時の舟と風の手跡

ビター

文字の大きさ
8 / 36
夏の章

甘酒とラタトゥイユ(1)

しおりを挟む
甘酒を炊飯器に仕込む。
 竜幸が家を訪れてからすでに一ヶ月が過ぎた。八月のうだるような暑さが続く中で、風は麹を買ってきて甘酒を作ることにした。
 飲む点滴といわれる甘酒。少し夏ばて気味のおじいに飲ませたい。
 夕食後、ラジオを低くかけてキッチンで作業する風は、シンクの端に手を置き深いため息をついた。
「あれからの電話なら、気にするなよ。彼女が欲しいのは、おまえの労力だけだ」
 寝る前のおじいからかけられた声を思い出す。
 あれとは、風の元婚約者だ。昨日の夕方に電話がかかってきたのだ。
 ーー元気? どうせ暇でしょう。また部屋を片づけて欲しいの。もちろん、報酬は出すし、泊まっていっていいのよーー
 元婚約者、矢野珠稀やのたまきは、海外線のCAだ。好きなものは権力とお金。たまたま風が一流証券会社に勤めていたときに知り合った。風は彼女が胸元につけてい香水のにおいまで思い出して、吐き気がした。
 それにしても、女性はするどいなと風は今朝のことを思い返していた。
 仕事のリモート会議のとき、不意に伊東から声をかけられた。
「葛城さん、なんだか体調が悪そうですけど、大丈夫ですか」と。
 伊東とふたりきりのミーティングだったので、風も映像はオフにしていた。それでも、声の調子か何かから伊東は鋭く察したらしかった。
 気遣ってくれるのはありがたいけれど怖いな、とも風は感じだ。
 矢野の電話番号は着信拒否にしていたが、電話番号を変えたらしい。見知らぬ番号だったのに、取ってしまった風も迂闊だったと言えばそれまでだ。
「まだ、おじいさまの介護をしてるの? それとも、今はひとりかな。とにかく、来て。もう部屋がひどくて」
 矢野の部屋は、また足の踏み場もないほど、ゴミや物が堆積しているのだろう。
 会社を辞めたとき、社員寮から出されて行き場を失った風は、当時交際していた矢野の部屋で同棲することにした。同棲するのをきっかけに、結婚の約束までしたのだが、矢野の荒れた生活を目の当たりにして風の気持ちは一気にさめた。
「行くわけないだろう。業者を頼め。それか、君の体をありがたがる誰かは近くにいないのか」
 完璧なプロポーションに、勝ち気な瞳。つねに完璧であろうとした彼女は、皮肉なことに掃除をするスキルを一切持ち合わせていなかった。結局、わずか三か月後に婚約を解消したが、その間に風は矢野の部屋をひたすら掃除した。
 うずたかく積まれた洗濯が必要な服、中途半端に食べて放置していたコンビニの弁当、飲み残しのペットボトル、開けずに放置したDMの束。床が見えるようになるまで、何日かかったことか。現状復元といえるレベルにまで掃除をし終えて、風は矢野と別れたはずだったのに。
 電話を切った後、風はスマホの電源を落とし、台所にこもった。
 近所からいただいた夏野菜を細かく切って、鍋に入れた。玉ねぎ、茄子、人参、ズッキーニ、じゃがいも、パプリカ、そしてベーコン。味付けはコンソメのキューブを二個放り込み、あとは大きなトマトを湯むきしてざく切りにし、鍋に入れたら蓋をする。
 ゴキブリがはい回るような部屋で平気で寝ていた彼女を思い出すだけで、背筋を悪寒が這いあがる。行き場所がなかった風も一緒にいるしかなかった。あの日々は、昼も夜も悪夢でしかなかった。おじいに引き取られなければ、しかたなく実家に戻るか路上で暮らすかのどちらかだったろう。
 キッチンにうずくまっていると、炊飯器が炊き上がりを知らせた。柔らかめに炊きあがったご飯に、温度調整しながら水を入れて冷ましていく。それから麹を入れて、炊飯器を放置する。
「うまくできればいいけど」
 濡れ布巾で炊飯器の口を覆う。炊飯器のスイッチは入れたままだ。
 時間のかかる料理をすると、気持ちが落ちつく。風はラタトゥイユの鍋の火加減を確かめると、コーヒーを淹れた。いつものノートに今日の献立とおじいの様子を記入する。
 明日、仕事が一段落したらスマホを買い換えてこよう。電話番号を変える。矢野から二度と連絡が来ないように。
しおりを挟む
感想 2

あなたにおすすめの小説

下宿屋 東風荘 7

浅井 ことは
キャラ文芸
☆.。.:*・°☆.。.:*・°☆.。.:*・°☆.。.:*・°☆*:..☆ 四つの巻物と本の解読で段々と力を身につけだした雪翔。 狐の国で保護されながら、五つ目の巻物を持つ九堂の居所をつかみ、自身を鍵とする場所に辿り着けるのか! 四社の狐に天狐が大集結。 第七弾始動! ☆.。.:*・°☆.。.:*・°☆.。.:*・°☆.。.:*・°☆*:..☆ 表紙の無断使用は固くお断りさせて頂いております。

レオナルド先生創世記

ポルネス・フリューゲル
ファンタジー
ビッグバーンを皮切りに宇宙が誕生し、やがて展開された宇宙の背景をユーモアたっぷりにとてもこっけいなジャック・レオナルド氏のサプライズの幕開け、幕開け!

別れし夫婦の御定書(おさだめがき)

佐倉 蘭
歴史・時代
★第11回歴史・時代小説大賞 奨励賞受賞★ 嫡男を産めぬがゆえに、姑の策略で南町奉行所の例繰方与力・進藤 又十蔵と離縁させられた与岐(よき)。 離縁後、生家の父の猛反対を押し切って生まれ育った八丁堀の組屋敷を出ると、小伝馬町の仕舞屋に居を定めて一人暮らしを始めた。 月日は流れ、姑の思惑どおり後妻が嫡男を産み、婚家に置いてきた娘は二人とも無事与力の御家に嫁いだ。 おのれに起こったことは綺麗さっぱり水に流した与岐は、今では女だてらに離縁を望む町家の女房たちの代わりに亭主どもから去り状(三行半)をもぎ取るなどをする「公事師(くじし)」の生業(なりわい)をして生計を立てていた。 されどもある日突然、与岐の仕舞屋にとっくの昔に離縁したはずの元夫・又十蔵が転がり込んできて—— ※「今宵は遣らずの雨」「大江戸ロミオ&ジュリエット」「大江戸シンデレラ」「大江戸の番人 〜吉原髪切り捕物帖〜」にうっすらと関連したお話ですが単独でお読みいただけます。

与兵衛長屋つれあい帖 お江戸ふたり暮らし

かずえ
歴史・時代
旧題:ふたり暮らし 長屋シリーズ一作目。 第八回歴史・時代小説大賞で優秀短編賞を頂きました。応援してくださった皆様、ありがとうございます。 十歳のみつは、十日前に一人親の母を亡くしたばかり。幸い、母の蓄えがあり、自分の裁縫の腕の良さもあって、何とか今まで通り長屋で暮らしていけそうだ。 頼まれた繕い物を届けた帰り、くすんだ着物で座り込んでいる男の子を拾う。 一人で寂しかったみつは、拾った男の子と二人で暮らし始めた。

結婚相手は、初恋相手~一途な恋の手ほどき~

馬村 はくあ
ライト文芸
「久しぶりだね、ちとせちゃん」 入社した会社の社長に 息子と結婚するように言われて 「ま、なぶくん……」 指示された家で出迎えてくれたのは ずっとずっと好きだった初恋相手だった。 ◌⑅◌┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈◌⑅◌ ちょっぴり照れ屋な新人保険師 鈴野 ちとせ -Chitose Suzuno- × 俺様なイケメン副社長 遊佐 学 -Manabu Yusa- ◌⑅◌┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈◌⑅◌ 「これからよろくね、ちとせ」 ずっと人生を諦めてたちとせにとって これは好きな人と幸せになれる 大大大チャンス到来! 「結婚したい人ができたら、いつでも離婚してあげるから」 この先には幸せな未来しかないと思っていたのに。 「感謝してるよ、ちとせのおかげで俺の将来も安泰だ」 自分の立場しか考えてなくて いつだってそこに愛はないんだと 覚悟して臨んだ結婚生活 「お前の頭にあいつがいるのが、ムカつく」 「あいつと仲良くするのはやめろ」 「違わねぇんだよ。俺のことだけ見てろよ」 好きじゃないって言うくせに いつだって、強引で、惑わせてくる。 「かわいい、ちとせ」 溺れる日はすぐそこかもしれない ◌⑅◌┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈◌⑅◌ 俺様なイケメン副社長と そんな彼がずっとすきなウブな女の子 愛が本物になる日は……

(完)百合短編集 

南條 綾
恋愛
ジャンルは沢山の百合小説の短編集を沢山入れました。

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

短編【シークレットベビー】契約結婚の初夜の後でいきなり離縁されたのでお腹の子はひとりで立派に育てます 〜銀の仮面の侯爵と秘密の愛し子〜

美咲アリス
恋愛
レティシアは義母と妹からのいじめから逃げるために契約結婚をする。結婚相手は醜い傷跡を銀の仮面で隠した侯爵のクラウスだ。「どんなに恐ろしいお方かしら⋯⋯」震えながら初夜をむかえるがクラウスは想像以上に甘い初体験を与えてくれた。「私たち、うまくやっていけるかもしれないわ」小さな希望を持つレティシア。だけどなぜかいきなり離縁をされてしまって⋯⋯?

処理中です...