冬の恋人 ワンサイドゲーム

ビター

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 七月下旬。街のそこかしこから夏祭りの太鼓の練習が聞こえる。
 まだ、正式なものじゃないが、多分今度の異動で東京に戻れると思う。と、部長はわたしに教えてくれた。
 プロジェクトの成功は、社の上層部も認めざるを得ないものだ。なによりそれは数字が指し示すとおりなのだから。
 東京に戻るのか。
 長く住むなら、ここがいいだろう。交通の便も悪くないし、空気はうまいし、人情も厚い。けれど、わたしのベースはやはり東京にあるのだろう。この街では、わたしはあくまで客人だから。
 残業の後、皆と軽く食事をしてから帰路につく。今日も路線バスの最終はとっくに出てしまった。タクシー乗り場で、汗を拭きながら順番を待った。
 もう十一時近いとはいえ、むっとするような暑さのせいか涼を求めて駅前の噴水広場には、大勢の若者がたむろっている。冬ならこの時間は特別な日でもない限り、人垣など出来たりしない。例えば、クリスマスであったり、大晦日であったり……。
 今年の大晦日は、家で過ごすことになるのだろう。
 陸とはあれきり会わない。もとより、年に一度の約束だったから当然なのだが。
 なぜ、あのとき陸にあんなことを言ってしまったのだろうか。
 おそらく、もう自分を騙せなくなっていたんだと思う。
 陸は何らかの理由で父親が不在の家庭で育ったのだ。彼が欲しかったのは、父親と保護者的な包容力だ。体は、そうすることが手っ取り早かっただけだ。
 わたしも認めたくはなかったが、家族に見放されて淋しかったのだ。陸が好きになってしまったのは事実だけれど。
 陸にはユタカくんという恋人がいるから、出会ったときから終わっている恋なのだ。それにも耐えられなかったから、いっそ自分の手で二人の関係を終わらせてしまいたかった。 吹いて来る夜風さえ、熱い。ハンカチで吹き出す汗を押さえながら広場を見ると、見覚えのある青年の視線に気づいた。なにかがわたしの心臓を鷲掴みする。
 わずかに茶色に染めた髪に、シンプルなVネックのシャツ。ごく普通のジーンズ、素足にバッシュ。まるでバイト帰りのような気安い服装。まわりの若者のだれとも与せず、ただ一人で立っている。そして、見ている。
 わたしを。
 足がふらりと動いた。まるで、吸い寄せられるように青年の元へと足は急ぐ。彼は微動だにしない。わたしがやって来るのを待っている。
 初めて見る夏服の陸がいた。陸はなにも言わず、わたしを見つめた。
「……他人のふりをすればいいのかな?」
 陸は顔を歪めて首を横にふった。そしてそのままうなだれた。もう、分かっている。わたしは陸の笑顔よりも、泣いている顔ばかり知っているんだ。
 手にしていたハンカチを陸に持たせる。
「ルール違反をする。今夜泊めてほしい……」
 ゲームは続行中だったらしい。


 頬の肉が落ちて、放心した顔つきの陸がソファにいる。
「ユタカくんと喧嘩でもしたのかい?」
 陸はわたしのそのたった一言で、瞳を潤ませまた泣き出した。
「もう、だめかも知れない」
 ぼろぼろと涙を流す陸は、普段はどんな青年で通っているのだろうか。おそらく、この風貌にものをいわせて、クールな青年を演じているのだろう。去年、わたしをはねつけたように。
 陸には、甘えられる人はいないのだろうか。家族とはうまくいってなくても、ユタカくんという恋人がいるだろうに。彼にすら、甘えないのか。
「どうして、喧嘩になったのかな」
「信用してくれないから。いまさら昔のことを蒸し返して俺を責めるんだ。自分だって女の子と仲良くして、俺をはらはらさせているくせに」
 陸は怒りをあらわにしながら、まくし立てた。
「昔のこと?」
「好きだった人のこと。
 よくわからないが……つまりは、痴話喧嘩。そんなものから、はるか遠ざかったわたしには、どうにも懐かしい問題だが、陸にすれば重大なことは確かだ。
「泣くのは、わかれたくないからだろう?」
 うんうん、と陸は何度もうなずいた。
「俺には何もないから、ユタカしかいないから。だから……」
「そのことは彼に伝えたのかい? 陸の気持ちをきちんとユタカくんに言えた?」
「だめだよ、泣きそうで。そんなみっともないとこなんか、見せたくない。カッコ悪い俺なんか見せたら、ユタカに嫌われる」
「そうかな、わたしだったら嬉しいよ。わたしは泣いている陸の姿ばかり知ってるけど、やっぱりきみが好きだよ。落ち込んでいたわたしを励ましてくれたり、わざと意地悪をしたりするきみが好きだよ。去年あんなふうに言われても、結局嫌いになんかなれなかったよ」
 陸は泣き止んで、わたしを見つめた。陸は本来丸顔なんだ。いまは青年特有に痩せて頬骨が出ているけれど、子どものころはきっと丸みをおびたふっくらとした顔つきだったに違いない。いま、わたしは知るはずのない陸の子ども時代の顔を重ねて見ている。
 それほど、幼くあどけない表情をしている。
「わたしが、陸の恋人だったら」
 と、胸が痛んだ。もう自分の中では終わらせたはずの恋心がきしむ。
「そんな陸の姿も見せてほしいよ」
「こんな俺でも?」
 そう、陸は陸だよ。わたしは陸の頭をひきよせて、額どうしをくっつけた。
「陸は、我慢強い子なんだね。でも、そんなに頑張らなくてもいいよ。淋しいときには、わたしに言えたように、ユタカくんにも言っていいんだよ。ユタカくんだって、それを待っていると思うよ、きっとね」
 以心伝心ばかり、あてにしちゃ駄目だよ。すぐには出来なくても、少しずつでも伝えた方がいいよ。でも、それに気づかせてくれたのは、ほかならぬ陸なんだよ。
「お父さん、キスして」
 わたしは陸の頬に口づけた。陸はくすぐったそうに笑った。
「陸、わたしはもうきみとは寝ないよ。体を介さなくても、信頼関係は作れる。きみには、それができるよ」
 うん、と陸はうなずいた。彼だってとっくに分かっていたのだ。それを手段としていたのは、彼がふしだらだからではなく、ただ淋しさからなのだということに。
 身も蓋も無いような、肉体関係から入ったのに。三年以上の年月を経て今さらプラトニックになるなんて、わたしたちの関係は奇妙だね。
「お父さん、俺、駄目な奴なんだ。ユタカがいても、どうしてももう一つのものが欲しくてたまらなくなる時があるんだ。だから、お父さんを利用した。年に一度しか会えなくても、この街に俺のことを想ってくれる人がいるんだって考えるだけで、心が満たされるんだ。ごめんなさい」
「じゃあ、陸もわたしの事を思い出したりしたんだね」
 うん、と陸はすまなそうにうなずいた。そんな顔をしなくてもいいのに。
「嬉しいよ。やっぱり陸はいい子だよ。とても優しい、いい子だ」
 だから、今度はそれをユタカくんに言ってごらんよ。きっとその言葉を待っているよ。わたしがそうだったように、緋紗子さんと陸がそうだったように。
 シャワーをすませて、二人でベッドで寝た。陸はわたしの横で子どものような寝顔で安らかに眠った。その寝顔をまぶたに焼きつけた。 翌朝、目覚めると陸はいなかった。今度こそ、わたしの前から姿を消した。
 律義な陸のことだ。ルールを破ったことで、もうわたしと会わない気でいるだろう。
 それでいいと思った。伝えそびれた言葉は、ようやく伝えられたから。
 少しだけ、淋しいけれど…陸、わたしはきみを想うときがきっとあるよ。
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