メイストーム

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 翌日、いつもより遅めに大学へと出勤した雄高は、体力を取り戻していた。昨日は一食だけだが、佐野が作っていったお粥をなんとか食べて休んだせいだろう。
 手作りのお粥を食べたのは何年前だったろうか。実家にいたとき、家政婦が作ってくれたのが最後だったから、かれこれ十年ぶりぐらい。
 とんだところで、助けられた。雄高は自転車を駐輪場に止めて研究室へと向かった。普段と変わらない週の始めのはずだが、妙に浮足立つような、さざ波のような騒がしさがある。何かイベントでもあったか、と雄高は頭のなかで考えたが特別なにも思い出せなかった。
「おはよう」
 挨拶しながら研究室の引き戸を開けると、雄高の顔を見て奥津がふっと肩から力を抜くのがわかった。
「おはようございます、先生。今日は体調がいいみたいですね」
「ほんとだ、顔色がいいですよ!」
 夏にはまだ間があるというのに、すでに鼻の頭が焼けている出雲井もそう声をかけた。
「……ああ。みんなに心配かけていたみたいだね」
 そんなと奥津か頬を赤らめて、頭を下げる雄高に逆に恐縮した。
「お茶いかがですか。わたしのいれたものでよければ」
「ありがとう。教授は、まだ出勤されてない?」
 奥津は困ったように首をかしげて、出雲井に視線を投げた。ぴくん、と出雲井が背中をのばしてものいいたげに口を動かす。
「その、ですね。緊急に招集がかかって、席を外されました」
「緊急だなんて珍しいね。なにか起こったの?」
 そこでまた奥津と出雲井は視線をかわす。いつもは軽快に弾むふたりの会話は、今日に限ってはしめりがちだ。
「よくは、わからないんですケド……俺、今朝の朝練をすませて研究室に来ようとしたら、掲示板になんだか紙が貼りつけられてて。それを事務の人達が取り囲んで回収作業をしてるのにでくわしました」
「紙? 政治活動のビラかな? でも、それ程度で教授たちが集まるわけはないか」
「内部告発のビラだったみたいです。もちろん、俺は内容までは見えなかったんですが」
 雄高は内部告発という言葉に、思わず眉を寄せた。汚職かなにか? 
「もうすぐ教授が戻ると思います。でも、学生にはノーコメントでしょうね。意味なく騒ぎを大きくしたくないでしょうから」
 奥津はお茶を雄高に手渡してくれた。それはそうだが……。緊急に教授連中を集めるほどの事件など、この穏やかな大学にあるとは思えない。雄高は疑問に思いながらも、とりあえずお茶を飲んだ。
 お代わりのお茶を奥津に頼むころ、相馬教授が研究室の扉を開いた。
 深くため息を吐くと、改めて雄高の姿を認め表情を強ばらせた。
「教授、なにか重大なことでも?」
 三人の視線が教授に集まった。教授は何も言わずに、自分の席へと腰を下ろすと、そのまま新聞を広げてしまった。
「あの……」
 奥津が教授に茶を運びながら、物問いたげに首をかしげた。それを制するようにすっと教授は奥津と出雲井を見て、口を開いた。
「出雲井くん、もう一限目が始まる時間じゃないかね。それと奥津くん、お使いをたのまれてくれないかな。これ、医学部に届けてくれないか?」
 言われて出雲井は腕時計で時間を確かめると、名残惜しそうに部屋から出て行った。奥津が頼まれた医学部校舎は、本校から離れた場所にある。バスを使って三つほどの距離だが、往復となると一時間はかかる。
 それは分かりすぎるほどの人払いだった。学生には聞かせたくない内容だと、容易に想像がつく。雄高は奥津の後ろ姿を横目で見ながら、教授の表情を伺った。
 眉間に深いしわをよせ、唇を引き結んでいる。普段はまるで陽気な教授を、それほど悩ませるもの、それは学部内のことなのだろうか。
「怪文書が流れた。学生がいつも見る掲示板には拡大された文書が貼ってあったし、まめなことには各研究室と教授連中の部屋にも投げ込まれていた」
「内部告発と聞きましたが」
「ある種の内部告発だろうな。でも、個人攻撃のための卑劣な手段だ」
「個人を狙ってのことですか?」
 教授は苦々しい顔で頷いた。雄高も沈黙したが、その個人名に下世話にも興味がわいてしまう。
「いやなものだな。恐らくはこの大学で働くものの仕業だ。人間不信になりそうだよ、心の中に刃物を仕込んだ人物と一緒に働いているのかと思うと。人を傷つけるのは、ナイフだけじゃない。確かに誰でも人を恨んだりする気持ちは、多かれ少なかれ持っているのが普通だ。でも、それでも、匿名での告発は卑怯すぎる……!」
 教授が机を叩いた拳の振動は、そのまま雄高の体までふるわせた。軟派なように見えて、教授は正義感が強い。無意味な差別や、理不尽な先入観は教授のもっとも嫌うところだ。だからこそ、ゲイである雄高のことも認めてくれるのだろう。
「雄高くんは、図書館の佐野くんとは結構親しかったね」
「……ええ」
 不本意ながら雄高は頷いたが、なぜここで佐野の名前が出て来たのか。理由はひとつしかない。雄高は体が緊張した。
「佐野、佐野さんですか? 彼を中傷する内容……」
 教授は瞳を逸らすと、組んだ指の上に顎をつけて頷いた。
「あの仕事熱心な佐野さんのどこに非難されるような点があるっていうんですか」
 言ってから、佐野を庇い立てする自分を腹立たしく思った。が、こと仕事に関しては、佐野は誰からも後ろ指さされるようなことはしていないはずだ。あれだけ仕事を愛している奴を他に知らないとさえ、思える。
「力になってくれないかな……きついと思うよ。いや、きつすぎる体験だと思う。仮に自分が、と思うとやり切れない」
 まるで自分自身に起きたことのように、教授は悲しげに顔を歪めた。ひろげたままの新聞に落とした視線は、活字などまるで見ていない。
「でも、どんな点で佐野さんを中傷するっていうんです? 少なくとも仕事自体はまじめですよ。彼以上に働いている図書館員は他に知りません」
「そうだな。彼の優秀さは皆が認めるところだよ。これは……学生には絶対に漏らさないでほしい。もちろん、雄高くんだから信用して打ち明けることだけど」
「ええ。誰にも口外しません」
 そう言ってもなお、教授は言いよどみ躊躇した。雄高はただ待った。長い沈黙の後、教授は声を低くしてようやく話し始めた。
「彼が以前は別の大学にいたことは聞いているかな? 佐野くんは、ある事件を起こして退学処分になった。そして翌年、ここを受験し直したんだ」
「事件、ですか。一体なにを」
 最初の大学でのことで雄高が知るすべては、初恋と手ひどい失恋のふたつだけだ。
 雄高は首をひねった。退学になるほどの事件は生半可なものではないと想像はできる。
「傷害だ。女子学生をナイフで切りつけて、全治二カ月の重症を負わせた」
「そんな……」
 雄高は絶句した。立ちすくむ雄高に教授は、当時の事件を伝える新聞の切り抜き記事までご丁寧に添えてあったことも教えてくれた。
「文の最後は、『このような犯罪者が大学にいるのは、ふさわしくないのではないか』なんて、もっともらしく書かれてあったよ。こんなことをやる奴のほうが、よっぽどたちが悪い」
 佐野は冷めているようで、一旦のめりこむと恐ろしくしつこい……一時はストーカーのようだと雄高も思った。かつて傷害事件を起こしていたという事実は、雄高にとっては妙に納得のいくことだ。けれど、ごく自然に受け入れた自分自身にもそら恐ろしいものを感じ、雄高の皮膚がざわめいた。
「事件当時未成年で不起訴処分に終わったそうだが、結局彼は退学させられたんだ」
「そのことは……」
「さっきの会議に佐野くんが呼ばれて、事情を説明した。臨時の公聴会だよ。彼の口から直接聞き出すことになってしまった。聞いている僕がいたたまれなかった。佐野くんはいつも通り冷静だった。自分が起こした事件のことを淡々と語るんだ。でも、テーブルの上にのせられた手は堅く握ったままで……ふるえていた」
 おそらくは、落ち着いた口調で。雄高に時折さらすような激しい感情はすべてかくして、かつての奨学金選考会の時のような、理論的に主旨を組み上げていく話振りだったろう。
 仕事をいちばんに選ぶよ、と佐野は言った。自分には仕事がある。それがなにより大切なんだと。その職場での厄災。
「大学側では、彼を解雇するんですか」
「まさか。彼は被害者だ。が、彼を快く思っていない輩にとっては……」
 佐野をおとしめる格好の餌を手に入れたようなものだ。雄高の脳裏にはひとりの人物が浮かんだ。佐野の同僚で、いつも佐野を睨むように見ていた男の姿が。
「それは例えば、今までお座なりにしていた仕事を佐野さんが片づけたことで、自分の無能さや怠惰さを思い知らされた人物のことでしょうか」
 教授の瞳を暗い影がよぎる。教授は、今回の犯人はおおむね察しがついているように雄高には思えた。
「……僕らは警察でも探偵でもない。誰が、なんて犯人捜しは無意味なうえに、疑心暗鬼をお互いの中で増長させて不和を生むだけだ。謹みたまえ、雄高くん」
 雄高に対して、珍しいほどの厳しい態度だ。雄高は口をつぐんで教授を見つめた。雄高は怒りを腹に収めて頭を下げた。
「僕らは目指すところが違うんだろうか。教育者として、学ぶ学生たちによりよい教育を提供するために働いているんじゃないのか? 名誉を競ったり、他者を足蹴にしたりするために、ここにいるわけではないはずなのに……」
 眉間のしわをより深くして、教授は額の前で指を堅く組んだ。
 相馬教授はあと数年で退官する。大学で長く教鞭をとってきた中で、教育や研究に没頭したくとも、つねに根底にある派閥争いや権力や名誉を巡る諍いに否応無くなんども巻き込まれて来たはずだ。雄高が学生の時分に、一度は学長にまで推された。けれど、無駄なパワーゲームには参加したくないと丁重に辞退したことを覚えている。
「佐野くんは早退したはずだ。電話でもいいから彼に声をかけてくれないか」
 佐野のせいで、史彦とこじれているんですーそう言えたなら、どんなに気が楽か。
 雄高は逡巡した。教授に頼まれて、いやですとは言えない。昨日、押しかけて来たとはいえ、借りを作ってしまったことも事実だ。礼の一つも言わなければなるまい。
「はい。でも僕は、佐野さんの電話番号を知らないのですが……」
 電話番号も住んでいる場所も知らない。雄高はいまさらながら、佐野については知っていることなど、ほとんどないことに気づいた。
 呆れ顔の教授が、机から手帳サイズの教職員名簿を取り出し雄高に手渡した。
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