時の舟と風の手跡

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夏の章

甘酒とラタトゥイユ(2)

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 連日のうだるような暑さも、盆が過ぎれば朝晩にはひんやりとした風を感じるもの。
 それでも風は朝になれば、律儀に日よけの葦簀よしずを立て、おじいがいつもいる縁側に日陰をつくるようにしていた。
「お盆に竜幸たつゆきさんが来るかもって思っていたけど、来なかったね」
 夕方になり、葦簀をかたづけながら風はおじいに話しかけた。若いころにおばあちゃんが買ってくれたという麻のシャツを着て涼んでいたおじいが答えた。
「意外と、何でもないときに来るのかもしれんな。こちらの気が緩んだ時に」
 おじいの誕生会以来、風の父親が時々訪れるようになった。次に竜幸があらわれた時の対処法などを話し合ってある。とにかく専門家のいるテーブルに着かせることが第一だ、と凪は言う。ついでに風が作った夕食やデザートを食べていく。たぶん、母の夏樹の機嫌が悪くて一緒にいるのが大変な時に来ているのではないかと、風は踏んでいる。
「今夜はにぎやかだな。祭りでもあるのか」
 通りの方から聞こえるざわめきに、おじいが風に尋ねた。
「花火だよ。今夜は河川敷で花火があがるから」
「そうか、敗戦記念日か」
 おじいは終戦記念日とは言わない。敗戦記念日と八月十五日のことを呼ぶ。河川敷であげられる花火は戦争で亡くなった人たちの供養も兼ねている、と市の広報誌に書かれてあったのを風は思い出した。
「茉莉花ちゃんも、部活のみんなで見に行くってこのあいだ来た時に言ってたよ」
 引退したとはとはいえ、憧れの先輩も行くのだろう。新しく買ってもらった浴衣で行くのだと、言っていた。きっと、可愛らしく着つけて、張り切って出かけたことだろう。
「そうか。天気は悪くない。きっと花火もきれいに上がるだろう」
「うちでは音しか聞こえないけどね。今夜はラタトゥイユだよ」
 風は葦簀を片付けると、手を洗って夕食の準備をした。
 打ち上げ花火の音は、七時半くらいから聞こえ始めた。
 一発あがるたびに、腹の底がふるえる。風は食器を洗いながら瞼の裏に想像の花火をいくつも上げた。
「今夜はラジオは聞けないかな。テレビでも見る? 先にシャワーにしようか」
 夏場はおじいにあせもが出来ないよう、湯舟は無理でもシャワーには入らせるようにしている。むろん、風が手伝うのだが。
「そうだな」
 風呂ギライのおじいが珍しくうなずいたので、気が変わらないうちにと、風はシャワーの準備をした。

 風呂上がり、ひと段落着いたとき風はおじいに聞かれた。
「見に行かなくていいのか」
 風はおじいの白髪頭を拭きながら逆に尋ねた。
「おじいこそ、見に行きたかったら連れて行くよ」
「人混みはな……転んだりしたら、こわい。それにシャワーでさっぱりしたからな」
 そんな会話で、花火を見に行くのは無しになる。風にしても、人がたくさんいる場所は苦手だし、音だけで十分満足できる。
「甘酒、飲もうか。いい感じに出来上がってるよ」
 そりゃ嬉しいね、とおじいが返事をした。すると、縁側で何か音がした。花火の音に紛れて、小さくノックされている。おじいも風も、瞬間身構える。
「どなた?」
 風が縁側の掃き出し窓に近づいてカーテンを開けると、そこには浴衣姿の茉莉花がうつむき加減に立っていた。
「茉莉花ちゃん、どうした。みんなは?」
 花火はまだ終わっていない。帰るにしては少し早すぎる時間だ。
「うん、足が鼻緒で擦れて痛いから先に帰ってきたの」
 茉莉花は縁側にちょこんと腰を掛けて下駄を脱いで見せた。親指と人差し指の間が赤くなっている。
「上がって。絆創膏、貼ろう」
 茉莉花は足をぎこちなく動かして、玄関に回るとリビングへと入ってきた。
 明るめの青地にピンクや白の朝顔が散っている柄の浴衣に、髪を結いあげている茉莉花はいつもより大人っぽい格好をしている。
「椅子に座って。絆創膏、絆創膏は」
 言葉少なく椅子に座った茉莉花は、おじいに挨拶をしたきり自分の赤くなった白い足先を見ている。
「自分で貼れる?」
 風の言葉にうなずいて、茉莉花は指の間に絆創膏を貼っていく。
「痛かったろう。下駄は慣れないと擦れて痛いからな」
 おじいが心配げに声をかける。
「へいきだよ」
 何枚か絆創膏を貼り終えると茉莉花は笑って見せたが、顔色はよくない。
「帰りは車で送るよ」
 風は、おじいと茉莉花の前にティースプーンを添えた蕎麦猪口そばちょこを置いた。やんわりとした湯気がエアコンのきいた部屋に立ちのぼる。
「これなに? お粥?」
 茉莉花が風に尋ねる。
「甘酒。自家製だぞ」
 自分用の蕎麦猪口を手に、風もテーブルにつく。
 おじいはさっそく口をつける。お、と小さく声をあげて、何度もうなずく。
 おじいにつられて、茉莉花も猪口に唇をあてる。すると、とたんに目を丸く見開いた。
「甘い! なんで? お粥じゃなかった。お砂糖入れたの?」
「砂糖は入れていないよ。お粥に麹を入れて発酵させると自然に甘くなるんだ」
 えー、と茉莉花は猪口を両手で包んで驚きの声をあげた。
「麹菌の働きなんだよ。米のデンプンをブドウ糖に変えてくれる」
「あ、前におじいから教わった。ほんとなんだ」
「パンも酵母で脹らませる。ピザをつくったときに見たよね」
 うん、とうなずいて茉莉花は甘酒を飲んだ。心なしか、青ざめてみえた顔が赤味を取り戻していく。
 風とおじいは目配せしあった。おじいもいつもと様子のちがう茉莉花を心配していたようだ。
「おかわりは?」
 風が茉莉花に声をかけると、恥ずかしげにうなずいて猪口を差し出した。
 花火の音は断続的に続いている。
「みんなのところに送ろうか?」
 風の言葉に茉莉花は少しうつむいて、首を横にふった。
「だったら、庭で花火をすればいいんじゃないか」
 おじいは棚を指差した。本棚から、台紙に貼られたよくある花火セットを取り出した。
「え? なんで?」
「可愛い曾孫のために用意しといた、ってさ」
 風がおどけて茉莉花に差し出すと、茉莉花がはにかむような笑顔を見せた。
「ありがとう、おじい」
「花火は風とやりなさい。風も、可愛い孫には変わりないからな」
「三十手前だけどね」
 二人のやり取りに、茉莉花が吹き出して笑った。

 庭に降りると、花火の音はさらに大きくなった。人のざわめきと、打ち上がるたびに明るくなる夜空と。
 縁側を開けて、蚊取り線香をつけた。おじいの籐椅子を窓に寄せた。
 風は、マッチとろうそく、それからバケツに水を準備して茉莉花と花火を始めた。
 手持ち花火ばかりだったが、茉莉花は存分に楽しんでいた。
 「さて、わたしはそろそろ寝るよ」
 おじいは、籐椅子から立ち上がって寝室のほうへと下がっていく。
「おやすみなさい、おじい」
 茉莉花の声に送られて、おじいは寝室の扉を閉め風は縁側の窓を閉めた。花火はまだ続いているようだ。こちらの花火の残りは線香花火だけになっている。風と茉莉花は背中を丸めるようにして線香花火に火をつけた。
「ふうちゃん」
「ん?」
「ふうちゃんは結婚しないの?」
 ストレートな質問に、風は思わず前のめりに転びそうになった。
「いい相手が見つかって、その人もぼくがいいと言ってくれたら、結婚するけどね」
 なぜそんなことを急に言い出すのか。とうの茉莉花は、ふーんと返事をしただけだった。
「こないだ、ふうちゃんと帰るとき同じクラスの子と会ったじゃない? あとで、ふうちゃんのことカッコいいって言ってたし、ふうちゃん前は婚約者がいたって聞いたことあったし」
 ぼくは別にカッコいいわけじゃなかろうと風は思いつつ、茉莉花は母親やおじいから何らかの話を聞いているのだと、推察した。
「婚約はしていたけど、実際一緒に暮らしてみたら合わなかったんだ。だから、ぼくからサヨナラをしたんだ」
 茉莉花が、ぱっと顔を上げた。
「え、ふうちゃんから? てっきり……」
 茉莉花の言葉に風は苦笑いした。どうやら風が相手方からふられたと思っていたらしい。
「てっきりって、ちょっと傷つくなあ」
「ご、ごめんなさい。ふうちゃん、優しいから」
 あまり強く主張とかしなさそうとか、優柔不断を優しいという言葉にすり替えてほしくない。元婚約者の矢野はそういう風を優しいと思っていたのだろう。
「どうしたの? 何かあった? いきなりこんなこと聞いて」
 なんでもない、と茉莉花は小さな声で言ったが、何かあったから聞いてきたんだろう。風はそれ以上尋ねることはせず、次の線香花火に火をつけた。
 パチパチと線で作られた大小の花が次々に光っては消える。花火大会はそろそろ終わりらしく、表通りを行きかう人のざわめきが大きくなる。
「あのね、今日はね。部活のみんなと、あと他校のバド部の人も来たんだ」
 風はただうなずき、茉莉花が話すに任せた。茉莉花は線香花火から目をそらさずに続けた。
「そしたら、先輩たちとすごく仲が良くて。うちら、後輩たちよりも仲が良くて、ずっとおしゃべりしてた。それで、みんなで連絡先交換しようってなったんだけど、わたしスマホ持ってないから」
「スマホがないのは、茉莉花ちゃんだけ?」
「……ううん、あと一年生の子も一人、持ってない子がいたけど」
 茉莉花の家では、高校生になるまでスマホは持たせない方針だと、以前聞いたことがある。スマホを使ったトラブルに大事な一人娘の茉莉花を巻き込むまいと、茉莉花の両親が心配してのことだろう。
「なんだか、いづらくなっちゃって。足も痛かったから、そのまま抜けてきちゃったんだ」
 風は、そうかとだけ答えた。二人はそのまま静かに線香花火を続けた。車のドアが閉まる音が頻繁にする。人の波も徐々に引けてきたらしい。騒がしさが遠のいていく。
「ふうちゃん」
「ん」
「夏の終わりってサビシいんだね」
 初めて知ったよ、と茉莉花がつぶやいた。最後の線香花火の火種がぽとりと落ちた。
  
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