永遠の伴侶

花は根に、鳥は古巣に帰る

56

　宴が終わった夜。
　後宮の廊下に〝御渡りでございます〟という侍女の言葉が響く。それと同時に美琳メイリンの部屋の戸布が捲まくられ、文生ウェンシェンが数人の侍女を引き連れて中に入ってくる。
　寝間着姿の美琳は、流れるような所作で床に膝を突き、拱手きょうしゅして頭こうべを垂れる。すると傍そば近くに文生が立つ気配がし、直後に付き従っていた侍女たちの去っていく足音がする。
「…………」
　声がかかるのを、美琳はただ静かに待つ。
　――されどいつまで経っても声は聞こえてこない。
　ちらり、と、美琳は袖そでの隙間から覗のぞき見る。と、
「きゃッ！」
　突然、文生に抱きつかれる。咄嗟とっさのことに反応出来ず、尻餅をつく。反面、重くのしかかる彼の体をしっかりと受け止める。
「ど、どうしたの？」
　戸惑いながら聞く。
「…………ごめん」
　返ってきたのはたった一言。だが二人の間にはそれだけで充分であった。
「謝ることじゃないわ。静端ジングウェンだって〝ここ・・はそういうところなんだ〟って言ってたもの」
　美琳は微笑む。その澄み渡った笑顔に、文生は顔を歪める。
「たった一回だったのに……！　なんで先にッ」
　言葉に詰まる文生。血の引いた彼のその顔に、美琳は目を見開く。しかしすぐに柔和な表情に戻し、文生の頭を胸に抱いてあやすように背中をゆっくり叩く。
「……そうね。でもこればかりは私たちにはどうしようもないわ」
　美琳の優しすぎるその言葉に、文生は更に強く掻き抱く。
「后きさきじゃないと君の立場はどんどん悪くなってしまうじゃないか……。先に君と子供が出来てれば君を后に押し通せたのに、なんで……」
「……ごめんね」
　ハッと文生は顔を上げる。
「美琳が悪いんじゃないよ」
　慌てて弁明する文生。それに対しても美琳は美しく微笑む。
「気にしないで。それに……これから何度だって機会はあるでしょう？」
　朗ほがらかに言った美琳は、小さな手で文生の頬を挟み口付ける。その柔らかい感触に、文生は一瞬固まる。が、すぐに貪むさぼるように口を吸い返す。
「ん……ッ」
　美琳の吐息が艶を帯び、彼らはしばらく慰め合う。と、文生が唇を離して美琳を横抱きし、床とこに美琳を運ぶ。そのまま彼女を横たえて覆い被さると、紅あかい衣ころもを脱がせた。
　現れたのはまっさらな白い肌。小さな実り。流れる黒髪。
　いつまで経っても無垢なその体を見た瞬間、文生は無性にやるせない気持ちになった。
　欲しくて手に入れた身分じゃない。でもなってしまったものは仕方ない。自分なりにやれることをしなければ、と努力した。
　やっと手に入れた宝物。なんとか守り抜こうと思った。なのに自分ではどうしようもないところでこれから苦境に追いやられていくことになってしまった。
　あのとき。村を離れたあの瞬間から定められたどうしようもない運命だったのだろうか。
　文生はそっと美琳の柔肌を撫でる。と、ふとある衝動に駆られる。
　その変化にいち早く気付いた美琳。小首を傾げて彼を窺うかがい見る。
「文生？　どうした、の、あッ！」
　美琳は思わず声を漏らす。自分の首筋を文生に強く噛みつかれたからだ。
「んぅ……⁈」
　美琳は驚く。
　今まで何度も体を重ねてきた。当然、様々な経験を重ねてきた。けれどこのような、『痛み』を伴う行為をされたのは初めてだった。
　あまりにも予想外の行動に動揺する。が、それとはまた違うことに困惑する。
　いつもと同じように、『疼痛とうつう』はなかった。その代わり、ピリリ、と『劣情れつじょう』が湧いた。ただ彼に噛みつかれただけなのに、不思議と快感が走り抜けていったのだ。
「ん、はぁ……いきなりなぁに？」
　驚嘆と興奮が入り混じった美琳の声で、文生は我に返る。
「あ、ご、ごめん。なんでだろ……」
　パッと体を起こし、傷痕を確認しようとする。されど残っていたのは、自分の唾液だけ。
　文生は思わず顔を顰しかめた。直後、美琳から声が降る。
「なんだか私たち、さっきから謝ってばかりね」
　ふっと文生は美琳を見上げ、そして眉尻を下げる。
「そうだね。ごめ…………あ」
「ふふ、言った傍そばから」
　美琳のくすぐるような笑い声に、文生も表情を緩める。それを確認した美琳は、とある提案をする。
「ねぇ……今日はもう寝ちゃわない？」
「え、でも」
「お務め・・・なんて一日くらいシなくても大丈夫よ。だって今日の文生疲れてるもの。今は何もかも忘れて眠った方がいいわ」
　穏和に微笑む美琳。何度も見慣れたその笑顔に、文生は体から力が抜けるのを感じた。
「うん。そう言われると、眠い気がしてきた」
「でしょう？　ほら、こっちに来て」
　美琳は横向きに転がり、その隣に文生を誘う。文生も、はにかむように笑いながら横たわる。
「やっぱり美琳には敵かなわないなぁ」
　その言げんに、美琳は無言の抱擁で応える。
　抱き抱えられた文生の眼前には、なだらかな膨らみと、心臓の音が広がる。
　トク、トク、と小さなその鼓動は文生を眠りの世界に誘いざなう。うとうとと瞼まぶたを閉じようとしている彼の背中を、美琳はゆっくりと撫でるのであった。

　すっかり寝入った文生。
　それを見届けた美琳は、彼を起こさないようにそっと床とこから抜ける。と、すかさず静端がやってきて、彼女の肩に新しい寝間着を掛ける。
「ありがとう静端」
　小声で話す美琳に、小さく頭を下げる静端。二人は示し合わせた訳でもないのに、自然と窓辺に行く。
　美琳は松明たいまつの明かりを頼りに窓の外を見やる。その視線の先を辿ると、月明かりの無い漆黒が広がっていた。だが美琳はそこから目を逸らさない。……いや、彼女自身の瞳もまた闇に染まっている。
　近寄りがたい空気を纏っている美琳に、静端は恐る恐る話しかける。
「美琳様……。宜よろしかったのですか？」
「ん……？　何が？　だって文生の様子がおかしかったのは静端も分かったでしょう？　今はゆっくり休んでもらった方がいいわ」
「それもありますが……」
　静端は一瞬迷う素振りをする。が、すぐに言葉を紡つむぐ。
「噂では、戦況が芳しくなくなってきているとのことですが……」
「…………」
「美琳様も、もう察しが付いているのではないですか？」
　美琳の横顔は何も語らない。その態度に静端はわずかな苛立いらだちを覚える。
「このまま戦いが長引けばいずれ「分かってる」
　くるり、と美琳は窓を背にして振り返る。暗闇を背負った彼女の顔は、松明の灯ともしびだけで見るのには心許こころもとない。だが静端は、彼女がいつもと変わらぬ無垢な笑みを浮かべているのを確信出来た。
「そろそろ不死身私の出番だ、って分かってるわ」
　美琳は囁ささやく。しかし静端の耳にはしっかり届いた。
「でも大丈夫よ。文生は私のことを何時いつまでだって〝愛してる〟って言ってくれたもの。だから私は、彼のために幾らでも戦える」
　ふと美琳は顔の横で乱れた髪を耳に掛け、窓から離れる。そして文生の眠っている床とこに近付く。
「何があろうとも必ず戻ってくるわ。だからそれまでの間、留守は頼んだわよ？」
「……ッ！」
　静端は息が詰まる。愛に満ち溢あふれた眼差しで文生を見つめる美琳の姿は、今まで見たものの中で一番美しく見えた。
「委細、承知致しました。不肖ふしょう、この静端。美琳様のお留守を守り通してみせます」
　拱手きょうしゅをして膝を折る静端。
　美琳は文生から静端に視線を移す。と、不意に笑みを零す。
「ふふ、こんなこと言っておいて、〝私の出番なんてありませんでした〟ってこともあり得るわよね」
　普段と同じ調子で明るく話す美琳に、静端もつられる。
「それに越したことはございませんね。……さ、もうお眠りにならないとお体に毒でございますよ」
「そうね。貴女ももう下がっていいわよ」
　そう言うと美琳は、寝間着を脱いで静端に渡し、床とこに潜り込む。受け取った静端は頭を下げる。
「本日はこれにて失礼致します」
　美琳がひらひらと小さく手を振って返事をすると、静端は音も立てずにその場を後にした。

　再び床とこに入った美琳は、文生にすり寄る。
「ンン……」
　無意識ながらその気配を察したのだろう。文生は美琳の方に寝返りを打つと、彼女を抱き寄せる。
　美琳は、その何よりも愛しい抱擁に目を細めて抱き返す。
　固く抱き合った二人を、夜の帳とばりが優しく包むのであった。