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シャワーは適温だった。バスタブに湯をはり、肩までゆったりと浸かり『おおきな木』のストーリーを頭の中で追った。
それは、大きなりんごの木と男の子の物語だ。男の子が赤ん坊の頃には、木は自分の葉っぱであやし、少し大きくなった男の子は木に登って遊び、青年期に入ってお金が欲しくなったとき、木は自分の木の実を市場で売ってお金にしなさいと与え、やがて成長した彼が船乗りになりたいと言ったときには、幹で船をこしらえるようにと言い……。
木は与え続ける。彼の要求になんの口も挟まずに。そうすることが木の幸せなのだ。やがて年老いて帰って来たかつての男の子に、与えるものはもう何もなかったけれど、自分の切り株に腰かけて休ませてやる大きな木。そうすることで、木は幸せだと感じるのだ。
木は与え続ける。己の身を削ってまでも、与え続ける。それが大きな木のなによりの幸せなのだ。
評論家の多くは、それを親の愛と重ねて見て解説している。見返りを求めず、ひたすら与え続ける愛情の比喩として。
峠先生も、そうだったと葉月さんは言った。『あたえる木』だったと。
峠先生の実家は、S市に総合病院を構えていて、郊外には老人ホームを二つ持っていると聞いたことがある。他にも不動産もあるだろうから、かなりの資産家だ。
安騎野はこの山荘を相続したと言っていた。山荘と、峠先生の残した恐らくは少なくない財産とを相続した安騎野。
では、彼女は何を与えられたんだろうか。
安騎野は与えられてもなお、満たされなかったのだろうか。教え子と寝ている……十年前と進歩がない。峠先生がいても駄目だったのだろうか。
そんなことばかり考える自分に嫌気がさす。安騎野のことを案じてもしょうがない。明日になれば、この山荘を後にするのだから。そうしたら、おそらくもう安騎野と会うこともない。本当に、金輪際。
風呂からあがったら、史彦に連絡しよう。もうすぐ、残業を終えた史彦がマンションに帰り着くころだ。携帯を使えばいい。ここだって、圏外ではないだろう。悪天候のせいで、交通機関が麻痺して帰宅の予定がずれてしまったと。
会いたい。史彦に会って、抱きしめたい。
息詰まるような山荘から今すぐ抜け出して、家に帰りたい。
備えつけのバスローブを着て風呂からあがる。扉をあけると部屋の中に人影があった。
ぎくりと足が止まる。まるで縫いつけられたように動くことができなかった。
安騎野がいた。ベッドわきの椅子に座ってグラスを傾けている。
「一杯つきあわないか」
呪文を唱えられたように、足が動いた。けれど慎重に足を運んだ。とっさに動かれても手が届かない範囲。それを意識して安騎野に近づいた。
「……朝からなにも食べてなくて、さっき吐いた俺に? 酒は無理だよ」
「そうでなくても、碓氷は酒に弱かったな」
グラスのウイスキーをまるで水のように飲み干すと、手酌でまたなみなみとグラスに注いだ。あまりのペースの早さにこちらが焦った。けれど、安騎野は表情一つ変えずにグラスを口に運んだ。
「主治医の葉月の監視が厳しくてな。ふだん、あまり酒は飲めないんだ。客が来たときだけだ自由に飲めるのは。もっともその客もめったに訪れない」
ただ一つの椅子を占領され、しかたなくベッドに腰を下ろす。
「峠先生と、親戚だったんだね」
「葉月に聞いたのか。まあな。俺も知らなかったけど、そういうことらしい」
グラスの三分の一を目の前で飲むと、安騎野は遠い目をした。俺は困惑していた。どうしたら、安騎野を部屋から追い出せるのだろうかと。
「さっき葉月さんから聞いた。峠先生は『与える木』だった……」
安騎野は鼻で笑った。
「与える、ねえ。隆は、感情のない奴だったから。与えることは手段の一つだったわけだ」
安騎野が峠先生を『隆』と愛称で呼ぶことに少し胸が痛んだ。
「感情が、ない? あんなに優しかった峠先生が」
安騎野はグラスを掲げると、部屋の明かりに透かして見せた。琥珀色の影が、青白い安騎野の顔をかすかに染めた。
「ないよ。あるように、振る舞っていただけだ。表情も、学習された形態反応でしかなかった。あいつには感情が欠落していたんだ」
「感情をおもてにするのが、苦手なだけじゃない? 機械じゃないんだから、感情くらいあったはずだよ」
「どうかな。すくなくとも隆自身は、欠けている感情を学習するために精神科医になったと言っていたよ。隆の両親も苦心したらしい。どうすれば、社会に適応しているように見せられるかってな」
離人症? 自分がまるで自分のように感じられない病だったのだろうか。あるいは乖離。でも、いつも乖離しているなんてことがあるんだろうか。
「与えること、人が嫌がることをすすんでやることは、隆が他者とコミュニケートする場面において有効に作用することが多かったんだ。そう学習した。だから、助けを要する人には惜しみ無く与える。援助をするんだ。金や物や言葉で」
「でも、そのおかげで俺は今の俺に行き着いたよ」
本心だった。けれど、この空虚な感じはなんだ。あれだけ親身に相談に乗ってくれた先生は、本当は感情などなにも持っていなかったということがショックなのか。
「それはお前が求めたからだ。例えば宗教を持つことは隆にとっては自然なことだったんだ。それが隆の感情のナビゲーションになるから。そうでありながら教義に反する同性愛者である自分に悩まなかった。『呵責』なんてものは隆のなかに存在しなかったから」
「……だから、また教え子と寝ていたんだ。峠さんの愛情が信じられなくて」
口を突いて出た言葉に、自分自身が驚いた。口を半分あけ、放心した表情のまま俺は安騎野と目が合ってしまった。安騎野はそんな俺を愉快そうに見ている。
「嫉妬したか?」
「ち、違う。俺は……安騎野はもう変わっていると信じていたから。峠先生と」
「幸せに暮らしているとでも? お伽話みたいにか。まあ、幸せだったかもな。手を伸ばせば触れることができる位置に隆はいたから」
言葉を引き継いで安騎野が答えた。ウイスキーはもうグラスの底にわずかに残るばかりだ。けれど、安騎野は酔ったそぶりを全く見せない。それが不安にさせた。
「碓氷は俺と似ている。お前もそうだろう? たとえ灰智がそばにいても、満足できなかったろう? 一つのもので満たされるレベルじゃない、おまえは貪欲だ。こと愛情に関してはな」
「……」
反論しなければ。黙っていたら、安騎野の言葉を肯定したことになる。違う、俺は違う。あんたとは、違うと言ってやりたかった。
「写真を見せようか、史彦の。二矢に似ている、史彦のいまの姿ー見たくない?」
安騎野がわずかにひるんだ。それを見逃さず、俺は続けた。
「安騎野は史彦も欲しかったんだよな。二矢に似ているから。残念ながら史彦は俺にぞっこんだよ。あんたが手に入れられなかった史彦が好きなのは俺だよ。あんたのことはいまだに嫌っている」
安騎野は暗がりの中で、射るような視線を俺に向けた。室内を緊張感が満たした。肌が痛いほどの緊迫した空気を電子音が破った。
携帯電話の着信を知らせるメロディーが流れた。俺が動くより早く、安騎野は椅子の背もたれにかけられていたスーツの内ポケットから携帯を取り出してボタン操作した。
「はい」
史彦からだ! 俺は安騎野に飛びかかって携帯を奪おうとした。が、安騎野は横目で俺を睨んだ。射竦められたように、俺は体を動かせなかった。
「違いますよ……」
わずか一言だけで通話を切ってしまった。そうすると、もう興味を失ったように俺に電話を投げてよこした。
「灰智は単純だな、相も変わらず」
「なんてことをしてくれたんだ!」
怒りで体がふるえた。なんてこと、なんてことだ。
「代わればよかったか? でもその場合、俺を誰だと説明する? そんなに怒るなら、今すぐにかけ直せばいい。それでも、さっき出た奴は誰だって聞かれると思うけどな」
このことが史彦に知られたら、前回の、大学の時の騒ぎの比ではない。もう、ほんとうに決定的……壊れてしまう。
そうなったら、俺はどうしたらいいんだ。史彦に捨てられたら……。
「またかよ、あのときは写真で、今回は電話か! あんたはそうやって人の事をすぐに脅す! なんでそう酷いことばかりするんだよ」
うつむくと涙がにじんできた。見られたくない。安騎野には悔し涙を見られたくない。
「碓氷が冷たいからだ」
えっ、と顔をあげると淋しげな安騎野の横顔が目に飛び込んできた。
「おまえがここに来たのは、俺に会いたかったからじゃなかったのか。ろくな会話もなしに明日の朝ここを去って、もう二度と俺に会わない気か?」
そのとおりに考えていた。もう二度と会わない。危ない橋は渡らない。
「あ、安騎野が落ち込んでいるのは葉書を見てわかったよ。だから駆けつけたんじゃないか。史彦に黙ってまで。それなのに、あんたはまた懲りもせずに教え子と寝ているって聞かされて、どうしてくれるんだよ!」
「何を? なにを怒ってるんだ」
話しているうちに感情が高ぶる。自分の声でよけいに怒りが増す。泣きたくなかったのに、涙がこぼれた。
「結局、あんたは誰でもいいんだ。俺のことは、いつも誰かの代わりだ。二矢や史彦や、こんどは峠先生の。だったら、俺じゃなくてもいいだろう? 体が淋しいなら、今の生徒を相手にしてろよ」
安騎野がゆっくりと椅子から立ち上がった。不自由な足を引きずって俺に歩み寄り、見下ろした。安騎野が俺に手を伸ばす。
「さわるな、俺にさわるな!」
泣き顔のまま安騎野にきつく言い放つと、手が止まった。戸惑うように、眉根にしわを寄せ俺を見ている。
「あんたのせいで、この十年どれほど辛かったと思うんだ? そりゃ思い出を美化していた俺も悪いよ、でも、でもこんな仕打ちはないだろう。あんたは俺を選ばなかったんだ。自分がパートナーを失って辛くて悲しいからって、いまさら俺に慰めてくれなんて言うなよ。どこまで俺を傷つければ気がすむんだ!」
十年分の思いの丈だ。俺は言いたかった。安騎野に恨み事を。筋違いだ、勝手な思い込みだ、と非難されても構わない。安騎野に言わずにはいられなかったのだ。
俺の言葉に安騎野は少しだけ悲しそうな顔をして見せた。これは演技だ、だまされては駄目だ。胸が切り裂かれるように痛んでも、安騎野を拒絶するんだ。
「そうだな。お前の言うとおりだ」
安騎野は反論せず、椅子に立てかけてあった杖を手に取ると、扉へと体を向けた。ゆっくりとしか歩けない安騎野の足音。こつん、こつんと杖の音がついていく。うつむいて聞くその音は、あの日の、アパートから出て行った安騎野の足音を思い出させた。
音が聞こえなくなったら、もう会うこともないだろうと思った。あのときは切なくて、後を追いかけたかった。けれど、そうせずに、ただ泣くしかなかった。
ドアノブをがちゃりと回し、安騎野が部屋から出て行った。
しんとした部屋に取り残される。
安騎野は出て行った。また、俺を置いて。いつでも安騎野は俺に背中しか見せない。安騎野は、口にしない。淋しさを悲しさを。
ひとつの思いが胸をかすめた。
今度こそ、死ぬつもりなのかも知れない。言い知れない不安に襲われた。
二度失敗を重ね、今度こそ成功させるかもしれない、自殺を。
それは、駄目だ。あのときも祈ったじゃないか。たとえどんなことがあっても、安騎野には……。生きて欲しいー。
扉に駆け寄り、勢いよく開け廊下に飛び出した俺は、不意に肩を掴まれた。
「安騎野……」
振り返ると安騎野は、何も言わずに俺を抱きすくめると唇を重ねた。目を閉じると、安騎野の体が部屋へと俺を押し戻す。安騎野は後ろ手で扉を閉めてから体をはなした。
「タバコの匂いがしない」
ヘビースモーカーだった安騎野のキスはいつもタバコの匂いがしていた。安騎野はくすりと笑った。
「主治医の指導で禁煙中だ」
それは、大きなりんごの木と男の子の物語だ。男の子が赤ん坊の頃には、木は自分の葉っぱであやし、少し大きくなった男の子は木に登って遊び、青年期に入ってお金が欲しくなったとき、木は自分の木の実を市場で売ってお金にしなさいと与え、やがて成長した彼が船乗りになりたいと言ったときには、幹で船をこしらえるようにと言い……。
木は与え続ける。彼の要求になんの口も挟まずに。そうすることが木の幸せなのだ。やがて年老いて帰って来たかつての男の子に、与えるものはもう何もなかったけれど、自分の切り株に腰かけて休ませてやる大きな木。そうすることで、木は幸せだと感じるのだ。
木は与え続ける。己の身を削ってまでも、与え続ける。それが大きな木のなによりの幸せなのだ。
評論家の多くは、それを親の愛と重ねて見て解説している。見返りを求めず、ひたすら与え続ける愛情の比喩として。
峠先生も、そうだったと葉月さんは言った。『あたえる木』だったと。
峠先生の実家は、S市に総合病院を構えていて、郊外には老人ホームを二つ持っていると聞いたことがある。他にも不動産もあるだろうから、かなりの資産家だ。
安騎野はこの山荘を相続したと言っていた。山荘と、峠先生の残した恐らくは少なくない財産とを相続した安騎野。
では、彼女は何を与えられたんだろうか。
安騎野は与えられてもなお、満たされなかったのだろうか。教え子と寝ている……十年前と進歩がない。峠先生がいても駄目だったのだろうか。
そんなことばかり考える自分に嫌気がさす。安騎野のことを案じてもしょうがない。明日になれば、この山荘を後にするのだから。そうしたら、おそらくもう安騎野と会うこともない。本当に、金輪際。
風呂からあがったら、史彦に連絡しよう。もうすぐ、残業を終えた史彦がマンションに帰り着くころだ。携帯を使えばいい。ここだって、圏外ではないだろう。悪天候のせいで、交通機関が麻痺して帰宅の予定がずれてしまったと。
会いたい。史彦に会って、抱きしめたい。
息詰まるような山荘から今すぐ抜け出して、家に帰りたい。
備えつけのバスローブを着て風呂からあがる。扉をあけると部屋の中に人影があった。
ぎくりと足が止まる。まるで縫いつけられたように動くことができなかった。
安騎野がいた。ベッドわきの椅子に座ってグラスを傾けている。
「一杯つきあわないか」
呪文を唱えられたように、足が動いた。けれど慎重に足を運んだ。とっさに動かれても手が届かない範囲。それを意識して安騎野に近づいた。
「……朝からなにも食べてなくて、さっき吐いた俺に? 酒は無理だよ」
「そうでなくても、碓氷は酒に弱かったな」
グラスのウイスキーをまるで水のように飲み干すと、手酌でまたなみなみとグラスに注いだ。あまりのペースの早さにこちらが焦った。けれど、安騎野は表情一つ変えずにグラスを口に運んだ。
「主治医の葉月の監視が厳しくてな。ふだん、あまり酒は飲めないんだ。客が来たときだけだ自由に飲めるのは。もっともその客もめったに訪れない」
ただ一つの椅子を占領され、しかたなくベッドに腰を下ろす。
「峠先生と、親戚だったんだね」
「葉月に聞いたのか。まあな。俺も知らなかったけど、そういうことらしい」
グラスの三分の一を目の前で飲むと、安騎野は遠い目をした。俺は困惑していた。どうしたら、安騎野を部屋から追い出せるのだろうかと。
「さっき葉月さんから聞いた。峠先生は『与える木』だった……」
安騎野は鼻で笑った。
「与える、ねえ。隆は、感情のない奴だったから。与えることは手段の一つだったわけだ」
安騎野が峠先生を『隆』と愛称で呼ぶことに少し胸が痛んだ。
「感情が、ない? あんなに優しかった峠先生が」
安騎野はグラスを掲げると、部屋の明かりに透かして見せた。琥珀色の影が、青白い安騎野の顔をかすかに染めた。
「ないよ。あるように、振る舞っていただけだ。表情も、学習された形態反応でしかなかった。あいつには感情が欠落していたんだ」
「感情をおもてにするのが、苦手なだけじゃない? 機械じゃないんだから、感情くらいあったはずだよ」
「どうかな。すくなくとも隆自身は、欠けている感情を学習するために精神科医になったと言っていたよ。隆の両親も苦心したらしい。どうすれば、社会に適応しているように見せられるかってな」
離人症? 自分がまるで自分のように感じられない病だったのだろうか。あるいは乖離。でも、いつも乖離しているなんてことがあるんだろうか。
「与えること、人が嫌がることをすすんでやることは、隆が他者とコミュニケートする場面において有効に作用することが多かったんだ。そう学習した。だから、助けを要する人には惜しみ無く与える。援助をするんだ。金や物や言葉で」
「でも、そのおかげで俺は今の俺に行き着いたよ」
本心だった。けれど、この空虚な感じはなんだ。あれだけ親身に相談に乗ってくれた先生は、本当は感情などなにも持っていなかったということがショックなのか。
「それはお前が求めたからだ。例えば宗教を持つことは隆にとっては自然なことだったんだ。それが隆の感情のナビゲーションになるから。そうでありながら教義に反する同性愛者である自分に悩まなかった。『呵責』なんてものは隆のなかに存在しなかったから」
「……だから、また教え子と寝ていたんだ。峠さんの愛情が信じられなくて」
口を突いて出た言葉に、自分自身が驚いた。口を半分あけ、放心した表情のまま俺は安騎野と目が合ってしまった。安騎野はそんな俺を愉快そうに見ている。
「嫉妬したか?」
「ち、違う。俺は……安騎野はもう変わっていると信じていたから。峠先生と」
「幸せに暮らしているとでも? お伽話みたいにか。まあ、幸せだったかもな。手を伸ばせば触れることができる位置に隆はいたから」
言葉を引き継いで安騎野が答えた。ウイスキーはもうグラスの底にわずかに残るばかりだ。けれど、安騎野は酔ったそぶりを全く見せない。それが不安にさせた。
「碓氷は俺と似ている。お前もそうだろう? たとえ灰智がそばにいても、満足できなかったろう? 一つのもので満たされるレベルじゃない、おまえは貪欲だ。こと愛情に関してはな」
「……」
反論しなければ。黙っていたら、安騎野の言葉を肯定したことになる。違う、俺は違う。あんたとは、違うと言ってやりたかった。
「写真を見せようか、史彦の。二矢に似ている、史彦のいまの姿ー見たくない?」
安騎野がわずかにひるんだ。それを見逃さず、俺は続けた。
「安騎野は史彦も欲しかったんだよな。二矢に似ているから。残念ながら史彦は俺にぞっこんだよ。あんたが手に入れられなかった史彦が好きなのは俺だよ。あんたのことはいまだに嫌っている」
安騎野は暗がりの中で、射るような視線を俺に向けた。室内を緊張感が満たした。肌が痛いほどの緊迫した空気を電子音が破った。
携帯電話の着信を知らせるメロディーが流れた。俺が動くより早く、安騎野は椅子の背もたれにかけられていたスーツの内ポケットから携帯を取り出してボタン操作した。
「はい」
史彦からだ! 俺は安騎野に飛びかかって携帯を奪おうとした。が、安騎野は横目で俺を睨んだ。射竦められたように、俺は体を動かせなかった。
「違いますよ……」
わずか一言だけで通話を切ってしまった。そうすると、もう興味を失ったように俺に電話を投げてよこした。
「灰智は単純だな、相も変わらず」
「なんてことをしてくれたんだ!」
怒りで体がふるえた。なんてこと、なんてことだ。
「代わればよかったか? でもその場合、俺を誰だと説明する? そんなに怒るなら、今すぐにかけ直せばいい。それでも、さっき出た奴は誰だって聞かれると思うけどな」
このことが史彦に知られたら、前回の、大学の時の騒ぎの比ではない。もう、ほんとうに決定的……壊れてしまう。
そうなったら、俺はどうしたらいいんだ。史彦に捨てられたら……。
「またかよ、あのときは写真で、今回は電話か! あんたはそうやって人の事をすぐに脅す! なんでそう酷いことばかりするんだよ」
うつむくと涙がにじんできた。見られたくない。安騎野には悔し涙を見られたくない。
「碓氷が冷たいからだ」
えっ、と顔をあげると淋しげな安騎野の横顔が目に飛び込んできた。
「おまえがここに来たのは、俺に会いたかったからじゃなかったのか。ろくな会話もなしに明日の朝ここを去って、もう二度と俺に会わない気か?」
そのとおりに考えていた。もう二度と会わない。危ない橋は渡らない。
「あ、安騎野が落ち込んでいるのは葉書を見てわかったよ。だから駆けつけたんじゃないか。史彦に黙ってまで。それなのに、あんたはまた懲りもせずに教え子と寝ているって聞かされて、どうしてくれるんだよ!」
「何を? なにを怒ってるんだ」
話しているうちに感情が高ぶる。自分の声でよけいに怒りが増す。泣きたくなかったのに、涙がこぼれた。
「結局、あんたは誰でもいいんだ。俺のことは、いつも誰かの代わりだ。二矢や史彦や、こんどは峠先生の。だったら、俺じゃなくてもいいだろう? 体が淋しいなら、今の生徒を相手にしてろよ」
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「あんたのせいで、この十年どれほど辛かったと思うんだ? そりゃ思い出を美化していた俺も悪いよ、でも、でもこんな仕打ちはないだろう。あんたは俺を選ばなかったんだ。自分がパートナーを失って辛くて悲しいからって、いまさら俺に慰めてくれなんて言うなよ。どこまで俺を傷つければ気がすむんだ!」
十年分の思いの丈だ。俺は言いたかった。安騎野に恨み事を。筋違いだ、勝手な思い込みだ、と非難されても構わない。安騎野に言わずにはいられなかったのだ。
俺の言葉に安騎野は少しだけ悲しそうな顔をして見せた。これは演技だ、だまされては駄目だ。胸が切り裂かれるように痛んでも、安騎野を拒絶するんだ。
「そうだな。お前の言うとおりだ」
安騎野は反論せず、椅子に立てかけてあった杖を手に取ると、扉へと体を向けた。ゆっくりとしか歩けない安騎野の足音。こつん、こつんと杖の音がついていく。うつむいて聞くその音は、あの日の、アパートから出て行った安騎野の足音を思い出させた。
音が聞こえなくなったら、もう会うこともないだろうと思った。あのときは切なくて、後を追いかけたかった。けれど、そうせずに、ただ泣くしかなかった。
ドアノブをがちゃりと回し、安騎野が部屋から出て行った。
しんとした部屋に取り残される。
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ひとつの思いが胸をかすめた。
今度こそ、死ぬつもりなのかも知れない。言い知れない不安に襲われた。
二度失敗を重ね、今度こそ成功させるかもしれない、自殺を。
それは、駄目だ。あのときも祈ったじゃないか。たとえどんなことがあっても、安騎野には……。生きて欲しいー。
扉に駆け寄り、勢いよく開け廊下に飛び出した俺は、不意に肩を掴まれた。
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振り返ると安騎野は、何も言わずに俺を抱きすくめると唇を重ねた。目を閉じると、安騎野の体が部屋へと俺を押し戻す。安騎野は後ろ手で扉を閉めてから体をはなした。
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