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昼からなんどかけても、佐野の電話は不通だった。話し中ということは、在宅しているはずなのに。受話器のフックを外している? モジュラーを引き抜いている? 思い詰めて、自棄になったりしていないか。
雄高はまんじりとしないまま、退室の時間を迎えた。
今日一日は、怪文書の話題がちらほらと学生の間から聞き取れた。さすがに研究室内では、相馬教授が不機嫌な顔つきでいるせいか、口にする学生はいなかったが。
けれど人の口に蓋はできない。雄高が口外しなくとも、どこからか話は漏れてしまったのだ。けれどそれには尾ひれがつき、徐々に変形していく。ただ、渦中の人物は佐野だということばかり先行する。
犯人の狙いは、当たったのだろうか。口さがない学生たちが勝手に流布させる佐野の過去の罪……。学校側からクビを言い渡されなくとも、居心地が悪くなれば、どれほど厚顔な佐野であっても、自分から辞めていくだろう。それが狙いか。
雄高は教職員名簿から書き写した佐野の住所を見つめた。中天神町の番地とアパートの部屋番号が書かれてある。それから察するに雄高のマンションからさほど遠くない。以前佐野が歩いて来たほどだ。
自転車をハンドル片手で支えて、雄高は電柱にはられたプレートの番地を確かめながら狭い道を歩いた。
学生相手のアパートや下宿が目につく一角だ。それもどちらかと言うと、古めかしい建物が中心だ。今の学生たちに人気のあるワンルームでフローリングの部屋ーかつて史彦が住んでいたようなーとは色合いを異にする。雄高が暮らしていたぼろアパートよりはましとしても、それに毛が生えた程度のランクだ。
恐らくは大家の名前を取ってつけた、コーポ山岸にようやく行き着いた。日が傾きかけ、アパートのひび割れた外壁を夕日が染めている。街灯にちらほらと明りが灯り始めたが、佐野の部屋の窓は暗いままだった。
雄高は一階の階段下、佐野の部屋の前で迷っていた。通路に面した台所とおぼしき棚にはなんの影も見えない。まるで空き部屋のように感じられ、もう一度アパートと部屋番をメモで確かめる。間違いはなかった。
雄高は自分の靴先を見つめ、唇をかんだ。このまま佐野に会ってよいものか……。けれど、ほかならぬ教授の頼みでもある。明日、研究室で教授と顔を合わせることを考えると、どうしても佐野に会っておかなければならないだろう。
雄高は指を強ばらせながら、呼び鈴のボタンを押した。
が、音が出なかった。故障中? まるで自分の勇気を無下にされたように感じて、雄高は怒りに任せてうすい扉を蹴った。すると今度はドアに挟み込まれていたチラシが足元に散らばり、雄高は閉口した。
ほうっておくわけにもいかず、雄高はピザや寿司のデリバリーのチラシと郵便物を拾い集めた。拾い終わるころ、背後で扉が開いた。
「あれ、雄高……」
寝癖がついたままの髪に眼鏡もかけず、洗いざらしたTシャツに綿パンの佐野が顔を出した。いまのいままで、眠っていたようにぼやけた顔を見ていると、余計に腹が立った。
「遊びに来た?」
「……まさか!」
雄高は冷たく言うと、手にしたチラシを佐野に押しつけた。開いた扉から、部屋の中で淡く光るコンピュータのディスプレイが見えた。コンピュータ……ネットに接続していたから、電話が通じなかったのか! 雄高がのこのこと佐野の部屋まで安否を確認に来れば、拍子抜けするような事実が待っていたわけだ。
そうこうしている間に、佐野は郵便物の茶封筒を手で引き破り、その場で手紙に目を通した。雄高がきびすを返そうとするより早く、佐野が無言で部屋の奥へと戻ってしまった。 佐野が畳の上に、どさりと音を立てて座り込む。そのまま壁にもたれて、疲れたように目をつぶる。
雄高は怒りの持って行き場所をなくし、玄関に立ったままで佐野を見ていた。投げ出された手には、ついさっき開いたばかりの封筒がある。
「……係長は大バカだな。こんなことをしたら、真っ先に疑われるに決まっているのに。なあ、雄高。読んでみる?」
手紙! 佐野を非難する手紙が、アパートにまで届けられたのか。雄高は言われるままに佐野の部屋へ上がり、手紙を受け取ると文面に目を通した。
『ヒトゴロシ』
ワープロで打ち出された、ただ一行だけの手紙。悪意の込められた文章だ。手にしているだけで、背中を悪寒が走るようなこんな手紙なんて見たことがない。
「素敵じゃないか。これが俺の愛する仕事場の実情だよ」
人が裏切るんだ……雄高は昨日聞いた佐野の言葉を思い出していた。確かに、仕事が佐野を裏切ったわけではない。けれど……。
「この程度で俺がツブれるって思っているんだよな。自分が嫌われやすいなんてのは、とっくに承知のうえだ。この程度で……ツブれるかよ」
言葉尻はかすれて消えた。さすがに雄高は焦りを感じた。
「佐野!」
佐野の瞳が雄高に向けられた。虚ろげに見えるのは、夕暮れが迫っているせいだと雄高は自分に言い聞かせた。
「俺には友達なんかいない。いきなりナイフで刺されちゃたまらないからな」
ぎくりとした雄高の表情を認めて佐野は薄く笑った。
「友だちは、そら、その箱の中だよ。電話線で繋がった、太平洋の向こうにしかいない」
ディスプレイにはメールだろうか、英文がびっしりと浮かんでいた。雄高は改めて佐野の部屋を見渡した。ディスクトップ型とノートのパソコンがそれぞれ一台。テーブルには英字新聞。テレビはなく、小型のCDとMDのコンポがある。部屋の隅に積み上げられたペーパーバッグの背表紙はすべて英語だ。以前見たようにミステリばかりだろうか。台所は外から見たとおり、鍋などなかった。レンジにある青いケトルが辛うじて生活感を漂わせる。
「……昨日は、世話をかけた。お粥、うまかったよ」
うん、と佐野は頷くだけだった。雄高はこのまま帰ったものかどうか迷った。口では威勢のいいことを言っているが、落ち込んでいるのは一目瞭然だ。雄高は佐野の前に立ち尽くした。
「雄高、一緒に行かねぇ? アメリカ。シカゴはいいところだから。俺もう嫌になったよ。がむしゃらに仕事しても、正当に評価されない。いいんだけどさ、別に褒められたくて仕事をしてるわけじゃないから。でもこれ以上大学にいても、俺のやりたい仕事は出来そうにもないし、やる気のない奴らと仕事すんのに正直疲れた」
ゆっくりと佐野が顔を上げ雄高と視線を合わせた。眼鏡なしの佐野は、まるで現役の大学生のように見える。
「俺が怖い? 怖いよな。殺人未遂やらかしてるからな」
思わず後ずさる雄高の腕を佐野が不意に掴んだ。冷たい指の感触が伝わる。いつもそうだ。佐野の手は、体は冷たい。温かいと感じたことはない。
「すごい浮気症でさ、早織って女。舞い上がったのはあなたひとりの勝手、わたしは好きになってなんて頼んでない。さんざん思わせ振りな態度で付き合っててこの台詞を吐くんだぜ。たいした見てくれじゃない癖にな。でもそんな奴に惚れてた俺もどうかしている」
徐々に佐野の声が高ぶる。それはそのまま感情の波だ。今まで押さえ込んでいた怒りや悔しさが大きなうねりになりつつある前兆だ。雄高は佐野から逃れようとしたが、意外なまでの力強さに腕を掴まれたまま振りほどくことが出来なかった。
「愛情なんか望まない。どうせ長続きしない。そんなのは、さっさと消えてなくなる。だから、一緒にいてくれるだけでいい。それだけでいいんだ! 雄高、一緒に行くって言ってくれ!」
思わぬ力で引き倒され、雄高は佐野に組み敷かれた。
「やめろ……!」
冷たい手で押さえられた手首を押し返し、雄高は暴れた。まうえから体重をかけられると、雄高よりも軽いはずの佐野を動かすことができない。堅く目を閉じ、闇雲に抵抗する雄高の顔に、温かい液体が降りかかった。
頬を滑り落ちていく水? 雄高が目を開けると、続けざまに降ってきた。
「佐野」
声もなく、佐野が泣いていた。気づけば、雄高の手首を握る指がふるえていた。指から次第に力が抜け、雄高は解放された。佐野は涙を拭いもせず、歯を食いしばり泣いた。
「平気だ、ひとりでも生きて行けるさ。俺には仕事がある……でも、なぜなんだ……時折どうしようもなく……泣けてくる」
つぶやくように佐野は、つかえつかえ話す。佐野は、いつもこうして一人きりで泣いていたんだろうか。一体いつごろから、佐野は声をあげずに泣くようになったのか。
下宿をしていた高校時代? ひとを傷つけた大学時代?
それとも一人きりの留学先で……。
強度のストレスで感情の弁が外れた佐野を雄高は凝視した。そして気づいた。佐野といるときに感じる、言葉にならない切なさのようなものの正体を。
佐野は、雄高がなったかもしれない存在なのだ。
環境が似ていると話したことがあった。共通項が多い……兄弟がなく、両親の離婚で母子家庭で育ったこと、早くから家を出て一人の暮らしが長いこと。恐らくは、雄高のように母親と疎遠ではないか。
多くの類似点を持ちながら、それでも重ならない存在が佐野だ。雄高は、佐野にはならなかった。
雄高は佐野の頬に伝う涙を手のひらで拭ってやった。何度も、拭ってやった。そうしていると、佐野の体から少しずつ強ばりが解けていくのが感じられた。
佐野は雄高の手を掴んだ。こんどは強くなく、むしろひかえめに。こわごわと引き寄せる。
「雄高」
雄高は自分から口づけた。短いキスを交わしただけで、雄高は佐野を抱きしめた。
それは、佐野に必要なことに思えたからだ。雄高は佐野を抱きしめ続けた。腕の中の佐野はじっと雄高の抱擁に甘えているように思えた。
「ジョッシュとキスをするだろう? そうすると、ふたりとも体がガクガクふるえてさ。テーンエージャーだってこんなにうぶじゃないだろうってくらい。そんなだから、発展のしようがなかったさ。でも、それだけでよかった。閉架書庫で隠れてするキスはたまらなく刺激的だったから……」
ジョシュアの緑の瞳に映る佐野はどんな青年だったのか。アレクサンドリア図書館の話を肩を寄せ合ってしているふたりの姿を雄高は想像した。
「……雄高はキスがじょうずだな。まるで薬を飲ませるみたいだ。忘れていたよ、雄高はカウンセラーもしていたんだよな。なら俺の専属になってよ。俺には……雄高が必要だから」
たよりない瞳で雄高を見つめる佐野に、心を動かされないと言えば嘘になるだろう。雄高は佐野から体を離し、沈黙のあと小さく答えた。
「考えさせてくれ」
雄高はまんじりとしないまま、退室の時間を迎えた。
今日一日は、怪文書の話題がちらほらと学生の間から聞き取れた。さすがに研究室内では、相馬教授が不機嫌な顔つきでいるせいか、口にする学生はいなかったが。
けれど人の口に蓋はできない。雄高が口外しなくとも、どこからか話は漏れてしまったのだ。けれどそれには尾ひれがつき、徐々に変形していく。ただ、渦中の人物は佐野だということばかり先行する。
犯人の狙いは、当たったのだろうか。口さがない学生たちが勝手に流布させる佐野の過去の罪……。学校側からクビを言い渡されなくとも、居心地が悪くなれば、どれほど厚顔な佐野であっても、自分から辞めていくだろう。それが狙いか。
雄高は教職員名簿から書き写した佐野の住所を見つめた。中天神町の番地とアパートの部屋番号が書かれてある。それから察するに雄高のマンションからさほど遠くない。以前佐野が歩いて来たほどだ。
自転車をハンドル片手で支えて、雄高は電柱にはられたプレートの番地を確かめながら狭い道を歩いた。
学生相手のアパートや下宿が目につく一角だ。それもどちらかと言うと、古めかしい建物が中心だ。今の学生たちに人気のあるワンルームでフローリングの部屋ーかつて史彦が住んでいたようなーとは色合いを異にする。雄高が暮らしていたぼろアパートよりはましとしても、それに毛が生えた程度のランクだ。
恐らくは大家の名前を取ってつけた、コーポ山岸にようやく行き着いた。日が傾きかけ、アパートのひび割れた外壁を夕日が染めている。街灯にちらほらと明りが灯り始めたが、佐野の部屋の窓は暗いままだった。
雄高は一階の階段下、佐野の部屋の前で迷っていた。通路に面した台所とおぼしき棚にはなんの影も見えない。まるで空き部屋のように感じられ、もう一度アパートと部屋番をメモで確かめる。間違いはなかった。
雄高は自分の靴先を見つめ、唇をかんだ。このまま佐野に会ってよいものか……。けれど、ほかならぬ教授の頼みでもある。明日、研究室で教授と顔を合わせることを考えると、どうしても佐野に会っておかなければならないだろう。
雄高は指を強ばらせながら、呼び鈴のボタンを押した。
が、音が出なかった。故障中? まるで自分の勇気を無下にされたように感じて、雄高は怒りに任せてうすい扉を蹴った。すると今度はドアに挟み込まれていたチラシが足元に散らばり、雄高は閉口した。
ほうっておくわけにもいかず、雄高はピザや寿司のデリバリーのチラシと郵便物を拾い集めた。拾い終わるころ、背後で扉が開いた。
「あれ、雄高……」
寝癖がついたままの髪に眼鏡もかけず、洗いざらしたTシャツに綿パンの佐野が顔を出した。いまのいままで、眠っていたようにぼやけた顔を見ていると、余計に腹が立った。
「遊びに来た?」
「……まさか!」
雄高は冷たく言うと、手にしたチラシを佐野に押しつけた。開いた扉から、部屋の中で淡く光るコンピュータのディスプレイが見えた。コンピュータ……ネットに接続していたから、電話が通じなかったのか! 雄高がのこのこと佐野の部屋まで安否を確認に来れば、拍子抜けするような事実が待っていたわけだ。
そうこうしている間に、佐野は郵便物の茶封筒を手で引き破り、その場で手紙に目を通した。雄高がきびすを返そうとするより早く、佐野が無言で部屋の奥へと戻ってしまった。 佐野が畳の上に、どさりと音を立てて座り込む。そのまま壁にもたれて、疲れたように目をつぶる。
雄高は怒りの持って行き場所をなくし、玄関に立ったままで佐野を見ていた。投げ出された手には、ついさっき開いたばかりの封筒がある。
「……係長は大バカだな。こんなことをしたら、真っ先に疑われるに決まっているのに。なあ、雄高。読んでみる?」
手紙! 佐野を非難する手紙が、アパートにまで届けられたのか。雄高は言われるままに佐野の部屋へ上がり、手紙を受け取ると文面に目を通した。
『ヒトゴロシ』
ワープロで打ち出された、ただ一行だけの手紙。悪意の込められた文章だ。手にしているだけで、背中を悪寒が走るようなこんな手紙なんて見たことがない。
「素敵じゃないか。これが俺の愛する仕事場の実情だよ」
人が裏切るんだ……雄高は昨日聞いた佐野の言葉を思い出していた。確かに、仕事が佐野を裏切ったわけではない。けれど……。
「この程度で俺がツブれるって思っているんだよな。自分が嫌われやすいなんてのは、とっくに承知のうえだ。この程度で……ツブれるかよ」
言葉尻はかすれて消えた。さすがに雄高は焦りを感じた。
「佐野!」
佐野の瞳が雄高に向けられた。虚ろげに見えるのは、夕暮れが迫っているせいだと雄高は自分に言い聞かせた。
「俺には友達なんかいない。いきなりナイフで刺されちゃたまらないからな」
ぎくりとした雄高の表情を認めて佐野は薄く笑った。
「友だちは、そら、その箱の中だよ。電話線で繋がった、太平洋の向こうにしかいない」
ディスプレイにはメールだろうか、英文がびっしりと浮かんでいた。雄高は改めて佐野の部屋を見渡した。ディスクトップ型とノートのパソコンがそれぞれ一台。テーブルには英字新聞。テレビはなく、小型のCDとMDのコンポがある。部屋の隅に積み上げられたペーパーバッグの背表紙はすべて英語だ。以前見たようにミステリばかりだろうか。台所は外から見たとおり、鍋などなかった。レンジにある青いケトルが辛うじて生活感を漂わせる。
「……昨日は、世話をかけた。お粥、うまかったよ」
うん、と佐野は頷くだけだった。雄高はこのまま帰ったものかどうか迷った。口では威勢のいいことを言っているが、落ち込んでいるのは一目瞭然だ。雄高は佐野の前に立ち尽くした。
「雄高、一緒に行かねぇ? アメリカ。シカゴはいいところだから。俺もう嫌になったよ。がむしゃらに仕事しても、正当に評価されない。いいんだけどさ、別に褒められたくて仕事をしてるわけじゃないから。でもこれ以上大学にいても、俺のやりたい仕事は出来そうにもないし、やる気のない奴らと仕事すんのに正直疲れた」
ゆっくりと佐野が顔を上げ雄高と視線を合わせた。眼鏡なしの佐野は、まるで現役の大学生のように見える。
「俺が怖い? 怖いよな。殺人未遂やらかしてるからな」
思わず後ずさる雄高の腕を佐野が不意に掴んだ。冷たい指の感触が伝わる。いつもそうだ。佐野の手は、体は冷たい。温かいと感じたことはない。
「すごい浮気症でさ、早織って女。舞い上がったのはあなたひとりの勝手、わたしは好きになってなんて頼んでない。さんざん思わせ振りな態度で付き合っててこの台詞を吐くんだぜ。たいした見てくれじゃない癖にな。でもそんな奴に惚れてた俺もどうかしている」
徐々に佐野の声が高ぶる。それはそのまま感情の波だ。今まで押さえ込んでいた怒りや悔しさが大きなうねりになりつつある前兆だ。雄高は佐野から逃れようとしたが、意外なまでの力強さに腕を掴まれたまま振りほどくことが出来なかった。
「愛情なんか望まない。どうせ長続きしない。そんなのは、さっさと消えてなくなる。だから、一緒にいてくれるだけでいい。それだけでいいんだ! 雄高、一緒に行くって言ってくれ!」
思わぬ力で引き倒され、雄高は佐野に組み敷かれた。
「やめろ……!」
冷たい手で押さえられた手首を押し返し、雄高は暴れた。まうえから体重をかけられると、雄高よりも軽いはずの佐野を動かすことができない。堅く目を閉じ、闇雲に抵抗する雄高の顔に、温かい液体が降りかかった。
頬を滑り落ちていく水? 雄高が目を開けると、続けざまに降ってきた。
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声もなく、佐野が泣いていた。気づけば、雄高の手首を握る指がふるえていた。指から次第に力が抜け、雄高は解放された。佐野は涙を拭いもせず、歯を食いしばり泣いた。
「平気だ、ひとりでも生きて行けるさ。俺には仕事がある……でも、なぜなんだ……時折どうしようもなく……泣けてくる」
つぶやくように佐野は、つかえつかえ話す。佐野は、いつもこうして一人きりで泣いていたんだろうか。一体いつごろから、佐野は声をあげずに泣くようになったのか。
下宿をしていた高校時代? ひとを傷つけた大学時代?
それとも一人きりの留学先で……。
強度のストレスで感情の弁が外れた佐野を雄高は凝視した。そして気づいた。佐野といるときに感じる、言葉にならない切なさのようなものの正体を。
佐野は、雄高がなったかもしれない存在なのだ。
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多くの類似点を持ちながら、それでも重ならない存在が佐野だ。雄高は、佐野にはならなかった。
雄高は佐野の頬に伝う涙を手のひらで拭ってやった。何度も、拭ってやった。そうしていると、佐野の体から少しずつ強ばりが解けていくのが感じられた。
佐野は雄高の手を掴んだ。こんどは強くなく、むしろひかえめに。こわごわと引き寄せる。
「雄高」
雄高は自分から口づけた。短いキスを交わしただけで、雄高は佐野を抱きしめた。
それは、佐野に必要なことに思えたからだ。雄高は佐野を抱きしめ続けた。腕の中の佐野はじっと雄高の抱擁に甘えているように思えた。
「ジョッシュとキスをするだろう? そうすると、ふたりとも体がガクガクふるえてさ。テーンエージャーだってこんなにうぶじゃないだろうってくらい。そんなだから、発展のしようがなかったさ。でも、それだけでよかった。閉架書庫で隠れてするキスはたまらなく刺激的だったから……」
ジョシュアの緑の瞳に映る佐野はどんな青年だったのか。アレクサンドリア図書館の話を肩を寄せ合ってしているふたりの姿を雄高は想像した。
「……雄高はキスがじょうずだな。まるで薬を飲ませるみたいだ。忘れていたよ、雄高はカウンセラーもしていたんだよな。なら俺の専属になってよ。俺には……雄高が必要だから」
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