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雨の音が聞こえるー。
体の痛みに目が覚めた。枕元のデジタル時計は午前二時過ぎの時間を示していた。
あの後、学校からどうやって帰宅したのか覚えていない。ただ、ほどなくあの夕焼けを裏切るような激しい雨が突然降りだしたことだけは、おぼろげに記憶していた。
着替えもせず寝っていた。全身から汗の匂いが漂う自分に嫌悪しながら起きあがると、関節の節々が痛んだ。打たれた頬が腫れていることが、鏡を見なくともその熱さからわかる。頬に手をあて、夕方の出来事を反芻する。
レイプされたのだ。しかも……男に犯されたのだ。
こんなこと、誰に相談すればいい?
誰にも言えはしない、決して。安騎野は確信犯だ。『教師』という強い立場を利用し、自分よりも力のない『生徒』を暴力をふるったのだ。
体が芯からふるえた。
あれは暴力だ。それ以外のなにものでもない。
史彦まで餌食にしようとしている安騎野を止める手立てはない。そんな行動に走れば、安騎野はきっとあの写真をばらまくだろう。
大切な人たちを失う……。けれど、史彦は自分にとっていちばん大切な存在だ。
二つの思いに板ばさみになり、雄高は途方に暮れた。
のろのろと立ちあがり、バスルームへ行こうとキッチンを横切った。母と二人きりの生活にはいささか大きすぎるテーブルのうえに、メモが残されていた。
ーお疲れのご様子でしたので、お夕飯は冷蔵庫に入れておきました。サンドイッチも作っておきましたので、よろしかったら召し上がってください。お母様は、明日から二泊三日でボランティアの皆様とお出かけされるそうですー
通いの家政婦コウさんの丁寧な文字を見ていると、自然に涙がこぼれた。
コウさんは、よく気が利く人だ。いつも笑顔で雄高に親切にしてくれる。それは、お金を払っているから、仕事だからなのかもしれない。けれど、今の雄高はだれかのそんな小さな優しさにでもすがりたかった。
……だれか、そばにいて。
雨の音だけが聞こえる。
幼い頃の記憶をたどろう……。その中の両親はとても優しい。
けれどすぐに現実に引き戻される。
父は母と自分を捨てた。母はもう、雄高には無関心だ。
流れる涙をぬぐいもせずに、雄高はバスルームへと入って行った。
自分の両肩を抱きしめながら。
※
そして五日後のきょう、雄高は史彦を裏切ったのだ。
※
あっけなく夏休みが始まった。雄高はふだんと同じ時間に起きると、家政婦が用意してくれた朝食をとり、バイトへ自転車で十分の道のりを出勤する。
判で押したような生活だ。胸に開いた大きな穴を抱えたまま、雄高はわざと毎日を忙しく暮らしていた。そうしていれば、余計な考えはすべて頭から追い出せるような気がするから。
史彦とはあれ以来会っていない。勤務時間を予備校の授業時間の関係で七時にずらしてほしいと言われ、変更したと店長から聞いた。
毎朝、タイムカードを押すときに、雄高は史彦のカードをそっと引き出して見る。
規則正しい数時の配列をなすそれだけが、もう切れかけた史彦との絆のような気がして確かめずにはいられないのだ。
文庫の補充をしている雄高に店長が思案顔で問いかけてきた。
「碓氷、灰智とケンカでもしたのか?」
店長がそう切り出したとき、しょうじき雄高は足がすくんだ。
「いえ……」
そうか、と店長はつぶやくように言ったが、釈然としない表情で雄高を見つめた。
「あいつ、最近……」
「元気ないですか?」
「うん、それもあるけど……なんていうのかな、ちょっと怖いと言うか、近寄りがたい感じになってるんだ。時々休んだり早退したりするし。今までそんなことはしない奴だったから、急に人が変わったようで」
雄高は言葉もなかった。原因は自分にあるのだ。整理途中の文庫本を抱えたまま、雄高は立ち尽くした。
「それに」
店長の押さえた調子で、周りの様子を伺ってから雄高に言った。
「ゆうべ、あいつとトラブったんだ」
「あいつ? ってあいつのことですか」
夜の常連、のあいつだ。そう、と店長は腕組みして答えた。
「あいつさ、ゆうべ灰智に声をかけたんだ。それだけでも驚きものなんだけど、あいつ何て言ったと思う? お前の、碓氷の電話番号教えてくれっていったんだぜ」
えっ、と雄高は大声をあげそうになったが、声をひそめ慌てて店長に尋ねた。
「なんで、そんな! 史彦、教えちゃったんですか」
「教えるわけないだろう。そしたら灰智はえらい剣幕で、あいつのことさ『ホモ野郎!』とか怒鳴ってさ。もうすぐ閉店って時間だから、客はほとんどいなかったけど、もうあせっちまったよ」
そのあと、今にも殴りかかりそうな史彦を店長が押さえている間に、あいつは逃げるように出て行ったそうだ。
「おまえ、あいつと話しでもしたことあるのか?」
雄高は強く首を横に振った。そんな覚えはない。けれど、思い当たるとしたらたった一度だが、挨拶らしきものをしたことを店長に話した。合点がいったように、店長は深くうなずいた。
「それだよ。なまじ礼儀正しいからな、お前は。あいつらはさ、マイノリティでふだんから淋しいんだよ。だから、自分の性癖を知っていながら、そういう態度で接してもらうと、それだけでもう舞いあがっちゃうほど嬉しいんだ」
そう、なのだろうか。たった一度の会釈。それも顔などほとんど見えないような薄暗いなかでのほんの一瞬の出来事。聞かれなければとうに忘れてしまっていた、自分にとっては取るに足りない瑣末なことだ。
それにしても。
「店長、なんでそんなコトに詳しいんですか」
虚を突かれたように、店長ははっとした顔で雄高を見た。
「もしかして、店長……」
「違う、違う。おれは結婚だってしてるし、秋には子どもも生まれるし」
大慌てで否定する店長を見て雄高は思わず小さく笑ってしまった。つられて店長も照れ臭そうに笑うと、少し真顔に戻った。
「まあ、その事に関してはいつか話す機会もあるかもしれない。おれ自身の事じゃないけど、な」
店長は今日はこれくらいで勘弁してくれよと、どこか淋しげに雄高を見やると、また仕事へと戻っていった。
社会のマイノリティ。少数派……。
あいつに殴りかかろうとした史彦の怒りは、そのまま安騎野に向ける憎悪のあらわれだろうか。変わってしまった史彦。もう一週間以上も顔を合わせていない。もっとも会わせる顔もない。今でもこうして同じ職場にいること自体、史彦にとっては目障りだろう。
もう二度と以前のような関係には戻れないのだろうか、一生このままで終わってしまうのだろうか。
そう思うだけで、自然と目頭が熱くなる。
あの夜に襲われた孤独とよく似た感覚に捕らわれる。
『淋しいんだよ』という店長の言葉が胸に刺さった。
※
その言葉が残っていたせいだろうか。
六時でバイトが引けたあと、雄高は自転車を押しながらゆっくりとした足取りで家路についた。急いで帰ったところで、雄高を待つ者など誰もいないのだ。そう考えると、雄高は改めて、自分もまた孤独なのだと思い知らされる。
通勤がえりの客で混雑する駅前にさしかかったとき、雄高は見慣れた後ろ姿を見つけた。
人ごみの中で、頭ひとつ分飛び出ている。薄いグレーのサマースーツを身につけた安騎野だった。補習や夏期講座で、まだ学校へ出勤していることを雄高は思い出した。
なにげなく雄高はその後を目で追った。駅前の小さな神社横の坂を下りていく安騎野が見えた。雄高はそれを見失わないうちに後を追った。
道は坂を下り切ったところで、車一台通れないような細い路地になった。この辺りは、駅前再開発からもれた地域だ。昔ながらの家々が軒を寄せ合うように立ち並び、雄高が住む整備された地区とは様相がだいぶ異なる。
道一本入っただけで、こんな前時代的な建物が立ち並ぶ地区が同じ市内にあることを、雄高は知らなかった。まるで、ここだけ二十年前の時間が流れているようだ。
赤い電話を置いた昔ながらタバコ屋や、すりきれて色あせたのれんがかかる食堂が物珍しくて目を奪われながらも、雄高は安騎野について行く。
駅から同じ方向に歩いて来た人々は、それぞれの路地へと一人消え、二人消え、やがて安騎野だけになったころ、廃墟と見まごうばかりの朽ちかけた木造二階建のアパートに安騎野は消えた。
……ここに住んでいるのか? こんなところに。
半壊した板塀に囲まれ、夕日に浮かぶシルエットはどこか不気味にさえ見える。雄高はすこし呆然として、パースが狂ったようなアパートを改めて見直した。
夕闇が迫る路地には街灯に灯がともり、夕餉の惣菜の匂いが開け放たれたあちこちの家から漂い始めている。子どもたちのはしゃぐ声や、テレビのナイター中継が遠くから聞こえる。
雄高は自転車のハンドルに置いた手にあごをのせ、安騎野が消えた二階の部屋を見あげた。弱々しく、申し訳程度の明かりがつくと雄高の心はざわめいた。
あそこに安騎野がいる。
雄高は自転車をアパートにたてかけると、足音を忍ばせて階段をあがり始めた。
一体何をしたいのだろう、それは自分でもよく分からない。いま、自分の胸の内にあるものは安騎野への怒りなのか、ただの興味なのか。確かめずにはいられないのだ。自分を犯し、史彦を凌辱した安騎野がどんな暮らしを、生活をしているのか。今のままでは、安騎野はただ不気味な存在として自分の中に暗い影を落としつづけるだろう。
普通に暮らしてさえいてくれればいい。生身の人間であることを確かめさせてほしい。そうでなければ、あんな異常な体験をどう自分の中で理由づければいいのか。
祈りにも似た気持ちで雄高は明かりの漏れる部屋の前に立った。磨りガラスがはめられ、まるで頼りない扉には表札もなにもない。他に住人がいるかどうかさえ怪しい。それを裏づけるように奥へ通じる廊下には、夜目にも分かるほど埃が積もっている。
突然目の前の扉が開き、ラフな部屋着の安騎野が現れた。
ほんの一瞬、驚いたように目をみひらいた安騎野の表情は、すぐいつもの平坦なものに戻った。雄高は思わず後ずさりした。
「碓氷か。どうした」
「あ、バイトの帰りで」
まるで答えになっていない。口ごもりながら、雄高は自分のバッシュのつま先に視線を落とした。帰るきっかけを失い立ち尽くしていると、はだしの安騎野の足が視界に入った。
「入るか?」
ごく自然に話す安騎野につられ、返事もせずに雄高は部屋に足を踏み入れた。安騎野が蝶番が外れかけた扉をきしませながら閉めている間、雄高は部屋を見渡した。
なにもない。
そっけないほど何もない部屋だった。いや、一応必要最低限のものはあるのだ。けれど、家具らしいものはなにひとつなかった。テレビも、電話も見当たらない。台所には冷蔵庫はいうに及ばず、ガスレンジすらない。流しはカラカラに乾き、水さえ使った形跡がない。
部屋にしたところで、畳は剥がされてむき出しの板の間になっている。
すぐの六畳に海外旅行へ持って行くような大きめのスーツケースがひとつと、ただ一脚の椅子が窓際に置いてある。奥の六畳に一応ベッド。さっきまで着ていたスーツは針金のハンガーにかけ、鴨居につるされている。
タバコの匂いが染みついた部屋のあちこちには、ビールの空き缶がまとめて置いてある。まるで浮浪者が何人も寝泊まりしたような荒れた様相だ。
「いちおう風呂はある」
ビールのプルトップを開けながら、雄高の背中に安騎野が声をかけた。
コンビニの袋を下げたまま安騎野はビールを一気にあおり、深いため息を吐いた。そんな安騎野を雄高は不思議な気分で見ていた。いつもと雰囲気が違って見えるのは、眼鏡をかけていないせいだ。綿のシャツとパンツという服装のためか、普段より若く見える。大学生といってもとおるだろう。
「この間は協力ご苦労。おかげて楽しくすごせた」
椅子に腰かけると、安騎野は意味深長なほほ笑みを浮かべながら雄高を見つめた。
「灰智はああ見えて、けっこう強情なんだな。碓氷、お前以上に抵抗したから、つい手荒にしてしまった。体もよかった。想像した以上にな。チャンスがあったら碓氷も灰智としてみろよ」
安騎野は喉の奥で低く笑った。途端にあの日の史彦、後ろ手に縛られていた姿を思い出して頭の芯が熱くなった。雄高は怒りにまかせて、安騎野に殴りかかった。
が、安騎野は軽々とかわすと、雄高の手首を捕らえた。
「親指は拳に握りこまない。このまま殴ると親指を脱臼する」
涼しい口調でうと、手首を背中にほんの少し力を入れてねじあげた。雄高が声をあげるとすぐに手を放した。
「殴り合いになってもいいけどな。言っておくが俺は空手の有段者だ」
雄高はその場にへたりこんだ。安騎野は椅子から少しも動いていなかった。それが力の差であることを雄高は思い知らされた。
「灰智が好きか?」
雄高が面をあげると、安騎野は目を合わせず飲み終わった缶を部屋のすみに放り投げた。乾いた音が部屋に響いた。
「灰智を傷つけた俺が許せないか?」
雄高はうなずいた。
「灰智とのつき合いは長いのか、碓氷。いつから好きなんだ?」
まるで聞き取りの調査でもするように、淡々と安騎野は感情を交えない声で尋ねる。雄高はそれがどこか遠くから聞こえるような気がしていた。
「聞かせろよ、碓氷。お前と灰智のことを」
白熱灯のもと、安騎野は三本目のビールを開けた。
「聞かせろよ、碓氷。どれほど灰智のことが好きなのか」
夏の夜は始まったばかりだから……。
体の痛みに目が覚めた。枕元のデジタル時計は午前二時過ぎの時間を示していた。
あの後、学校からどうやって帰宅したのか覚えていない。ただ、ほどなくあの夕焼けを裏切るような激しい雨が突然降りだしたことだけは、おぼろげに記憶していた。
着替えもせず寝っていた。全身から汗の匂いが漂う自分に嫌悪しながら起きあがると、関節の節々が痛んだ。打たれた頬が腫れていることが、鏡を見なくともその熱さからわかる。頬に手をあて、夕方の出来事を反芻する。
レイプされたのだ。しかも……男に犯されたのだ。
こんなこと、誰に相談すればいい?
誰にも言えはしない、決して。安騎野は確信犯だ。『教師』という強い立場を利用し、自分よりも力のない『生徒』を暴力をふるったのだ。
体が芯からふるえた。
あれは暴力だ。それ以外のなにものでもない。
史彦まで餌食にしようとしている安騎野を止める手立てはない。そんな行動に走れば、安騎野はきっとあの写真をばらまくだろう。
大切な人たちを失う……。けれど、史彦は自分にとっていちばん大切な存在だ。
二つの思いに板ばさみになり、雄高は途方に暮れた。
のろのろと立ちあがり、バスルームへ行こうとキッチンを横切った。母と二人きりの生活にはいささか大きすぎるテーブルのうえに、メモが残されていた。
ーお疲れのご様子でしたので、お夕飯は冷蔵庫に入れておきました。サンドイッチも作っておきましたので、よろしかったら召し上がってください。お母様は、明日から二泊三日でボランティアの皆様とお出かけされるそうですー
通いの家政婦コウさんの丁寧な文字を見ていると、自然に涙がこぼれた。
コウさんは、よく気が利く人だ。いつも笑顔で雄高に親切にしてくれる。それは、お金を払っているから、仕事だからなのかもしれない。けれど、今の雄高はだれかのそんな小さな優しさにでもすがりたかった。
……だれか、そばにいて。
雨の音だけが聞こえる。
幼い頃の記憶をたどろう……。その中の両親はとても優しい。
けれどすぐに現実に引き戻される。
父は母と自分を捨てた。母はもう、雄高には無関心だ。
流れる涙をぬぐいもせずに、雄高はバスルームへと入って行った。
自分の両肩を抱きしめながら。
※
そして五日後のきょう、雄高は史彦を裏切ったのだ。
※
あっけなく夏休みが始まった。雄高はふだんと同じ時間に起きると、家政婦が用意してくれた朝食をとり、バイトへ自転車で十分の道のりを出勤する。
判で押したような生活だ。胸に開いた大きな穴を抱えたまま、雄高はわざと毎日を忙しく暮らしていた。そうしていれば、余計な考えはすべて頭から追い出せるような気がするから。
史彦とはあれ以来会っていない。勤務時間を予備校の授業時間の関係で七時にずらしてほしいと言われ、変更したと店長から聞いた。
毎朝、タイムカードを押すときに、雄高は史彦のカードをそっと引き出して見る。
規則正しい数時の配列をなすそれだけが、もう切れかけた史彦との絆のような気がして確かめずにはいられないのだ。
文庫の補充をしている雄高に店長が思案顔で問いかけてきた。
「碓氷、灰智とケンカでもしたのか?」
店長がそう切り出したとき、しょうじき雄高は足がすくんだ。
「いえ……」
そうか、と店長はつぶやくように言ったが、釈然としない表情で雄高を見つめた。
「あいつ、最近……」
「元気ないですか?」
「うん、それもあるけど……なんていうのかな、ちょっと怖いと言うか、近寄りがたい感じになってるんだ。時々休んだり早退したりするし。今までそんなことはしない奴だったから、急に人が変わったようで」
雄高は言葉もなかった。原因は自分にあるのだ。整理途中の文庫本を抱えたまま、雄高は立ち尽くした。
「それに」
店長の押さえた調子で、周りの様子を伺ってから雄高に言った。
「ゆうべ、あいつとトラブったんだ」
「あいつ? ってあいつのことですか」
夜の常連、のあいつだ。そう、と店長は腕組みして答えた。
「あいつさ、ゆうべ灰智に声をかけたんだ。それだけでも驚きものなんだけど、あいつ何て言ったと思う? お前の、碓氷の電話番号教えてくれっていったんだぜ」
えっ、と雄高は大声をあげそうになったが、声をひそめ慌てて店長に尋ねた。
「なんで、そんな! 史彦、教えちゃったんですか」
「教えるわけないだろう。そしたら灰智はえらい剣幕で、あいつのことさ『ホモ野郎!』とか怒鳴ってさ。もうすぐ閉店って時間だから、客はほとんどいなかったけど、もうあせっちまったよ」
そのあと、今にも殴りかかりそうな史彦を店長が押さえている間に、あいつは逃げるように出て行ったそうだ。
「おまえ、あいつと話しでもしたことあるのか?」
雄高は強く首を横に振った。そんな覚えはない。けれど、思い当たるとしたらたった一度だが、挨拶らしきものをしたことを店長に話した。合点がいったように、店長は深くうなずいた。
「それだよ。なまじ礼儀正しいからな、お前は。あいつらはさ、マイノリティでふだんから淋しいんだよ。だから、自分の性癖を知っていながら、そういう態度で接してもらうと、それだけでもう舞いあがっちゃうほど嬉しいんだ」
そう、なのだろうか。たった一度の会釈。それも顔などほとんど見えないような薄暗いなかでのほんの一瞬の出来事。聞かれなければとうに忘れてしまっていた、自分にとっては取るに足りない瑣末なことだ。
それにしても。
「店長、なんでそんなコトに詳しいんですか」
虚を突かれたように、店長ははっとした顔で雄高を見た。
「もしかして、店長……」
「違う、違う。おれは結婚だってしてるし、秋には子どもも生まれるし」
大慌てで否定する店長を見て雄高は思わず小さく笑ってしまった。つられて店長も照れ臭そうに笑うと、少し真顔に戻った。
「まあ、その事に関してはいつか話す機会もあるかもしれない。おれ自身の事じゃないけど、な」
店長は今日はこれくらいで勘弁してくれよと、どこか淋しげに雄高を見やると、また仕事へと戻っていった。
社会のマイノリティ。少数派……。
あいつに殴りかかろうとした史彦の怒りは、そのまま安騎野に向ける憎悪のあらわれだろうか。変わってしまった史彦。もう一週間以上も顔を合わせていない。もっとも会わせる顔もない。今でもこうして同じ職場にいること自体、史彦にとっては目障りだろう。
もう二度と以前のような関係には戻れないのだろうか、一生このままで終わってしまうのだろうか。
そう思うだけで、自然と目頭が熱くなる。
あの夜に襲われた孤独とよく似た感覚に捕らわれる。
『淋しいんだよ』という店長の言葉が胸に刺さった。
※
その言葉が残っていたせいだろうか。
六時でバイトが引けたあと、雄高は自転車を押しながらゆっくりとした足取りで家路についた。急いで帰ったところで、雄高を待つ者など誰もいないのだ。そう考えると、雄高は改めて、自分もまた孤独なのだと思い知らされる。
通勤がえりの客で混雑する駅前にさしかかったとき、雄高は見慣れた後ろ姿を見つけた。
人ごみの中で、頭ひとつ分飛び出ている。薄いグレーのサマースーツを身につけた安騎野だった。補習や夏期講座で、まだ学校へ出勤していることを雄高は思い出した。
なにげなく雄高はその後を目で追った。駅前の小さな神社横の坂を下りていく安騎野が見えた。雄高はそれを見失わないうちに後を追った。
道は坂を下り切ったところで、車一台通れないような細い路地になった。この辺りは、駅前再開発からもれた地域だ。昔ながらの家々が軒を寄せ合うように立ち並び、雄高が住む整備された地区とは様相がだいぶ異なる。
道一本入っただけで、こんな前時代的な建物が立ち並ぶ地区が同じ市内にあることを、雄高は知らなかった。まるで、ここだけ二十年前の時間が流れているようだ。
赤い電話を置いた昔ながらタバコ屋や、すりきれて色あせたのれんがかかる食堂が物珍しくて目を奪われながらも、雄高は安騎野について行く。
駅から同じ方向に歩いて来た人々は、それぞれの路地へと一人消え、二人消え、やがて安騎野だけになったころ、廃墟と見まごうばかりの朽ちかけた木造二階建のアパートに安騎野は消えた。
……ここに住んでいるのか? こんなところに。
半壊した板塀に囲まれ、夕日に浮かぶシルエットはどこか不気味にさえ見える。雄高はすこし呆然として、パースが狂ったようなアパートを改めて見直した。
夕闇が迫る路地には街灯に灯がともり、夕餉の惣菜の匂いが開け放たれたあちこちの家から漂い始めている。子どもたちのはしゃぐ声や、テレビのナイター中継が遠くから聞こえる。
雄高は自転車のハンドルに置いた手にあごをのせ、安騎野が消えた二階の部屋を見あげた。弱々しく、申し訳程度の明かりがつくと雄高の心はざわめいた。
あそこに安騎野がいる。
雄高は自転車をアパートにたてかけると、足音を忍ばせて階段をあがり始めた。
一体何をしたいのだろう、それは自分でもよく分からない。いま、自分の胸の内にあるものは安騎野への怒りなのか、ただの興味なのか。確かめずにはいられないのだ。自分を犯し、史彦を凌辱した安騎野がどんな暮らしを、生活をしているのか。今のままでは、安騎野はただ不気味な存在として自分の中に暗い影を落としつづけるだろう。
普通に暮らしてさえいてくれればいい。生身の人間であることを確かめさせてほしい。そうでなければ、あんな異常な体験をどう自分の中で理由づければいいのか。
祈りにも似た気持ちで雄高は明かりの漏れる部屋の前に立った。磨りガラスがはめられ、まるで頼りない扉には表札もなにもない。他に住人がいるかどうかさえ怪しい。それを裏づけるように奥へ通じる廊下には、夜目にも分かるほど埃が積もっている。
突然目の前の扉が開き、ラフな部屋着の安騎野が現れた。
ほんの一瞬、驚いたように目をみひらいた安騎野の表情は、すぐいつもの平坦なものに戻った。雄高は思わず後ずさりした。
「碓氷か。どうした」
「あ、バイトの帰りで」
まるで答えになっていない。口ごもりながら、雄高は自分のバッシュのつま先に視線を落とした。帰るきっかけを失い立ち尽くしていると、はだしの安騎野の足が視界に入った。
「入るか?」
ごく自然に話す安騎野につられ、返事もせずに雄高は部屋に足を踏み入れた。安騎野が蝶番が外れかけた扉をきしませながら閉めている間、雄高は部屋を見渡した。
なにもない。
そっけないほど何もない部屋だった。いや、一応必要最低限のものはあるのだ。けれど、家具らしいものはなにひとつなかった。テレビも、電話も見当たらない。台所には冷蔵庫はいうに及ばず、ガスレンジすらない。流しはカラカラに乾き、水さえ使った形跡がない。
部屋にしたところで、畳は剥がされてむき出しの板の間になっている。
すぐの六畳に海外旅行へ持って行くような大きめのスーツケースがひとつと、ただ一脚の椅子が窓際に置いてある。奥の六畳に一応ベッド。さっきまで着ていたスーツは針金のハンガーにかけ、鴨居につるされている。
タバコの匂いが染みついた部屋のあちこちには、ビールの空き缶がまとめて置いてある。まるで浮浪者が何人も寝泊まりしたような荒れた様相だ。
「いちおう風呂はある」
ビールのプルトップを開けながら、雄高の背中に安騎野が声をかけた。
コンビニの袋を下げたまま安騎野はビールを一気にあおり、深いため息を吐いた。そんな安騎野を雄高は不思議な気分で見ていた。いつもと雰囲気が違って見えるのは、眼鏡をかけていないせいだ。綿のシャツとパンツという服装のためか、普段より若く見える。大学生といってもとおるだろう。
「この間は協力ご苦労。おかげて楽しくすごせた」
椅子に腰かけると、安騎野は意味深長なほほ笑みを浮かべながら雄高を見つめた。
「灰智はああ見えて、けっこう強情なんだな。碓氷、お前以上に抵抗したから、つい手荒にしてしまった。体もよかった。想像した以上にな。チャンスがあったら碓氷も灰智としてみろよ」
安騎野は喉の奥で低く笑った。途端にあの日の史彦、後ろ手に縛られていた姿を思い出して頭の芯が熱くなった。雄高は怒りにまかせて、安騎野に殴りかかった。
が、安騎野は軽々とかわすと、雄高の手首を捕らえた。
「親指は拳に握りこまない。このまま殴ると親指を脱臼する」
涼しい口調でうと、手首を背中にほんの少し力を入れてねじあげた。雄高が声をあげるとすぐに手を放した。
「殴り合いになってもいいけどな。言っておくが俺は空手の有段者だ」
雄高はその場にへたりこんだ。安騎野は椅子から少しも動いていなかった。それが力の差であることを雄高は思い知らされた。
「灰智が好きか?」
雄高が面をあげると、安騎野は目を合わせず飲み終わった缶を部屋のすみに放り投げた。乾いた音が部屋に響いた。
「灰智を傷つけた俺が許せないか?」
雄高はうなずいた。
「灰智とのつき合いは長いのか、碓氷。いつから好きなんだ?」
まるで聞き取りの調査でもするように、淡々と安騎野は感情を交えない声で尋ねる。雄高はそれがどこか遠くから聞こえるような気がしていた。
「聞かせろよ、碓氷。お前と灰智のことを」
白熱灯のもと、安騎野は三本目のビールを開けた。
「聞かせろよ、碓氷。どれほど灰智のことが好きなのか」
夏の夜は始まったばかりだから……。
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