲気だ。ただ、雄高と佐野だけはどこか冷めていた。お互いの態度や発言を注意深くチェックしている。奇妙な緊張感……。
雄高のグラスの氷がとけて、からんと音を立てた。雄高は三杯目を注文した。
それから他愛もない話で、夜が更けた。
「とても楽しかったです。また、一緒に飲みましょうね」
伊勢と川辺が並んで雄高に挨拶した。さすがに佐野に悪いと思ったのか、彼にもお義理にならない程度の言葉をかける。雄高たちは彼女たちがタクシーに乗り合わせるの見届けてから、歩きだした。
値千金とは良く言ったもので、今夜は満月にちかい月が空に昇り、風はふわりと包み込むような心地よさだ。酔いを覚ますために、川沿いの遊歩道を三人は歩いた。
「佐野さんのアパートって、俺たちの近くなんだってね」
「中天神町。近所のコンビニで灰智さんのこと見たことがありますよ」
佐野がいった町名は、雄高たちのすぐ隣だ。そこから一キロと離れていない上天神町にマンションがある。利用する路線バスも一緒だろう。自転車の使えない雨の日には同じ車輛に乗り合わせるのかと思うと雄高の気持ちは重くなった。
「そりゃ近いや。もう少しだけ歩こうか。次の橋まで行ったらタクシーを拾おう。いいかな? 雄高」
史彦が雄高にもたれかかる。雄高は佐野の視線を気にしながらも、史彦の体を支えた。
「構わないけど、大丈夫か? 弱いくせに飲み過ぎなんだよ、史彦は」
「いいじゃん。久しぶりで楽しかったし……」
史彦はふだんから残業や出張が多い。雄高も大学と、クリニックでのバイトと掛け持ちで慌ただしく日々を過ごしている。一緒にでかけられる機会も少ない。部屋にいても、お互いに持ち越した仕事をしなければならない事もあるから、こうしていられる時間はとても貴重に感じられるのだ。
風が酔って熱くなった頬に気持ちがいい。川のせせらぎを聞きながら歩いていた。史彦がクライスラーの曲を口ずさんだ。川岸に史彦のハミングが流れた。ほんのわずかの沈黙の後、不意に佐野が歩みを止めた。怪訝に思って雄高と史彦がが振る返ると、佐野が口を開いた。
「恋人同士なんでしょう?」
史彦の腕を支える雄高の指が、無意識にきつくトレンチコートの袖をつかんだ。佐野の表情は暗くてよくみえない。けれど、ごく落ち着いた口調だ。まるで天気の話でも始めたように。思い切って切りだした、という感じではない。
「そうだよ」
史彦が静かに答えた。雄高はあえてなにも口を差し挟まず、目を伏せた。佐野が息を呑む雰囲気が伝わった。
「それについて、佐野さんがどう思おうと俺は気にしない。でも、大学で雄高に迷惑をかけるようなことだけは、しないでくれ」
いつの間にか、史彦は雄高と指を絡め手をつないでいた。その手も少しだけ震えている。雄高は緊張から汗ばむ史彦の手を握り返した。
「……もししたら?」
「許さない」
史彦のきっぱりした声に、佐野はひるんだように見えた。そして眼鏡を中指で押し上げると、くすりと笑った。
「俺、アメリカにいたんですよ。免疫ありますから。ゲイの連中はむこうではごくありふれた存在だし、クラスメイトにもいましたよ。これで碓氷さんたちを脅すような卑怯なマネなんか、絶対にしません」
ホントに、と佐野は約束した。その言葉に、史彦から緊張がとけたようだ。かすかに息を吐く気配が感じられ、雄高も肩から力が抜けた。
「どっちから告白したんですか?」
「オレ、俺の方。雄高を誰にもやりたくなくてさ」
史彦はつないだ手を大きく振りながら答えた。いつもながら、史彦の真っすぐさに雄高のほうが照れてしまう。史彦は隠さない。自分のほうが雄高をずっと好きだと。だから、安騎野のことをいつまでも思い続ける雄高を容認しているようなところが見えた。恋愛関係で、ともすれば「好きになり過ぎた方が負け」ということも史彦には通じない。
「誰かに、取られそうだったんですか?」
「うん。すげー強敵に」
その言葉に雄高の胸は痛んだが、史彦に合わせて笑った。安騎野との熱かった二月の一夜が脳裏をよぎる。あのとき味わった、安騎野の信じられないほどの優しさと激しさが一気に体全体にフィードバックして、雄高の良心をさいなんだ。
「でも、勝ったのは俺だから」
「ちがうよ、俺が……」
手をつないだままで、今度は雄高が立ち止まった。俯き加減だった顔をあげて、雄高は真顔で史彦を見つめた。いま、言わなければ。ここで、佐野の前で。
「俺が、必要だったんだ。史彦のことが……誰より」
史彦は切れ長の瞳を見開いて雄高を見ている。佐野はその隣でまなじりをあげ、青ざめた顔を雄高に向けた。雄高は佐野の表情に溜飲を下げた。
史彦は雄高の肩を抱いて、耳元で小さな声で尋ねた。
「もう忘れたんだな、ほんとに。あいつのこと」
雄高はうなずいた。もう、忘れた。安騎野は遠い日の幻なのだ。雄高は史彦に甘えている。言葉や態度でわかりすぎるくらい雄高への愛情を表現する史彦に。だから、雄高はめったに口にしなかった。言葉では素直に言えなかった。
言えてよかった。安騎野への決別の言葉を口にすることで、ようやくすべてを思い出に出来るだろう。もっと史彦が好きになるだろう。
新芽をつけた柳が、史彦の長い髪と一緒に風にそよぐ。雄高は史彦との絆の強さをいつまでも確かめていたいと思った。
「マンションに遊びに行ってもいいですか?」
ここからなら歩いた方が面倒がないと、佐野はタクシーは断った。タクシーに乗る間際、佐野が史彦に切り出した。史彦は雄高へと目配せし、雄高がうなずくとそれが合意の印になった。
「今日はありがとうございました。じゃあ、近いうちにお邪魔します。お休みなさい。碓氷さん……図書館へも来てくださいよ」
「ええ。調べ物が山ほどありますから」
それじゃあ、と佐野は二人を見送った。
この時点では、雄高はなにも知らなかった。佐野が一体何を考えているかなど。
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