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夏の章
甘酒とラタトゥイユ(1)
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甘酒を炊飯器に仕込む。
竜幸が家を訪れてからすでに一ヶ月が過ぎた。八月のうだるような暑さが続く中で、風は麹を買ってきて甘酒を作ることにした。
飲む点滴といわれる甘酒。少し夏ばて気味のおじいに飲ませたい。
夕食後、ラジオを低くかけてキッチンで作業する風は、シンクの端に手を置き深いため息をついた。
「あれからの電話なら、気にするなよ。彼女が欲しいのは、おまえの労力だけだ」
寝る前のおじいからかけられた声を思い出す。
あれとは、風の元婚約者だ。昨日の夕方に電話がかかってきたのだ。
ーー元気? どうせ暇でしょう。また部屋を片づけて欲しいの。もちろん、報酬は出すし、泊まっていっていいのよーー
元婚約者、矢野珠稀は、海外線のCAだ。好きなものは権力とお金。たまたま風が一流証券会社に勤めていたときに知り合った。風は彼女が胸元につけてい香水のにおいまで思い出して、吐き気がした。
それにしても、女性はするどいなと風は今朝のことを思い返していた。
仕事のリモート会議のとき、不意に伊東から声をかけられた。
「葛城さん、なんだか体調が悪そうですけど、大丈夫ですか」と。
伊東とふたりきりのミーティングだったので、風も映像はオフにしていた。それでも、声の調子か何かから伊東は鋭く察したらしかった。
気遣ってくれるのはありがたいけれど怖いな、とも風は感じだ。
矢野の電話番号は着信拒否にしていたが、電話番号を変えたらしい。見知らぬ番号だったのに、取ってしまった風も迂闊だったと言えばそれまでだ。
「まだ、おじいさまの介護をしてるの? それとも、今はひとりかな。とにかく、来て。もう部屋がひどくて」
矢野の部屋は、また足の踏み場もないほど、ゴミや物が堆積しているのだろう。
会社を辞めたとき、社員寮から出されて行き場を失った風は、当時交際していた矢野の部屋で同棲することにした。同棲するのをきっかけに、結婚の約束までしたのだが、矢野の荒れた生活を目の当たりにして風の気持ちは一気にさめた。
「行くわけないだろう。業者を頼め。それか、君の体をありがたがる誰かは近くにいないのか」
完璧なプロポーションに、勝ち気な瞳。つねに完璧であろうとした彼女は、皮肉なことに掃除をするスキルを一切持ち合わせていなかった。結局、わずか三か月後に婚約を解消したが、その間に風は矢野の部屋をひたすら掃除した。
うずたかく積まれた洗濯が必要な服、中途半端に食べて放置していたコンビニの弁当、飲み残しのペットボトル、開けずに放置したDMの束。床が見えるようになるまで、何日かかったことか。現状復元といえるレベルにまで掃除をし終えて、風は矢野と別れたはずだったのに。
電話を切った後、風はスマホの電源を落とし、台所にこもった。
近所からいただいた夏野菜を細かく切って、鍋に入れた。玉ねぎ、茄子、人参、ズッキーニ、じゃがいも、パプリカ、そしてベーコン。味付けはコンソメのキューブを二個放り込み、あとは大きなトマトを湯むきしてざく切りにし、鍋に入れたら蓋をする。
ゴキブリがはい回るような部屋で平気で寝ていた彼女を思い出すだけで、背筋を悪寒が這いあがる。行き場所がなかった風も一緒にいるしかなかった。あの日々は、昼も夜も悪夢でしかなかった。おじいに引き取られなければ、しかたなく実家に戻るか路上で暮らすかのどちらかだったろう。
キッチンにうずくまっていると、炊飯器が炊き上がりを知らせた。柔らかめに炊きあがったご飯に、温度調整しながら水を入れて冷ましていく。それから麹を入れて、炊飯器を放置する。
「うまくできればいいけど」
濡れ布巾で炊飯器の口を覆う。炊飯器のスイッチは入れたままだ。
時間のかかる料理をすると、気持ちが落ちつく。風はラタトゥイユの鍋の火加減を確かめると、コーヒーを淹れた。いつものノートに今日の献立とおじいの様子を記入する。
明日、仕事が一段落したらスマホを買い換えてこよう。電話番号を変える。矢野から二度と連絡が来ないように。
竜幸が家を訪れてからすでに一ヶ月が過ぎた。八月のうだるような暑さが続く中で、風は麹を買ってきて甘酒を作ることにした。
飲む点滴といわれる甘酒。少し夏ばて気味のおじいに飲ませたい。
夕食後、ラジオを低くかけてキッチンで作業する風は、シンクの端に手を置き深いため息をついた。
「あれからの電話なら、気にするなよ。彼女が欲しいのは、おまえの労力だけだ」
寝る前のおじいからかけられた声を思い出す。
あれとは、風の元婚約者だ。昨日の夕方に電話がかかってきたのだ。
ーー元気? どうせ暇でしょう。また部屋を片づけて欲しいの。もちろん、報酬は出すし、泊まっていっていいのよーー
元婚約者、矢野珠稀は、海外線のCAだ。好きなものは権力とお金。たまたま風が一流証券会社に勤めていたときに知り合った。風は彼女が胸元につけてい香水のにおいまで思い出して、吐き気がした。
それにしても、女性はするどいなと風は今朝のことを思い返していた。
仕事のリモート会議のとき、不意に伊東から声をかけられた。
「葛城さん、なんだか体調が悪そうですけど、大丈夫ですか」と。
伊東とふたりきりのミーティングだったので、風も映像はオフにしていた。それでも、声の調子か何かから伊東は鋭く察したらしかった。
気遣ってくれるのはありがたいけれど怖いな、とも風は感じだ。
矢野の電話番号は着信拒否にしていたが、電話番号を変えたらしい。見知らぬ番号だったのに、取ってしまった風も迂闊だったと言えばそれまでだ。
「まだ、おじいさまの介護をしてるの? それとも、今はひとりかな。とにかく、来て。もう部屋がひどくて」
矢野の部屋は、また足の踏み場もないほど、ゴミや物が堆積しているのだろう。
会社を辞めたとき、社員寮から出されて行き場を失った風は、当時交際していた矢野の部屋で同棲することにした。同棲するのをきっかけに、結婚の約束までしたのだが、矢野の荒れた生活を目の当たりにして風の気持ちは一気にさめた。
「行くわけないだろう。業者を頼め。それか、君の体をありがたがる誰かは近くにいないのか」
完璧なプロポーションに、勝ち気な瞳。つねに完璧であろうとした彼女は、皮肉なことに掃除をするスキルを一切持ち合わせていなかった。結局、わずか三か月後に婚約を解消したが、その間に風は矢野の部屋をひたすら掃除した。
うずたかく積まれた洗濯が必要な服、中途半端に食べて放置していたコンビニの弁当、飲み残しのペットボトル、開けずに放置したDMの束。床が見えるようになるまで、何日かかったことか。現状復元といえるレベルにまで掃除をし終えて、風は矢野と別れたはずだったのに。
電話を切った後、風はスマホの電源を落とし、台所にこもった。
近所からいただいた夏野菜を細かく切って、鍋に入れた。玉ねぎ、茄子、人参、ズッキーニ、じゃがいも、パプリカ、そしてベーコン。味付けはコンソメのキューブを二個放り込み、あとは大きなトマトを湯むきしてざく切りにし、鍋に入れたら蓋をする。
ゴキブリがはい回るような部屋で平気で寝ていた彼女を思い出すだけで、背筋を悪寒が這いあがる。行き場所がなかった風も一緒にいるしかなかった。あの日々は、昼も夜も悪夢でしかなかった。おじいに引き取られなければ、しかたなく実家に戻るか路上で暮らすかのどちらかだったろう。
キッチンにうずくまっていると、炊飯器が炊き上がりを知らせた。柔らかめに炊きあがったご飯に、温度調整しながら水を入れて冷ましていく。それから麹を入れて、炊飯器を放置する。
「うまくできればいいけど」
濡れ布巾で炊飯器の口を覆う。炊飯器のスイッチは入れたままだ。
時間のかかる料理をすると、気持ちが落ちつく。風はラタトゥイユの鍋の火加減を確かめると、コーヒーを淹れた。いつものノートに今日の献立とおじいの様子を記入する。
明日、仕事が一段落したらスマホを買い換えてこよう。電話番号を変える。矢野から二度と連絡が来ないように。
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