永遠の伴侶

白藤桜空

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海棠の雨に濡れたる風情

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 赤ん坊が少女へと変貌してから数か月……数年、あるいは数十年だろうか。
 光と少女は時の流れを気にすることなく、森の生活を謳歌おうかしていた。
 ある日は木から垂れ下がるつたから蔦へ飛び移って遊び、また別の日は動物たちと足の速さを競い合った。来る日も来る日も、少女たちは飽くことなく遊び続け、言葉が無くとも皆友であった。
 光と少女も同じであった。光は少女を慈しみ、少女は光を慕っていた。二人の間には確かな絆が育まれ、お互いにかけがえのない存在となっていた。
 唯一つだけ。少女には気になっていることがあった。
 水面に映る自分と同じ姿の者が動物たちの中には一匹もいないのだ。
 共に過ごす光のは一緒だった。けれどはっきりと違う・・存在だと感じ取れた。
 でもそれを少女は深く探ろうとは思わなかった。
 彼女にとってそれは些末なことであり、変わらない日常を楽しく過ごす方がよっぽど大事なことだった。

 ある日のこと。
 うららかな陽気の中、一人の少年が森を歩いていた。
 少年はぼろきれのような服を纏い、手にはほつれかけのざるを抱えている。そして何かにおびえたように最奥に進んでいた。
 しばらく歩くと水の澄んだ泉に辿り着く。その泉のそばにはこけした祠が建っていた。
 少年は生唾を呑み込むと、ぼそぼそと独り言を言いながら祠に近付く。
「大丈夫、きちんとお参りすればたたられないはず……。地祇ちぎ様は捨て子にお怒りになっただけで、人を嫌ってはいないと婆様も言ってたもの……」
 少年は首に掛けていた布で祠の汚れを清めていく。屋根の埃を払い、祠の中にまで入り込んだ枯れ葉を取る。こびりついた苔までは拭えなかったものの、祠の様子は打って変わり、祠からは清純な空気が醸されるようになった。
 彼は満足気に息を吐き出すと、膝を突き、手を合わせて祈り始める。
「……地祇様。森の恵みを分けてもらいに来ました。昔赤ん坊を捨てられてお怒りになって、村を一つ沈めたと聞いております。俺らはもう二度とそのようなことを致しません。えっと、でも今年は税が増えて、食べるのがやっとなんです。だからどうか、山菜を採ることを許してください……」
 真剣な表情で話し終えると、少年は一呼吸置き立ち上がる。が、振り向いた瞬間〝わぁッ〟と大きな声を上げて腰を抜かす。真後ろに裸の少女が立っていたからだ。
 少年は初めて見た女の裸体にも度肝を抜かれ、まくし立てる。
「きッ、君は誰⁈ ここはそんな格好でいちゃいけないんだよ! ッというか、なんでここに⁈」
 だが少女は、ただ不思議そうに少年を見つめるだけだった。
 彼女の返事がないことでかえって落ち着きを取り戻し始めた少年。少女の顔を観察する余裕が生まれた。
 小ぶりで艶やかな唇に、ツンと上向いた小鼻。切れ長な二重ふたえの目は涼やかで、栗色の瞳は清廉な輝きを放っている。胸まで伸びた濡れ羽色の髪は、木の葉と共にそよいでいる。
 この世のものとは思えない少女の美貌。彼女の風貌に少年は見惚れ、彼の頬は徐々に赤く染まっていく。
 そしてあることに思い至る。この類いまれなる美しさは地祇様の御使いなのではないか、と。
 少年は慌てて土下座する。
「失礼しました! 森にはもう立ち入りません! だから怒らないでくださ……ん?」
 ふと、少年は自分の頭を撫でられているのに気付く。もしや赦しを受けたのだろうか、と少年は思う。だが撫でられている内に、その動きは赦しているのとは違っているように思えた。どちらかというと、彼女の手付きは赤ん坊がおもちゃをいじりまわしているそれに近かった。
「あの……? 地祇様の御使いではないのですか……?」
 少年は顔を上げる。と、今度は目、鼻、口、をペタペタと触られる。少年は目を丸くした。が、それを気にせず少女は触り続ける。そして一通り触り終えると、にこり、と微笑んで少年を見つめる。花が綻んだようなその笑みは、少年の心を撃ち抜くのには十分だった。
 ゆでだこのようになった少年は誤魔化すように話す。
「な、なんだ、違うならそう言ってよ、びっくりするじゃないか……。君、追いぎにでも遭ったの? そんなきれー・・・な顔だと大変そうだもんね……。家はどこ? 分かるとこなら送ってくよ?」
 だが少女は少年の言葉をにこにこと聞くばかりだ。
 少年は彼女の様子に困惑する。
「うーん、どうしよう…………あ、そうだ。どこも行く当てがないならうちに来る? あんまり食べるものはないけど、婆様が〝困ってる人は助けるもんだ〟って言ってたし、来るのは構わないよ。その代わり、山菜採りは手伝ってね?」
 その言葉にも少女は小首を傾げ、おもむろに後ろへ振り向く。つられて少年も同じ場所を見やった。が、そこにはなんの変哲もない木々が生えているだけだった。
 少女はその何もない空間に向かって、少年にしたように首をひねる。かと思いきや、唐突に屈託のない笑みを浮かべたりする。
 一見すれば不気味な光景。けれど不思議なことに少年はそれを気味悪いとは思えなかった。少し待っていればいいんだな、とただ思うだけだった。
 少年がぼうっと待っている間に、少女は何事かを納得したのだろう。満足気な顔で少年に振り返ると手を取り立たせる。その手はひやりと冷たく、眼前には少女の乳房ちぶさが広がった。その冷たさに少年は目を見開く。
「君、体が冷え切ってるじゃないか!」
 少年は少女の裸体から目を逸らしながら思い巡らす。
「ど、どうしよう。このまま村には……そうだ!」
 ふと思い付いた少年は、自身の着物に手を掛け、もたつきながら上に着ていたを少女に羽織らせる。
「これ! きれいじゃないけどとりあえず羽織っておいて。俺は男だもの、寒いのなんてへっちゃらだからさ! それに女は、す、好きな奴にしか、その……見せちゃダメだから!」
 上着には少年の温もりが残っていた。少女は衣とだけとなった少年を見比べ、そしてもう一度彼の手を掴む。
 少年は頭から湯気が出た気がした。おそらく、彼女にはなんの意図もないのだろう。だが、その思わせぶりな態度に、少年は動揺せざるを得なかった。
「お、俺の村に案内するよ! こっちに付いてきて!」
 と言って少年は少女の手を引き移動しようとする。が、つと動きを止めて、祠の方に頭を下げ、ついでに少女にも頭を下げさせる。そして二人は茂みを掻き分けて泉を後にする。
 その去っていく後ろ姿を、は祠のかたわらで見つめていた。少女はふとそれに気付き、光を見やる。
 光は点滅しながら手を振る。一方で少女はきょとんと目を丸くする。
 少女にとってそれは初めて見たものだった。けれど、何故だか真似した方がいい気がして、同じように手を振った。
 それが別れの挨拶などと知らない少女は、無邪気な笑顔を浮かべて去っていく。光は、少女が見えなくなっても手を下ろすことをしなかった。
 ――気付けばしとしとと小雨が降り始めていた。空気は湿り気を帯び、雨粒が葉を叩き出す。
 されど木々に守られた少女たちの体が濡れることはなかった。むしろ温かさを孕んだその雨は、近くの村々を潤し、その年はいつになく豊作となるのであった。
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