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少女は戦場を駆け抜ける
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薄闇に覆われた夏空が湿気た熱を孕んでいる。
星々が眠りに就くにはまだ早いその刻限に、いつもより早く兵舎は起きていた。
兵士らは寝惚け眼をこすりつつ、自室で慌ただしい物音を立てている。
彼らと同じように美琳も部屋で動き始めた。
さらりと伸びた後ろ髪を頭上に持ち上げると布で団子状にまとめ、余った布はそのまま後ろに垂らす。簡単には解けないようにきつく結えたことを確認すると、支給されていた着物を手に取る。
普段着より少しばかり上等な糸で織られたそれは、襟元にたっぷりとした余裕がある。着用すると、同じく支給品の襟巻を着物の襟に織り込むように巻く。さすれば敵の武器から首元を守れるのである。
しかしこの暑さでは些か辛いものがある。が、そうも言っていられない場所に行くのだ。普通の兵士には欠かせない物だろう。
「あたしには要らないのになぁ……邪魔なだけだし」
そう文句を言いつつも身に着け終えた美琳は、次の装備に手を伸ばす。
小さな手が掴んだのは武骨な革鎧だ。二枚の分厚い長方形な革を肩紐で繋いであるそれを、頭の上から被って腰帯を締める。
華奢な少女が戦装束を纏った様はちぐはぐで、その幼さを際立たせた。しかし闘志が漲った少女の顔は戦士のそれだった。
「さぁ、待ちに待った日だわ」
朝の訪れを告げる太鼓の音と共に、軍は王宮を出発する。
彼らは物資を積んだ荷車と、貴族を運ぶ馬車を伴って都城を出るべく大通りを進んでいく。
朝の支度をしていた民衆は皆手を止めて、沿道に跪きその出陣を見送る。
夜が明けたばかりとは言え十分きつい陽射しの中、人々は長い行軍が過ぎ去るのをただじっと待つしかない。その横には夥しい量の死体が腐敗して転がっている。
鼻をつく臭いが充満している大通りは、門出を祝う雰囲気とはとても言えない。
「……ったく、なんだってお偉いさん連中はこんな大変な時分に戦を始めようとすんのかね」
「シッ!……聞こえたらどうすんだい。そんな滅多なことを言うもんじゃないよ」
一人の男が妻と思しき女にひそひそと囁き、それを女が窘める。だが男の言葉は止まらない。
「つってもよう、みんな思ってることは一緒だろ?そんなことしてる暇あったらこの有様をなんとかしてほしいじゃねぇか、なぁ?」
「そうだけどさ……」
「ただでさえ死人が多くて人手が足りねぇってのに、片付けてくれる兵士を持ってかれるなんてたまったもんじゃねぇよ。せめてちゃちゃっと終わってくれりゃいいんだがな」
「そればかりは祈るしかないよ…………おや?」
二人が愚痴を零していると、この数か月ですっかり見慣れた姿が視界に入った。
「あれ美琳ちゃんじゃないかい?」
「ん?あぁ、本当だ、美琳ちゃんだ」
「あんなほそっこい体で、戦に向かうだなんて……強いのは知っちゃいるけど、なんだかやるせないねぇ」
「……あんな優しい子がおれたちのために戦って来てくれるんだよな……」
「……あたしらも頑張んないとだね」
「そうだな…………おれらだけでもなんとか踏ん張ってみるか」
気づけば二人の眼差しに明るい兆しが宿っていた。それは二人だけに留まらない。
市井の人々は戦装束が不似合いな少女の姿に憐憫の情を禁じえなかった。同時に自分たちも自分たちなりに生活を守っていこうと奮い立った。
死んだ魚のような目だった彼らは次第に息を吹き返す。死臭に塗れた現状を、このひとときだけは忘れた。
誰かが声を上げる。兵士らを……いや、少女を鼓舞する声だ。
声援の波紋はあっという間に都城に広がっていく。沈鬱な空気は拭い去られ、隊列を組んでいる兵士たちもやる気に満ちた表情になる。
活気の中心の美琳も、真面目な顔の上にうっすらと喜色が浮かばせた。
そうして軍は勇ましく旅立っていった。
隊列は都城を離れると河沿いをひたすらに進む。太陽が東から西に座り直すまで歩き続けると、二つの山に挟まれた広大な平野に辿り着く。
「止まれ!今日はここに天幕を張る!」
そう下知を下したのは小太りで二十の半ばを過ぎた男である。
この男は子佑と言い、王族の分家筋にあたる貴族である。先代の庶子である文生がいなければ王を継ぐはずであった。
馬車の上で不満気に座っていた彼に浩源が声をかける。
「子佑公*1、こちらにて明日の手筈を相談致しましょう」
子佑は「うむ」と返事をすると、重たそうな体を持ち上げて馬車を降りる。
兵士らが木陰に手早く整えた天幕に入っていくと、中には刺繍の施された布が一枚だけ用意されていた。その敷き布以外は剥き出しの地面である。
「まったく。この暑さはたまらん」
子佑はぶつくさと文句を言いながら、敷き布にどっかと腰を下ろす。
「そうですね。兵士らの体力が持つかどうか……」
と浩源が返しつつ、子佑と少し離れた地べたに座る。
「ふん、これだけ連れて来たんだ。少しくらい減ったところで構わんだろう」
浩源は一寸の間の後、光のない目で微笑んだ。
「そうですね」
「そんなことより護衛長はまだか?あやつが居らんと進められんだろう」
「私たちである程度決めておく、ということになったのですが……」
「何?そんなもん意味がなかろう。お前のような士*1にまともな戦略なんて考えられる訳がないんだからな」
「……護衛長はもう少しでいらっしゃると思いますよ」
「それを早く言え、まったくこれだから士は……」
そこに「失礼」という声と共に勇豪が入ってきた。
「結構進んだか?」
「おお、護衛長。やっと来たか。お主が居ないで何を話すと言うのか。まだ何も決めてないから安心するが良い」
「いやいや、俺ッ……私抜きで進めてくれてて良かったんですよ。戦略は浩源が居れば十分なんで、私なぞ気にせんで……」
「ははは!またまた、謙遜するな。先の大戦で"棕熊*2"とまで言われた英雄が何を言うか。貴族でお主に憧れぬ者は居らんぞ?そんなお主を抜きにして何を決めると言うのか」
勇豪はちらりと浩源を見ると、ぎこちなく笑って先を促した。
「あぁ、はは……では、色々と決めていきますかね」
「お主の手際、楽しみにしているぞ?」
子佑は愉し気にしながら勇豪を手招きする。
勇豪は大きな体を狭い天幕の中で動きにくそうにしつつ、浩源の隣りに胡坐をかくとぼそりと呟く。
(相手してもらってすまんな)
(いえ。これくらい大丈夫ですよ)
浩源は夏の暑さを忘れさせる笑みで答える。勇豪は一瞬口角をヒクつかせたが、すぐに真剣な表情になる。
「さて、明日の布陣から話すか」
そうして三人は木簡と地図を記した布を囲むのであった。
――――いよいよ戦が始まる。
*1公・士…貴族階級の名称。公は王族の分家筋の貴族であり王に次ぐ身分、士は貴族の中では最下級であり、政治には関与出来ない身分である。○○公、○○士といった敬称のような使い方もする。基本的には下の身分の者が目上の者につける。
*2棕熊…中国語でヒグマを表す漢字。
星々が眠りに就くにはまだ早いその刻限に、いつもより早く兵舎は起きていた。
兵士らは寝惚け眼をこすりつつ、自室で慌ただしい物音を立てている。
彼らと同じように美琳も部屋で動き始めた。
さらりと伸びた後ろ髪を頭上に持ち上げると布で団子状にまとめ、余った布はそのまま後ろに垂らす。簡単には解けないようにきつく結えたことを確認すると、支給されていた着物を手に取る。
普段着より少しばかり上等な糸で織られたそれは、襟元にたっぷりとした余裕がある。着用すると、同じく支給品の襟巻を着物の襟に織り込むように巻く。さすれば敵の武器から首元を守れるのである。
しかしこの暑さでは些か辛いものがある。が、そうも言っていられない場所に行くのだ。普通の兵士には欠かせない物だろう。
「あたしには要らないのになぁ……邪魔なだけだし」
そう文句を言いつつも身に着け終えた美琳は、次の装備に手を伸ばす。
小さな手が掴んだのは武骨な革鎧だ。二枚の分厚い長方形な革を肩紐で繋いであるそれを、頭の上から被って腰帯を締める。
華奢な少女が戦装束を纏った様はちぐはぐで、その幼さを際立たせた。しかし闘志が漲った少女の顔は戦士のそれだった。
「さぁ、待ちに待った日だわ」
朝の訪れを告げる太鼓の音と共に、軍は王宮を出発する。
彼らは物資を積んだ荷車と、貴族を運ぶ馬車を伴って都城を出るべく大通りを進んでいく。
朝の支度をしていた民衆は皆手を止めて、沿道に跪きその出陣を見送る。
夜が明けたばかりとは言え十分きつい陽射しの中、人々は長い行軍が過ぎ去るのをただじっと待つしかない。その横には夥しい量の死体が腐敗して転がっている。
鼻をつく臭いが充満している大通りは、門出を祝う雰囲気とはとても言えない。
「……ったく、なんだってお偉いさん連中はこんな大変な時分に戦を始めようとすんのかね」
「シッ!……聞こえたらどうすんだい。そんな滅多なことを言うもんじゃないよ」
一人の男が妻と思しき女にひそひそと囁き、それを女が窘める。だが男の言葉は止まらない。
「つってもよう、みんな思ってることは一緒だろ?そんなことしてる暇あったらこの有様をなんとかしてほしいじゃねぇか、なぁ?」
「そうだけどさ……」
「ただでさえ死人が多くて人手が足りねぇってのに、片付けてくれる兵士を持ってかれるなんてたまったもんじゃねぇよ。せめてちゃちゃっと終わってくれりゃいいんだがな」
「そればかりは祈るしかないよ…………おや?」
二人が愚痴を零していると、この数か月ですっかり見慣れた姿が視界に入った。
「あれ美琳ちゃんじゃないかい?」
「ん?あぁ、本当だ、美琳ちゃんだ」
「あんなほそっこい体で、戦に向かうだなんて……強いのは知っちゃいるけど、なんだかやるせないねぇ」
「……あんな優しい子がおれたちのために戦って来てくれるんだよな……」
「……あたしらも頑張んないとだね」
「そうだな…………おれらだけでもなんとか踏ん張ってみるか」
気づけば二人の眼差しに明るい兆しが宿っていた。それは二人だけに留まらない。
市井の人々は戦装束が不似合いな少女の姿に憐憫の情を禁じえなかった。同時に自分たちも自分たちなりに生活を守っていこうと奮い立った。
死んだ魚のような目だった彼らは次第に息を吹き返す。死臭に塗れた現状を、このひとときだけは忘れた。
誰かが声を上げる。兵士らを……いや、少女を鼓舞する声だ。
声援の波紋はあっという間に都城に広がっていく。沈鬱な空気は拭い去られ、隊列を組んでいる兵士たちもやる気に満ちた表情になる。
活気の中心の美琳も、真面目な顔の上にうっすらと喜色が浮かばせた。
そうして軍は勇ましく旅立っていった。
隊列は都城を離れると河沿いをひたすらに進む。太陽が東から西に座り直すまで歩き続けると、二つの山に挟まれた広大な平野に辿り着く。
「止まれ!今日はここに天幕を張る!」
そう下知を下したのは小太りで二十の半ばを過ぎた男である。
この男は子佑と言い、王族の分家筋にあたる貴族である。先代の庶子である文生がいなければ王を継ぐはずであった。
馬車の上で不満気に座っていた彼に浩源が声をかける。
「子佑公*1、こちらにて明日の手筈を相談致しましょう」
子佑は「うむ」と返事をすると、重たそうな体を持ち上げて馬車を降りる。
兵士らが木陰に手早く整えた天幕に入っていくと、中には刺繍の施された布が一枚だけ用意されていた。その敷き布以外は剥き出しの地面である。
「まったく。この暑さはたまらん」
子佑はぶつくさと文句を言いながら、敷き布にどっかと腰を下ろす。
「そうですね。兵士らの体力が持つかどうか……」
と浩源が返しつつ、子佑と少し離れた地べたに座る。
「ふん、これだけ連れて来たんだ。少しくらい減ったところで構わんだろう」
浩源は一寸の間の後、光のない目で微笑んだ。
「そうですね」
「そんなことより護衛長はまだか?あやつが居らんと進められんだろう」
「私たちである程度決めておく、ということになったのですが……」
「何?そんなもん意味がなかろう。お前のような士*1にまともな戦略なんて考えられる訳がないんだからな」
「……護衛長はもう少しでいらっしゃると思いますよ」
「それを早く言え、まったくこれだから士は……」
そこに「失礼」という声と共に勇豪が入ってきた。
「結構進んだか?」
「おお、護衛長。やっと来たか。お主が居ないで何を話すと言うのか。まだ何も決めてないから安心するが良い」
「いやいや、俺ッ……私抜きで進めてくれてて良かったんですよ。戦略は浩源が居れば十分なんで、私なぞ気にせんで……」
「ははは!またまた、謙遜するな。先の大戦で"棕熊*2"とまで言われた英雄が何を言うか。貴族でお主に憧れぬ者は居らんぞ?そんなお主を抜きにして何を決めると言うのか」
勇豪はちらりと浩源を見ると、ぎこちなく笑って先を促した。
「あぁ、はは……では、色々と決めていきますかね」
「お主の手際、楽しみにしているぞ?」
子佑は愉し気にしながら勇豪を手招きする。
勇豪は大きな体を狭い天幕の中で動きにくそうにしつつ、浩源の隣りに胡坐をかくとぼそりと呟く。
(相手してもらってすまんな)
(いえ。これくらい大丈夫ですよ)
浩源は夏の暑さを忘れさせる笑みで答える。勇豪は一瞬口角をヒクつかせたが、すぐに真剣な表情になる。
「さて、明日の布陣から話すか」
そうして三人は木簡と地図を記した布を囲むのであった。
――――いよいよ戦が始まる。
*1公・士…貴族階級の名称。公は王族の分家筋の貴族であり王に次ぐ身分、士は貴族の中では最下級であり、政治には関与出来ない身分である。○○公、○○士といった敬称のような使い方もする。基本的には下の身分の者が目上の者につける。
*2棕熊…中国語でヒグマを表す漢字。
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