不器用なユノ

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不器用なユノ

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 翌朝、ユノは前夜のことはなかったかのようにふるまった。いつものように、二人でキッチンに立ち、片桐は弁当持参で出勤した。
 昨夜のことは、たんなるバグだったのだろうか。初期のAIを搭載したアンドロイドは、バグのせいで重大なミスを犯すこともあったと記憶している。けれど、そんな出来事があったのは片桐が子供のころの話だ。
 今回のことは、重大と位置付けるものではないのかも知れない。少なくとも、生命を脅かされたのではないのだ。
 命は脅かされなかった。けれど、心はどうだろうか。AIは理解することはないのだろうか。亡くなった人を悼む気持ちを。

 その晩、帰宅した片桐は玄関までユノが迎えに来ないことに違和感を覚えた。ユノは何を差し置いても、玄関まで片桐を出迎えるのだが。
「ユノ?」
 どこからか物音がする。まるで大掃除するような音がリビングの扉の向こうからする。大量の物をプラスティックのゴミ箱へ無差別に放り込むような音だ。
「ユノ、どこだ」
 足早にリビングへ飛び込んだ片桐が見たのは、泉美の部屋の扉が大きくひらき、足の踏み場もないほど散らかされたアトリエだった。
「何しているんだ!」
 ユノは片桐の声に反応することなく、アトリエの物を次々にゴミ箱へ放り込んでいく。クレパス、ペン、カラーインク、何本もの筆。
「やめるんだ、ユノ!」
「片付ける」
 片桐をなおも無視してユノは作業を続ける。小さな額に飾った泉美の作品も、スケッチブックも、無差別に片端からゴミ箱の中へと入れていく。
 片桐はユノの背後から腕を掴んだ。振り返ったユノのチョーカーは今まで見たことがないほど、赤く光り、大きく目を見開いていた。
「片桐、泉美いらない。いつも悲しい顔する」
 言われて片桐はユノの腕を掴んだ力が抜けた。ユノは腕を振りほどき、執拗に泉美のものを捨てていく。
「……止まれ!」
 片桐の声にユノは止まった。片桐は素早くユノのうなじを開け、緊急停止のスイッチを押した。
 ユノが倒れるのと同じくしてゴミ箱も倒れ、入れられた画材も床に散らばった。
 片桐は、目を開けたままま床に倒れているユノを見下ろした。
「どうして」
 片桐は力なくユノの横に座りこんだ。

 つい先日訪れた笈川のラボへと片桐は一人で出向いた。
「……というわけで、それ以来ユノはスリープ状態、ということね」
 笈川は片桐の手土産のマドレーヌを、何個か目の前に並べた。
「AIに人の心は分からないものかな」
「そうね、人ではないから。でも人間だって、他人が何を考えているかなんて、分からない。分かった気になっているだけ。それも共感性によるから、AIもまたしかり」
「それはそうだが。機械だろう、そんなばらつきがあるのか」
 コーヒーを運んできた男性事務員が、カップを置くのと引き換えに、自然な動作でマドレーヌを一個だけ残して片していった。
「住む環境や、どんな人からどんな言葉をかけられるかによって違ってくるって最初に説明したよ?」
 そうだったと片桐は思い出した。ユノのモニターを決めたあたりは、泉美を失った悲しみでろくに人の話など耳に入らなかったのだ。
「泉美の部屋を全部消そうとしていたようだった。画材もスケッチブックもひとまとめにゴミ箱に入れて。初めてユノが怖いと思った」
 笈川は目の前に置かれたコーヒーカップに視線を固定して、腕を組んだ。
「さすがにモニターを続けて欲しいとは言えないね。やめてもいいよ。今日、これからすぐに社員を回収に向かわせるし」
「回収したら、ユノはどうなる?」
 コーヒーを一口飲んでから笈川は答えた。
「今回の暴走、というか不調の原因を調査するし、そのあとは処分する」
「……処分って」
 片桐は声を詰まらせ、手指を握りしめた。
「ユノは破棄する。ボディもメモリーもリセット」
 笈川は何度も口にしてきた言葉なのかも知れない。片桐は落ち着かない気持ちになった。笈川は事務員にタブレットを持ってくるよういいつけた。
「ここにサインすれば、モニターは終了。ユノは回収します」
 出されたタブレットを目の前にして、片桐はじわりと汗をかいた。ユノとの生活を終わらせれば、もう手間のかかる同居人に振り回されることはなくなる。
 一人の部屋に帰って、泉美を思って静かに暮らせる。数か月前に理想としていた暮らしになれる。
 けれど、それでいいのか。
 片桐はユノの小さな手の感触を思い出していた。その手を離せば、ユノはもう片桐のもとへは帰らない。
「片桐」
 声を掛けられて、片桐は歯を食いしばっていたことに気づいた。
「いちど、ユノと話したい」
 片桐は椅子から立ち上がると、コートを着て通勤バッグを手にした。
「そうしといで。もしかしたら」
「もしかしたら?」
「新しいAIの可能性のデータが取れるかも」
 笈川は残りのマドレーヌをゆっくりと口に運んだ。

 ユノと何を話せばいいのだろうか。
 泉美の部屋をめちゃくちゃにした理由を、問いただす?
 なぜ、どうして、と問い詰めてユノは言い訳をするだろうか。
 部屋につき、リビングの扉を開けると、ユノは片桐がユノのために購入した、籐製の大きな円形のソファに横たわっている。
 片桐が新しく買い足した、コットンの長袖のシャツにひざ下まである細身のパンツに、ふわふわの長靴下を身に着けて、ユノはソファのうえで眠っている。
 片桐はユノの耳の後ろを押して、スリープモードを解除した。
「ユノ」
 ゆっくりと目を開いたユノに片桐は声を掛けた。
「片付ける」
 跳ね起きたユノは、先日の続きを始めようとした。片桐はユノを押しとどめて、ソファに座らせた。ユノは最初落ち着きを失い、部屋を何度も見渡すように視線を振ってから、ようやく片桐を見た。
「泉美、いない」
「そうだな」
 ユノの隣に片桐は腰を下ろした。
「いないのに、いる」
 ユノは片桐の胸をまっすぐ指さした。
「そこに」
 チョーカーは青。いたって安全だ。ユノは暴走していない。
 片桐は指さされたとこに手を当てた。
 AIは人の心の機微を読めない……そんなことはなかった。ユノは【わかっている】のだ。
「泉美、いない。ユノ、いる。ここに、いる、のに」
「そうだな、ユノはここにいる」
 片桐はユノの手をそっと握った。小さく、温度はあまり感じられない手だ。
「ユノ、人は忘れるって言ったけど、おれは忘れない。泉美のことは忘れられないと思う」
 うつむいたユノは無表情だ。まるで家に来たばかりのころのように。
「でも、ユノの手をもう離すことはできないよ」
 笈川からの帰りの電車で思った。電車の窓から見える無数の窓の中の一つに、自分を待つ者が今はいるのだ。
「ここに、ユノもいるよ」
 片桐はユノの手を自分の胸に当てた。
 ユノの体がかすかにふるえている。
「ご、ごめ、んなさい」
 ユノは六文字の言葉をぎこちなく声にした。それは片桐が、ありがとうの五文字を口にした時のように。
「うん」
 片桐は、ほほえんだ。
 チョーカーは何故か、かすかに赤く光り、うつむいたユノの頬をうっすらと紅色に染める。
 ユノはまるで恥じらうように、片桐と視線を合わせなかった。
「片桐……」
 あまりに小さな声に、ユノの口元に耳を寄せた片桐の頬にユノは口づけた。
 AIの可能性と笈川は言った。
 ユノのAIは何かを見つけたのかも知れない。
 片桐はユノを引き寄せ抱きしめた。
「ずっと一緒だ」
 ユノは片桐の胸に顔をうずめた。満員電車のときのように。

 それから、一人と一機はずっと一緒に暮らした。
 ずっと一緒に長い時間を過ごした。
 片桐が天寿を全うして、亡くなるまで。

 片桐の死と同時にユノは動かなくなった。
 のちにユノは、【奇跡のAI】と呼ばれ次世代へと生かされていった。
 けれどそれは、片桐とユノが過ごした時間を説明するには、あまりに足りない言葉だった。

                                              了
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